アガスティン・サリ(上智大学神学部准教授)
アラブ諸国で始まった独裁体制崩壊の連鎖(アラブの春)とそれに伴う世界的民衆(民主)蜂起が始まってから一年。チュニジアやエジプトでは選挙で新しい議会の動きがあり、内戦を経たリビアや武力衝突が続いたイエメンも体制移行のプロセスに入った。米タイム誌は2011年を象徴する「Person of the Year」に、今年各地で発生した様々な抗議デモに参加した「抗議者(The Protester)」を選出した。これらの変動を引き起こした「火種」になったのは2010年12月18日にチュニジアで起こった一人の若者の社会の不正義に抵抗する焼身自殺だった。
ムハンマド・バゥアーズィーズィ、息子の写真をもったムハンマドの母親(タイムズ紙のPeter Hapak)
チュニジア中部スィディ・ブーズィード(チューニスから125キロ南)という町で、失業中だったムハンマド・バゥアーズィーズィという26歳の男性は果物 や野菜を街頭で販売して家族を養っていた。2010年12月17日の朝、集めてきた商品を販売しようとしたところ、販売の許可がないとして警察官が商品と 秤を没収、さらには婦人警官の1人から暴行を受け、没収品の返還との引き換えに賄賂を要求された。度重なる不正に対して正義を求め、彼は県庁舎前で訴えたが、無視されたことに抗議し、ガソリンをかぶって火をつけ、焼身自殺を図った。これが世界を圧巻した民衆蜂起の前奏曲であった。
この事件がブーアズィーズィーと同じく、大学卒業後も就職できない若者中心に(チュニジアの失業率が公表されている14%よりも高く、青年層に限れば 25~30%という高い水準に達しており、街頭で果物や野菜を売り生計を立てる失業者も多かった)、職の権利、発言の自由化、独裁者に対する罰則などを求めるデモへと駆り立てた。そして、次第にデモは全年齢層に拡大し、やがて腐敗や人権侵害が指摘されるベン・アリー政権の23年間の長期体制そのものに反対 するデモとなり、2011年1月に政権が崩壊した。この影響を受け、反独裁政権に対する抗議がアルジェリア、オマーン、エジプト、イエメン、リビア、シリ アなどに広まった。この一年間でチュニジア、エジプト、リビアの3か国で政権崩壊が実現した。
現在、アラブの春の当面の焦点はシリアの行方である。すでに多くの死者がでており、アラブ連盟はアサド大統領の退陣を迫っているが政権側は拒否している。
2010年からの蜂起はアラブ世界にとどまらなかった。2011年8月にはイギリスのロンドンで経済的不平等や人種差別に対する民衆抗議が行われた。29歳のマーク・ドゥッガンが警察の不当な扱いによって殺されたことに抗議するものであった。また2011年10月から米ニューヨークのウォール街近くで、大企業が主導する社会や、貧富の差に不満を抱く若年層が中核となって、「ウォール街を占拠せよ」という運動が始まり、警察当局との対立が先鋭化する一 方、草の根の支持も全米に波及し、社会現象の様相を呈している。「我々が99%」というスローガンにもあるように社会の格差や不正義を訴えるものである。 また、インドの汚職問題を解決するための厳しい法案を求めて非暴力的市民運動を指導しているガンディー主義者アナー・ハザーレが若者を含む多くの人々の支持を得て民衆蜂起を起こしている。モスクワでも下院選での不正疑惑に抗議する異例の大規模集会が開かれるなど、「プロテスター」たちは存在感を示した。
このような民衆蜂起を引き起こす要因となったのは政治的独裁政権や人権侵害や汚職を含む社会的不正義に対する人々の不満である。米タイムス紙の「抗議者」の選出理由について、同誌のリック・ステンゲル編集長は「政府や社会通念をひっくり返し、最も古い手法と最新技術を組み合わせ人間の尊厳に光を当て、そして時にはより危険な道であったとしても、世界をより民主的な方向へと進ませた」と述べた。これらの革命の背景にはソーシャルネットワークの役割も大きいとされる。最近まで市民的抗議やデモが社会的秩序への妨害として捕らえられていたが、過去一年の民衆運動は社会の不正義に我慢できない人々の反発として、正義を求める市民運動として見なければならない。このような市民運動や社会的抗議は、マハートマ・ガンディーが提供した、社会の構造的暴力や不正義に対するシヴィル・レジスタンス(市民抵抗)にほかならない。地域によって課題は異なるかもしれないが、社会の構造的不正義に気づき、すこしでも減らしていく行動に積極的に参加することの意義を再認識させられた。