マスコミは世論調査が好きだ。特に「内閣支持率」の数字は、時に総理大臣の首をすげ替えてしまうほどの威力がある。この原稿を書いている2月末時点の最新の世論調査によると、麻生内閣の支持率は11%(毎日新聞)~13%(朝日新聞)で、史上3番目の低い数字。政権末期だと言う。
でも、この頃の内閣支持率を見ていると、就任当初は高い支持率でも、半年もしないうちに史上最低近くまで落ちるケースが多い気がする。アイドル歌手やお 笑い芸人よりもひどい「使い捨て」だ。「世論の支持」で首相を選ぼうとするから、そうなるのではないか?そもそも「世論」とは何だ?
…という疑問に答えてくれるのが本書だ。著者は京都大学大学院の教員で、メディア史、大衆文化論を専攻している。著者が「世論」について研究しようと 思ったきっかけは、2003年に当時の小泉首相が国会で自衛隊のイラク派遣について、野党議員の質問に答えて、こう答弁したことだという。野党議員が「世 論調査では国民の7割から8割は自衛隊の派遣に反対している」と迫ると、小泉首相は「世論に従って政治をすると間違うこともあるのは、歴史的事実が証明し ている」と答え、世論の反対を押し切っても自衛隊を派遣する必要があると答えたのだ。世論の支持に後押しされて、「郵政民営化」を推し進めた人とも思えな いダブル・スタンダード(二重基準)ぶりだが、問題はここで言われている「世論」とは何かということだ。
お手元のパソコンで「せろん」と打ち込んでほしい。「世論」という漢字が出てくるはずだ。では、次に「よろん」と打ち込んでほしい。「世論」「与論」 「輿論」と3種類の漢字が出てくるはずだ。つまり、「世論」と書いて「せろん」とも「よろん」とも読める一方、「よろん」には「輿論」(「与論」はその略 字体)という別の漢字があるのだ。
実は、第2次大戦前までは、「世論」は「せろん(せいろん)」と読み、「よろん」は「輿論」と書いていた。それが戦後、文部省の漢字制限で、「輿 (よ)」の字が使えなくなったため、「世論」と書いて「せろん」「よろん」のどちらで読んでもよくなった-というのが、著者の答えだ。
問題は、もともと「輿論」と「世論」が別のものだったということだ。簡単に言えば、「輿論」とは責任ある社会的意見(public opinion)であり、「世論」とは無責任な一般大衆の気分(popular sentiments)である。だから、「世論に従って政治をすると間違う」のであり、私たちは政治を正しい方向に導くために「輿論」を形成しなければならないのだ。
ところが、文部省の都合で「輿論」(よろん)と「世論」(せろん)が「世論」に統一されてしまったため、「無責任な一般大衆の気分」が「責任ある社会的意 見」を覆い隠し、首相選びが「人気投票」になってしまったのだ。言ってしまえば簡単なことだが、空前の大衆社会となっている現代の日本社会の本質を、鋭く 言い当てている。
死刑を存続させる理由として、法務省は「世論の8割は死刑を支持している」と言う。だが、もちろん「世論に従って政治をすると間違うこともある」。国連 人権委員会は、「日本政府には、死刑反対の正しい輿論を形成して、死刑支持の誤った世論を変える義務がある」と指摘している。
先日、あるテレビ番組の死刑特集で、街頭インタビューを受けた青年が、「死刑をどのように執行しているか知っていますか?」と聞かれて、「知らないし、 知りたくもない」と答えていた。確かに死刑について知ることは愉快なことではない。だが、「不愉快だから知らないし、知りたくもない」のに、死刑で人を殺 してはいけないのだ。不愉快であっても、大事なことは「知る義務がある」のだ。市民の社会的責任とはそういうことだ。
文句を言うだけでは、日本社会は永遠に変わらない。私たちはそろそろ「無責任な気分」は卒業して、「責任ある意見」を闘わせる必要がある。本書のキャッチ・コピーにあるように、「いまの日本に必要なのは、空気より意見、セロンよりヨロンなのだ」。
柴田 幸範(イエズス会社会司牧センター)