大倉 一美(1934年生)
東京教区司祭

 

今年は77回目の沖縄慰霊の日、広島・長崎原爆慰霊の日、そして終戦記念日を迎えます。いま、ウクライナに対するロシアの侵攻に動かされて、日本は憲法9条によって「戦争の放棄、軍備や交戦権を否認」したにもかかわらず、憲法改正へと突き進んで来ています。二度と過去の過ちを繰り返さないために、決意を新たにし、太平洋戦争時の私の小さな体験と、戦後の平和への歩みについて記すことにしました。

 

はじめに

私が小学校に入学した1941年(昭和16年)の4月から、尋常小学校が国民学校と名が変わり、教育内容もすっかり変わってしまいました。一年生の教科書も「サイタ サイタ サクラ ガ サイタ」から「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」と変わりました。そして12月8日、真珠湾攻撃によりアジア・太平洋戦争が始まりました。

幼児洗礼の私は戦時中、更に学童疎開が始まったため、聖書もカトリック要理もあまり知らずに、1944年(昭和19年)9月に学童疎開地の福島県白河町に旅立ちました。疎開生活は暗く、苦しく、飢えと寒さの毎日でした。授業はほとんど行われず、寺の墓地を整理開墾してサツマイモを作り、東北線の土手にカボチャを植え、野草を採りに行くのが日課でした。白坂という小さな駅の近くに広大な馬鈴薯(ジャガイモ)畑がありました。疎開児たちは来る日も来る日も、馬鈴薯畑の害虫を取るために強制的にかり出されました。しかも収穫された馬鈴薯は全部軍隊に徴集されました。

1945年8月15日の正午、疎開先の寺の庭で天皇の無条件降伏の言葉を聞きました。9月末に同級生たちはそれぞれ東京の親元に帰って行きました。徴兵された父がまだ復員して来なかったこと、さらに目黒の借家が人手に渡ってしまったため、私は白河町に残り、母と弟、祖母の四人の六畳一間暮らしが始まりました。

中国から復員し、銀行員だった父が、ある日会社に出かけて行って林の中で縊死してしまいました。思えば「戦争神経症」だったのでしょう。それから母の苦難の日々が始まりました。旅館の仲居として、私たちを一人で支えたのです。

敗戦後まもなく、旧制中学が廃止され、やがて新制中学が始まりました。私は新聞配達を始め、僅かな小遣いを稼ぎ、早朝の配達が終わってから中学に行きました。新聞配達で稼いだ金で、一冊の本を買いました。この本は、日本聖書協会が平和になった日本人に対して発行した新約聖書でした。これが私と聖書との最初の出会いです。

1947年5月3日に施行された平和憲法は私たちに大きな希望をもたらし、私たち皇国小国民を平和な国民に変えてくれたのです。

 

司祭として労働者運動と共に歩む中で

帰京した私は、ヨゼフ・フロジャック神父の助けで高校に入学しました。フロジャック神父に感化され、司祭になろうと決意し、カトリック東京神学院に入学しました。1963年に司祭叙階、一年後にカトリック徳田教会の助任司祭に任命され、JOC(カトリック青年労働者連盟)運動の司祭として歩み出しました。

1965年2月、米軍の北爆を機に「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)運動が生まれ、反戦デモが始まりました。同じ年の6月に日韓基本条約が結ばれ、その批准阻止のために国会周辺で連日10万人規模のデモが行われました。ジョシスト(JOCメンバー)たちと共に、毎日のようにデモに参加しました。やがて70年安保反対闘争が始まり、東京教区刷新の動きが若手の司祭たちから起き、「東京教区大会」が開催されました。

1974年から小岩教会、町田教会、清瀬教会へ転任し、2003年から再び徳田教会で働き、2021年11月に主任司祭を引退、現在に至っています。小岩教会時代から、カトリック労働者運動に司祭として参加してきました。

 

アジアの労働者たちを支援して

海外に進出した日本企業が現地でトラブルを起こし、労働者たちが弾圧される事態が多発しました。その一つが「アジアスワニー事件」です。1984年6月、韓国の裡里〈イリ〉市にあるアジアスワニー工場の労働者である「金徳順〈キム・トクスン〉さん強姦未遂事件」が起きました。関東地区JOCの有志の呼びかけに応えて、27団体が参加した「韓国労働者を支援する会」が生まれ、日本のスワニー本社に対して、解雇撤回、謝罪を求める闘争を開始しました。

1989年の秋に起きたのが「韓国スミダ闘争」です。東京のスミダ電機本社から、馬山〈マサン〉自由輸出地域のスミダ電機工場に一枚のファックスが届き、工場の450名の女子労働者全員が解雇されました。これが女子労働者の生存権回復のための「海を越える労使紛争」です。「進出企業問題を考える会」が支援の中核となって、日本の労働組合、市民団体と共に、10月14日から翌年の6月8日までの206日間にわたってスミダ労組の支援運動を続けました。労組幹部が勝利して帰国したときに同行した私は、スミダ労組から大歓迎をうけました。「正しい者はその正義によって救われる(箴言11・6)」という神の言葉が文字通り実現し、彼女たちは謝罪文、退職金と和解金を受け取ることができたのです。

 

正義と平和協議会と共に

1990年、白柳誠一枢機卿は私と岡田武夫師、大原猛師の三人で東京教区に「正義と平和委員会」を結成するよう命じられ、東京正平委が9月に発足しました。

 

戦後補償問題に関わる

1991年8月14日、ソウルで金学順〈キム・ハクスン〉ハルモニが記者会見を行い、12月6日に金学順ハルモニと3名の元「慰安婦」を含む35人の原告が日本政府を相手取り、謝罪と補償を求め提訴しました。これが、戦後補償請求裁判闘争の始まりです。

1993年4月に、フィリピンの元「慰安婦」のロラ・ヘンソンさんたちが、日本政府に謝罪と補償を求めて提訴しました。彼らの支援団体である「フィリピン人元『従軍慰安婦』を支援する会」に東京正平委も参加し、今日まで支援運動を続けています。

私は「慰安婦」問題に関わる中で、2000年の「女性戦犯法廷」の裁判の裏方役を果たしました。国外から記者たちが沢山来て、民間裁判ながら、日本の戦争責任について、責任者に対する判決も出たことを全世界に報道したのです。

 

反テロ戦争に非暴力で闘う人々に連帯して

2001年の9・11事件に対する報復として、米国がタリバン政権を攻撃したときから、米国大使館前で抗議行動が始まりました。米軍がイラクを攻撃し始めた2003年2月19日以来、後方支援と称して、イラクに自衛隊が初めて派兵されたことで、首都圏中心に宗教者たちによる非暴力の反対運動が始まりました。

私は2007年から、「平和をつくり出す宗教者ネット」の呼びかけ人の一人として、全国の僧侶、門徒、キリスト教諸派の牧師たち、信徒の有志から寄せられた「イラク派兵反対、自衛隊の撤退を求める」署名を持って、毎月1回、内閣府に行っています。イラクに自衛隊が派遣された2003年の暮れから数えて、今年の7月で222回目になり、署名は10万筆にのぼっています。最近では沖縄反基地運動、辺野古新基地建設のために遺骨を含んだ土砂を埋め立てに使うなという抗議運動も始まりました。

 

幟旗「つらぬけ平和憲法」を掲げて

ここまで70年間、私が歩んできた道を振り返って見たとき、行動の動機は「戦争体験と平和憲法」と「キリストに対する信仰」です。これからも日本が戦争を決してしない国であるよう、同じ志をもっている人たちと連帯して行動していく決意です。

復活されたイエス・キリストが弟子たちに最初にかけられた言葉は、「あなたがたに平和があるように(ヨハネ20・19参照)」でした。この主の「平和」はただ単に「戦争や暴力がない」ということではありません。しかし、現実のこの世界において、戦争は最大の暴力であり、人間の尊厳、神がよしとして作られた自然界全てを破壊する最大の悪です。ウクライナに対するロシアの攻撃はそれを実証しています。

1990年の東京正平委誕生のときに作った「つらぬけ平和憲法」という手書きの幟旗を掲げて、私は平和運動に参加してきました。この旗は2000年の夏、嘉手納基地を包囲する2万7000人の「人間の鎖」のときにも沖縄の空にひるがえりました。旗の文字も色褪せて来ていますが、「平和のために働く人は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる(マタイ5・9)」という主のみ言葉に励まされ、「平和憲法をつらぬき通す」志は少しも色褪せていません。