ステパノ 卓 志雄

日本聖公会東京教区司祭、日本聖公会管区事務所宣教主事

インマヌエル新生教会牧師

 

 

27年ぶりだ。日本の社会がこのように宗教について――否、宗教問題・カルト問題にか?――大きな関心を寄せていることは。宗教団体が本来果たすべき役割を忠実に行わずカルト化し、権力と結託しながら反社会的犯罪を起こす。そこへのめり込むことによって家庭が破綻、心と財産、そして魂までもが破壊される人々の問題は、1995年のオウム真理教による「地下鉄サリン事件」だけではなく、今も起きている。これからも起きるかもしれない。このような問題は事件として発展し、必ず加害者と被害者が存在する。

今年7月8日に起きた安倍元総理大臣の銃撃事件による被害者は、言うまでもなく安倍晋三元首相であり、ご遺族の皆さんである。害を加えたとされている者は山上徹也さんで、起訴されるまで彼の名前には必ず「容疑者(被疑者)」が付き、起訴された後には「被告人」になる。人を殺害した者を加害者とするのは明らかな事実であるように思われた。

しかし銃撃事件後、山上容疑者の犯行動機が知らされるようになり、刑事事件としての区分ではなく、思いとしての加害者と被害者の区分に困難を覚えるようになってきた。山上容疑者が犯行直前にあるジャーナリストに送った手紙には「〈前略〉母の入信から億を超える金銭の浪費、家庭崩壊、破産…この経過と共に私の10代は過ぎ去りました。その間の経験は私の一生を歪ませ続けたと言って過言ではありません。個人が自分の人格と人生を形作っていくその過程、私にとってそれは、親が子を、家族を、何とも思わない故に吐ける嘘、止める術のない確信に満ちた悪行、故に終わる事のない衝突、その先にある破壊。〈後略〉」とある。

 

私は、「エホバの証人王国会館放火事件」という、 29年前に韓国で起きた痛ましい出来事を思い出した。

1991年5月頃からAさんの妻(当時34歳)は「エホバの証人」の集会に通い始めた。韓国内のエホバの証人と言えば、輸血拒否、兵役拒否などの社会問題を起こしている集団である。Aさんは「エホバの証人」の集会に通い始めてから家事などを疎かにしている妻が集会に行くことに反対したが、妻は夫の反対を「サタンの迫害」と退け、より熱心に集会に通った。

事件当日の1992年10月4日、職場から帰ってきたAさんはエホバの証人の集会に行かないように妻を説得したが、夫婦喧嘩となった。妻が自分の意見に従わず集会に行ったことに怒りが爆発したAさんは、ガソリンスタンドでガソリンを購入した後、集会が行われている韓国・原州〈ウォンジュ〉市の王国会館(エホバの証人の施設)に行き、入口を遮り、「妻を出せ」と叫んだ。

怒りを抑えきれなかったAさんは結局、ガソリンを撒いて火をつけ、火は王国会館内のカーペットなど可燃性物質から建物全体に広がり、多くの人命被害を引き起こした。事故当時、妻は夫Aさんの叫び声に怯えて逃げ出したので助かったが、この火事によって15人が死亡、25人が負傷した。

拘束後起訴されたAさんは、裁判で1993年に死刑確定判決を受けた。現在も光州〈クァンジュ〉刑務所に収監中であり、韓国国内の死刑囚の中で最長期服役死刑囚である(2005年に肝がん末期診断を受けたが、肝切除手術が成功し、現在も服役中)。

当時、Aさんの弁護人側は「理性を失った被告は残酷な結果と事態を予測できない心身衰弱の状態で犯行に及んだ」と主張し、精神鑑定を要請したが却下された。また「被害者は一命をとりとめたにもかかわらず、輸血拒否というエホバの証人の教義のために輸血を受けられず、それにより被害が増大した」と主張したが、受け入れられなかった。生き残った被害者たちは全身に深刻な火傷をして、輸血をしても事実上、生存の可能性が極めて低い状態だったからである。

 

しかし後に、Aさんが加害者、エホバの証人側が被害者という見方に変化が見られるようになる。Aさんは収監された後、刑務所内で受洗し、プロテスタント教会に入信した。彼が属する宗派では、エホバの証人を含め異端および反社会的な問題を起こしているカルト団体を断固としてゆるさなかったので、放火事件はエホバの証人側にも責任がある、Aさんを減刑させてほしいという嘆願書を提出した。

また、Aさんを弁護する意見もあった。Aさんの妻がエホバの証人に入信しなかったなら、Aさんは残酷な犯行を行っていなかったはずだというのである。他にも、Aさんこそカルト団体による被害者であるという見方もあった。Aさんが放火犯になった理由はエホバの証人であるという主張である。

しかし、いくら「エホバの証人」が韓国の教会から教理的に異端とされても、あるいは反社会的なカルトとされても、それが全てを正当化する理由として認められなかった。尊い命が失われる現実があったからである。

現在、韓国は実質的死刑廃止国家なので、Aさんは事実上、無期懲役状態で引き続き収監されるものと見られる。Aさんの場合、犯行動機が突発的で(計画性はなく)、模範的な収監生活を行っていることなどから減刑対象者として検討はされているが、犠牲者が多すぎるという点で毎回減刑対象から除外されているという。いくらエホバの証人が社会的な問題を起こしているといっても、国家がエホバの証人側に対する加害者を容易に減刑することは、私的制裁を許すことにつながる恐れがあるので、減刑は難しいかもしれない。

被害者が加害者となり、被害者を作り出す悪循環は、カルト問題だけでなく社会の様々な場所で起きている。加害者になってしまった被害者を巡る議論からその真実を探ること、そして根本的な原因究明を巡ってすべてを論じるには紙面が足りない。またその正解は私にはわからない。多方面における緻密な分析と研究、そしてその作業の結果に対する共通理解が得られるまでには相当のプロセスが必要であると感じる。

加害者か、被害者か、あるいは両方か。今は一つだけ考えよう。絶望の只中、人知を超えて存在する全知全能の神による癒しと慰めを求め信じただけだ。それなのに、救いを求めた先がカルト団体であったが故に、カルト団体の横暴により神にかたどって造られた人間の尊厳(Imago Dei)が抑圧され、悲しみと苦しみを余儀なくされている多くの人々が存在している現実を。

山上容疑者の犯行動機が明らかになってから、宗教的虐待の実態や、その影響で成人後も苦しんでいるいわゆる「宗教2世」の存在が注目されるようになった。山上容疑者のように凶行に走ることはないが、親が多額な献金をすることによる家庭の困窮や、組織的な信仰の強要とそれに伴う様々な人権侵害によって、絶え間なく苦しんでいる宗教2世についての報道が増えている。そして、統一協会によって心身ともに被害を受けている人々の証言が止まらない。その対策として、統一協会による悪質な献金を規制する「被害者救済新法」が12月10日に成立したが、その有効性については議論の余地がある。

何れにせよ私たちが直視しなければならないのは、心も体も魂も疲れ果てて悲しんでいる、立ち上がって歩んでいくことのできない、叫ぶ力のない人がいるという現実だ。カルト集団によって被害者となってしまった人々に対するケア(救出)は「するかしないか」の問題ではない。「どのようにするのか」の問題である。

今、社会の一員である教会という共同体として、どのような姿が求められているだろうか。今この時も苦しんで嘆いている人々の涙を、どのように拭い取ることができるだろうか。この問いは、カルト問題の解決という事務的な手続きのプロセスではなく、教会の宣教における先決課題である。