林 尚志 SJ(1934年生)
下関労働教育センタースタッフ

 

  此処のところ、この街(下関)を歩くと時々どきっとする。手製銃で撃たれ亡くなったこの選挙区選出の代議士・元首相のポスターが、あちらこちらに張られたままなのだ。「この国を守る」とキャッチフレーズが叫んでいる。自分も守れなかったですねと、そっと言ってみる。そして自分に言い聞かせるつもりで、人の尊厳を手段化する者は自分も守れない、と言い足してみる。さらに、国を守るとはどんな国を守り、その守る国策とはどのような国策なのか。主権者とは言葉だけで、国民一人一人は、鮮明に言い表せない国家権力者・為政者の闇の構造・力の手段として、生殺自由な駒なのかとの問いが付きまとう。

 

  国民学校1年生(現小1)の頃(1942)、叔父の家に親族が集まっていた。父の男兄弟5人、女姉妹4人とその家族の、夜遅くまでの宴会だった。叔父の徴兵出征前夜の送別の宴だった。早く寝込んだ私が夜中に便所に行くと、中でうなり声がした。見ると出征するM叔父が縄でぐるぐる巻きにされ閉じ込められていた。驚き、すぐに母親を起こし知らせたが、何か諭されてまた寝入ったことを思い出す。その後のことは忘れたが、一葉の写真が残っている。丸刈りで上着に襷をして、虚ろな眼でうなだれ気味のM叔父が、大きな日章旗の幟を背景に多数の人々と写っている。「天皇陛下万歳」を唱えた記憶がある。後で母親に聞いたのだが、M叔父はその夜酔いが回り、戦争に行きたくない、人を殺したくないと叫び、暴れ出したので、父たちが縄で結わき黙らせたそうだ。

  それが一番若い叔父と会った最後で、その後山羊と一緒ににこやかに写っている支那(シナ=中国)からと、戦車上の比島(フィリッピン)からの写真を見ただけだ。申し訳ないが、お墓も何処にあるのか知らない。国家国策の陰に滅没していったM叔父の戦死が知らされた時、泣くのを見たことのない父親の背中が嗚咽で震えていたことを憶えている。

 

  15年戦争(1931-45)が始まっていた1934年、東京の家の住所を知らないが、下落合の聖母病院で生まれた。市内・府内をいくつか転々とする北海道移民三代目の出戻り父と、新潟から職探しで上京した母との大恐慌(1929)後の都会生活は楽ではなかったようだ。

  そんな中での軍国少年は、南方方面最高指揮官マレーの虎や皇軍加藤隼戦闘機隊に憧れる教育と環境の中に育った。蓄音機の軍歌レコード曲を窓から外に流し、訓練中休憩の兵隊さんたちが聞くのを喜んでいた。そのため、今でも軍歌が次から次と出てくるほど、「内部被曝」は酷い。

  カトリック信徒の家族なので、日曜日のミサ帰り、灰色の影が付いてきて怖く、母親の陰に隠れたことを憶えている。あの家は敵性国家の宗教を信じるスパイかも知れない、気を付けろと警告されて隣組八分だった。それゆえ、風呂を分かち合った向かいと左隣の家の子どもとの付き合いしかなかった。警戒警報・空襲警報・防空壕・食糧難などの少年期の体験で、ウクライナの戦争(2022)下の子どもたちが心に迫る。

 

  東京空襲(1942)が始まると、命を護るため、母子4人は国策通信社(同盟通信)で働く父を残して新潟の寒村へ疎開するが、生活が難しく、鉄道の駅のある日本海側の街へ移った。集団疎開ではないので、男性の大人・青年不在の異様な村社会で、生存への苦悩の経験が忘れられない。学校での異常な暴力・いじめ・ひもじさ・野外作業・軍事訓練・虱退治、配属将校の威張りなど様々な勉強(?)と共に、厳しいけれど四季豊かな自然から生き延びる逞しさが身に付き、戦後の焼け跡を生き抜けたと思う。

  戦時中、教壇から皇国思想の洗脳と国家神道への追いやりを受けながら、子ども心でも反発抵抗をしていた。戦後たがを外されても、抵抗心・反抗心の固まりみたいだったことは寂しい。学徒動員で命拾いして復員した生真面目な先輩に、将来の夢を聞かれて、ぐれた返事でがっかりさせたことが悔しい。

  しかし、トラウマ的に悲しい心の景色は、夢で見たある場面だ。校舎の周りに穴を掘り、鬼畜米英が上陸してきて残虐行為をされる前に「自決」させられる夢で、死にきれない私の口を塞ぎ殺そうとする女性の先生の姿が頭から離れない。殴る先生、全校生徒の神社強制参拝への嫌悪抵抗の心情は今でも消えない。国家総動員(1938)、一億総玉砕(1945)等の悪夢の国策下の少年期だった。

 

  国体護持、一億総懺悔(1945/8/31)、GHQ、東京裁判(1946-48)等々、何処吹く風で焼け跡、隅田川の畔(東京大空襲跡)の黒々とした路上の人々の中を素通りして、各駅でDDTをぶっかけられながら、口に入るものは何でも食べるかのように、怖いもの知らずのように生きていたが。母方の大好きな叔父さんが復員後苦労一杯背負って、食べる路探してやはり最初の警察予備隊(1950)に入ったのには、子ども心にもがっかりしたのは何故か。

  朝鮮戦争(1950)が始まって周囲の人々の生活に貧富の差が始まったのを体験したが、政治的・経済的動向に敏感に反応することは遅かった。焼け残った書物への飢えはあったが、紙の統制で文字化された情報への近づきはばらばら差が生じていたと思う。それこそ戦後のGHQによる紙の統制(プレスコード:1945)下、通信社の出版の仕事に従事した父が、製本過程で出る余り紙片を教科書のない学校に提供したことを憶えている。

 

  紆余曲折を経て内心の声に従って「ミサ」に戻り、不思議なことにアイルランドの従軍司祭だったイエズス会士W・ドイル神父(♰1917)の生き方を追ってイエズス会に入った(1958)。それから数年以上、激動の戦後社会から世捨て人に成る。新聞もほとんど読まない、浅沼代議士が刺殺されたニュース(1960)を修練長に知らされきょとんとしたり、ヴェトナム戦争の北爆開始(1964)を批判して睨まれたり、1968年の騒乱罪適用の10・21国際反戦デーには、高田馬場周辺で機動隊に追われていたが、大学のバリケード封鎖時(1968)も所詮日和見的であった。

  米国イエズス会員D・べリガン神父(♰2016)の「Can you stake your life on the issue? (君はそのことにいのちを賭けられるのか)」の生き方に心揺さぶられて、ヴェトナム戦争敗北直前の米国に1年半短期滞在する(1972-4)。ヴェトナム戦争反対の兵役拒否青年たちとの連帯等、米国の国策に反してビザ更新延長を拒否され国外へ退去帰国。この国家に属国扱いで存続する日本の限界を感じた。安全保障・経済的依存性を越えて、経済力・軍事力の優劣にも依らない人間の尊厳に基づく対等の場は、どのような歩みを経て形成されるのか。敵性国家とか冷戦構造とか国家の対立関係から脱出して、国家を形成する主体者の民衆の連帯を、境を越えてどのように創造していくのか課題である。

 

  歴史を振り返り、沖縄・韓国への訪れすら二の足を踏んでいたが、キリスト者青年労働者の運動(JOC)、カトリック労働者運動(ACO)のおかげで、学習と連帯活動へと最初の一歩の背を押してもらった。イエズス会のSELA(Socio-Economic Life in Asia)のおかげで、東南アジアにおける日系企業の労働者の状況と環境破壊の現状を調べる目的で現地を歩き、様々な体験を重ねた(1977前後)。

  例えばマレーシアでは、日本軍の軍票を現金化しろと銃剣による傷痕を示し責められた。シンガポールで中国系の人が結婚式の祝い会で同席を断る理由として、華僑虐殺記念塔と虐殺現場に連れていかれた。インドネシア、東ティモールにおいても、現地の人々から歴史認識の浅薄さを常に学ばされた。

  やっと少し目覚めて東ティモールの独立にほんの少し関わると、これまたインドネシアの国策に触れ、ブラックリストで東ティモール入国阻止(1992)、かつインドネシアからの経済的利権亡者日本の国策にも好ましからざる人物(persona non grata)となり、外務省は私を守れないと言い、インドネシア国外退去を勧めた。国家とか国策とかを肌身で感じながら、何かを学び取っていた。

 

  生まれた時からの戦時下(国家・国策の縛り)をいつも感じている。ちょっと振り返っても、かつても今も同じように国家の、その時の権力構造の国策遂行の手段とされている現実から自由ではない。その時々の国家の仮面を被っている、人間世界の正義・愛の欠如した欲のマグマとその火砕流のグローバリズムは、悲鳴をあげて壊れていく自然環境と人類社会を待ったなしの崖っぷちに立たせている。

  結局、共生共栄を掲げた国策は、現在も軍事的・経済的・文化的侵略と同化を継続しているのだ。国策を改善すると異議を唱える者を黙らせ潰していく闇の力の流れを減速・消滅させる長い時間の歩みは、今も一人一人その存在・尊厳をかけて生きているかけがえのない私たちなのだ。

  情報・経済的グローバリズムがもたらす新しい利益拡大の攻め合いに生きる現代、戦時下に生まれ育った者として、核兵器禁止条約(2021)にも参加できず、原子力緊急事態宣言(2011)継続下でも原発依存の国策しか提示できない、この国の脆弱な価値観の基盤の上にいることを嘆くが、新しい地平の展開を諦めない。人新世期のあらゆる境を越えての対話からの創造に希望の礎を置いているからだ。さらに、世界中の国家が向かうべき理想としての日本国憲法9条の根幹を拡げ、あらゆる現実への民主的対応の努力を、国策を通して追求するのが、戦時下に生きた人間の責務なのだ。

  88年間の人生が戦時下で始まったが、相変わらず国家とその国策の下で、国籍・国境を越えた連帯の下で是是非非の闘いの戦時下である。思うに、もっと早くから国家に向き合い、その国策の創出、遂行へ一人の人間主体者として向き合う参加・連帯の密度を高めなかったことを不甲斐なく思う。しかし今も、人間の生存・森羅万象の生存と全存在の相互の与え合い支え合う地球世界・人類社会の進化への成し遂げの闘い(歩み)の只中にいたい。

 

『社会司牧通信』第225号(2022.8.15)掲載