イエズス会修道士マヌエル・エルナンデス氏は日本で教誨師、篤志面接員として50年以上にわたり、刑務所や医療少年院にて、アルコールや薬物依存症の青少年たちの更生を助けてこられた。教誨師とは、受刑者・収容者に対し、その非を悔い改めるよう教えさとす人のことだ。エルナンデス氏が教誨師を務める関東医療少年院は日本で4つしかない医療少年院の一つで、12歳~26歳の青少年を対象としている病院である。

子どもたちを前にして、エルナンデス氏はまず3つのことを伝えるという。

1.世の中には理由がないことはない。
「あなたが少年院に入る理由は、あなたを懲らしめるためではありません。あなたが将来のことを考えられるように訓練するためです。」
2.この世の中に悪い人は一人もいない。
「あなたは悪い人だから少年院に入るのではありません。あなたは、あなたと周りの人の命を、病気・薬物から守るために保護されたのです。それはあなたが「自分自身と出会う」ためなのです。」
3.人事を尽くして、天命を待つ。
これは日本の格言であるが、エルナンデス氏はこれに独自の意味を持たせている。
「これからあなたは、家族や、自分を大切にしてくれる「人の事」を思い、感謝を行動にして、世間のあなたに対する信頼が回復する(天命)のを忍耐強く待ってください。」

  ところで「自分自身に出会う」とはどういうことだろうか。エルナンデス氏は薬物依存から回復するために必要な「気づき」について話してくださった。
  虫と共にいることを悟らなければ、虫を無視することはできません」。虫とはここでは薬物のことを意味する。つまり危険な薬物とともに自分がいるということに気づかなければ、薬物を抑え込むことはできないということだ。危険に気づいてはじめて、危険から離れることができるのだから。自分自身に出会うとは、まずはそういう危険な状態にある自分自身に気づくということなのだろう。しかしその先には、自分自身の本当の幸せとは何かという人間としてのもっとも個人的でもっとも普遍的な問いへの応答が待ち構えているように思われた。
  危険ということに絡めて、エルナンデス氏は、ひよこの例で、気づきと将来へ向かうことの大切さについて話してくださった。殻の中にいるひよこはある時、これ以上殻の中にいると窒息死してしまうこと(危険)に気づく。だから殻をやぶって将来へと向かう。同様のことが医療少年院の子どもたちにも言える。「あなたも殻(薬物)の中にいることの危険に気づき、将来へ向かわなければなりません。もしもあなたが殻の中に留まり、将来に向かおうとしないならば、その先にあるのは精神病院、刑務所、墓場、だけなのです。」

  しかし残念ながら多くの子どもたちは少年院を出ても再犯をして戻ってきてしまう。なぜか?それは、ひとつには、人間が快楽を求めてしまうからだ。それゆえ、エルナンデス氏は「賢さ」をもつことが必要であるという。
  ここでいう「賢さ」とは、理性を正しく使用する判断力のことだ。人は、本能に従うだけならば同じ間違いを犯すことはないだろう。猿も木から落ちるというが、再び同じような枝をつかむまねは決してしない。しかし人間は理性をもって判断する。その場合、たとえ対象が危険なものであるとわかっていても、快楽を求めてそれを再び選択する判断を下してしまうことがある。それは理性の誤用というものだ。エルナンデス氏は理性を、快楽を求めて誤用することを「今日だけ我慢する」あり方とする。その場合、少年院を出たらすぐに再び薬物に手を出すことになる。一方理性を正しく使用することは、「人事を尽くして、天命を待つ」あり方であり、それには忍耐を必要とするが、もしそれができれば、いずれ世間からの信頼を取り戻し、新しい将来へと向かっていくだろう。
  もうひとつエルナンデス氏が指摘されるのは、そもそもなぜ子どもたちが薬物に走らなければならなかったかということだ。今まで出会った多くの子どもたちが家族の不和を経験しているという。家族と一緒にいられなかったこと、親に十分に愛情をもらえなかったこと、その淋しさと渇きが子どもたちを薬物に走らせてしまうのだろうか。エルナンデス氏はいう、「もっとも困難なのは、子どもたちの生育期の家庭環境やそれから受けた影響を忘れさせることです。昔のことは過ぎたこと、将来のことを考えて」、と。

  教誨師であるにもかかわらず、子どもたちに自分のほうから宗教の話はしないそうである。宣教のために来ていると思われると子どもたちに信頼されないからだそうだ。そんな彼がさらりと言う、「ぼくはね、神様のことも抜けちゃった」。
  あくまでも子どもたちの隣人であろうとするエルナンデス氏のそんな言葉に、彼の生きざまとそこに息づく神への深い信仰を見ないではいられない。

(聞き手: 山本啓輔、イエズス会社会司牧センター)