阿部 慶太(フランシスコ会)

以前、この紙面(2004年)で釜ヶ崎の変化について書いたことがありますが、あれから久しぶりにおとずれたこの街は、さらに大きく変わっていました。

  街を歩いてみると、ドヤと呼ばれた簡易宿泊所もほとんどが福祉対象のアパートに変わり、生活保護を受け入れる場になっていて、生活保護受け入れの張り紙やステッカーが目に入りました。高齢者のケアセンターも以前に比べ、メインストリートに増えました。
以前は、仕事をして日銭を稼いだ労働者によって、付近の商店街や飲食店が賑わったものでしたが、現在は、飲食店や商店も年金や生活保護者用のサービスをするなど、街の経済事情も変わったように感じました。
  長びく不況が続き、それとともに野宿労働者が激増し、さらに高齢化も進みました。それによって、街の様子も変化していったということになります。確かに、街を歩く高齢者は以前よりも増えたと思います。

  1960年代から80年代にかけて、大規模な釜ヶ崎暴動があったことから、そうした映像や越冬闘争の映像がメディアで流れ、日雇い労働者の街、闘う街の イメージがありました。2008年にも暴動が起きたのですが、長くこの街に住む人によると、過去のものに比べると小規模のものだった、ということでした。
  しかし、暴動のような激しい闘いは小規模になっても、生きるというレベルでの闘いはこれから大きくなるのでは、と感じました。それは、福祉の面です。生 活保護受給者が増え、大阪市の生活保護費の増大・財政難の原因となっているため、行政側は生活保護の受給のハードルを上げているようです。
  一例では、市の生活保護受給の申請者の付き添いで、手続きをサポートするNGOやボランティアのスタッフなどの同伴や、代理申請などができなくなる可能 性もある-ということを、あるスタッフから聞きました。不正受給者防止の目的も、理由としてあるようです。生活保護受給者が日本で一番多い大阪市では、こ うした弱者を食い物にするビジネスもあるからです。

  こうした行政の手続き上の変更は、野宿生活を送っていた人にとって生活の支えとなる制度を、利用できなくなる可能性を含んでいます。生活に困窮した人が、 その制度を知らなかったり、受けにくい、というような認識を持っていれば、制度を利用するに至らないし、その時に必要なのが行政と保護を受ける人々をつな ぐNGOやボランティアのスタッフといえます。しかし、そうしたことに制限が出てくる場合どうなるのだろう、と危惧するボランティアスタッフもいました。

  釜ヶ崎だけでなく、派遣切りなどのワーキングプアの人々も、福祉事務所に相談し、生活保護申請の意思を伝えても、実際に申請を行うことができないまま路 上生活に至ってしまった-ということも起こっているように、申請を行うことさえ、人によっては難しい場合があります。
  以上のような例の場合、もしも野宿生活者と行政の間に立つ、行政に詳しいボランティア・スタッフがいれば、生活保護を求める行政への強い働きかけもがで きるかもしれないのです。また、こうしたスタッフ自体も足りないくらい、野宿生活を余儀なくされている人々は多いのです。
  行政と受給を受ける側とそれを支える人々の間で、今後も生きるための闘いは拡大し、続いていくのだ-という印象を、様子の変わった街を見ながら感じました。