片柳弘史 SJ

  昨年9月からマニラで行われたイエズス会第三修練の一環として、巨大なゴミ捨て場に隣接するスラム街、スモー キー・マウンテンの家庭に2週間ホームステイする機会を与えられた。フィリピン社会の最底辺に追いやられた人々と共に生活し、彼らの苦しみと喜びを間近か ら垣間見たこの2週間は、大きな挑戦であると同時に豊かな恵みに満たされた日々だった。この場を借りて、この実習での体験を皆さんと分かち合いたいと思 う。

1. 忘れられたスラム街
  スモーキー・マウンテンという名前を聞いたことがある方は、きっと多いだろう。スモーキー・マウンテンというのは、マニラの北部の海岸沿いの地域、トン ドにかつて存在した巨大なゴミの山とその周辺のスラム街のことだ。名前の由来は、捨てられた生ごみや様々な種類のゴミが入り混じって化学反応を起こし、こ の山がいつも煙を上げていたことにある。当時、この周辺で約3万人の人々がゴミ拾いをしながら生活していた。
  この山は、1980年代後半から1990年代前半には日本でも映画やテレビ番組でたびたび紹介された。1991年には、このスラム街出身の子どもたちによって結成された音楽グループ「スモーキー・マウンテン」が紅白歌合戦に登場したことさえある。
  しかし、その後1995年にスモーキー・マウンテンの国際的な悪評を恥じたフィリピン政府がこの山を閉鎖し、スラム住民たちを周辺の仮設住宅などに移動 させたというニュースが伝えられてからは、この名前を聞くことはほとんどなくなった。マニラに住むフィリピン人イエズス会員たちに聞いても、ほとんどの場 合「ああ、あのスラムは1995年に閉鎖されてもうないよ」という答えが返ってくるくらいだった。わたし自身も、きっと政府の支援でスラムの貧困は解消さ れたのだろうと思っていた。

  ところが、今回マニラに来てマザー・テレサのシスターたちの施設を訪ねた時、意外なことを聞いた。煙を上げるゴミの山自体は閉鎖されたが、今でもその周辺 はゴミ捨て場であり、たくさんの人々がゴミ拾いをして生活している。かつてのスラム街の住民たちのために政府が準備した仮設住宅も、15年を経て巨大なス ラム街と化している、というのだ。
  シスターたちに誘われるままにそのスラム街に行ってみると、確かにそこでは以前と変わらずゴミ拾いに依存した生活が繰り広げられていた。取り壊されずに 残ったかつてのスモーキー・マウンテンのスラム街の一部であるタン・バカン地区と、スラム化した仮設住宅群があるアロマ地区、ハッピー・ランド地区で合わ せて30,000人以上が今もゴミ拾いをして生活しているという。スモーキー・マウンテンはなくなったという政府の宣伝が功を奏して、このスラム街の存在 はわたしたちの目から隠され、忘れられてしまったのだ。

2. この実習を選んだ理由
  その後、シスターたちに連れられて3度ほどこのスラム街を訪れた。シスターたちはこのスラム街の隅々にまで入り込んで、病者の家庭訪問や子どもたちのた めの要理教育を行っているのだ。あまりの治安の悪さに警察でさえ入り込めないと言われる地域にさえ、シスターたちは平気で入っていく。わたしは司祭として 家の祝福や病者の塗油、死者のための祈りなどをしながら彼女たちの後についていった。
  毎回ほんの4-5時間の訪問だったが、すさまじい悪臭のする蒸し暑い仮設住宅群の中や、強い日差しが照りつけるゴミ捨て場の中を歩き回るので、いつも修道 院に戻るまでに疲れ果てていた。「もうこりごり」と思いながら、スラム街から逃げ出すようにして帰ってくることさえあった。顔を洗ってタオルで顔をぬぐう と、タオルはいつも真っ黒になった。
  ところが、わたしは第三修練最後の実習先として、よりによってこのスラム街でホームステイすることを選んだ。その理由は、主に大黙想の中でのこれまでの生活の反省に基づいている。
  30日間祈りの中で神と、そして自分自身と向かい合う中で痛感したのは、これまで自分の司祭職、そしてイエズス会の修道生活へのコミットメントがあまり にも不十分だったということだ。司祭職、修道生活を通して神に全てを差し出すと言いながら、その実、自分自身のためにたくさんのものをとっておき、生ぬる い生活をしてきたような気がする。
  この生ぬるさを取り去るためには、考えうる限りもっとも厳しい場所に身を置いて自分を打ち砕くのが一番いい。今のわたしにとって、生理的にも心理的にも 最も受け入れがたい場所、それはスモーキー・マウンテンだろう。こう考えて、わたしはスモーキー・マウンテンを最後の実習先に選んだのだった。

3. スラムの生活
  わたしが2週間滞在したタン・バカン地区は、大きく言って、ダンプサイトと呼ばれるゴミ捨て場地域、ウリガンと呼ばれる炭焼き地域、ゴミ運搬のための巨 大な平底船にちなんでバージと呼ばれるゴミ搬出地域の3つの地域から成り立っている。全体で約600軒の家があり、5,000人あまりが暮らすと推定され ている。
  共同体で発電機を持っているので、ほとんどの家では1日のうち夕方6時半から翌朝の6時半まで12時間は電気を使うことができる。しかし、水道は全く 通っておらず、地区の中に数か所ある給水所まで水を買いに行かなければならない。20キロはある5ガロン・タンクを家まで担いで運ぶ人の姿が、街のあちこ ちで見られる。地域ごとの特徴もあるので、以下地域ごとに紹介する。

(1) ゴミ捨て場地域(ダンプサイト)
  マニラの海岸沿いを走る国道10号線を進み、かつてのスモーキー・マウンテンである緑の丘の近くから埋立地に続く大きな道を入っていくと、右手にスラム 街が見えてくる。右折してスラム街の中心部へと続く舗装されていない道をさらに入っていくと、道の両側に貧しい住宅群やNGOの施設、教会などが見えてく る。その辺りが、ダンプサイト地域だ。
  かつてはここにゴミ捨て場があったことからダンプサイトと呼ばれているが、今はゴミ拾いで生計を立てる人々が生活を営む住宅地になっている。中には2階建 ての家もあるが、ほとんどは平屋で、どの家も木造の簡素な仮小屋のような造りだ。中心部にはタリパパと呼ばれるマーケットがあり、10軒ほどの小さな商店 が生鮮食品や雑貨などを販売している。
  ゴミ拾いで生計を立てる人のことをこの国では禿タカやハイエナなどにちなんで「スカベンジャー」と呼ぶが、この地域から働きに出る人の9割方がスカベン ジャーだと言われている。彼らの収入はどれだけ高価なゴミを拾えるかにかかっているが、普通はプラスチックや鉄などを集めて1日100ペソ(1ペソ≒2 円)くらいの収入を得ているという。運よく銅線などを見つけて1日に600ペソ稼げる日もあるらしいが、それは稀なことのようだ。

(2) 炭焼き地域(ウリガン)
  NGOや教会が軒を連ねる道をさらに進み、突き当りを右に曲がるとしだいに辺りが煙に包まれていく。その道の突き当りの広場に、数十の炭焼き小屋が軒を連ねる炭焼き場があるからだ。
  この広場から海岸線まで広がる住宅地帯は、炭を意味するタガログ語「ウリン」にちなんでウリガンと呼ばれている。この地域に入ってまず驚くのは、鼻を突 くような煙の臭いと、炭で真っ黒に汚れた子どもたちの姿だろう。煙の臭いがきついのは、燃やしている材木のほとんどが家の廃材なので、塗料やゴムなどが一 緒に燃えるからだ。子どもたちが真っ黒なのは、ほとんどの子どもが炭焼きの手伝いをしているからだろう。
  この地域の人々の半数が炭焼きで、残りの半数がゴミ拾いで生活している。炭焼きの収入は炭焼き小屋の規模によるようだが、大袋に一杯の炭が約300ペソ で売れるという。材料費などを差し引いて、1日の1日の収入はだいたい100ペソくらいのようだ。ゴミ拾いの収入とほとんど変わらない。

(3) ゴミ搬出地域(バージ)
  ゴミ搬出地域は、国道から続く大通りを突き当りまで進んだところにある。この大通りを通って、1日に数百台のトラックがケソン市中から集められたゴミをここまで運んでくるのだ。
今回子どもたちの案内で中まで入り込んで初めて分かったことだが、トラックが運んできたゴミは、一度ゴミ捨て場に投棄されたあと重機で巨大な平底船 (バージ)に載せられる。平底船は入れ替わり立ち代わりやってきて、沖合にあるゴミ捨て場までゴミを運んでいく。こうして、この場所にかつてのようなゴミ の山ができるのを防いでいるのだ。
  ゴミを平底船へ積み込みこむ作業のあいだが、スカベンジャーたちの活躍する時だ。いつも100人以上のスカベンジャー達が、先を競うようにしてゴミ拾いを している。中には、国道の角で待っていて、曲がるためにスピードを落としたトラックの荷台からゴミを掠める若いスカベンジャー達もいる。まさに生きるため の戦いだ。ゴミの山がないだけで、行われていることはかつてと全く同じと言っていいだろう。
  ゴミ捨て場はすさまじい悪臭がするし、日光を遮るものが何もないので日中の暑さも厳しいが、それでも人々は生きるために黙々とゴミを拾い続けている。親の後についてゴミを拾って歩く子どもたちの姿もたびたび見かけた。

4. ガディタノ家での生活
  今回、わたしはダンプサイト地域の中心部に住む家族にホームステイした。この地区に深く入り込んで子どもたちの支援をしているNGO、"Tulay ng Kabataan"(略称TNK、「子どもたちへの架け橋」の意味)が紹介してくれた家族だ。家族の苗字はガディタノと言う。

(1) ガディタノ家の人々
  ガディタノ家のお父さんジェスとお母さんイメルダは、20年ほど前、生活に困ってサーマール地方からマニラに出てきた。サーマールでは木材業者をしていたが、木材が乱獲されたために1日の収入が数ペソにまで落ち込んでしまって生活できなくなったのだという。
  しかし、マニラに出てきてもよい仕事は見つからず、結局ゴミ拾いをして生活せざるをえなくなった。一度は子どもたちのためにサーマールに戻って生活を立 て直そうとしたが、それもうまくいかず、結局またマニラに戻ってきたという。5年前に、イメルダがカノッサ修道会の神学院で洗濯婦として雇われてからはゴ ミ拾いをやめ、ジェスは子どもたちの世話に専念している。
  子どもは4人いる。長男のエドワード(18歳)はなかなかのハンサムで、絵の才能に恵まれた青年だ。大学で絵を勉強したいと思っているが、奨学金が得ら れないため今はTNKでボランティアとして子どもたちの世話をしている。長女のイダリン(17歳)も、高校を卒業した後大学進学を望んでいるが、戸籍登録 がされていないために入学資格がないのだという。この地区には、彼女のように戸籍のない子どもがかなりいるらしい。次男のクレシャン(15歳)と三男のク レサント(14歳)は、2人ともまだ小学生だ。経済的な理由で、小学校への入学が遅れたらしい。まさに育ちざかり、食べ盛りで、2人ともいつもお腹を空か せているようだった。
※フィリピンでは、小学校・高校・大学の6・4・4制の教育システムが行われている。通常、7歳で小学校入学、12-13歳で高校入学、16ー17歳で大学入学。

(2) 生活環境
  この家庭の生活環境は、当然ながらイエズス会の修道院とはずいぶん違った。思いつくままに戸惑ったことを挙げてみると、およそ以下の通りだ。
フィリピンの貧しい家庭では、床板やマットレスの敷かれていないベッドの板の上に直接寝ることが 多い。ガディタノ家でも、子どもたちは床板の上にじかに寝ていた。わたしは2段ベッドの1段目を与えられたが、そこにも敷物は何もなく、硬い板の上で寝る しかなかった。だがこれも慣れで、最初は背中や足が痛くてよく眠れなかったが、2週目からはなんとか眠れるようになった。近所からの騒音も夜遅くまで聞こ えるので、眠るのも一苦労だ.
トイレ
  まず困ったのは、家にトイレがないことだ。向かいの市場に共同トイレがあるので、用を足すたびに そこまで行かなければならなかった。水洗式ではあるが、水道がないので流すための水を毎回バケツで運ばなければならない。共同トイレの宿命かあまりきれい な場所でもなかったので、できるだけトイレに行かないで済むよう、特に夜は水分の摂取を控えることにした。

  水道が引かれていないのは、マニラの下町では一般的なことなので驚かなかったが、不便だったことに は違いがない。毎朝ジェスがタンクで運んできてくれる水だけが頼りだった。特に、洗濯のときにごく限られた水しか使えないのには困った。途中からは、見か ねたジェスが洗濯を手伝ってくれるようになった。飲み水は、別に浄化された水のタンクを買ってきて、そこから飲んでいた。幸い、最後までお腹を壊すことは なかった。
電気
  電気は、共同体の発電機から、毎日夕方6時半から翌朝6時半までの12時間だけ供給されていた。発電機の性能の関係で24時間の供給は無理らしい。土日に限っては、日中も6時間だけ電気が供給されていた。
  夜だけ電気がつけば十分ではないかという考えもあるだろうが、やはり日中電気がないのは困る。隣家とせめぎ合うようにして立てられた小さな家の中は、日中すさまじい蒸し暑さになるからだ。扇風機なしでは昼寝もできないほどだ。
衛生状況
  この地域には給水設備だけでなく、下水設備もない。排水は、路地を流れるドブを通って海まで流れ ていく。このドブが地域の衛生状況を著しく悪くしていることは疑いがない。ボウフラの温床となって蚊を大量に発生させるし、放つ悪臭もすさまじい。臭いは 家の中にも容赦なく侵入してくる。
  ゴミ捨て場が近いからハエが多いのは仕方がないだろう。だが、食事をしている最中にゴキブリが飛び回ったり、足元を巨大なドブネズミが通り過ぎたりして いくのには閉口した。それでも、まあ人間はたいがいのことに適応できるようで、最後にはほとんど気にならなくなった。
食事
  ジェスがはりきって食事を準備してくれたので、食事で困ることはほとんどなかった。大量のご飯 を、少ないが味の濃いおかずと一緒に食べるのがスラム街の食事の基本形のようだ。おかずの定番は干し魚で、すさまじく塩味が効いていた。わたしは短期間だ からこれでもいいが、何年もこのような食事を続けたら体によくないことは明らかだろう。
寝床
  フィリピンの貧しい家庭では、床板やマットレスの敷かれていないベッドの板の上に直接寝ることが多い。ガディタノ家でも、子どもたちは床板の上にじかに寝 ていた。わたしは2段ベッドの1段目を与えられたが、そこにも敷物は何もなく、硬い板の上で寝るしかなかった。だがこれも慣れで、最初は背中や足が痛くて よく眠れなかったが、2週目からはなんとか眠れるようになった。近所からの騒音も夜遅くまで聞こえるので、眠るのも一苦労だ。

5. TNKの活動
  ガディタノ家にお世話になりながら、日中は毎日TNKが運営している子どもたちのためのセンターに行って、子どもたちと遊んだりミサを立てたりしていた。
  このセンターの主な活動は、主に小学校入学前の子どもたちためのプレ・エレメンタリー・スクールと小学生、高校生のための補習授業、そして様々な理由か ら就学の機会を逸した子どもたちのためのオルターナティブ・スタディーの教室だ。エドワードのようなボランティアを含めて、12人ほどのスタッフが子ども たちの教育に当たっている。
  この国ではプレ・エレメンタリー・スクールの卒業が小学校入学の条件になっているので、このセンターの存在意義はとても大きい。昼食やおやつの提供によって、栄養失調の子どもたちの健康促進にも寄与している。毎日、60人ほどの子どもたちが通ってきていた。
  小学校入学前の子どもたちが勉強している建物の2階では、小学生、高校生のための補習授業が行われていた。この国では教室数の不足から小学校も高校も2 部制のところが多く、午前と午後で別の生徒が同じ教室を使って勉強している。そのため昼間もたくさんの子どもが家にいるが、家にいても勉強できる環境が 整っていないので補習教室の存在は貴重だ。毎日50人ほどの子どもたちが通ってきていた。
  もう一つのプログラム、オルターナティブ・スタディーは、日本で言えば大学入学資格検定のようなシステムだ。小学校や高校を卒業できなかった子どもで も、試験にさえ受かればその資格を認められる。その資格取得を目指して、オルターナティブ・スタディーの教室では10代後半の若者たちが小学校の教科書に 懸命に取り組んでいた。

6. スモーキー・マウンテンでの日々を振り返って

(1)人々への共感
  実習を終えてスラム街を去る日は本当に悲しかった。できればもっと長く、何か月でも何年でも一緒に暮らしたいという気持ちだった。スラム街の生活に適応 するのは困難だったが、ここに住む人たちは皆こうやって生活しているのだと自分に言い聞かせながら全ての困難を乗り越えていくうちに、スラム街に住む人た ちへの共感が生まれたのだろうと思う。これまでの数時間の滞在では、自分が住む世界とは違う世界の出来事のように感じられていたことが、自分自身のことと して感じられるようになったようだった。大切なのは憐みではなく共感であり、共感するためには共に生きることが不可欠だということが今回の体験からよくわ かった。

(2) イエスは貧しい人たちの中に生きている
  日々の祈りの中ではっきりと感じたのは、ここに住む人たち1人ひとりの中にイエスが生きているということだ。イエスは、貧困にあえぐ全ての人々の中で、彼らの苦しみを共に苦しんでいる。痩せて細ったお母さんの小さな背中に、子どもたちのか細い手の温もりの中に、イエスの愛が生きている。だからこそ、人々 はどんなにつらいことがあってもそれを乗り越えていくことができるのだ。
  神の子イエスが地上であえて貧しい生活を選んだのは、きっとそのためだろう。イエスは、貧しい人たちの中にあって彼らと共に苦しみを担うため、貧しさを選 ばずにいられなかったのだ。イエスは、貧しさの中で苦しむ子どもや大人を放っておくことができなかったのだ。どうやら、イエスの生きた清貧とは、貧しい 人々への深い共感の現れに他ならないようだ。イエスと共にこの清貧を生きることこそ、司祭としてのわたしに与えられた使命だろう。

(3)司祭としての役割
  スラム街の真っただ中で、貧しい人たちのために毎日ミサを立てさせてもらえたことは、言葉で語り尽くせないほど大きな恵みだった。日々の生活に追われて イエスの存在に気づけなくなっている人たちに、御聖体を高々と掲げながらイエスがここにおられることを宣言し、共にイエスの愛に満たされていく。これ以上 の喜びがあるだろうか。これこそわたしが本当にしたかったことであり、これから生涯をかけて担っていきたい使命だと改めて実感した。

(4)子どもたちから学んだこと
  厳しいスラム街の環境の中で、大きな救いは子どもたちの笑顔だった。炭と泥で真っ黒になりながら、子どもたちはどこでも大喜びで走り回り、スラム中に明るさをふりまいていた。
  子どもたちの心の奥底には、どうやら尽きることのない喜びの泉があるようだ。彼らはそこから力をくみ出して生きているように思う。だから、どんな状況の中でも喜びを見つけ、くじけずに生きていくことができるのだ。
  年齢が上がるにつれて子どもたちの顔からも笑顔が少なくなっていくが、それはきっと未来への不安からだろう。大人になるにつれてさらに過去への後悔も加 わり、笑顔はさらに少なくなっていく。しかし、大人の心の奥底にも、探せばきっと同じ喜びの泉があるはずだ。それこそ、イエスが言う「命の水」が湧き出る 泉だろう。不安や後悔に押し隠されたその泉を探し、その水を飲んで生きていくことを子どもたちから学びたいと思う。

(5)生きる力を1人でも多くの人に
  わたしは今、このフィリピンの現実を日本の人々に伝える使命を強く感じている。日本では毎年3万人以上の人たちが自ら命を絶って死んでいくというが、ス モーキー・マウンテン周辺にはゴミを拾ってでもなんとか生き抜こうとしている人たちが約3万人いる。もし、自死を選ぼうとしている人たちがこのゴミ捨て場 で懸命に生きている子どもたちの笑顔と出会ったなら、彼らの心に何かの変化が生まれるに違いないと思う。彼らの笑顔は、生きるとは何か、幸せとは何か、人 生の意味とは何かを根源からわたしたちに問いかける力を持っているからだ。
  自死を考えている人たちに限らず、おそらく彼らの笑顔は全ての人々の心を揺さぶる力を持っている。命の喜びがほとばしるその笑顔から、生きていくための 力をくみ取る人も多いだろう。この忘れられたスラム街とそこに生きる人々の存在を、1人でも多くの人に伝えていきたい。