経済学者で正義を語る資格がある、貧困や不平等の研究で多くの業績がある研究者、ノーベル経済学受賞者アマルティア・センの『正義のアイデア』を紹介したい。2009年に英語で出版されたThe Idea of Justiceは2011年に日本語訳(池本幸夫、明石書店)が出た。「正義の分配は妄想にすぎないのではないか」と現実の社会・経済的格差を経験している人に言われる現代社会において正義というアイデアに近づくための現実的アプローチを示す一冊であるに違いない。
正義についての理論として有名なのはロールズだがロールズ以降、正義の議論は「普遍的で絶対的な正義」を何らかの理論として唱えるものが多い中で、センはカントからロールズに至る啓蒙的な倫理思想を超越的制度主義と呼んで批判し、それに対して現実的比較という原則を提唱する。センのアプローチは、「具体的実践において不正義をなくしていく」ものであり、「具体的な問題に解を与える」ことが指向されている。センは飢餓や差別といった課題に対し、解決のためのアイデアを示すのが、「正義の実践」であると主張する。
何が正義であるか、正しい分配を決める究極的な基準は何かと問い続けるのだけではなく(何も決めないことは不公正をまねく)実現可能な選択肢の中で比較し、ロールズのような明快な原理を提示するだけではなく、「複数の基準の中から多くの人々が合意を形成する手続きを検討し、中立性や透明性などの基準をあげる」。この意味で、正義の概念は民主主義のあり方と不可分であると主張する。
イエズス会の社会司牧の精神もどのように、ある意味で仮説的ともいえる、理想的正義(Perfect Justice)を目指すかというよりも、どのように、この世の中の不公平、不正義を減らしていけるかということであると思う。イエズス会の取り組みはこのような社会的コミットメントである。完全なる(理想的)正義はどのように実現できるかということに全員が同意できないにしても、飢餓、剥奪、差別、教育的・健康的格差などのように社会の判然としている不正義をどのように無くしていけるかに関しては誰でも同意するだろう。アマルティア・センはこの著書のなかに、社会正義は、『公正な組織』(Just Institutions)についてばかり強調するよりも、普通の人々が生活の中で活かせる正義についてもっと注意を払うべきだと主張している。著者は祖国インドの飢餓をテーマとして途上国の貧困の問題に取り組み、社会的公正の問題を論じた著作を多く発表している。本書はその集大成ともいうべきものだ。経済・哲学者としての正義の議論であるが、カトリック教会も現代社会の正義について語るときに批判的にも参考にするべき一冊であろう。(サリ アガスティン SJ)