吉羽 弘明 SJ
今春、生活保護がマスメディアの話題となった。ある芸能人の母親が生活保護の被保護者だったらしい。ついには国会でこの母親の事例が取り上げられた。「特定の一般国民の生活保護利用状況」というプライバシーが国会で論議されるとは、前代未聞の人権侵害なのではないか。
「貧困状態の人は怠けている」という観念が存在するのは今に始まったことではない。近世のイギリスでは、働くことができない一部の人を除いて法により貧困者を懲罰的にひどい環境の施設に収容して強制労働をさせた。またこの時代、民間慈善団体は貧困の原因を道徳心の欠陥に求め、救済に値する人と「道徳心に欠ける」そうでない人に二分し、前者のみ救済の対象にした。そういうわけで貧しい人は歴史的に見てもネガティブに受け止められているし、当事者も自信を喪失している。でも実際には貧困者には多様性・重層性がある。ただ、社会に参加することを十分保障されていないという共通項がある。人や機関との関係が弱くなっていて社会で孤立している傾向が見られる。
9月末に釧路市福祉事務所長の話を聞く機会があった。釧路市では生活保護の被保護世帯を懲罰的に処遇するのではなく、豊かな理念に基づいて支援している。「釧路は霧がひどくて、洗濯物は乾かないし市民には評判が悪い。しかし観光客は霧の町として喜んでくれる。霧は悪いことばかりでなく財産だ。同じように、生活保護を受ける人は釧路市の大切な財産なのだ。」とは福祉事務所長の弁である。
最近の国の政策では「生活保護世帯の就労支援」が取り上げられるが、これまでも無計画・無為な就労支援、役立たない職業訓練提供などが散見され、そもそも雇用環境が弱っているから被保護者がうまくいかない経験を重ね、余計自信を喪失させる結果になることもよくある。現在の生活困窮者への就労支援制度は、不安定労働に押し込むか切り捨てるかの選別の場だと指摘する人もいる。
釧路市ではこうした硬直した就労支援ではなく中間的就労はもとより、ボランティアも大切な就労だととらえている。もちろん「仕事をしていないから滅私奉公させる」という視点ではなく、例えば生活保護世帯の中学3年生の集まり(本来は高校受験の勉強に焦点を当てている)にボランティアとして参加してもらい、そこで勉強を教えてもらったり、ともに語りあったりしてもらい、中学生を支える貴重な存在になってくれることを期待している。被保護者も、なくした自信を取り戻す場になっている。被保護者を含めた市民とともにアイデアを出し事業の立ち上げをしていて、こうした試みを釧路の街づくりにつなげたいと考えているそうだ。釧路市の生活保護世帯への地域生活支援の取り組みはこれだけではないが、もはや紙面はないのでまた別の機会に報告するとして、理念は最近注目される「どんな人も包み込む社会を作っていく」ということである。
以前私は、社会司牧センターが出した冊子『心の悩みに寄り添うために』*に「教会で心の悩みを持つ人とともに歩むこと」と「心の悩みについて『べてるの家』から学ぶ」の2つの文章を寄稿した。下手な文章と情緒的な内容だが、前者では教会が安心できる場となり「専門職の人も含めた教会共同体がその人を包み込むこと。その仕組みを作ること」が必要だと書いた。考えは概ね変わっていないが、「心の悩みのある人」をターゲットに何かをするのではなく別のことが必要なのではと考えるようになった。
「心の悩みのある人」にとって病気や症状自体よりは、症状、行動と社会との齟齬による困難さや社会からの否定的な評価により「生活が困難になり孤立させられていくこと」を問題にすべきだろう。そしてこうした構図は、先に書いた貧困者のほか、高齢の独居生活者、他の病気・障害のある人などにも共通する。「心の悩みのある人」も含め社会の周縁部に置かれている人を包括的にとらえ、生活困難な人もそうでない人も包摂できる場を作り上げていくことが必要だと考えるようになった。
私の周りを見回すと、聖イグナチオ教会では月3回「水曜ティーサロン」というお茶会を開いている。参加者の共通項は、ほとんどが直前のミサに参加した人ということだけだ。生きにくさのある人、そうでもない人などが雑多に集まってともに自由に語り合い、お菓子とお茶を楽しむ。教会に来られない人には既に、高齢化著しい教会所属の希望する信徒への定期的な電話による会話を始めていて、ゆくゆくは住まいへの訪問もできたらと考えている。同じ場にいなくても包摂は可能だ。
私のかかわる聖イグナチオ生活相談室でもお茶会や食事会を設定し、また自宅や施設などを訪問する活動を続けている。
*冊子「心の悩みを受けとめるために」を参考にしてください。