神の民を導いた牧者 ~フランシスコ教皇を偲んで~

デ ルカ レンゾ SJ
イエズス会司祭

教皇フランシスコが帰天してから時間が経った今、彼が残した遺産について考える時期になりました。教皇フランシスコを通して神様が与えてくださった恵みを、感謝して簡単に振りかえることにします。

平和のために働く人

教皇フランシスコは、人とその現実をありのままに受け止める人でした。相手が誰であろうとも、自分らしく親しく関わりました。

彼は若いときから親しい人の命が奪われる体験をしたので、平和がどれほど大切かを知った人でした。平和を求めることが人間に欠かせないものであり、戦争は何の解決にもならないことを伝えました。平和は宗教、国籍などを超える恵みであることを意識するしるしになりました。彼が提案した平和は、あらゆるレベルに浸透していました。核兵器を使用しないだけではなく、所有しないこと、所有者と組んで抑止力を使わないことも含んでいます。その上、フランシスコはあらゆる武器を使わない、所有しない方向に向かう「叫び」になりました。

訪日にあたって、日本はその道を歩まない限り、いくら平和を唱えても実現しないというメッセージを残しました。「恐怖と不信の心理から支持された偽りの安全保障を基盤とした安定と平和を、庇護し確保しようとするもので、最終的には人と人との関係を毒し、可能なはずの対話を阻んでしまうものです。」(2019年11月24日、長崎・爆心地公園でのスピーチ)

平和づくりその1 人間と向き合う

教皇フランシスコはどんな立場の人であっても真摯に対応していました。抜群の記憶力を活かして、何年かぶりに会った人の名前などを覚えていました。教皇になってからも貧しい人の誕生日を覚えていて、直接に電話をしていました。どんな人間に対しても深い関心があったからこそ、与えられた記憶力を人のために活かしたのだと思います。人と平等に向き合うことは、教皇フランシスコの生き方そのものでした。多忙の中でも「この人、この瞬間」を大切にし、「急かさない」接し方を貫きました。

教皇フランシスコにとって、どんな相手であろうとも受け入れない限り、平和があり得ないことを表しました。「結局のところ、各国、各民族の文明というものは、その経済力によってではなく、困窮する人にどれだけ心を砕いているか、そして、いのちを生み、守る力があるかによって測られるものなのです。」(2019年11月25日、束京・首相官邸でのスピーチ)

御父に倣って、誰であろうとも、無視できない、かけがえのない人であることの模範を示した教皇でした。

平和づくりその2 環境を大切に

自然は神の創造であると信じる人は、誰であろうとも神の御業を破壊していいはずがありません。それは聖書の教えであり、キリスト者であれば誰もが注意すべきことです。残念ながら、それを知ったからといって、必ずしも守られてきたわけではありません。

フランシスコ教皇は回勅『ラウダート・シ』(2015年)でそれを全面的に示しました。それまでの歴代教皇が出さなかったテーマを出すことによって、信者・非信者を問わず注目を浴びました。回勅の第一項目に出る「無関心でいられるものはこの世に何一つありません」で、伝えたいことを見事に集約します。「共通の家を大切にする文化」という概念が特に高く評価されました。それにフランシスコの特徴が示されています。つまり、聖書を中心にしながら、キリスト者でない人も共感できる形で書きました。最近の環境論と違って、環境そのものが中心ではなく、それを造った神様とその一部である人間を中心にした書物です。環境は社会正義、国や民同士の交流、倫理、政治などとつながっていることを述べながら、現代の状況を改善する提案まで出しています。

さらに『愛するアマゾン』(2020年)では、環境問題の深刻さを訴え、具体的な対策も提案しています。コロナ問題でこの2冊の適性が明らかになりました。まさに環境を破壊した人類は、その犠牲者になりました。しかし、コロナが発生したとき、医療的な側面しか注目されなかったことは、今となっては人類がフランシスコの声を聴かなかったことを示しているといっても過言ではありません。

この分野は教皇フランシスコの預言的な力、新鮮さを表しています。環境問題は教会内外でも実行に移すのが一番遅れている分野、一番改善を必要とする分野であることを訴え続けています。残念ながら、どの指導者も一番聞きたくない、実行したくない分野です。そのメッセージを真剣に受けとれば、過剰な利益などが許されないことを認めることになり、人と環境を破壊する武器の製造、戦争そのものをやめることになるからです。現代社会には受け取れないメッセージであると同時に、それを受け取らない限り、この地球での人類には未来がないという深刻な問題です。フランシスコが残したこの預言を読み直して、少しでも実行する方向に動くことが彼の望みだったに違いありません。

1987年、蓼科にて

平和に達した人

フランシスコ教皇は既に御父の家に帰ったのです。共に歩んだ私でさえ、もっと交流したかった、もっと質問したかった、もっと感謝したかったという思いが残ります。それが叶わなくなりました。しかし、彼のことを思えば、重い責任などから解放され、永遠の安息に入ったことを共に喜んだ方がいいでしょう。神の愛と赦しを信じた彼は今、それを味わっていると思います。

ありがとう、フランシスコ。安らかに休んでください。福音書にあるように、主はきっと「良い僕だ」と言い、両手を広げてあなたを迎えてくださるでしょう。私たちを導き続けてください。私たちはまだあなたから学ぶことがたくさんあります。間違いなく、あなたが私たちに残してくださったものは良い材料です。この人生という巡礼の一部をあなたと共に歩んだことを、いつか共に喜び合うことができますように。

「あぎゃんでよかったとや?」
ハンセン病療養所で働いていたあるシスターの自問

細渕 則子 FMM
マリアの宣教者フランシスコ修道会

2024年11月に、日本カトリック司教協議会・社会司教委員会から『すべてのいのちを守る教会をめざして~ハンセン病問題 過ちを繰り返さないために』という冊子が発行されました。その冒頭で、当時社会司教委員会委員長であった勝谷司教様が次のように述べておられます。

日本のカトリック教会は、ハンセン病との長い関わりを持っています。キリシタン時代から近代に至るまで、多くの司祭、修道者、信徒が患者の治療や世話に献身的に携わってきました。中にはその仕事に生涯を捧げた方もおられます。
しかしカトリック教会の指導者である私たち司教は、ハンセン病問題についてはその方々の献身に任せていました。近代以降、とりわけ国による「強制隔離政策」が進む中、ハンセン病に対する偏見差別がつくり出されましたが、私たちはその問題点を問うこともなく、結果として患者、家族の方々に人生被害をもたらすことに加担してしまいました。 (5頁)

これを読んで、長い間ハンセン病療養所で奉仕してきた一人のフランス人シスターの言葉を思い出しました。

最後のころの待労院

私が属するマリアの宣教者フランシスコ修道会(FMM)は、「ハンセン病患者の治療や世話に生涯を捧げ」るために、1898年、パリ・ミッション会のジャン・マリー・コール神父様の招きに応えて来日し、熊本に「待労院(たいろういん)」を設立しました。2013年に最後の元患者さんが菊池恵楓園(けいふうえん)に移られたのを機に閉鎖するまで、115年にわたって、患者さんたちのお世話にあたってきました。

私が若いころ、昔から待労院で奉仕してきたシスターたちに患者さんたちとの生活について質問すると、家族的でとてもすばらしい共同体の中で、患者さんたちがどれほど信仰深く、喜んで生活しておられたのかを分かち合ってくれたものです。冊子の中にもある表現ですが、患者さんたちが「療養所を修道院とみなして」(30頁)兄弟姉妹として助けあい、シスターたち以上に深い祈りの生活をしておられると、誇らしげに話していました。

しかし、その中で一人だけ、「これでよかったのか?」と疑問を口にしたシスターがおりました。シスタージャンというフランス人のシスターで、若いころ日本に派遣され、2002年に104歳で亡くなるまで、一度もフランスに帰ることなく、長い間待労院や他の福祉施設で奉仕の生活を送りました。

私は、シスターが100歳を超えたころ、同じ共同体に派遣され、よく話をしたものです。日本に来て、すぐに熊本の待労院で働き、日本語は「患者の男」から教わったそうで、熊本弁の、それも男性言葉で、私には理解できないところもありました。シスターが、「うちは、死んだらFMMのお墓じゃのうて、待労院の患者さんたちのお墓に入りたかとばい」と、よく言っていました。それである時、「どうして?」と聞いたところ、思いがけない言葉が返ってきました。たどたどしい熊本弁でしたが、はっきりと語ってくれました。だいたい次のような内容でした。

若いころからずっと男性の患者さんの担当で、自分なりには一生懸命働いて、「朝から晩まで男といっしょにおったとばい」(シスターの表現ですが、当時の修道生活では考えられないことだったようです)。それなりによくやったと思っていたけれども、今になると、「あぎゃんでよかったとや?(あれでよかったのか?)」という疑問を感じている。

というのは、患者さん一人ひとりには、それぞれの家族があり、家族の宗教があったはずなのに、善意からとはいえ、家族から引き離して、病院での生活を送らせた。そして、カトリックに改宗するよう無理強いするようなことはなかったけれども、カトリックでないといづらい雰囲気を作って、毎日祈りの生活をすることがすばらしいことと思いこませていた。さらに、一人ひとりのお母さんは自分の故郷にいる「おっかさん」一人なのに、自分たちシスターを「母(はは)さま」と呼ばせて、あたかも患者さんのことを何でもわかっているお母さんのように思いこんでいた。

でも、本当は、私たちは彼らのお世話をする修道女であって、肉親でもなく、結局のところは、彼らの本当の心のうちは何もわかっていなかったような気がする。それでも患者さんたちは、あたかもシスターたちが自分たちのことをよくわかってくれているように振る舞い、感謝していると言ってくれていた。本当に感謝していた人もいたかもしれないけれども、家族のもとにも帰れず、温かい家庭のような雰囲気を作って、かえって文句も言えないようにさせていたのではないかという気もする。

だから、神様のもとに行ったら、何でも心のうちのことも話せるので、患者さんの近くに行って、本当の気持ちを聞いて、「ほんとは分かっとらんやったとに、分かったふりばしてごめんね。うちらのせいで家に居られんごつしてしもうて、ごめんなさい」と謝りたい。

100歳ころのシスタージャン

私は、シスタージャンが患者さんたちと本当に親しくて、死んだ後も一緒にいたいという気持ちから、患者さんのお墓に入りたいと言っているのだろうと勝手に想像していましたので、この話を聞いて、シスタージャンの鋭い人権感覚に驚嘆しました。シスターの話の中には、「隔離政策」や「人権」などという言葉は全く出てきませんが、待労院での修道女と患者、言い換えればお世話する人とされる人という関係のおかしさを見抜き、またどんな良いものであっても、自分の価値観の押し付けの問題も感じていたようです。

「家族の宗教があったのに」という見方にも驚かされました。シスタージャンが実際に患者さんと関わっていた時には、良かれと思って洗礼を授けていたようですが、後になってこのような見方ができることに感心させられました。

そして、同時に、善意の恐ろしさをも感じました。きっとシスタージャンと同時代に待労院で働いていたシスターたちは皆、善意から、神から与えられた使命として熱心に奉仕し、それが結果として患者さんたちを苦しめることになっていたかもしれないとは、全く気付いていなかったと思います。それは、人との関わりの中で、どんな時にも起こりうることで、特に私たち修道女が陥りがちな点だと思います。昔、「小さな親切、大きなお世話」というギャグが流行ったことがありますが、ひとりよがりの善意が生み出す悪弊を表しています。本当に相手のためになっているのか、という視点が抜けると、「大きなお世話」どころか「大きな迷惑」になってしまうことを心に留めたいと思います。

現在、日本では、新たなハンセン病感染者はほとんどなく、2025年5月1日現在、13か所の国立ハンセン病療養所入所者数は639人、平均年齢は88.8歳、私立の神山復生病院は2人、93歳(厚生労働省HP)で、ハンセン病は過去のことになりつつあります。しかし、過去から学ぶことなしには、私たちは同じ過ちを繰り返すのではないでしょうか。

『すべてのいのちを守る教会をめざして』では、将来に向けて、「カトリック教会は、ハンセン病問題をその時代の人々の過ちとして片付けることはできません。なぜなら、教会は時間と空間を超えて同じ『キリストの体』であり……兄弟姉妹として繋がっているからです。教会の過去の過ちを認め、そこから学び、新たな歩みを始めないならば、私たちも同じ過ちを生きることになります」と述べています(58頁)。シスタージャンの「あぎゃんでよかったとや?」という思いを、人々との関わりの中で常に持ち、神様が一人ひとりに与えてくださっている「人権」を大切にし、新たな歩みを始めていけたらと願っています。

シスタージャンの望みはかなえられず、府中のFMMの墓地に葬られましたが、天国は時間も場所も超えたところですから、きっと元患者さんたちとの再会を喜んでいることでしょう。

社会司教委員会編 『すべてのいのちを守る教会をめざして~ハンセン病問題 過ちを繰り返さないために』 は、以下で全文公開されています。

https://www.cbcj.catholic.jp/2024/11/29/30934

日本の近現代史を学ぶ書籍紹介シリーズ 【4】
第一次世界大戦とその後の世界

編集部

――今回紹介する本が扱う時代は、1910年代と20年代、第一次世界大戦とその後の満州事変前までの時間である。今回も三好千春さんから貴重なアドバイスを受けて、本の紹介を行う。

2010年代は、第一次世界大戦100年を記念して、日本でもさまざまな著作が出版された。シリーズものとしては、京都大学人文科学研究所が研究母体となり編集した『レクチャー 第一次世界大戦を考える』(人文書院 全12巻)が出版された。その研究は、山室信一、岡田暁生、小関隆、藤原辰史編『現代の起点 第一次世界大戦』(岩波書店 全4巻)に結実している。以下、比較的読みやすい書籍を紹介する。

1) 木村靖二 『第一次世界大戦』 ちくま新書 2014年

目次

序章: 第一次世界大戦史をめぐって(第一次世界大戦の名称 / 第一次世界大戦史研究の軌跡 / 戦争責任論争 / 戦争責任論争から修正主義へ / 「合意」の成立とフィッシャー論争 / 大戦前史から大戦史へ)

第1章: 一九一四年―大戦の始まり(バルカン戦争から世界戦争へ / 緒戦の機動戦)

第2章: 物量戦への移行と防御の優位(戦時経済体制の構築 / 膠着する戦況と両陣営の増強 / 防御の優位―西部戦線での攻防)

第3章: 戦争目的の重層化と総力戦体制の成立(戦争目的の錯綜と戦時体制の亀裂 / 一九一七年の危機―戦争指導体制の再構築)

第4章: 大戦終結を目指して(ロシアの脱落とアメリカの参戦 / 決戦の年)

20世紀の世界史はどのような時代であったのか、またその中で第一次世界大戦はどのような位置づけにあるのかという問いかけが本書全体を貫いている。国際連盟(国際連合)、国民国家、民主国家、福祉国家、総力戦国家などの形成過程を第一次世界大戦という世界史の中に見出すならば、日本社会をさらに深くとらえることができる。第一次世界大戦を知るために、最初に読むことをお勧めする。

2) マイケル・ハワード(馬場 優 訳)『第一次世界大戦』法政大学出版局 2014年 (原書 2002年)

目次

第1章: 一九一四年のヨーロッパ
第2章: 戦争勃発
第3章: 一九一四年――緒戦
第4章: 一九一五年――戦争継続
第5章: 一九一六年――消耗戦
第6章: アメリカ参戦
第7章: 一九一七年――危機の年
第8章: 一九一八年――決着の年
第9章: 講和

本書の著者は、『ヨーロッパ史における戦争』(中公文庫 2010年)の著者でもある。開戦当時の国際関係、開戦の経緯と戦争各段階の経緯、戦争中の各国の国内情勢、そして戦後処理に関して簡潔にまとめている概説書である。


3) 小林啓治 『戦争の日本史21 総力戦とデモクラシー 第一次世界大戦・シベリア干渉戦争』 吉川弘文館 2008年

目次

プロローグ: 二十世紀の起点としての第一次世界大戦

第1章: 戦争の勃発(戦前のヨーロッパ世界 / 戦争の起源)

第2章: 日本の参戦(中国をめぐる日本外交 / 青島戦争と負の遺産)

第3章: 『欧州戦争実記』と戦争報道

第4章: 「戦いを超えて」―ロマン・ロランと反戦の精神

第5章: 戦争目的・講和条件をめぐる政治―ロシア革命のインパクト 

第6章: 二つの講和―ヴェルサイユ講和と「人間的インターナショナル」 

エピローグ: 終わらぬ苦悩と新たな行動

プロローグにあるとおり、著者は第一次世界大戦を20世紀の起点としてとらえている。開戦の時点では、列強は帝国主義的政策を基本とし、その政策ゆえに大戦が始まった。だが、講和条約の時点では、それまでの紛争解決手段として認められていた戦争を、できるだけ回避しなければならないという共通認識が生まれ、国際連盟が形成された。しかし、日本は戦場にならなかったこともあり、この変化に対応しなかった。

また本書では、反戦とデモクラシーの結びつきを検討している。中でも反戦思想、特にロマン・ロランの思想の変遷を本書全体を流れる旋律としていて、興味深い。


4) 藤原辰史 編 『第一次世界大戦を考える』 共和国 2016年

目次

第1部: 大戦を考えるための12のキーワード

[音楽]新世界の潮流 

[食]人間の生存条件を攻撃する「糧食戦」

[徴兵制]人間の質より量を問題に 

[ロシア革命]世界を変革した社会主義の「実験」 

[技術]電信と電波で一つになる世界 

[文明]非暴力で不服従を貫くガンディー など

第2部: 大戦の波紋

[美の振動]二つのレクイエム / 映画史と第一次大戦 / 西洋音楽史の大きな切れ目 など

[刻まれた傷跡]ソンムと英仏海峡のあいだ / アルザスの傷 / 戦争記念碑 / アメリカの総力戦と反戦 / 戦間期を生きた哲学者の問い など

[地球規模の戦争]オーストリア=ハンガリーの天津租界 / 東南アジアから / 日本人抑留者の手記 / 朝鮮の独立運動家、成楽馨 など

[欧州の深淵で]国債と公共精神 / 女が大戦を語るとき / ナイチンゲールの天使イメージ / 二つの帝国崩壊と国籍問題 など

[遺産の重み]セーブ・ザ・チルドレンの誕生 / アメリカ海軍の未来構想 / 国家イスラエルは「ユダヤ人国家」を名乗りうるか / グローカルなインド民族運動 など

第3部: いま、大戦をどうとらえるか

開戦百周年の夏に(小関隆) など

空腹と言葉 あとがきにかえて(藤原辰史)

本書は48名の研究者による、第一次世界大戦を多面的に考えるためのコンパクトな小百科である。

5) 山室信一 『複合戦争と総力戦の断層 日本にとっての第一次世界大戦』 人文書院 2011年

目次

はじめに: 希薄な戦争経験と歴史認識の空白 

第1章: 「世界大戦」という名づけ ― 日本からの眼差し

第2章: 日英外交戦と対独・対中問題 

第3章: 日独戦争の展開と日本の政略 

第4章: 日中外交戦と日中関係の転形 

第5章: 日米外交戦と東アジアの政治力学 

第6章: シベリア戦争における四つの出兵 

おわりに: 「非総力戦」体験と総力戦への対応

冒頭で触れた『レクチャー 第一世界大戦を考える』全12巻のうちの一冊である(他には、小関隆『徴兵制と良心的兵役拒否―イギリスの第一次世界大戦経験』、藤原辰史『カブラの冬―第一次世界大戦期ドイツの飢饉と民衆』、林田敏子『戦う女、戦えない女―第一次世界大戦期のジェンダーとセクシュアリティ』など)。

本書によると、日本にとっての第一次世界大戦は、日独戦とシベリア戦争という二つの実戦、そして日英外交戦、日中外交戦、日米外交戦と続く三つの外交戦の複合戦であった。二つの実戦は、重砲や機関銃、無線通信や飛行機などの新兵器を試用したが日露戦争と同じ戦争形態であり、三つの外交戦も「力こそ正義」という認識を基盤に秘密外交と威嚇外交による旧外交方法が用いられた。そのため、日本においてはこの大戦は非総力戦だったという。しかしその後、総力戦への準備が重ねられていく。

6) 麻田雅文 『シベリア出兵 近代日本の忘れられた七年戦争』 中公新書 2016年

目次


序章:
 ロシア革命勃発の余波 一九一七~一八年

第1章: 日米共同出兵へ一九一八年

第2章: 広大なシベリアでの攻防 一九一九年 

第3章: 赤軍の攻勢、緩衝国家の樹立 一九一九~二〇年 

第4章: 北サハリン、間島への新たな派兵 一九二〇年

第5章: 沿海州からの撤兵 一九二一~二二年 

第6章: ソ連との国交樹立へ 一九二三~二五年 

終章: なぜ出兵は七年も続いたのか

シベリア出兵に関してさまざまな研究が進められているが、容易に読むことができる書籍が少ないため、本書を取り上げることにした。シベリア出兵は、ロシア革命が進展する中でその力が東アジアに及ばないために、英仏が主導し、日米が加わるという形で始められた。しかし、日本だけが7年にわたり出兵した。

戦闘はまず「過激派」を掃蕩するためであったが、相手はゲリラ戦術をもとったため、村落共同体そのものが掃蕩の対象となった。たとえばアムール州ソハチノ村では「懲膺(ちょうよう)の為過激派に関係せし同村の民家を焼夷」した。また同州イワノフカ村では「イワノフカ村を包囲し、過激派二七射殺し、付近の敵を全く掃蕩」した。

出兵はロシア人「過激派」に標的が絞られていた印象を抱くかもしれないが、実際にはロシアに住んでいる朝鮮人たちの抗日活動を撲滅すること、またサハリン北部の油田を支配することも、重要な目的であった。


7) 篠原初枝 『国際連盟 世界平和への夢と挫折』 中公新書 2010年

目次

序章: 国際組織の源流

 ― 第一次世界大戦以前 

第1章: 国際連盟の発足

 ― 四二の原加盟国

第2章: 希望と実現の時代

 ― 一九二〇年代の試み

第3章: 国際連盟と日本

 ― 外交大国としての可能性

第4章: 紛争・戦争の時代へ

 ― 苦闘の一九三〇年代 

終章: 連盟から国連へ

 ― 第二次世界大戦中の活動と終焉

国際連盟の史的位置づけ全体を取り扱った書籍は多くないし、容易に入手できるのは本書だけであろう。国際連盟というと当初からアメリカの不参加、また日本、ドイツ、イタリアの脱退などから、失敗した組織という印象を抱く。しかし、本書ではその成果、たとえば総会における一国一票の投票権確立、国境問題などの国際紛争解決への貢献、少数民族の保護、常設国際司法裁判所の設置、難民問題に対する関係各国への働きかけ、世界レベルでの保健機関の設置、人身売買に関する協定作成なども取り上げている。


8) 牧野雅彦 『不戦条約 戦後日本の原点』 東京大学出版会 2020年

目次

第1章: 国際連盟と集団安全保障の原則 

第2章: ブリアン「戦争違法化」提案の背景 

第3章: フランス・アメリカ恒久友好条約案とその反響 

第4章: アメリカ案(多国間戦争放棄条約)の形成 

第5章: 不戦条約の成立 

第6章: 不戦条約と日本の東アジア外交 

第7章: 「人民の名において」 

結論: 不戦条約と戦後世界

「第一条 条約締結国はその国民の名において厳粛に宣言する。国際的紛争解決の手段としての戦争を罪悪と認め、国策手段としての戦争は相互の関係において放棄する。第二条 条約締結国は、彼らの間で生じうるあらゆる争いや紛争の調整や解決を、決して平和的手段以外の方法で追求しないことに同意する。」基本内容は今記した、わずか2条である。1928年8月27日にパリにおいて15か国が署名し、調印され、最終的には63か国が批准した。日本では翌年に「戦争放棄に関する条約」として批准された。日本で批准に際して論議されたのは、もっぱら「国民の名において」の部分であり、その議論は天皇の法的位置づけに関することであった。本書はフランスとアメリカ両国を主軸にさまざまな国の外交交渉によって条約が成立した過程を詳述している。憲法9条や今日の世界状況を考えるうえでも重要な課題を提供している。

9) 小川原正道 『日本の戦争と宗教 1899―1945』講談社選書メチエ 2014年

目次


プロローグ:
 「交響曲」として 

第1章: 「二十世紀」の到来

──キリスト教公認と宗教政策第2章: 総力戦と大陸への飛躍──第一次世界大戦と布教権

第3章: 新国家建設と「新理想郷建設」の模索──満州事変と日本宗教

第4章: 大陸での「勢力拡大」──日中戦争と戦時協力

第5章: 対米英決戦下の精神界──太平洋戦争と仏教・神道・キリスト教

エピローグ: それぞれの「終焉」

『近代日本の戦争と宗教』(講談社選書メチエ 2010年)は、戊辰戦争から日露戦争にいたる戦争において、神社界、仏教界、キリスト教界を描く。本書はその続編である。著者によると、『近代日本の戦争と宗教』で取り扱った部分は前奏曲にあたり、その続編が取り扱う部分は交響曲にあたるという。演奏するオーケストラにおいて「指揮者の地位に就くのは往々にして陸軍や文部省であり、コンサートマスターの役割を果たしたのは仏教連合会や浄土真宗本願寺派であった。そして、指揮者とコンサートマスター、各演奏者とが「相互依存」関係を構築することで、ある種の調和=シンフォニーが形成され、音調としては不気味で後味の悪い、しかし壮大かつ長大な戦争協力というシンフォニー=交響曲が奏でられたのである。その曲調を乱すような観客は、容赦なく会場から退去させられたが、それも指揮者の役割であった。…軍だけでは補完できない「精神性」を宗教勢力が保持していたこと、国民への影響力を有していたこと、あるいは社会活動上の便利を供与していたことは事実であり、その意味で、やはり「相互依存」の関係にあった。」(本書のあとがきより)

残念ながら本書にはカトリックに関する言及が少ない。カトリック教会については、雑誌『福音宣教』に全22回(2018年1月号~2019年12月号)にわたり連載され、後に単行本化された三好千春『時の階段を下りながら』(オリエンス宗教研究所 2021年)をお勧めする。

ホスピタリティの福音を生きる : 個人的な考察と受け入れの代償

キム ジョンホ
北東アジア和解イニシアチブ (NARI) 会長

ホスピタリティを実践するという私自身の旅は、1993年10月の結婚から始まりました。妻のエイミーと私は、韓国の典型的な「屋塔房(オクタッパン)」――屋上にある小部屋で、正式には住居と認められていないが家賃は手ごろ――で一緒に暮らし始めました。そこは狭苦しく、冬はとんでもない寒さで、夏はうだるような暑さでした。それでも、最初の1か月間で21回も来客を迎えました。ある集まりでは、私たちの狭い部屋に全員を収めるために、二重の同心円を作らなければならなかったことを鮮明に覚えています。このつつましい始まりが、他者を歓迎し、食事を共にし、そして人生そのものを分かち合うことを中心に据えた人生の先駆けとなりました。

この発展的な経験は1997年、私が神学を学ぶため、エイミーと長女の3人で米国に移住した際も、受け手側からではありましたが、同じように経験しました。学生アパートでまだ荷ほどきをしていた時、ドアをノックする音がしました。3人の小さな子どもたちが立っていて、焼き立てのクッキーが盛られたお皿を差し出してくれました。それは、向かいに住むアメリカ人神学生一家からの温かなおもてなしでした。彼らのささやかなおもてなしの行為のおかげで、慣れない土地、言語、そして文化に移行する不安が和らぎました。

この最初の親切は、その後何年間も、私たちを温かく迎え入れてくれた多くの人々によって繰り返されました。その中でも、特に親しくなった家族がいました。エイミーは、別の神学生の妻であるペギーと、キルトや工作といった共通の趣味を通じてすぐに仲良くなりました。私が勉強に専念している間、ペギーの変わらぬ友情は、自身のキャリアやコミュニティを置き去りにしたエイミーにとって命綱でした。ペギーのホスピタリティは、海外生活の深い孤独を乗り越える支えとして、エイミーの力の源となってくれました。

さて、それでは一体、ホスピタリティとは何なのでしょうか? 辞書によれば、「客、訪問者、あるいは見知らぬ人を友好的かつ寛大に迎え入れること」と定義されています。ホスピタリティの本質は受け入れること、それもただ友人についてだけでなく、実に見知らぬ人に対しても歓迎の意を示すことです。それは単なる礼儀正しさ以上のものを要求します。それは自分自身を与え、境界を乗り越え、自らの心と家を開くことを求めるのです。

しかし、この行為にはリスク(代償)が伴います。まず、犠牲を要します。しばしば私たちは快適な領域から一歩踏み出し、私たちの時間、資源、そして日常をかき乱されることになります。他者に自らの人生を開くことによって、亀裂が生じ、個人的な基盤が揺らぐ可能性があるということを受け入れなければなりません。次に、ホスピタリティを実践するということは、他者の痛みを自分の人生に受け入れるということを意味します。かつては縁遠い問題だったものが、身近で個人的な問題となるのです。この脆弱性の中で私たちは、この壊れた世界に入られ、私たちの重荷を担ってくださったキリストの歩みに呼応するのです。

私の家族は、養子縁組を通して、痛みとホスピタリティの融合を深く経験しました。末娘を迎え入れたことで、私たちの目は養子縁組の複雑な世界へと開かれ、養親や国際的な養子たちのコミュニティと繋がることができました。かつて、デンマークから韓国に養子としてやって来たトーマスという少年を我が家に迎えたことがありました。ソウルの明洞のにぎやかな通りを歩いていると彼は「みんな僕と似ていて目立たないから、居心地がいいんだ」と言いました。彼の言葉は、母国で目につくマイノリティとして育てられた養子たちが抱く深い疎外感を改めて思い起こさせてくれました。我が家を開放することで私たちは、他者の苦しみをより深く理解することができました。

悲しいことに、妻のエイミーにとって、痛みは常に付きまとうものでした。彼女は2025年2月17日に亡くなりました。18歳で関節リウマチと診断されて以来、彼女は人生の大半を慢性的な痛みと自己免疫疾患と共に過ごしました。約15年前、キャンプカウンセラーとして活動していた頃、彼女の苦しみは架け橋となりました。後に彼女は、とてつもない機能不全家族によって傷ついた若い女性の痛ましい話を聞いた時のことを話してくれました。エイミーは、初めて自分の痛みに感謝したと振り返っていました。なぜなら、その痛みのおかげで、その若い女性の苦しみをしっかりと聞き、共感することができたからです。彼女の痛みは、連帯のための基盤となりました。私たちがおもてなしを提供するときには、弱さを共有することが最も力強いつながりを築くことができるということを認識し、他者の抱える痛みを受け入れる覚悟が必要です。

現代は、ホスピタリティにとって特異な状況を生み出しています。世界的な流動性はかつてないほど高まっており、難民、移民、留学生、そして移住労働者は絶えず国境を越えていきます。皮肉なことに、物理的な移動が増えるにしたがって、伝統的な、個人的なホスピタリティの形は衰退し、商業的な「ホスピタリティ産業」に大きく取って代わられているかのようです。オンラインで「ホスピタリティ」と検索すると、主にホテルやサービスに関する検索結果が表示されます。かつては個人の寛大さに根差していたものが、今や主要な経済分野とまで化し、韓国のような場所では、外国人の存在が増えてもそれが自動的に真心からの歓迎に繋がるわけではありません。

移民、難民、亡命希望者といった避難民たちの窮状は、この歓迎の危機を如実に物語っています。2019年、私は仁川空港で暮らすアルフィーとボベット、そしてその3人の幼い子どもたちと出会いました。アンゴラからの難民である彼らは入国を拒否され、足止めされ、最終的に287日間も空港ターミナルで過ごしました。彼らの困窮を目の当たりにした私は、できる限りのことをしました。空港のコンビニで高すぎる食料品を買い、いくらかの現金を渡し、支援ネットワークへも紹介しました。しかし、彼らの試練の中でも最も心を痛めたのは、空港で彼らの国外追放を求める抗議活動を目にしたことでした。この時代の精神は、ホスピタリティの精神ではなく、排除の精神であるように思いました。

この厳しい態度は、分断を煽る言説や排除を促す政策が勢いを増すという、より広範で世界的な傾向を反映しています。悲しいことに、米国や韓国といった国では、保守的なキリスト教コミュニティの一部が、時にこうした憎悪の声を増幅させ、福音の中心的なメッセージを裏切ってきました。大邱(テグ)で起きた事件では、キリスト者を自称する抗議者たちが、ムスリムに敵対するためにわざわざ、モスクの建設予定地の近くで豚肉を焼いて見せました。これは、信仰を歓迎のためではなく征服のための道具として歪めている恥ずべき例です。

では、現代において、私たちはどうやって真のホスピタリティを取り戻せるのでしょうか? 古代の文化が深遠な知恵を与えてくれます。英国の探検家ウィルフレッド・セシジャーは、『アラブの砂』という著書の中で、敵対するベドウィン族の領地を旅した時のことを記しています。危険を顧みず、彼の仲間たちは敵対する村へと避難したところ、ベドウィンの聖なる歓待の慣例に則って歓迎されました。部族間の敵対は脇に置かれ、食料、住居、そして保護が提供されました。ベドウィンにとって、歓待は神聖な義務であり、名誉にかかわる事柄であり、人間の相互関係を維持する実践でした。これは、個人主義がしばしば、相互依存的な存在としての私たちのアイデンティティを覆い隠してしまうことの多い現代の現実とはまったく対照的です。

モンゴルの遊牧民文化にも、同じような精神が息づいています。2019年に訪問して学んだのですが、広大で人口の少ないこの土地では、相互の信頼が不可欠です。旅人たちは無人のゲルに自由に立ち入り、生活必需品を探します。モンゴル人の同僚は、両親がゲルを出るときには必ずお茶と食料を用意して置いて出たと話してくれました。通りすがりの人にとっては、それが命綱になるかもしれないと考えたからです。おそらく、絶望を知る者こそが、困っている他者への思いやりの心を育むための最適な備えができているのでしょう。また、痛みを知る者こそが、他者の痛みに応えるための最適な備えができているのでしょう。

結局のところ、ホスピタリティとはキリスト教の福音の神髄です。ルカによる福音書15章の放蕩息子のたとえ話は、このことを力強く示しています。父親は、傷ついた息子を非難することなく迎え入れ、そして腹を立てた兄とも辛抱強く和解します。これは、私たちに対する神のホスピタリティのイメージです。傷ついた人、見失った人、そして困っている人を受け入れてくださるのです。私たちは皆、この神の歓待を受ける者です。エフェソ書の2章に記されているように、キリストは私たちの平和であり、敵意の壁を打ち砕き、私たちを神と、そしてお互いに和解させてくださいます。かつて「異邦人や寄留者」であった私たちは、今や「神の民の同胞」となっているのです(エフェソ2・13-20)。

この神の受け入れは、私たちにホスピタリティを実践するように促します。私たちが他者をどのように扱うかには、神が私たちをどのように扱ってくださるかが反映されるべきです。この教えは、北東アジアの和解に焦点を当てたフォーラムで特に鮮明に浮かび上がりました。日本の平野克己牧師との会話の中で、私は過去の学生会議で、日本の学生たちが歴史的な侵略について正式に謝罪した時のことを話しました。その行為は時として懐疑的な目で見られることもありました。私は、先祖の過ちを謝罪する個々の若い日本人たちが背負う複雑な重荷について、十分に考慮できていなかったと告白しました。私が話している間、克己さんの目に涙が浮かびました。受け継がれてきた重荷への哀しみと、犠牲者への謝罪が入り混じった涙でした。私たちは抱きしめ合い、涙を分かち合い、互いの痛みを理解し合うことで築かれた友情を育んでいます。

こうした出会いは、和解のためには意識的にホスピタリティを実践し、国境を越えた「新しい私たち」を創り出すべく、分断を超えて心を開いていくことが必要だということを示しています。あるアジア系アメリカ人参加者が後に、「私はここで自分の仲間を見つけた!」と声を上げたように、ホスピタリティが根付くところに、和解は花開くのです。

しかしながら、ホスピタリティを受け入れるには、それに伴う代償を受忍しなければなりません。チョン・ジェヨン船長の物語は、このことを劇的に物語っています。1985年、マグロ漁船光明87号の船長だった彼は、ベトナム難民を乗せて漂流するボートに遭遇しました。厳格な業務命令に抗いながら、良心が彼を行動へと駆り立てました。船の乗組員たちは96人を救助し、釜山に到着するまでの12日間、限られた食料を分け合いました。到着後、チョン船長は解雇されました。しかし数年後、彼が救った難民の一人、ピーター・グエンと再会し、彼こそが英雄だと賞賛されました。犠牲を恐れぬ彼のホスピタリティの行為は人々の命を救い、深い人間性の象徴となりました。

チョン船長の物語は、ホスピタリティはしばしば犠牲を伴うことを教えてくれます。しかしそれは、受け取る側と与える側の両方に、同時に命を与えるものでもあります。こうした行為を通じて、私たちは栄光の一端を目撃し、世界は壊れているにもかかわらず、それでもなお、意味ある繋がりが可能な場所であることを確認するのです。

今日、私たちにとっての問いは、「私たちの周囲にいる“ボートピープル”とは誰か?」というものです。弱い立場にいる人々、周縁に追いやられた人々、見捨てられ、歓迎のしぐさ――ドアを開き、食事を共にし、理解しようと耳を傾ける――を待っている旅人とは誰でしょうか? 彼らの存在を認め、手を差し伸べることは、信仰に忠実に生きようとするすべての人にとって、核心的な使命だと、私は信じています。それは困難で犠牲を伴いますが、究極的には栄光に満ちた福音の道だからです。

著者について

キム・ジョンホ氏は、北東アジアキリスト者和解フォーラムを運営するNARI(北東アジア和解イニシアチブ)の会長を務めています。2014年に発足したこの和解フォーラムは、多様な背景を持つキリスト者を集め、地域におけるコミュニティ、癒し、平和のための協働を促進することを目的としています。また、1992年から2024年4月まで、韓国のプロテスタント系学生団体IVF(キリスト者学生会)で活動していました。本稿の考察は、その宣教活動、家庭生活、そしてNARIを通じた和解促進活動における個人的な経験に基づいています。

能登のボランティアに参加して

藤田 真弓
CLC (クリスチャン・ライフ・コミュニティー) メンバー

2025年4月17~20日の聖週間に、能登半島の被災地ボランティアに参加しました。参加の動機は、その年2月に、Facebookでフォローしている友だちがボランティアに参加していたことを知り、興味を持ったからでした。その友だちと会ったときに色々と話を聞いて、ぜひ行ってみたいと思いました。その後、何人かの知り合いに声をかけ、数人で参加しました。イースターボランティアの参加者は、福岡や東京の方、信者ではない方を含め合計10人でした。

東京から石川県のカリタス七尾ベース――カトリック七尾教会に隣接した拠点――までは休憩も含め、車で約7時間かかりました。ほぼ一日移動だったので、17日は七尾ベースでオリエンテーションを受けるのみでした。18日は民間災害ボランティアセンター「おらっちゃ七尾」のボランティアに個人で参加される方々と共に、公費解体される家の片付けをしました。19日は輪島へ行き、野菜や水等、生活必需品を配るボランティアに参加した後、輪島のカトリック幼稚園にて復活徹夜祭に参加しました。20日は七尾ベースで「じんのびカフェ」を開催するため、テントや物品を設置し、オープン後は周辺住民の方々との交流を行いました。

体験の中で一番心に残っているのは、18日に行ったボランティアでした。おらっちゃ七尾が拠点を構える、かつて石崎保育園のホールだったところで1時間ほどオリエンテーションを受けた後、いくつかのグループに分かれました。私はカリタスからの派遣という形で、公費解体前の片付けに割り振られました。ボランティア時の注意点や緊急時の避難先などの話を聞いた後、班のリーダーの指示に従って荷物を準備し、公費解体前の片付けを希望されている方のお宅へ伺いました。家の中の片付けは既に終わっており、残っている作業は隣の納屋の片付けでした。

七尾市では今は災害ゴミとしては取り扱っておらず、私たちが普段行っているような分別方法でのみ、ゴミを受け付けていました。粗大ゴミなど、他の地域ではお金を取る場合でも、七尾市では被災した家庭に配慮するということで、無料で引き取ってもらっていました。おらっちゃ七尾のスタッフはゴミ集積場と地域との関わりを考え、お互いに気持ちよくやり取りができるように気を遣っている様子が伺えました。

トラックで運ぶ前に、いくつものコンテナに分けて分別をしなければならず、迷ったときは同じ参加者と相談をしながら分別を行いました。どうしても迷った場合は一か所に集め、最後に家主に確認を行いました。分別して持って行っても、受け付けてもらえないこともあり、持ち帰って家主に処分をお願いするものもありました。作業中は長袖、防塵マスク、ヘルメットといった装いで、4月でまだ肌寒い季節ではありましたが、体を動かしているとかなり暑さを感じました。

昼食の時間になり、依頼主宅の向かい側にある駐車場にお邪魔して昼食を食べていると、中から家主さんが出てきて、震災後の話を伺うことができました。配偶者が震災後に震災とは関連性がない事情で亡くなったこと、息子と娘がいて、娘は結婚して遠くにいること、息子と二人だけでは家の片付けがなかなか進まなかったこと、倒壊はしていないので、調査するまで修繕すればまだ使えるのではないかと思っていたこと、家の基礎やインフラに問題があり、土地を手放すことになった経緯などの話を聞きました。

その方が何度も家を見ながら、「ちょっと直せばまた住めると思ったんだけど……」と語る姿から、結婚してから今までこの家で過ごした日々を思い出し、離れがたい気持ちなんだろうと感じました。家主さんは、現在仮設住宅に住み、隣の人同士の関わりがほとんどなく、心細そうにしていました。今回のボランティアが終われば、ほぼ関わる可能性がない私たちの、ほんの少しのお手伝いを通して、少しでも心が安らぐことを祈りました。

おらっちゃ七尾での活動で一緒になったボランティア参加者は、北海道や京都など、様々な地域から来られていました。宗教を超えて、自分の時間を使い誰かを助けようとする人たちを尊敬する気持ちになりました。活動終了後、おらっちゃ七尾で活動報告をした時、感じたことや感想を分かち合う時間があり、参加者やスタッフの声を聞く中で、この運営団体(一般社団法人)は「助けたい」「力になりたい」という気持ちが核になっていることを改めて感じることができました。

バケツリレーの要領で瓦礫を撤去していく

正直、ボランティア参加を決めた当初はヘルメットと防塵マスク、長靴を用意して解体作業に加わることになると想像していませんでした。ですが、実際に参加し、現地で話を聞いたところ、4月18日時点で公費解体前の片付け依頼が230件あるとのこと。石川県の住宅の特徴として、それぞれの土地が広く一戸建てで、一件につき一週間かかるとのことでした。また、解体期日までに片付けが終わっていない場合は順番が最後に回されてしまうとのこと。まだまだボランティアの必要性を感じました。

その日、ベースに帰った後、七尾教会で聖木曜日のミサを行いました。地元の信者の参加者は両手で数えられるほどでした。ボランティア参加者も共に温かな雰囲気の中でミサを捧げました。説教中の「私たち信者と非信者は何が違うのか」という問いかけで、その日一緒に作業を行った人たちのことを思い出しました。誰かに誘われたのでもなく被災地に関心を持ち、ボランティアに来ている人々のことを純粋にすごいと思いました。一方私は、周りの人がボランティアに行ってきたことを知り、それで関心を持ち、1人では行く勇気がなくて数人に声をかけ、やっと参加したという経緯だったのです。そんな素晴らしい非信者の人々と信者である私は何が違うのか。それは、神のことを知っている、それだけでした。

信者らしくしなければ、とか、周りの人に信者なのにふさわしい人物に見えないのではないか、とか。こだわることはよくないことだと思う反面、心のどこかで自分の中の理想の信者を演じようとする自分の存在がちらついていました。その説教の中で改めて問われたことで、自分を見つめなおすきっかけになりました。そして、自分を着飾らなくてもいいんだと思うことができました。

七尾ベースに駐在して、地域の方々や他の団体と連携して復興の懸け橋になっているスタッフの方々や、シスターズリレーの方々の役割の重要性を感じました。同じ人が窓口になって関係性を築いていくことで、より寄り添った復興の手助けができていると感じることができました。そして、その人たちをボランティアに行かずとも支えられる手段があるのではないかと思いました。それは能登の人々に関心を寄せることです。ところで、カリタスのとサポートセンターは、インスタグラムとFacebookで発信を行っています。気になる方はぜひフォローして、スタッフの方々や能登の人々に心を寄せていただければ、と思います。

最後に、このようなボランティアに行くきっかけを与えてくれた友だち、サポートセンターとのやり取りなどあらゆることを手伝い一緒に参加してくれたメンバー、寝る場所や食事を提供してくださったサポートセンターの人々、すべてを見守り導いてくださる神様に感謝します。そして、被災された方々の霊魂が癒されますように。