タディ ヘンリー
[1] 宗教団体に慈善活動に携わることをすすめる一つの文書を提出するために、2012年2月の終わりに記者会見の中で、宗教的事柄を扱う中国国家管理局the China State administration の代表者が、党(中国共産党)と政府は、(諸宗教)信者たちが国の全体的発展のために積極的にした貢献を常に評価してきた、と宣言しました。カトリック教会はその文書を、社会に参画するにあたって行政上の障壁が減らされていくことの一つのしるしとしてかなり好意的にうけとりました。実際それは、ある場所でカトリック神父たちが貧しい人の助けを申し出たときに、「だめだ、あなたたちの活動はあなたたちの教会の仕切られた場所に限られている、そしてそれは宗教的な性格のことに属すべきだ」と神父たちが言われたことと比べて、まったく異なるように聞こえます。その文書を報道した意図はおそらく、中国が並外れた急速な変化と、近い将来の経済の低成長率に直面するにあたって、安定または調和した社会を促進するために「奉仕に対する要求」を表現することにあったのだろうと思われます。
[2] 北京の新政府は、改革を推し進めることを明言しています。少なくとも経済的前線において。指導者たちは、党の信頼性、したがってその合法性を危険にさらしている、党内部の問題に気付いています。大変多くのデモ行動が証拠立てるように、一般の国民は、尊重されるべき権利を欲している場合には、しばしば非常に強く抵抗します。党の内部の構造と警察や公的秩序を守る組織の、それらの抵抗への対処の仕方には、多くの疑問を起こさせます。しかし当然ながら、これらのことは公的な審査には開かれていません。弁護士に対するいやがらせなどはまさにこの一例です。中国では、よく言われるように、人びとは繊細な情報を求めていませんが、優しい言葉を利用した背任行為などに対しては、大いに戦っています。彼らは体制を疑うことなく恐れずにそれをやります。それにも関わらず、過度に不満足が広がり深くなるのを避けようとする統制のもとで、社会の不均衡は隠されているのです。
[3] 最も明白な不均衡の一つが、金持ちと貧しい人の格差を測る指標「ジニ係数」によって描かれています。学者の最近の調査は、ジニ係数 0.61という値に警鐘を鳴らしています。中国はまだ発展途上国だから、そういった問題は経済が新しい成熟期に達したのち、解決するだろうと説明されることがあります。経済学者や社会学者が、様々な結果に対して、ジニ係数の計算・意義を議論していることもまた事実です。それと関連して、中国にとってとても重要なこととは、中流階級が急速に出現していることです。このような発展の予期せぬ成り行きは、依然としてもっと包括的に理解しようと研究されています。中国の人々の間にある鬱積を理解するためには、例えば、中流階級の概念とその輪郭をもっと正確に定義する必要があります。というのもたくさんの不公平の感覚が「相対的貧困」から来ているからです。イデオロギーの理由で押し付けられている低い程度での平等主義を知った中国は、今やより発展した社会の中で、すでに知られている社会現象を経験していて、「中国の特徴」と、その結果としての政治体制の多くの様相を強調する困難に直面するに違いないでしょう。
[4] 調査の結果によると、中国では今日までいまだ独裁主義というものが広く受け入れられており、それは大部分の個人の権利をもっともよく保障するものとして理解されています。しかしそれはなお表面化するのをためらっている「地震」の地下運動 ”seismic” underground movements を排除はしません。すべての社会経済的団体の中で、村落または都市に住む貧しい人々は、なによりもまず生き残るために努力しています。多くの村民は都市部や工業地帯、あるいは建設工事熱で沸いている場所に移住します。そこで彼らは仕事が見つかる希望のあるところで機会を得ようと試みるのです。ある者は高い代償を払って、見事に成功しますが、古里に永久に戻るつもりはありません。他のある者は成功者と同じ心構えをもってしても、ほとんど経済的に成功できず、中流階級の底辺に加わります。一生懸命働けば、成功するだろうということは大いに賞揚され、信じられています。それは個人の体力、健康、人脈といったような他の媒介変数を忘れている、かなり単純化しすぎた言いようではないでしょうか。現実にはかなりの数の中国人が、個人主義と他者への気遣いとの間での、よりよい均衡を保つという願望を、よりはっきりと表現するようになっています。そこで理解され奨励されてきた個人主義とは、相互利益のためのネットワーク間で抜け目なく人生を操縦して、究極的には自分自身を信頼すべきだ、というものです。
[5] 社会の規範を求めて、中国社会を作り直すことは、なおまだその途中にあります。ある人々は大変裕福になっています。そうかといって必ずしも彼らが、倫理的に低水準であるということではありません。多くのホワイトカラーの人たちは、政治的野望や関心を大してもたずに、流動化する社会の方向に沿うように必死でがんばっています。今や中国の人口の大部分が住んでいる都市の労働者たちについて言えば、わたしたちは彼らの第二世代が大人になり、現在属している都市社会の成熟した参加者になることを待たなければなりません。しかし彼らの間には、これ以上なにも引き受けるつもりがないという新しい傾向がすでに現れてきています。地方の農民たちの中ですら、都市の近くに住んでいる人ならば、野菜を育て、または農業ビジネスを発展させることによって、比較的快適な社会経済状態を楽しめるかもしれません。しかしその子どもたちは、どこまで彼らの後継者になりたいでしょうか?低い水準の学校と数少ない医療施設の中で、主要作物を頼りにして、遠方の村に住むことを余儀なくされている人びと(比例して数は少ない)は、この国を振り回しているすべての変化に対抗するのが困難でしょう。
[6] 個人個人の考え方は、これらの変化の多くを特徴づけています。しかし倫理意識が中国の若者の間で衰えていると言い切るのは不当でしょう。第一に、これらの若者たちは多くの欠乏に苦しみ、次の世代に間違った仕方で投資をした人々に教育を受けました。第二に、若者の間での利他的な態度はもっとよい特別な立場にたどり着くための打算でしかない、というのは事実ではありません。今日しばしば見られる一風変わった「愛国心」が、刷新された倫理的・社会的規範を発明することにうまく拍車をかけてくれるかもしれません。よくなった経済的状況、中国の主要な世界の出来事での勝利、そしてその他の技術もしくは学問における業績は、たとえ野心的であろうとも健全な自負心を励ましていることでしょう。間違いなくそのような感覚は多くの人々を生活のすべての次元においてよりよい理解へと導いています。中国の人々が将来を編むことに手間取ることは驚くべきことではありません。それよりも本当にたくさんのことが、すごい速さで変化していることは驚くばかりです。人並みにしかし彼ら自身の信仰のゆえに、いまはまだ相対的に数が少ない中国のカトリック信者たちは、現在の中国社会の現実を熟考することを望んでいます、そして彼らはその現実からの挑戦に、教会がもっとよく応えることができることを期待しているのです。