イエズス会東ティモール地区の新しい教育使徒職

-聖イグナチオ中学高等学校と聖ジョアン・デ・ブリトー教育大学

浦 善孝 SJ

私は2012年5月からイエズス会日本管区より、イエズス会東ティモール独立地区(Independent Jesuit Region of Timor-Leste)が設立運営する聖イグナチオ・デ・ロヨラ中学高等学校(Colégio Santo Inácio de Loiola/以下「聖イグナチオ学院」)と聖ジョアン・デ・ブリトー教育大学(Colégio São João de Brito/以下「聖ジョアン・デ・ブリトー学院」)で働くために派遣され、当地に赴任しました。聖イグナチオ学院はすでに2013年1月15日に開校し、一期生男女83名の中学一年生が在学しています。2014年8月31日には、ニ期生の入学試験も実施されました。教育大学は、政府に設立申請中で2015年開校を目指しています。これら二つの新しい学校は、首都ディリから西へ20Km離れた農漁村地帯のリキサ県カサイ村に位置します。私は現在、中学一年の「宗教科」の授業を担当しながら、中学高等学校と教育大学のために二つの図書館を開館する準備や奨学金業務に携わっています。日曜日ごとに、山間部や海辺のチャペルへミサにも出かけています。

東ティモールは日本のほぼ真南に位置し、羽田から深夜便で出発するとインドネシアのバリ島デンバサールで航空便を乗り継ぎ、翌日昼過ぎにはディリに着きます。面積は岩手県とほぼ同じくらい、人口は約110万人です。東ティモールは16世紀半ばからポルトガルの植民地支配が続き、1975年11月28日にフレテリン党が独立宣言をしましたが、同年12月インドネシア軍の侵攻を受け、1976年には27番目の州としてインドネシアに併合されます。ポルトガル政庁は、1975年に事実上東ティモールを放棄しました。

インドネシアによる行政がはじまると州知事が任命され、ディリはインドネシアの地方の一つの町、軍の駐屯地となります。健康保健、農業、公共事業、教育、報道などは、インドネシアの政策それ自体と一体化していきます。選挙もインドネシア国家として、また一地方行政地域のものとして行われました。1991年には、11,036人のインドネシアの公務員が働いていましたが、要職はインドネシア人が占めていました。また学校教育でもインドネシア本国と同じ教育がインドネシア語で同じ教科書を使って行われました。これらのことは、国家のアイデンティティがインドネシアのものに移行していくことを意味しました。とりわけ高校の教員のほとんどはインドネシア人が占めており、東ティモール独立決定と同時にインドネシア人教員が一斉に引き上げたこともあり、東ティモールの教育制度は一旦崩壊してしまいました。東ティモールは早急に教員を補う必要に迫られ、現在でも教員の7割は適切な養成を受けていないといわれています。

1991年11月12日、インドネシア軍によるサンタ・クルス墓地の虐殺事件が発生し、外国人ジャーナリストがインドネシア軍の行動を海外に伝えました。また1996年、独立運動の指導者であるディリのカトリック教会のベロ大司教とラモス・ホルタ(後の大統領)がノーベル平和賞を受賞しました。これらを機にEUや米国で、インドネシアによる東ティモール侵攻と人権侵害がより大きく問題視されるようになります。国家間の利害関係に絡む政治的黙認と、イギリス製やアメリカ製の兵器が侵攻に使われている事実も問題になりました。1998年、インドネシアもアジア金融危機に見舞われスハルト大統領は辞任しましたが、後任のハビビ大統領が東ティモール問題に対する国連の関与を認め、1999年5月9日ニューヨークで関係国会議が開かれ、1999年8月30日の「独立か」、「インドネシアの自治領として留まるか」を問う住民の直接投票実施に至りました。投票率は98.6%、独立支持が78.5%でした。しかしながら、直後にインドネシア軍と統合支持派東ティモール人民兵が虐殺破壊活動を行ったために国連安保理決定に基づく多国籍軍派遣を受け、1999年からは国連による「東ティモール暫定行政(UNTAET)」が始まり、ついに2002年5月20日に国家独立復興の日を迎えました。しかし、1975年から2002年までの間に、多くの難民と、約20万人に及ぶ死者・行方不明者が出たといわれています。2012年5月20日、東ティモールは独立再興10周年を祝いましたが、再独立後も2006年には内乱が起り多くの国内難民が生まれ、08年には当時のラモス・ホルタ大統領狙撃事件が起き不安定な政治状況が続きました。併記すべきことは、東ティモールは1942年から3年近くに及ぶ、日本占領時代も経験しており、従軍慰安婦のことなど現在でも解決へ向けて取り組まなければならない課題を残しています。占領や併合による戦乱は徴用や耕作地放棄をもたらし、食糧不足を起因し、いかに人びとの心身をも憔悴させてきたか気づく必要があります。戦火から逃げて難民となったり強制移住させられた人びとは、耕作地や伝統的な家族集落システムの相互扶助システムから切り離されてしまいます。今でも人びとの貧しい状況は続いており、経済・社会活動は虚弱なままです。ただし、1999年以降日本政府は東ティモールへの多額の援助を行い、人びとから評価を得ていることも事実です。

国家再興10周年を迎えた2012年12月、国連が同国の活動を終了しました。私がこちらに赴任した時、まだ多くの「UN」と描かれた車がいたるところを走っていました。政府機関にも国連職員が駐在していました。空港のイミグレーション、税関にも。関税制度を作っているという人にも出会いました。行政、司法、律法、そのすべての制度を当時人口百万人に満たなかった国がゼロから作り上げていくことになります。教育制度や警察制度もそうです。2002年に再独立を果たしましたが、国家として安定しはじめたのはここ数年です。2012年7月の国民議会選挙には諸外国の選挙監視団が選挙の様子を見守りました。選挙結果を巡り小さな事件も発生し数人が死亡しました。不満を持つある政党支持者が隊列を組みシュプレヒコールをあげながら走り去るところに、私は居合わせました。

独立前から独立直後の揺籃期、3名の日本人イエズス会員が東ティモールで活躍しました。林尚志神父(下関労働教育センター所長)は、インドネシア統治時代から何度も当地に赴き、人びととの連帯を表明してきました。堀江哲郎神父(在、ブラジル)は7年間にわたり滞在し、特に大神学校で教鞭をとり、神学生たちの霊的指導者として働きました。そして山田経三神父(元上智大学教授)は、独立を問う直接投票直後に住民の大虐殺があったインドネシア国境に接した南部の町スアイで人びとと共に住み彼らのために働かれました。今でもこちらの人びとや聖職者たちから、3人のことを親しみと感謝を込めて尋ねられます。人びとは、3人のイエズス会員が東ティモールの独立のために共に歩んだことを今でも覚えています。当時に較べると、人びとの生活ぶりはリラックスしてきましたし、生活は前向きです。それぞれの家族は、犠牲者を悲しみながらも新しく生活を立て直す明るさを持っています。街角もアジア諸国にある特有の活気を帯びてきました。国連撤退は東ティモールの経済にマイナスの影響を与えると思われていましたが、見る限り部分的なものにとどまっているようです。政府が積極的に公共投資を行い道路や側溝、電気供給などのインフラ整備を進めているところです。南部のティモール海には石油天然ガス資源がありますが、かつてインドネシア政府がオーストラリアと結んだ資源開発に関わる協定があり、オーストラリアとの間で懸案事項になっています。それでも税収やロイヤリティー収入があり、政府は「石油基金」を設立し国家予算に活用しています。

人びとと連帯し共に働くということには変わりありませんが、私は3名のイエズス会員の時とは異なる情勢の当地に赴き、教育活動に携わっています。そこで、学校現場から見えてくる東ティモールの現状の一部をお伝えしたいと思います。中学一年生の「宗教科」の授業を担当しているので、ノートや試験を通して生徒の国語(national language)である「テトゥン語」を読みます。また、私自身も語学テキストを使いながらテトゥン語を学んでいます。テトゥン語がポルトガル語と並んで公用語となりましたが、テトゥン語が正式な形で公用語とされたのは、東ティモール再独立後のことです。インドネシア統治時代はインドネシア語の使用が強制されていました。それ以前は、テトゥン語が優勢でしたが、各地域で独自の言語が用いられていました。唯一、カトリック教会はテトゥン語を典礼用語としてインドネシア統治時代でも用いていました(それ以前は教会もポルトガル語を使っていました)。現在は学校で、「テトゥン語科」と「宗教科」のみ授業でテトゥン語を使用することを政府は認めています。他の教科は教科書と試験を含めてポルトガル語使用が定められています。しかしながら、独立後も混乱が続いた同国では、テトゥン語の標準表記は定められているものの、中学校の「テトゥン語科」の教科書は未だなく、読書のための小説も皆無に近いのが実情です。私が使っている「テトゥン語テキスト」は、語学学校を併設する大学が発行したものですが、政府の標準表記法とは異なるスペリングで単語が綴られています。新聞も各紙単語の綴りが異なります。教会の典礼書は、版が異なれば綴りもまた異なっています。それ以上に、現在の教員の年齢層にある人びとはインドネシア語のみで教育を受けてきました。大人たちの中には「インドネシア語ではその名前を知っているけれど」「インドネシア語ではその言い回しを言えるけれども」、テトゥン語ではわからないと言う人びとがいます。したがって生徒に「正しいスペリング」で試験に回答するように厳格に求めることはできません。これに公用語の「ポルトガル語」事情が加わってくると、さらに複雑になります。たびたび報道されますが、教員はポルトガル語ができないのです。また中学高等学校への進学率が低い中、ポルトガル語リテラシーが社会経済階層を決定する一つの要因になる可能性も危惧されます。

東ティモールの学校への派遣を私は、「人間としての互いの存在と尊厳を大切にする」ヒューマンなグローバリゼーションを広めるよう働くためだと解しています。具体的には、学校で勉学し共に過ごすことを通して、一人ひとりが自分の尊厳や自尊心、人間性を高め、他者を認め、結果的には苦難の歴史を経験した東ティモールによりよい社会を築くための貢献ができる生徒を育てることです。私たちは同じ視点から日本国内の現実にも目を向ける必要があります。同時にグローバル経済の主導的立場にある日本の人びとは、「世界と正しい関係を築くこと」「分断された世界に和解をもたらすこと」「真の人間らしさの回復のために働くこと」(イエズス会35総会第3教令)のヒューマンなグローバリゼーションを推進する豊かさも持っていると思います。


新しい学校についてはホームページをご覧ください。<東ティモール 聖イグナチオ学院>で検索できます。

東ティモール

JRS(イエズス会難民サービス)からJSS(イエズス会社会サービス)へ

ソウルで行われた開発担当者会議での分かち合いで、ジョージ・セラノ神父は、参加してきた支援機関の会合で何が起こったのかを私たちに話しました。その会合の参加者は、現在とりかかっているプロジェクトの計画を詳しく説明するように求められました。何人かが今後5年間の計画を話し、他の人は以後3年間などの計画を話しました。ジョージ神父の順番が回ってきた時、彼は「私の計画は、出来るだけ早く姿を消すことです!」と述べただけでした。

みんなはとても驚きましたが、ジョージが意味するところを理解しました。ジョージ神父はその時、私たちのどんな仕事への関わりも、しばらく経ってから、もはや自分たちが必要とされなくなる、という風にならなければならないと語られました。私たちが手掛けている共同体を独立独歩でやっていけるようにするのが、私たちの特別の職務なのです。

JRSは、東ティモールにおいては、上のような段階にきており、ここでの任務を果たしたと感じました。JRSは1998年から東ティモール国内の避難民に付き添ってきました。現段階において私たちは、インドネシア管区のドイツ人イエズス会士であるカール・アルべルヒト神父に敬意を払っています。彼は1999年にディリにて殺害されるまで、東ティモールのJRS責任者でした。

2002年に東ティモールが独立を果たしたことに伴って、国内の避難民と共に働き続ける必要性、そして保護を求めて避難していた他の国から戻ってきた人々のためにそこにいる必要性がありました。
JRSは東ティモールでのミッションをやり遂げたと感じられました。そしてここでの活動を終了させ、他の国々の難民の状況に集中する必要がありました。しかしマーク・レーパー神父は、東ティモールの多くの共同体がJRSからJSS(イエズス会社会サービス)への移行を必要としていると感じました。JRSの数人のスタッフはJSSで活動を続けることを頼まれました。2013年7月1日現在、JSSは、6月30日に一日早く終了したJRSに、取って換わりました。

現在のJSSチームは、JRS東ティモールの責任者だったイシドロ氏によって成り立っています。彼はJSSの責任者(パートタイム)として続けていきます。彼を支えているのが、(a)ヘラ地区とカメア地区でフルタイムで働いている神学生のジュジットとジョーズ・ソアレスさん (b)ウルメラ地区で働いている神学生のアルビノ、ローレンス・ギリオッティ、そして修道士のノエル・オリバーです。女性職員のジャコバさんはパートタイムで経理部門を助けてくれています。

その間に、私たちは幾つかの共同体に出会ってきました。人々が両手を広げて、私たちを待ってくれている、というわけではないです。それどころか、彼らは、出たり入ったりするNGOたちを経験してきたのです!私たちは、共同体の人たちに私たちを信頼してもらうよう期待できるのは、ウルメラ地区の私たちの学校や、ヘラ地区で計画中のイエズス会養成機関を通して、私たちがただ継続的にそこに居続けることだけだ、ということを理解しました。

ゼカ神父と一緒におこなった会合の間に、私たちは、JRSからJSSの移行を、彼に知らせました。私たちは、マリアナ教区のカリタス、そして彼と緊密に協力して働いていきたいと、彼を説得しました。私たちの仕事の焦点は当面、JRSが関わっていたヘラとカメア、そしてCSIL(聖イグナチオ・デ・ロヨラ学院)とCSJB(聖ジョアン・デ・ブリトー学院)があるウルメラ周辺の共同体の内にあります。

ゼカ神父は、私たちが人々の生活の改善のために働こうとしているのを大変喜んでくれました。そして彼は、共同体の最も緊急の必要は水であると強調しました。彼はまた、私たちに、小教区の守護者は、イエズス会士聖ジョアン・デ・ブリトーであることを思い出させてくれました。上にある写真は、リキシャ県の教会の中で聖ジョアン・デ・ブリトーの像を前にして撮影されたものでした。
ハリ・ダラーとアカヌヌの共同体を含む、ここでの共同体との会合において、私たちは全ての共同体の主要問題が「水」であることを理解しました。共同体がどうしたいのかを知るための過程は始まっています。JSSはそこに居るつもりです。
私たちは、出向いたことのある共同体のほとんどで、二つのもっとも重要な必要性があることを理解しました。それは、特に乾燥期における水の入手であり、収入を作るため活動です。
この書簡では、私は、イエズス会社会サービスを皆さんに紹介したかったのです。ぜひ私たちのために祈ってください。私たちはすべきことがたくさんあることに気づいていますし、強さと、受けることができるその他の支援を必要とするでしょう。私たちは適当な時期に人々の幾つかの独創的発想を報告できると確信しています。

モントセラトはその扉を開く

カサイ村と、イエズス会教育施設の近くにある丘の上に、伝統的な様式で、12の家屋と一つの会議場が、視聴覚センター(Centro Producao Audiovisual)によって、建造されています。これは東ティモールにおけるイエズス会の重要なコミュニケーションプロジェクトです。現在、「モントセラト(Montserrat)」と名付けられ、トレーニングセンターとして使用される予定のこの総合ビルは、2014年半ばに開校を予定している教員養成大学の、付属施設となる予定です。数ある用途の中で、男子学生を宿泊させることも計画しています。しばらくは素晴らしい敷地を安定化させるために、広範囲にわたる環境的な土地造成が必要とされます。

神学生のアルビノとプリニオ神父は一歩先に行っていました。シロアリによって受けた被害のため、私たちはまだこの伝統的な家屋の修繕をしていく過程にありますが、彼らは、若者のために「リーダーシップ構築プログラム」を、それらの家屋を利用してやりたいというカノッシアンのシスターたちの要望に応じて、提供することを決めました。2人の教員と2人のシスターに付き添われた75人の女子と25人の男子が、6月8日土曜日の朝、モントセラトにやって来て、9日日曜日の夕方まで滞在しました。

彼らは宿泊する予定のこの伝統的な家屋まで、登らなければなりませんでした。丘の上に彼らが滞在している間に行われたプログラムは、ゲームやセミナーといった様々な活動で構成されていました。彼らはミサをもってプログラムを終えました。司祭はプリニオ神父でした。
若者たちは楽しんだように見えました。そして帰らなければならないことを残念に思っているように見えました。

私たちはもっと多くの若者やその他の人々を、モントセラトへ受け入れるのを楽しみに待っています。ケア・オーストラリア(Care Australia)や総理府までこの地を使いたいという希望を表明しています。私たちは、これらの伝統的な家屋をきちんと修繕しようと本気で考えています。また今回のように、参加者がディリからはるばる食物を運んでくる必要がないように、台所の修繕をする必要があるでしょう。先ほども述べたように、これらの家屋は、長年、シロアリに襲われていました。

私たちは、これらの家屋がもう一度、使用されるのにふさわしくなるよう提案しています。私たちはこれには資金が必要であることを理解しています。現時点において、この地域は、教員養成大学と同様に、学校プロジェクトをやり遂げる資金をさがしています。

これらは、一部は伝統的な家屋です。修繕の後に、私たちはそれらを、計画中の教員養成大学の男子学生寮として使うつもりです。この学校の女子学生寮は、学校の近くに建設する予定です。
皆さんにこのモントセラトの総合ビルの最新情報をお伝えすることは、重要なことです。過去数か月でたくさんのことが起こりました、そしてもっとたくさんのことが、仕上げるためには必要なのです。

視聴覚センターが学校で撮った動画をユーチューブで見ることができます

なぜ植林するのですか?

今日はアース・ディですね?
まさか。アース・ディは4月22日月曜日です。そして今日はすでに5月4日です。

しかし、聖イグナチオ・デ・ロヨラ学院の子どもたちにとって毎日は、アース・ディを彼らにとって意義あるものにする重要な特徴の一つ(自然保護)に、捧げられているように見えます。すなわち、彼らは学校の所有する土地に植林をし続けています。それを彼らは1月15日以来ずっとし続けているのです。
5月4日は、アース・ディを記念して、意義あるものにすることが決定されました。その日は土曜日でした。

毎週土曜日、隣の小学校の校長先生は、数人の職員とその学校の子どもたちと共に連れだって、週一度のミサに来ます。今日は、ミサの後、その小学校の校長先生と子どもたちは、そこで植林するために、学校の土地を準備しに行きました。私たちはまた、そのような出来事によって、その共同体と少しでも近づいていけるのをうれしく思います。神学生のイサイアスとルイは、すでに村の若者たちと一緒に働いています。近々にも、私たちは周りの共同体と共に、幾つかの共同体開発プログラムを始めるでしょう。そして適当な時期に、このことに関しては多くのことを報告するでしょう。

学生たちは、聖イグナチオ・デ・ロヨラ学院での「アース・ディ」について、大変興奮していて、すべての木が植林されるのを確実にするために、とても一生懸命働いていました。彼らは、今日植林していることが、学校に緑を提供するだけでなく、同様に将来の学校の競技場の周りに日陰をも提供することが、大変よくわかっています。学生たちはなんとかして、利用可能なようにすべての木を植えており、植林の努力にとても誇りを感じていました。私たちの学校の27人の男子と女子が、モントセラトの丘の上に植林する仕事を割り当てられました。彼らは暑い太陽をものともせず、先に述べた、現在一時的にイエズス会のレジデンスとなっている視聴覚センターの総合ビルに向かって歩いていきました。

植林活動の終わりには、彼らは疲れていますが、彼らの若くて熱心な顔には笑みが見られます。彼らは自然を守るために建設的なことをしてきたのでした。彼らは今、私たちの「母なる地球」を保護するため、何か特別なことを成し遂げたという、崇高な内的感覚を持っています。
神学生のルイは、この偉大なる朝の後編として学生たちに教えた、 ”Hadomi Ita Rai INAN”(母なる地球を愛するために)というタイトルの歌を作りました。たちまち学生たちは、惑星地球の世話をする必要性について理解しました。

この歌は、元気と興奮と、そして勢いをもって歌われました。

私たちの惑星は、私たちの家。
太陽系は、私たちの隣人。

もし私たちの惑星が滅んだら、私たちは彗星に逃れることなどできないだろう。

木のない惑星は、はげ頭のようだ。

さあ行こう!
私たちの土地の世話をしよう。
私たちの家の世話をしよう。

木々は私たちに日陰と新鮮な空気をくれる。
彼らは私たちに、果物やそのほかたくさんのものをくれる。

しかし、もし私たちが木々を燃やし、ごみをまき散らせば、私たちの惑星は本当に困ってしまうだろう。

私たちの惑星を愛せよ!
私たちの母なる地球を愛せよ!
自然を愛せよ!

さあ行こう!植林をしよう!

ここ、聖イグナチオ・デ・ロヨラ学院にて、私たち全員からのご挨拶です。

私たちのお願い:以下のことを現実のものとするために、私たちがすべきことについて、どうぞ私たちにフィードバックをしてください。私たちはいかにして、より一層多くの貧しい人々がよい教育と将来への希望を得るのを、手伝うことができるのでしょうか。

ヘイトスピーチと和解の対話

村山 兵衛 SJ (神学生)

新大久保や鶴橋などで排外主義、レイシズムなどと呼ばれる「ヘイトスピーチ」(憎悪表現)を行うデモが今年も何度もあった。しかし、ニュースや国会で話題になり危機意識も高まる一方で、議論の焦点が不透明化し始めている。そもそも、ヘイトスピーチをめぐって何が見失われているのか。万人がもつ尊厳を守り、ゆるしと和解のために対話の可能性を信じることを、私たちは決して忘れてはならない。

人種や性別を理由に差別をかき立てる言動、ヘイトスピーチは、ドイツではナチスの反省から「民衆扇動罪」として処罰される。が、日本は個人に特定化しえぬ名誉棄損として処罰せず、法規制を行なっていない。現場に居合わせた人なら、数百人からなる小規模なこのデモ活動の恐ろしさがわかる。排外デモ集団の主張は、在日コリアンの特別永住資格や生活保護制度などに対する不満である。彼らは日本の占領同化政策で過酷な歴史を背負う在日コリアンの複雑な背景を「在日特権」と一括りにし、民主主義、表現の自由の名で差別的発言を堂々と行う。デモ集団の実態は、インターネット上の匿名活動で発奮した一部の「ネット右翼」といわれるが、在日コリアンに「帰れ」「どの朝鮮人も皆殺しに」と叫ぶのは、もはや嫌がらせを越えた迫害である。

問題は政治レベルでも膨張している。竹島や尖閣諸島の領土問題、従軍慰安婦をめぐる歴史認識は、国益や愛国心によって対立が助長される契機となっている。メディアはそれを掻き立てる。政治抗争や国の利害ばかりが問題とされ、人間どうしの真の平和や和解も、勝者の歴史から消された涙や叫びも顧みられない。つまり、危機意識は曇るが、危険は増大しているのであり、現状では日本政府は差別発言を結果的に容認してしまっているのである。さらには、人権尊重を教える教育現場と、社会的強者がものをいう商業社会とが、全く乖離する構造の中で、若者にも甚大な影響が及んでいる。

排外デモとともに、対抗デモも広がっている。差別行動には断固として「ノー」と言わなければならない。しかし、排外デモを主導する在特会の「殺せ」「出ていけ」などの罵声が拡声器で飛び交う一方で、差別反対を訴える善意の人々の中に、大声で「お前らこそ死ね」と叫ぶ一団も存在するという現実。差別的な嫌がらせに同じ嫌がらせをもって対抗していいはずはない。「仲良くしようぜ」という対抗デモのスローガンは、差別の犠牲者に共感・共苦してはじめて真実味を持ちうるのではないか。

現在、デモは小康状態の様相である。在特会、対抗派の双方で逮捕者が出て、政治家からも自粛や法規制の訴えが起こっているからだ。しかし、問題の根は法規制にあるのだろうか。あらゆる法規制、裁判制度は紛争解決のためのシステムとして考案され、歴史の知恵として適応・修正を重ねながら機能してきた。在特会の「法が禁じていない抗議をやって何が悪い」という主張には、根源的な価値基準が欠如している。

ヘイトスピーチ問題で見失われたものとは何なのか。傷つけられ涙する人間である。国家の威信や愛国心の陰に隠れてしまった人間の尊厳である。それは、誰もがただ人間というだけでともに生きる資格を持つと認め、全体主義、民族浄化を拒否し、対話による相互理解・和解の可能性を諦めない忍耐強さである。暴力的表現は、たとえ制裁活動に用いられても、この人間的尊厳を破壊する。だから私たちは、己の人間らしさと他者の尊厳を守るため、そして将来に人間の根源的価値を伝えるために、ヘイトスピーチに「ゆるしと和解」の手を差し出し続けなければならない。言論による人間性の剥奪は、自由でも表現でも民主主義でもない。根絶すべきなのは、憎しみである。

キリスト者はどう答えるのか。ゆるしと和解の使信は、カトリック教会から発信され続けており、紛争の絶えない地域で教会指導者たちが和解を求める祈りと活動を展開している。我が国のヘイトスピーチ問題についても、国外の教会から対話と祈りを求める声が届いている。教皇フランシスコは今年9月7日を「シリアと中東と全世界の平和のための断食と祈りの日」と定め、全教会とすべての善意の人々に参加を呼びかけた。これは、平和への道が神の裁きや聖戦ではないことを明らかにしている。神の呼びかけのしるしは、信じてそれに応答する人々に他ならない。争い絶えぬ社会で和解への対話を模索することこそ、憎しみを根絶し、人の尊厳を救う唯一の道ではないか。

書評:『赤ペンチェック自民党憲法改正草案』

伊藤真著 / 大月書店 / 2013年5月

山本啓輔(イエズス会社会司牧センター)

本書は、憲法の伝道師こと伊藤真氏が、自民党憲法改正草案を、現行憲法と比較吟味し、その妥当性を検証したものです。本書を読むことで「立憲主義」という考え方をよく理解することができます。その意味するところは、「個人の尊重」であって、国民一人ひとりの自由(人権)を守るために国は存在しており、国家権力の国民に対する人権保障の義務の規定として、憲法が要請されているということです。個人の尊重を国家の基本的価値とすることで、少数者や弱者への配慮を徹底させたその理念は、大変に優れたものであると私には思われました。現行の日本国憲法は、この立憲主義に基づいて作成されたもので、GHQによる押し付け憲法的なイメージがありますが、実際には、その作成には、普通選挙で選ばれた日本国民の代表が審議に参加し、原案に追加修正されてできたものなのです。

それに対し、自民党の憲法改正草案の底に見え隠れするのは、具体的な個人よりも人、人よりも家族、家族よりも国家、を尊重しようとする傾向です。つまり最終的に守られるべきは国であり、国民を、国のために義務を負うべきものにしようとしているように思われます。これは現行憲法の、国の役割は国民1人ひとりの自由を守ることにある、という立憲主義の原則とは根本的に相いれないものであり、自民党の憲法改正案は、憲法の改正ではなく、創設の目論見であり、国を中心においた、国のためなら戦争をもいとわない統治システムの再構築の企てなのだということが見えてきます。

本書を読み終えると、憲法改正問題とは、日本を、国民を主人公とする国にするのか、国を主人公とする国にするのかという、われわれ国民自身の身分のありかが争われるのっぴきならない問題なのだということに気付かされます。

カトリック 世界のニュース(173)

アルン デソーザ SJ(司祭)
村山 兵衛 SJ (神学生)

教皇フランシスコ、「回勅Pacem in Terrisはより良い平和な世界のための手引き」

バチカン、10月3日:(バチカンラジオ)カトリック大学および諸機関、国連、および他の国際機関からの専門家が、教皇庁正義と平和評議会の呼びかけでローマに集まった。今日さらなる平和な世界を推進するにあたって、福者ヨハネ二十三世教皇の冷戦時代の回勅「パーチェム・イン・テリス」(地上の平和)の妥当性を議論するためである。教皇フランシスコは、1963年に発表された同回勅の50周年を祝う参加者に、同回勅は「極めて現代的」で、今日の世界の平和構築への手引きの役を果たせる、と語った。

ラオスの一部地区でキリスト者追放の脅威

ラオス、9月26日:(Zenit.org)Fides News Agencyの報告によると、ラオスのある地区に住むキリスト者が、信仰放棄か追放という選択を迫られている。この措置は、複数の村で起こっているキリスト教改宗者の増加に伴ってAd-saphangthong地区の行政当局の懸念が深まる中で取り決められた。
キリスト者たちはこの決定を拒否し、信教の自由はラオスの憲法で保障されていると言っているが、行政当局は9月21日、Huay村の「すべての宗教の人々」が出席したという会議でこの措置を発表した。キリスト者たちは、自らの信仰を放棄するよりはむしろ追放を甘受する、という決意をも表明している。

内戦で移住を強いられたシリア人のニーズに答える機関の拡大

シリア、9月24日:(CNS)諸国の政府及び非政府機関は、内戦によるシリア人口ほぼ三分の一の避難移動で生じたニーズや緊張への対応に苦労している。様々なレベルで活動にかかわるカトリック系機関の代表者たちがCNSに語るところでは、彼らのプログラムは子どもたちが確実に学校に行き、心理的トラウマの治療を助けるだけでなく、食品、水、住宅、医薬品などの生存基盤を提供するものだという。シリア人口2200万人のほぼ三分の一は、内戦によって避難を強いられているとされる。その中には、一般に難民といわれる推定200万の国外退去者と、退去を余儀なくされたがシリア国内にとどまる約500万の「国内避難民」と一般に呼ばれる人々が含まれる。

米国の司教、フードスタンプの資金削減の動きに反対

ワシントンD.C.、9月12日:(Zenit.org)米司教団の「国内正義と人間発達委員会」の議長は米国下院に、以前フードスタンプ(困窮者のための食品割引切符)として知られていた「栄養補足支援プログラム」(SNAP)の、400億ドル削減案を受け入れないよう催促した。カリフォルニア州ストックトンのS・ブレーズ司教は、同プログラムを「国民の飢餓に対する最も効果的かつ重要な連邦政府プログラムの一つ」と呼んでいる。

バチカン、「戦争は常に人類にとって敗北」

バチカン、9月9日:(JRS News)何万人もの人々が9月7日に、教皇フランシスコが募ったシリアの平和を叫び求める呼びかけに応えた。世界中のキリスト教徒と非キリスト教徒が同様に徹夜でこだました呼びかけである。バチカンによると、10万人がサンピエトロ広場でのこの行事に参加し、一週間前に提案されていた軍事行動以来、シリアの平和のために西側で行われた最大規模の集会の一つとなった。

教皇フランシスコは5時間に渡った夜半の祈りの大半を沈黙のうちに過ごしたが、話すときには戦争の不毛さと危険性、人間の義務、及び諸国政府がシリア問題で交渉による非暴力的な解決策への道筋を計画する必要性を強調した。さらに教皇は、講話の中で平和への嘆願を表明し、「暴力、無関心、紛争への」扉を開いて「支配と権力の偶像に心を奪われている」者たちを非難した。

東ティモールへの支援 山の中の小さな図書館

中口 尚子(東ティモール図書館活動基金

昨年、東ティモールは主権回復10周年を祝ったが、私が現在続けている図書館活動支援は、今年の12月でちょうど10年となる。きっかけは10年前に新しい修道院開設のための荷物を運ぶコンテナに、聖書物語などの紙芝居や絵本を入れた箱を乗せてもらったことだった。

いつか、東ティモールで子どもたちのために小さな「子ども文庫」が開けたらいいな、と漠然と思っていた私が、夢を現実にしたような図書館を目の当たりにしたのは、フィリピンの山村を訪れた時の偶然の出来事、東ティモールの主権回復が決まったころのことだった。

東ティモールに運び込んだ紙芝居や絵本は当初、私自身が現地で使う予定だったが、これらの荷物が現地に届いたとき、私は事情があって日本にいた。ラウテン県ロスパロスの事務所に図書コーナーをもっている日本のNGOの代表者と会い、話すうちに、ロスパロスよりさらに山のほうに入ったイリオマールに図書館を開く計画を知り、半年間、現地で図書館開設を手伝うことになった。その年の10月に一度現地へ下見に行ったが、下見をするほどのものもないくらいの小さな町で、私(実際には私が手伝うNGO)が使える可能性がある家は1軒だけだったので、そこを借りることにした。この東ティモール滞在中に、絵本の送り先を探している人が日本にいるという情報を知人から聞き、帰国後その人と会い、すでにインドネシア語やポルトガル語に訳されていた絵本を送っていただいた。フィリピンで出会った図書館を支援しているNGOからも、図書館運営のノウハウを教えていただいた上に、たくさんの絵本を寄贈していただいた。それらの絵本を持って再度東ティモール・イリオマールに向かったのが2003年の12月のことである。借りた民家の表側の部屋を図書館とし、奥を居住空間として、イリオマールでの生活が始まった。学校に図書室があっても本がない、図書館というものを知らない人々の中で、子どものための小さな図書館が始まった。

東ティモールの国語であるテトゥン語の読本をつくっているNGOからの寄贈もあり、300冊のほどの絵本と紙芝居を、部屋にもともと置いてあった木製のベッドの上に並べてあるだけの図書館だったが、外国人が珍しくて、大人も子どもものぞきにやってきたが、声をかけると子どもたちは逃げてしまう。すぐ近くにある小学校の先生に話をして、学年ごとに子どもたちを連れてきてもらった後は、毎日学校の行きかえりに図書館を利用するたくさんの子どもたちで、すぐに私一人では対応できなくなってしまった。イリオマール郡にある一つの中学校と6つの小学校の先生に集まってもらい、交代で手伝ってもらうことになった。

その後、NGOの支援でイリオマール郡の土地にあったポルトガル植民地時代の古い建物が、改装されて図書館と地域言語研究の施設となり、先生たちの図書館ボランティアの中から二人の専従スタッフが選ばれ、イリオマール郡の図書館として今日に至っている。スタッフの交代もあり、東ティモール独特の言語の問題、運営についても様々な課題・問題を抱えているが、毎日たくさんの利用者を迎えている。

図書館活動基金としては、イリオマール図書館以外に西ティモールの中にある飛び地のオイクシにある孤児院や修道会等にも絵本をおくる支援をしている。イリオマール図書館には前出のNGOからの依頼で顧問として関わっているが、実際に現地で共に働けるのは、1年に2、3日だけなので、たくさんの問題・課題を前にしても私にできることは本当に限られている。地域の人々だけで運営する組織を海外から支援するには、限界を感じることも多い。しかし、幼児から中学生(中学校、高校に入るために多くの子どもたちはイリオマールから出ていく)、そして大人にとっても図書館は大切な存在となっている。東ティモールの真の自立・独立の歩みのためにも、現地の人たちの意思と努力で運営し続けてほしいと願っている。