日本の移民政策不在と難民支援
小山 英之 SJ
特定非営利活動法人なんみんフォーラム代表理事
上智大学神学部教授
2017年世界難民の日(6月20日)に、国連事務総長グテーレス氏は次のようなメッセージを送っている。「国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の最新データによると、少なくとも世界の全人口113人に1人にあたる6,500万人が国内で、または国境を越えて避難を強いられています。シリアは引き続き、世界最大の難民流出国ですが、新たに避難民の数が最も急速に増えているのは南スーダンであり、難民140万人と国内避難民190万人が生じるという緊急事態に発展しています。……こうした膨大な数の裏には、一人ひとりの避難民が抱える苦難、別離、喪失、命を危険にさらしながら安全を求める旅、そして困難な状況の中での生活再建というとてつもない苦闘のストーリーが隠されています。……現在、全世界の難民の84%は、低・中所得国が受け入れています。世界の最貧国を多く含む少数の国々に、その責任を押しつけ続けることはできません」(「世界難民の日(6月20日)事務総長メッセージ」国連広報センター)。
今年は宗教改革500年の年にあたり、カトリック教会とキリスト教の諸教派がともに世界難民の日に共同声明を発表した。「豊かな国々は私たちの惑星に負わせている傷――環境災害、武器輸出、開発の不平等が強制された移住と人身売買をもたらしています――の責任から逃れることはできません。より開発の進んだ国々に移民が到着することは、真の重要な挑戦を提示することは真実ですが、それは開放と変化の機会ともなりえます。教皇フランシスコが次の問いを私たちに投げかけています。『私たちは、こうした変化を真の発展のための障害としてではなく、真の人間的、社会的、霊的な成長の機会として経験することはできないでしょうか』。外国人と移民に対する恐れを超える勇気とヴィジョンを見出す社会は、移民たちがもたらす豊かさを間もなく発見し、常にその豊かさを所有することになります。もし私たちが、人類家族として難民を重荷としてだけみると主張するならば、互いに学び合い、豊かにし合い、互いに成長し合う機会でもある連帯の機会を奪ってしまうでしょう。……持っているものを他者と分かち合う時、すべては神から自由に与えられていることを発見します。同時に、私たちが出会う人々を歓迎する時、周縁の脆弱な人々とすでにいつも共におられる神と出会うのです」(Jesuit Refugee Service Joint ecumenical statement for World Refugee Day 2017)。
こうした情勢に対応して、日本政府は2017年からの5年間で最大150人のシリア人留学生受け入れを決め、市民社会の試みとして難民支援協会が日本語学校と協力してシリア人留学生に合法的入国の機会を与えた。資金協力の面では日本は積極的で、毎年200億円から300億円をUNHCRに拠出し、多くの命を救っている。
日本での難民認定申請者数は2010年の1,202人から2016年の10,901人に急増しているが、日本での難民認定申請者の急増と、ヨーロッパなどでシリアなどからの紛争難民が急増していることとは関係ない。日本の移民政策の不在が原因と言うべきである。
難民認定申請者が急増している理由として、第1に、いわゆる「濫用的申請者」の急増がある。そのきっかけは2010年3月の「合法的滞在者が難民申請をした場合には、6カ月経過後に一律で就労を認める」とした法務省の取り扱いである。その後、特にインドネシア1,829人、ネパール1,451人、フィリピン1,412人、トルコ1,143人、ベトナム1,072人と急増している(法務省:平成28年における難民認定者数等について)。これらの国では紛争や迫害が強まった形跡はなく、「濫用的申請者」が急増したとみるのが自然である。
急増の背景の第2は、難民認定申請は必ず受理され、いったん受理されたならば出身国への強制送還はされない(ノン・ルフールマンの原則)。しかも働くことを目的とした外国人の入国を厳しく制限する日本では、難民認定申請者への就労許可が刺激となって、難民とは言い難い大勢の人々が難民申請をした。加えて申請は何度でも繰り返すことができ、その間は働けるので、「濫用的」申請がさらに増えている。
第3には、日本の外国人労働者市場の問題がある。日本政府は「外国人単純労働者」は受け入れないという政策をとっているが、人手不足が深刻化する中で、日本人が働きたがらない農業や中小企業の労働需要は大きく、難民認定申請者が単純労働者として働いている。難民認定制度が結果的には単純労働者受け入れルートの役割を果たしているのである。曖昧な移民受け入れ政策(建て前では受け入れないが、本音では受け入れたい)は難民制度を歪め、難民認定制度を機能不全に陥らせている(瀧澤三郎/山田満編著『難民を知るための基礎知識』明石書店、2017年)。
こうした日本の移民受け入れ政策不在の中で、難民支援を考えなくてはならない。そして社会の外国人受け入れに対する否定的な意識も関係があると言えるだろう。
2016年に難民認定を受けた人は28名で、主な国籍は、アフガニスタン7人、エチオピア4人、エリトリア3人、バングラデシュ2人となっており、人道上の理由で在留を認めた者は97人であり、その主な国籍は、ウクライナ15人、イラク、トルコ各10人、パキスタン9人、スリランカ8人となっている。これらを合わせて難民認定申請の結果、125人の在留が認められたことになる。2015年には3人のシリア人が難民認定され、6人に在留許可が与えられたが、2016年にはシリア人は入っていない。
日本の難民政策を改善する方法はいくつかある。第1は、人道上の理由で在留許可を与えるだけでは日本語教育に参加する機会が与えられず、さまざまな不利を被っている。難民認定における基準を緩和して明確にし、「紛争難民」など現代の難民を受け入れることができるようにすれば、難民認定者の増加は可能であろう。実際、司法判断で、難民認定不認定の行政処分が取り消された事例がある。
第2は第三国定住制度をもっと積極的に活用すること。2010年度からタイの難民キャンプで生活するミャンマー難民を年間30人を上限に受け入れを開始し、2015年までに18家族86名が来日した。2015年から受け入れ対象をマレーシアの都市部に住むミャンマー難民とし、7家族18名が来日した。上限30人には12人加える余裕があるし、上限を50名に増やして、報道されていないのであまり知られていないが、日本までの渡航費の工面がつかない政府軍と対立するミャンマーの少数民族カチン難民や、ロヒンギャ難民、シリア難民なども受け入れれば、日本の第三国定住制度は新たな展開を生むはずである。
こうした状況を改善しつつできることを探して行動に移してゆくべきであるが、市民社会の難民支援の取り組みとして「特定非営利活動法人 なんみんフォーラム(Forum for Refugees Japan: FRJ)」があり、『難民問題と人権理念の危機』(人見泰弘編著、明石書店、2017年)の中で石川美絵子氏が「なんみんフォーラム 市民レベルの難民支援活動」として概略を述べている。FRJはUNHCRと協力しながら日本に逃れた難民の支援を行う18団体から成るネットワーク組織である。主な活動内容として、1.政策協議・提言、2.シェルター運営・収容代替措置の取り組み、3.ネットワーク会議(国内・国外)の開催がある。
FRJは2012年に法務省入国管理局および日本弁護士連合会と覚書を締結し、三者協議を通じて具体的に改善可能な事項の協議を進めることが合意された。これに基づき、在留資格をもたない移民(難民認定申請者を含む)が入国管理上の手続きを行う間、収容ではなく地域で暮らすことで健康と福祉を維持しつつ法令に従うこととする収容代替措置(Alternative to Detention: ATD)プロジェクトを開始した。空港において難民としての庇護を求めた者(2011年からのパイロット期間に12名、2014年から現在までのパイロットプロジェクト以降14名)に住居を提供した。
生活保障の問題については、2009年から外務省との困窮状況や支援現場の状況についての意見交換会がある。健康保険に入っていない難民認定申請者のために2013年11月に創設したマリア・メディカルサポート基金もこれまで818件の申請があり、全送金額は10,990,590円となっている。
これからもなんみんフォーラムとして何が出来るのか、より良いあり方を常に模索し続けながら、日本に暮らす難民及び難民認定申請者の支援に取り組んでゆく。
人と人との間に生まれた溝
~日韓イエズス会社会使徒職会議を終えて~
森 晃太郎 SJ (神学生)
この世界はいつの時代も争いや分裂、対立が絶えない。1人ひとり人間が違う限り、その違いが自身の中で無意識の内に他者との間に線を引く。国籍や性別、身分、言語など、様々な要素によって引かれたこの線は、時に痛みや苦しみ、憎しみ、恨みによって傷を生み、互いの間で自力では修復不可能な溝となる。その最も大きな規模とも言える溝は戦争によってもたらされ、今もその溝は埋められず、傷も癒えていない。
2017年の夏、「北朝鮮ミサイル発射」というニュースがメディアの間で飛び交う中、9月4日から6日にかけて韓国ソウルのイエズス会センターで行われた日韓イエズス会社会使徒職会議に参加した。1日目は3人の講師を迎え、それぞれ「北東アジアの平和とMDとTHAAD(サード)」「平和と人権」「基地村の女性たちの生活と国の責任」と題して話を伺った。
「北東アジアの平和とMDとTHAAD」では、韓国を守るためにTHAAD(中距離ミサイル)は必要であるかという問いかけを軸に、MD(ミサイル・ディフェンス)とTHAADについての基礎知識を学び、MDがあっても実際に守れる保障がないことやTHAADの裏にあるアメリカの意図、中国との関係悪化への懸念など、THAADと我々が共存できないことを学んだ。そして、THAADがもたらす武力による平和は、さらに各国の間の溝を広げる原因となることを感じた。
この話の中で、北朝鮮との関係において武力ではなく知恵を持って共存することで新たな可能性を見出そうとする側面と、北朝鮮ミサイル発射とメディアの過剰な反応による人々の恐怖をあおっている側面、さらには我々が感じる恐怖と同様、北朝鮮もアメリカから70年余りもその恐怖を受けてきており、北朝鮮だけが悪者扱いになっているような側面を考察した。そしてこれらの側面の背景に、我々に隠されているところで働きかける支配的動きと、それに対して見て見ぬふりをしている自分たちのあり方にこそ、良心の呵責として恐れを感じることが大事であることを思い巡らした。
「平和と人権」では、慰安婦問題解決のために活動を続ける人々の話を伺った。戦後50年、消し去られ埋没されていた問題。被害にあった人々にとっては恥ずかしく、苦しい歴史。誰にも話せず彼女たちが背負い続け、押し込めていた重み。その癒えぬ傷を抱える人々と傷つけたことを認めない人々とのあり方が今も溝を生んでいる。1991年8月14日、1人の被害者女性が公開記者会見を行ったことで、慰安婦問題の実態が明らかとなった。そしてその打ち明けていくことで解放されていく姿に、他の人々も立ち上がり、いつしか女性たちは被害者から活動家へと新たな道を歩み始めた。
慰安婦問題の根本には、「騙された」という人間同士の関わりにおける傷を作る原因が潜んでいる。その当時、日本政府からの仕事の誘いによって、家族のために他国へ行くと意志表示した女性たち。しかし待ち受けていたのは性の道具として利用されたことであった。そして日本のお詫びが何に対するものであるのかが見えてこないその不透明さ、曖昧さに彼女たちはデモなどの活動を通して訴え続けている。さらには、2015年12月28日、日韓外相会談において少女像(従軍慰安婦女性を模した像)撤去の出来事によって互いの関係にますます溝を作ってしまった。
「基地村の女性たちの生活と国の責任」では、韓国政府が運営していたアメリカ軍基地に隣接してあった慰安所で管理されていた女性たちの問題について話を伺った。彼女たちが性暴力による被害を受け、強制的に薬物を投与されていたこと。政府が関わっていたことによる暗黙の了解と、警察も関係し女性たちが逃げられないような仕組みができあがっていたこと。周囲の人々は悪いと思っていながらも目をつぶっていたことなど、1つ目と2つ目の話がまるで繰り返されているかのように、人間の持つどうしようもなさとそれによって傷つけられた人々の姿が何度も私の心をよぎった。
2日目は、1日利用してDMZ(非武装地帯)ツアーに参加した。人生で初めて韓国と北朝鮮の境界に立ち、これまでニュースでしか見ない遠い国の話のような感覚にあった北朝鮮に対し、望遠鏡越しではあるが見ることができたのはとても重要なことであったように思う。望遠鏡を覗き込みながら、いったい人々はどんな暮らしをしているのだろうか、人々は自分たちの国に対し、他国に対しどんなことを心に抱いているのだろうかと思い巡らしていた。そして、目の前に青々と広がる草木を見ると、人間の建てた柵がとても空しく見え、自然界にとって境界線はないのだなと感じた。
しかし一方で1日目の話を聞いていたこともあり、この柵をきっかけに韓国と北朝鮮が和解するという可能性もあることから、自分たち次第でこの境界線は平和と破壊両方へとつながる可能性を秘めていると感じた。また、ツアーの中で北朝鮮が韓国に侵入するために掘ったとされる長さ1635m、高さ1.65m、幅2.1m、地表面から73mの第3トンネルを見学した。ここでも、相手にバレないように穴を掘り侵略を試みるという行為に、人間が生み出している溝を感じた。
夕方には戦争と女性の人権博物館を見学し、1日目に学んだ慰安婦問題について実際に残っている資料や証言、被害にあった人々の姿を通して、よりこの問題の理解を深め考えることができた。
3日目は「韓国日本ネットワーク実践方案」と題して、国際連帯について話を伺った。話の中で韓国における国際連帯の歴史の流れを学び、連帯とは何であるか、活動の目指している目標、行動する具体的な形はどのようなものであるかという問いかけを軸に、その問いかけを「連帯」というキーワードで考察した。そして、国を超えた平和と和解のために何ができるかを共に考えた。
午後からは日韓それぞれが国ごとに分かれこの3日間を振り返り、感想やこれから日本と韓国が具体的にどのように関わりを続けていけばいいのか話し合った。そして最後に互いの国で話し合ったことを発表し、会議は終了した。
冒頭でも少し触れたが、この3日間、私の心にはずっと「境界線」という言葉が浮かんでは消えていた。人と人との間に引かれた線によって溝を作るのは人間自身であり、その境界線を、平和を生むチャンスにするか分裂の材料や理由にするかは紙一重である。韓国と日本、北朝鮮と韓国、女性と男性、被害者と加害者、この関係性の内に互いを見ていたら、韓国の人、慰安婦の問題に関わる人から見れば、いつまでたっても私は日本人であり、男性であり、加害者の立場になってしまう。だからと言って、戦争によって生まれた溝を見て見ぬふり、なかったことにする、忘れるということはあまりにも無責任である。
ではいったい我々には何ができるのだろうか。できてしまった溝をどうすれば埋めることができるのだろうか。私は思う。溝は自力で埋められるものではないと。もちろん、埋めるための努力は必要だが、人間が互いの違いに対し否定し溝を作るのではなく、それを肯定していくところに人と人との本来のあり方があるとするならば、できてしまった溝はその本来の人間同士のあり方が崩れてしまっている以上、自力で埋めれば、それはなかったことにする、隠す、忘れ去るものでしかないように思う。
そうではなく、辛く苦しいことではあるが、自分のどうしようもなさを素直に認め、赦しを願うことと、受けた傷を抱えながらもそれでも赦すことによる互いの関係が必要である。それによって同じ位置に立って対話ができ、赦しと癒しによる平和が実現するのではないだろうか。そしてこの逃げたくなるような、目をそらしたくなるようなプロセスに手を差し伸べてくれたのが神様なのかもしれない。このアクションを先に起こすところに、平和への第一歩があるように思う。
現代世界におけるイエズス会のダイナミックな霊性
安藤 勇 SJ
イエズス会社会司牧センタースタッフ
教皇フランシスコの考えによれば、使徒的勧告『福音の喜び』は、今日の教会の使徒的枠組みです。また、環境問題に関する回勅『ラウダート・シ』は、単なる「緑の回勅」ではなく、社会回勅を意図しています。『ラウダート・シ』は、現代の環境の現実の記述から始まりますが、より重大な影響を被る人々、つまり最も貧しい人々、見捨てられた人々のことを扱います。
2016年10月に始まったイエズス会の第36総会には、ニコラス神父の後継者となる新しい総長を選出するという重要な役割がありました。新総長に選ばれたのは、アルトゥーロ・ソーサ神父でした。今年の8月、ソーサ神父は全イエズス会員に向けて、第36総会の参加者が直面している主要な問題を強調した手紙を書きました。「現代世界におけるイエズス会のダイナミックな霊性」と題された本稿は、その総長の手紙と、教皇フランシスコが第36総会の参加者に行った演説を基にしています。
イエズス会の霊性は、聖イグナチオの『霊操』から導かれます。それはキリスト中心の霊性です。キリストの人間としての姿のうちに、神のいつくしみを観想します。キリストは、愛する御父である神が、私たちを顧みてくださるということを表わすために世に遣わされた救い主です。キリストを知ることで私たちは、病気や貧困、差別に苦しんでいる人々に、キリストがどれだけ近しい方であられたかを認識します。キリストを知ることは、私たちが人生で日々出会う人々、とりわけ貧しい人々や乏しい人々の中におられるキリストに仕えることです。
キリストは悲惨な貧困の中に生まれ、社会から厭われる犯罪者として十字架の上で死にました。貧困、迫害、そして十字架というキリストの体験は、復活へとなりました。御父に従順なイエスの生涯は、御父への奉仕、つまり救いの福音を宣べ伝え、希望と喜びと癒しを与えることに完全に専念していました。社会から排除され、誰からも必要とされていなかった貧しい人々、病気の人々をイエスは好み、彼らを解放し、癒し、希望を与えました。なぜなら、 神は彼らを愛しているからです。
したがって、対話と相互理解を促進するために、イエズス会が正義と平和、和解のための働きを行っていることは、何ら不思議ではありません。イエズス会員たちは、移民、難民、移住労働者のために働いています。彼らは社会経済的、教育的プロジェクトを実施して、貧しいコミュニティが自立するのを助けています。その動機となるのは、今日の社会において、キリストに倣い従う具体的な道を見つけることです。また、人々のうちに、とりわけ苦しむ人々のうちに住まわれるキリストに同伴することです。
イエズス会は「イエスの仲間たち」として創設され、この世界に神の国を拡げていくという使命を教会の中で果たしています。教皇フランシスコは第36総会での話の中で、アンリ・ドゥ・リュバック神父の「世俗的霊性」という言葉を引用しました。最後の晩餐の席上でイエスは、弟子たちのために御父にこう祈っています。「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです」(ヨハネ17:15)。
第36総会での教皇フランシスコとの対話の終わりに、アルトゥーロ・ソーサ総長はこのように挨拶しました。「…イエズス会のカリスマをより深く生きるようにと私たちを強く招いてくださったことに感謝いたします…。道の途中にある様々な美しい曲がり角に留まりたいという誘惑に陥ることなく歩み続けること。神の子としての自由に動かされて歩むこと。それによって私たちは、どんな所へも遣わされ、苦しんでいる人類に出会い、主イエスの受肉の力強さに従い、イエスのように十字架に付けられている数多くの兄弟姉妹の苦しみを和らげることができるようになるのです」。
では、神が私たちにしてほしいことをより深く探るには、どうしたらいいのでしょうか? 常により大いなる神に根ざして、教会と世界をよりよく(MAGIS)するために、私たちはどうしたらより奉仕できる、よりよい選択肢を見つけることができるのでしょうか? 福音をはっきりと宣べ伝える中で、どうしたら喜びと希望を見出すことができるでしょうか? イエズス会の霊性の特徴は、教会内の考えにおける私たちの使命の方針を探り深める「識別」にあります。
教皇フランシスコの第36総会での演説のほかに、私たちは現在、識別を方向づけるための公教会からの二つの明確な指針を手にしています。一つ目は、環境問題に関する社会回勅『ラウダート・シ』です。イエズス会の霊性という観点から見ると、そのメッセージは、貧しいコミュニティが環境の危機によってより多くの苦しみを受ける人々であるということです。二つ目の指針は『福音の喜び』の中で与えられています。その著者である教皇フランシスコの言葉によれば、「今日の教会のための使徒的枠組み」です。
識別のための能力は、自身の弱さを認識し、個人レベルの、また共同体レベルの回心を必要とします。自由な態度で真実を絶え間なく探し求めている教会にならって、今日の世界でキリストによりよく従うことを目指しています。それは、祈りなしには行えません。『霊操』は慰めのために、深い喜びのために祈ることを常に強調します。福音宣教は喜びです。なぜなら、神はいつくしみ深く、愛すべき御父だからです。
ロヒンギャ:地球上で最も疎外された民族
安藤 勇 SJ
イエズス会社会司牧センタースタッフ
(移民デスク担当)
ロヒンギャは、ミャンマー西部のラカイン州に住むイスラム系民族グループです。仏教国であるミャンマーでは135もの民族が公認されていますが、ロヒンギャは民族として認められていません。ミャンマーの軍事政権は、1960年にはすでにロヒンギャの弾圧を始めていたと考えられており、1982年に国籍法が施行された際にも、彼らの国籍は否定されました。こうした悲劇的な運命は、1825年の英国のアラカン征服にさかのぼります。2015年の時点で、ロヒンギャの推定数はミャンマーで110万人、バングラデシュで30万人、近隣諸国には数千人以上いると思われます。
ロヒンギャは、宗教的・政治的理由により逃れています。彼らはムスリムであるために自国で迫害に直面し、政治的には、政府からは「無国籍」と見なされています。
ロヒンギャが直面している最大の課題は、飢餓と保護の脆弱さです。彼らは合法的に移動することができないので、基本的には仲介業者の助けを借りて移住します。仲介業者とは、彼らの密行を手配する人物です。過酷な行程をすべての人が生き残れるわけではありませんし、多くの人が後で精神的トラウマによって苦しみます。今年の8月に起きた武力衝突の結果、約50万人のロヒンギャがバングラデシュに避難し、難民キャンプでの悲惨な暮らしを余儀なくされました。彼らはミャンマーからもバングラデシュからも、「無国籍者」と見なされています。ヒューマン・ライツ・ウォッチの代表は、次のようなコメントをしています。「この地にある現実は想像以上に深刻です。…私はこれほどまでに踏みにじられ、破壊されたグループを見たことがありません。信じられないくらい壮絶です」。
イエズス会社会司牧センターでは、インドネシアのキャンプに収容され、イエズス会難民サービス(JRS)に支援されているロヒンギャ難民のために、2015年に限定的な募金キャンペーンを開始しました。
教皇フランシスコは、今年の11月下旬にミャンマーを訪問する予定です。うまくいけば、教皇の訪問はロヒンギャの状況の改善に役立つでしょう。それでもやはり、教皇の支援は遅すぎるかもしれません。