移住連ワークショップ2018 in札幌
安藤 勇 SJ
イエズス会社会司牧センタースタッフ
2018年6月9日‐10日、北海道において、移住者と連帯する全国ネットワーク(移住連)主催の全国大会が開催されました。会議のタイトルは、「移住者の権利キャンペーン2020――ここにいる koko ni iru」です。この会議とワークショップには、全国から150人以上の参加者が集まりました。私たちイエズス会社会司牧センターからは、3人のスタッフが参加しました。
日本は2020年の東京オリンピック・パラリンピックに向けて「みんなの耀き、つなげていこう(Unity in Diversity)」をモットーに、国家計画を正式に開始しました。この標語は、世界の中の実に多様な存在を受け入れ尊重する必要性を念頭に、大会組織委員会によって選ばれました。
しかし、移住連は、このような概念は単なるスローガンに留まるべきではないと考えています。移住連のネットワークは、移住者や多様なルーツを持つ人々の権利と尊厳が保障される社会、制度、政策を目指しています。そのため、北海道大会のテーマ「ここにいる」は、私たちの間にいる移住者の存在を強調しているのです。
移住者に対する公共政策の欠如とは対照的に、移住連は、日本の移住者のための市民政策の策定に取り組んでいます。全体会のワークショップは、専門家、弁護士、労働組合指導者、政治家、大学教授などからなるグループによって進行されました。多くのNGOの専門家である参加者たちは、移住労働者に関するほとんどの課題を網羅する8つの分科会に分かれました。外国人技能実習生に関しては、特に強調されていました。社会司牧センターの3人は、それぞれ異なる分科会――移民政策、人種差別、技能実習――に参加しました。私は技能実習制度に関する分科会に参加しましたが、8つの分科会の中で最も人気で、40名以上の参加者がいました。
大会で話し合われた内容は非常に豊かだったので、このような短い記事で要約して報告するのは困難です。ですが、端的に言えば、主に3つの重要な問題が議論されました。
第一の大きな問題は、移住者のための「公的実習制度」です。この制度は抜本的に改革されるか、あるいはむしろ停止されるべきです。事実、現行制度では、安価に抑えられる一時的な労働力として外国人労働者を募集することが目的となっています。
日本の移住労働者の生活や状況に影響を及ぼす根本的な問題は、「移民政策」の欠如です。政治家たちは、こうした外国人労働者が長期的な移住者となる可能性をはっきりと否定しています。安倍晋三首相は国会で、「彼らは、急速な労働力不足を緩和するため、日本で一時的に働くよう招かれている」と言い張りました。
政府は外国人労働者の複雑な問題に対処するためにハイレベル委員会を組織していますが、結局のところ、すべての外国人を管理している入国管理局が全権を握っています。労働者は実質的にはいかなる権利も有しておらず、働いている会社に対して不平を言おうものなら、自身のビザが危険にさらされます。些細な不満を口にするだけでも日本滞在が危うくなってしまうので、会社に従順であり続けなければなりません。入国管理とは、外国人を支配することなのです。
最後に、移民に関するあらゆる要因を集約した中核にあるのは、工業国として高い水準を維持して生き残るために、日本が労働者をどうしても必要としているということです。最新のデータによると、日本経済は127万人の外国人を雇用しており、2012年からはほぼ2倍に増えています。過去5年間で、労働市場に加わった日本人はたったの250万人だということを考えると、この期間の新たな労働者の4人に1人は外国生まれであるということになります。日本は単純・非熟練労働者を必要としていますが、そうした外国人労働者を公式には受け入れていません。けれども同時に、若い外国人労働者に自国で必要とされる技術を身に着けさせるための技能実習を目的とした制度が公式に制定されました。
北海学園大学経済学部の教授が、北海道の地方企業への外国人労働者の貢献について話しました。彼のプレゼンテーション資料の中には、最高技術の装置を使って乳牛の搾乳をする20人ほどの若いベトナム人女性の写真がありました。私は経験から、ベトナムでは牛乳を飲むという習慣がなく、乳牛の牧場がない国だと知っています。ベトナム人労働者たちは北海道で乳業を支えており、そのために雇われていますが、彼女たちの身に着けた技術は自国の農村部に帰っても役に立たないだろうと思うと、何とも皮肉です。
移住者全国大会の評価
多くの市民団体が、若者たちとともに、日本で暮らす外国人労働者の権利のための闘いに身を捧げていることを認識でき、それには確かに勇気づけられ、希望を感じました。一方で、若いベトナム人労働者たちが日本に急激に流入していることが、ワークショップを通じてはっきりと分かりました。
全体として、私の個人的印象では、専門家たちによるインプットはかなりレベルが高く評価できました。多くの団体からの積極的な参加は、日本の移住者に関する問題への新鮮なアプローチを提供してくれました。それは移民政策の可能性を形作り、より人間的な移民法を作るよう政府に求めるアプローチです。
しかし結局、根本的問題であるいくつかの要素が抜けていました。私にとっては「アジア的視点」の欠如がそのうちの一つでした。すべての議論が日本を中心に行われていました。確かに日本は、若い外国人労働者に「飢え」ています。貧困、とりわけアジア諸国の農村部における貧困、そして自由の欠如という視点はありませんでした。ほとんどの外国人労働者がこれらのアジア諸国から来るにもかかわらずです。こうした国々については、グローバル化の影響と同様に、議論から抜けていました。
また、移住者の権利は、国連の諸条約や日本国憲法にその基礎を見出すことができますが、そこで留まっています。私の印象では、参加者の中には多くのキリスト者がいましたが、宗教についてはまったく言及されませんでした。多くの教会が移住者のために貢献していることについては、触れられないままでした。
それにもかかわらず、全国レベルでの移住連のネットワークはますます強くなっており、外国人労働者や技能実習生の状況が改善されることが期待できます。
和解の旅路を共に歩む
~東アジア和解のフォーラムに参加して~
岡谷 和作
キリスト者学生会(KGK) 主事
第5回東アジア和解のフォーラムが2018年5月28日から6月2日にかけて開催されました。このフォーラムには東アジア中から教団・教派、カトリック・プロテスタントを超えた90名以上が集います。多種多様な背景を持った参加者が共に「和解」について学び、対話し、祈り合い、実践するという他にはないきわめてユニークな集いです。私が初めて参加したのは、青山学院大学の教授である藤原淳賀先生にお誘いいただいた済州島で行われた前回大会でした。
普段私はキリスト者学生会(通称KGK)というプロテスタント福音派の超教派伝道師として働いています。各大学の聖書研究会を訪問し(上智大学にも部室があります)、大学生に聖書を教えています。ただ福音を伝えるだけではなく、福音を「生きる」こと、すなわちキリスト教世界観の中でこの世界を見る目を養うことを目標の一つに掲げています。その中で、近年東アジアで高まる緊張関係、またナショナリズムの問題をどのようにキリスト教的な世界観で考えるべきか模索していたこともあり、また私の名前が「和作」(平和を作る)であることも相まってフォーラムに参加することを決めました。
そして去年のフォーラムは数多くの出会いと本当に素晴らしい学びの時となりました。今回イエスズス会社会司牧センターと縁もゆかりもなかった私が本稿を執筆させていただいているのも、去年のフォーラムでのセンタースタッフの柳川さんとの出会いがきっかけでした。
今年度のフォーラムは、講師にアメリカからスタンリー・ハワーワス教授をお招きしての日本開催となりました。ハワーワス教授はタイム誌においてアメリカNo.1神学者と呼ばれ、アメリカのプロテスタント教会において最も影響力を持っている神学者の一人です。そして今年度のフォーラムはハワーワス教授の講演会のテーマ「高まるナショナリズムとキリスト者の責任」に最適な、まさに権力を象徴する都である京都で行われました。
和解のフォーラムは例年、主催者でありフォーラムの発起人でもあるクリス・ライス氏の著作“Reconciling All Things”(IVP、邦訳9月出版予定)に記されている「和解の旅路」に沿ってプログラムが進行していきます。危機(Crisis)、嘆き(Lament)、希望(Hope)、長期戦のための霊性(Spirituality for the long haul)と4つのテーマが日ごとに割り当てられ、参加者は和解の旅路を共に歩むという構成になっています。
1日目 : 危機 (Crisis)
まずフォーラムの初日は私たちを取り囲む「危機」についてディスカッションをするところから始まりました。和解についての旅路を歩むために最初に必要なのが、和解を必要としている現実を直視することでした。「平安がないのに平安という」(エゼキエル13:10)預言者たちのようではなく、まず罪の現実を確認するところから始まります。
午後のハワーワス教授の講演会は「ナショナリズム」というテーマに沿い、アメリカのキリスト教社会の問題、中国のナショナリズムとキリスト教の問題、そしてアジアの教会への提言が語られました。キリスト教会の制度化は避けられない課題としつつも、自己の安住のための制度ではなく、キリスト教的美徳(特に平和への美徳)を備えた制度を築いていくべきだとアメリカのキリスト教社会を反面教師として語られました。
アジアにおいても国ごとに教会と国家の距離感も、そもそも「国」という概念自体も異なります。しかしどこの国民であろうと、私たちキリスト者が第一義的には「神の国」の住人であり、地上においては「寄留者」であるという事実には変わりはありません。キリスト者としてどのように国家と向き合うのか、教会が今の時代において預言者としての使命を全うするということは何を意味するのか。様々な課題を提示してくださった講演となりました。
2日目 : 嘆き (Lament)
このフォーラムの最も特徴的なプログラムが「嘆き」の時間です。参加者は京都各所の痛みの歴史が残る場所(キリシタンの迫害跡や差別を受けて来た在日地区)を訪問し、共に「嘆く」時を持ちます。デューク大学和解センター長のエガード教授は、「嘆きとはある特定の方向性を持った痛みに対するクリスチャンとしての応答である。その方向性とは神に向かう方向性である」と説明してくださいました。つまりそれはただの悲しみや絶望ではなく、主に委ねる祈りの行為であり、とりなしの行為です。さらにそれは個人ではなく共同体として行われます。様々な国・背景から来る個々人が持つ傷や痛みを抱えたまま、参加者全員が共に罪の現実に対して「嘆く」のです。
最後にカトリック河原町教会で共に集まり、様々な「痛み」を覚えて共に祈りを捧げました。教団・教派を超えて、また国家をも超えて一つの声として祈りがささげられる瞬間でした。嘆きの先にある主にある平安、御国の希望を垣間見るひと時でした。
3日目 : 希望 (Hope)
3日目からは同志社大学のびわこリトリートセンターに移動し、共に希望の印を探す旅が始まります。ワークショップに分かれ、具体的な問題に関して考える時間が持たれました。私が担当させていただいたワークショップ「次世代からの声」では、台湾、韓国、日本の青年がそれぞれ各国の教会の現状と将来への希望を発表しました。全く異なる3か国だったのにもかかわらず、ナショナリズム、自尊心の欠落、教会への失望など若者を取り囲む課題は驚くほど類似していました。そして同様に共通の希望も見出すことが出来ました。それは教会の課題に対して教団・教派の協力が進んでいるという点です。
プロテスタント教会においては何百という教団が存在している中で、今までほとんど協力関係はありませんでした。しかし日本においては東日本大震災をきっかけに、教団・教派を超えた協力や対話が活発に行われるようになりました。同様に東アジアの各国においても危機の時代において、教会同士が歩み寄り始めているのです。異なる背景を持ちながら、共に共通の課題と希望を分かち合い祈り合うことが出来た大変貴重な時間でした。
4日目 : 長期戦のための霊性 (Spirituality for the long haul)
4日目は締めくくりとして、和解の旅路は時間がかかること、そしてそのためには長期戦を耐えうる霊性が必要であることが確認されました。そして和解の働きを一過性のもので終わらせないために各国で集まり、国ごとに持ち帰る課題を議論しました。このフォーラムの非常に良い点と感じたのがこの継続性です。ただの「良い集会」として終わらせるのではなく、長期的な視野をもって取り組みを続けていく姿勢には、主催者の和解への強い思いが感じられます。
最後に
最も今回痛感したことの一つは、和解はまず教会から始まるということでした。和解の使者として(2コリント5:17)遣わされている私たちキリスト者同士がまず和解を必要としているということです。それは決して何でも教団・教派を超えて一緒に活動をすればよいという意味ではなく、むしろ一つのキリストの体における異なる器官として、教団・教派を超えて互いに祈り合いそれぞれの役目を全うしていくということです。オーケストラで例えるのであればオーケストラ全体の調和を意識しながら、主に与えられた各々のパートを演奏する。そのような視点が必要なのではないかと思わされています。主の和解の働きがますます日本で広がっていくことを期待し祈りつつ。
スタンリー・ハワーワスの著作紹介
梶山 義夫 SJ
イエズス会社会司牧センター所長
「高まるナショナリズムとキリスト者の責任」と題して、2018年5月29日に同志社大学礼拝堂において、スタンリー・ハワーワス(1940年、テキサス生まれの合同メソジスト教会信徒。デューク大学でキリスト教倫理学を長年教えた)の講演が行われた。深い感銘を与えた内容だったので、彼のいくつかの著作や共著の、私にとって貴重な示唆となった内容を紹介する。
『神の真理 ―― キリスト教的生における十戒』
S.M.ハワーワス、W.H.ウィリモン (東方敬信、伊藤悟訳)新教出版社、2001年
第二バチカン公会議の『教会憲章』を思い起こさせる。教会の在り方と司牧の在り方について、数多くの示唆を与えてくれる一冊である。
キリスト者を旅する神の民(resident aliens)、教会をイエスに徹底して追従した弟子たちの共同体として、コロニーと呼ぶ。キリスト教史を振り返ると、コンスタンティヌス帝のミラノ勅令以降、教会は国家の有益な支持者となることを社会的使命とし、さらに19世紀に国民国家が成立すると、国家に忠誠を誓う団体となり、宗教はプライベートな領域に押し込められた。1960年代になると、欧米は徹底した消費社会となり、「キリスト教世界」が喪失する。その今こそ、福音宣教の絶好のチャンスである。このチャンスを生かすには、「何をしたらよいか」ではなく、「これが本当の世界の在り方かどうか」という問いを発しながら聖書を読み直し、また聖人たちの生き方を見つめて、神を新たに知ることが大切である。
『美徳の中のキリスト者 ―― 美徳の倫理学との神学的対話』
S.ハワーワス、C.ピンチス (東方敬信訳)教文館、1997年
本書は、幸福をめぐるキリスト者の根本的な生き方について問いかけるものである。
第一部では、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』、さらに美徳に関して最良の説明として、トマス・アクィナスの教説を取り上げる。この著書に限らず、著者のトマスに対する信頼は極めて高い。第二部では、現代のアリストテレス研究家数名と対話する。第三部は希望と従順と勇気と忍耐というキリスト教的美徳、つまり神の慈しみに土台を持ち、イエスの生涯を規範とし、聖霊によって形成される生き方を描き出す。勇気に関しては、アリストテレスをはじめ多くの人にとっては、戦場における兵士が規範であるが、トマスは、自らの生命と迫害者の生命をも含んだすべての生命の源であるキリストのために死ぬ殉教による死などを、勇気ある死として加え、戦死、そして戦争自体を相対化する。
『神の真理 ―― キリスト教的生における十戒』
S.M.ハワーワス、W.H.ウィリモン (東方敬信、伊藤悟訳)新教出版社、2001年
どう生きるか問われている中で、十戒をイエスの福音に基づいてとらえ直し、教会共同体に問題提起する著作である。
十戒はまず、神についての福音であり、親が子どもに語るように、神は十の言葉を語りかける。それは、一般倫理というよりも、教会共同体に協力を求めるメッセージである。この神は、熱情的に愛し通す方、貧しい人々や困難な状況に置かれた人々に対してこの上ない関心を持つ神である。神を飼い慣らして、都合の良い神を礼拝することを戒めるのが、神に関する二つの掟である。
安息日は、時間に振り回される私たちに、神が時間の主であることを思い起こさせる。
生命は、神のもの、賜物である。父母、そしてへそは、そのしるしである。いかなる理由にせよ、生命を奪うならば、自分を神の位置に置くことになる。また資本主義は性の消費と広告に関連があることを発見し、性を商品化し、性の表現は、おおっぴらになった。この状況で、私たちは、教会が子どもたちに証ししたいから、また両親が宣教の役割を引き受けるゆえに、彼らを育てる。
近代人にとって最も難しい戒めは、盗みと詐欺に関することである。金持ちがいて、貧しい人がいるという現実は、盗みと偽りを土台としたシステム、さらにそれを覆い隠すシステムが働いている。また私たちの欲望が限りのないものであるゆえ、命の源である神にしか安らぎを得ない。欲望が神から離れる時、すべての行動や非行動を混乱させる。家族の中にも欲望が渦巻き、家庭内暴力や虐待を引き起こしている。
『主の祈り ―― 今を生きるあなたに』
W.H.ウィリモン、S.ハワーワス (平野克己訳)日本キリスト教団出版局、2003年
本書は平易な文章に翻訳されていて、黙想の糧として読むことができる。
快楽主義がいきわたり、国旗を偶像崇拝し、自分自身を礼拝しながら好みの神々を取り集めているこの時代の文化に直面しつつ、天におられる聖なる神に神の子として自分の人生を捧げるように招かれている。
神の国は、この世界が引く国境線に対して反対するよう、私たちを促す。性別や階級、人種や経済状況、国境を設定し、必死にその線を防衛しようとしている現代国家こそ、偏狭で狭量な存在の最たるものである。神の国は、この世界の偽りの分離線をことごとく消し去る。
私たちは「日用」の糧を願う。それは、荒れ野で民が必要な分だけマナを集めることが許されたことを思い起こさせる。私たちは、自分をむしばむ虚無感を絶え間なく消費し続けることでごまかそうと、あまりに多くのパンを集めることによって滅んでいく。この祈りは、「『いらない』と言えるようにしてください」という祈りを含んでいる。
赦しは、I am OK you are OK(なあなあでやって行こう)という表面的なことではない。見せかけの装いを脱ぎ捨て、空の手で、赦す力を持つ方の前に進み出ることが求められる。それには、痛みが伴う。しかしそこには、私たちの人生は私たちのものではないという真理があり、その真理によって私たちは解き放たれ、十字架のキリストによって赦しと愛をいただく。
悪のもろもろの勢力の代表例は、経済、民族・人種、ジェンダー、国防上の必要、メディアである。この力は世界の隅々にまではびこる。しかもこの勢力は、自由の衣を身にまとい、それがなければ生きていくことができないものであるかのように装い、私たちを訪れる。「神の武具を身に着けなさい」(エフェソ書6:10~20)は、この箇所の理解を深める。
『暴力の世界で柔和に生きる』
スタンリー・ハワーワス、ジャン・バニエ (五十嵐成見、平野克己、柳田洋夫訳)日本キリスト教団出版局、2018年
バニエとハワーワスが、2006年、スコットランドのアバディーン大学「スピリチュアリティ・健康・障がいセンター」が主催した会合で行った講話を基にした書籍である。巻末にスタディ・ガイド質問集も設けられ、「バニエは、変革とは、『私たちを他者から隔てる壁、そして、いちばん深いところにいる自分自身から隔てる壁・・・』が消滅することだと言っています。あなたの人生における壁とは何ですか」、「バニエが語る、貧しい人たち、障がいがある人たちにある『聖さ』とは、どういう意味でしょうか」などの問いをグループでの分かち合いに使用し、本書の内容を深めることができる。
《本書の構成》 第1章:バニエ「ラルシュのか弱さ、そして、神の友情」、第2章:ハワーワス「奇妙な場所に神を見出す――なぜラルシュに教会が必要なのか」、第3章:バニエ「イエスのヴィジョン――傷ついた世界において平和に生きる」、第4章:ハワーワス「柔和さの政治学」。
青年シノドスのジレンマ
~プレシノドスミーティングに参加して~
松島 遥
真生会館カトリック学生センター(wakage) 代表
2018年10月に行われる「若者、信仰そして召命の識別」をテーマとするシノドス(全世界司教会議)へ向けた準備としての役割を持つ、シノドス前青年会合に参加しました。
2018年3月19日(月)から25日(日)にローマで開催され、司教協議会からの推薦を受けて派遣されました。教皇様が招集されたもので、全世界から300人の若者がローマに集まり、シノドスで参考にされる文書作成へ向けて会議を行いました。
カトリックの青年以外にも仏教徒、イスラム教徒、シク教徒、無宗教を自認する人、カトリックではないキリスト教徒の青年が参加していました。
現地に集まった青年は英語・スペイン語・イタリア語・フランス語の言語ごとに計20グループの小グループに分けられ、グループディスカッションを行いました。また、これらとは別にFacebook上で英語・スペイン語・イタリア語・フランス語・ポルトガル語・ドイツ語の6グループが作成され、15000人の青年が参加しました。
現地参加者とFacebook上の合計26のグループごとに、後述のテーマに関して分かち合い・ディスカッションや文書の検討が行われました。文書はver.1、ver.2、最終版の3つのバージョンが作られ、再検討を繰り返しながら最終版作成に至りました。
ディスカッション内容は三部に分かれていました。第一部では、今日の若者の課題と機会が主題としておかれ、具体的には、人格の形成、他者との関わり、若者と未来、テクノロジーとの関わり、人生の意味の探求などのテーマに関して話し合いました。
第二部では、信仰と召命、識別と同伴が主題としておかれ、具体的には、若者とイエス、信仰と教会、人生の召命の感覚、召命の識別、若者と同伴などのテーマに関して話し合いました。
第三部では、教会の形成的かつ司牧的実践が主題としておかれ、具体的には、教会の方法、若いリーダー、好まれる場所、取り組みの強化、使用する手段に関して話し合いました。
どの話し合いも各国の状況の違いや取り組みの違い、個々の背景の違いが表れるもので非常に貴重な意見を聞くことが出来ました。
プレシノドスミーティング最終文書の持つジレンマ
本会議の最終文書の持つジレンマを、2点に絞ってお伝えしたいと思います。①普遍的な内容で個別的な事情が反映されていない、②教会から離れていき、教会や宗教・信仰に興味の無い若者はこの文書の作成に関わらないという点です。
①に関して、本会議の最終文書は300名近くのあらゆる国・地域の若者が1つのものを作ったということに改めて目を向ける必要があります。この文書は現在の若者が直面している現実に対し、概観を捉える上では非常に有効なものですが、個々の個別的な困難は国、教区、共同体、個人ごとに異なります。この文書の記述から若者の現実に対し、押し付けられる誤った解釈がなされないことを願います。
②に関しては、シノドスそのものの持つジレンマであると思います。これから離れる若者が少なくなるよう司牧的な取り組みへの方向性を定めることはできますが、教会を既に離れてしまった若者にどうしたら来られるようになるのか、なぜ来ないのか聞き、調査をすることは難しいように思います。
当会議ではシノドスに積極的に関わりたいと思う若者が非常に多い印象を受けました。本シノドスは司教だけではなく、全ての若者に向けられたものです。それは、もちろん教会から離れてしまった若者をも含んでいます。
教会から離れてしまった若者の声を反映させるためにはどのような方法をとることができるのか、これからも考えていかなくてはいけません。今、教会が直面する青年に関わる問題について深める良い機会となりました。私たちの教会は目に見える範囲では小教区や教区のレベルかもしれませんが、世界中の教会と共通した部分を持っています。
今回、シノドスのテーマとして若者のことが取り上げられることは、非常に大きな恵みであると感じています。
アイデンティティーと社会の関わり
本ミーティングでは世界中の若者の教会に対する熱意を感じ、私自身も励まされる経験となりました。私からは日本の場に生きている中で感じる宗教に対する不寛容な雰囲気や、私たちの教会活動が直面している現実について分かち合う機会をいただきました。
私は、中学1年の時に洗礼を受け、家族で唯一のクリスチャンです。家族の反対はありませんでしたが、公立の学校で教育を受ける中で、カトリック信徒であるというアイデンティティーを友人に打ち明けることはできませんでした。ごくわずかな親しい友人には打ち明けていましたが、なるべく他の人に伝わらないように隠していた部分があったように思います。それはその時の私にとってはごく自然なことのように思えました。高校生の時、上智大学の神学部受験のために聖書の勉強を学校で行っていたところ、聖書を読んでいるということを同学年の部活の友人からバカにされ、からかわれたこともあります。
そのような風潮の中で宗教を隠すということがごく自然なものであったことや、私の教会活動の仲間の中には大学でもカトリックであることや教会に通っていることを打ち明けられない仲間もいます。それとは異なり、西アジアを中心とする地域の若者は、彼らの信仰を彼らのアイデンティティーであると考えていました。自己のアイデンティティーとキリスト教の信仰を持っているということの間には、そのような社会的な目という溝があるように考えました。
シノドス前青年会合の報告
イエズス会社会司牧センターのご協力により、シノドス本会議に参加される勝谷司教様とお会いしました。シノドス前青年会合での文書作成の手順やその過程での苦労などについて聞いてくださいました。
翻訳に向けた取り組み
当会議の最終文書は世界中の若者が集まり、今思っていることや直面している現実をまとめたものです。そのため、青年司牧の現場並びにシノドスに関することが取り上げられる場で重要な資料だと考えられます。この文書の重要性から翻訳をしようと考え、現状では下訳が完成した段階にあります。これから他文書との訳語の調整や、日本語としての読みやすさを確認した上発表する予定です。司教様への報告の際にも当文書の翻訳に関しご相談させていただき、前向きにこの作業が進むことになりました。シノドスの行われる10月までには日本語でお読みいただける形になるかと思いますので、日本語訳完成のためお祈りによるお力添えをお願いします。
このような形で報告をさせていただける機会を作っていただき、ありがとうございます。カトリック教会全体で取り組んでいく問題であると改めて感じました。