アルベルト キム ジュチャン SJ

韓国管区司祭

2022年の典礼暦の最後の瞬間にあって、『花は咲く』を聴きながらこの原稿を書いています。日韓の社会使徒職では、韓国から7名、日本から5名、あわせて12名のイエズス会員が、「長崎の宣教と和解の巡礼」というテーマで集まり、木村英人先生の案内で、長崎の多くの史跡を訪ねました。

天気も良く、道沿いに広がる海辺や丘の上の家々といった美しい景色、おいしい食事にプレミアムビール等々、どれもが最高でした。中でも、遠藤周作文学館から見下ろす海は本当に言葉にできません。しかし、私にとってさらに印象的だったのは、日本のイエズス会員の謙虚な態度、親切さ、歓迎のおもてなしでした。プログラムのコーディネーターとして、中井淳神父はすべてをとても良く準備してくれ、他のイエズス会員やスタッフたちも私たちを家族のように扱ってくれたので、私は実にアットホームに感じました。「ありがとうございました!」と言わなければなりません。

 

梶山神父は、2022年の日韓社会使徒職会議を、歴史を振り返る行事だと説明しました。私たちは、日本二十六聖人殉教地・記念館、岡まさはる記念長崎平和資料館、軍艦島資料館、長崎原爆資料館、大浦天主堂、大野教会、出津教会、遠藤周作文学館、聖マキシミリアノ・コルベ記念館など、たった二日間でたくさんの歴史的な場所を訪れました。長崎宣教時代から第二次世界大戦までの時代は、罪と悲劇の歴史、そして神の恵みと信仰の歴史という2つの次元があり、それが歴史の一部として常に絡み合い、積み重なっています。

初期の宣教師たちが福音宣教の希望に胸躍らせて長崎に到着したとき、その美しい自然に驚き、神秘的な文化に魅了されたに違いありません。しかしその後、そのようなロマンチックなものではなく、悪夢となりました。キリスト教が根絶するまで、長崎のすべてのキリスト者(キリシタン)に対して残忍で残酷な宗教迫害が勃発しました。死を恐れて棄教した人もいれば、隠れ(潜伏)キリシタンとして生きなければならなかった人もいました。あるいは殉教した人もいました。

同様の悲劇は、後に日本軍が近隣諸国を侵略したときにも起こりました。一般の日本人が決して望んでいないにもかかわらず、罪のない多くの人々が暴力の犠牲となったのです。そして、ついに長崎に原爆が落とされました。実に恐ろしい、胸が張り裂けるような歴史の中で、人はこのように問うでしょう。「神はどこにいたのか? 罪のない人々が歴史の悲劇の中で死んでいったときに、神はどこにいたのか?」と。

卓越した日本の作家、遠藤周作は、『沈黙』の中でこの問いに答えようとしました。「人間がこんなに哀しいのに 主よ 海があまりに碧いのです」。「沈黙の碑」に記されたこの文は、人類の歴史の悲劇に対する彼の必死の叫びでした。しかし、彼が小説の中で本当に言いたかったのは、神はいつも私たちと共にいて、私たちと一緒に苦しんでさえいるということでした。「お前が苦しんでいるとき、私もそばで苦しんでいる。最後までお前のそばに私はいる」。

聖マキシミリアノ・コルベの生涯は、私たちと共にいる神の存在の象徴として、この旅の中で個人的に思い浮かびました。特に、二つの逸話が、神の献身的な愛により深く関わるようにと私を奮い立たせました。結核によって何年間も苦しみ、衰弱していた健康状態にもかかわらず、聖マキシミリアノ・コルベは仲間たちと共に、長崎に到着してからわずか一か月以内に日本語で『聖母の騎士』の創刊号を出版しました。そして彼は、アウシュヴィッツ・ビルゲナウの死の収容所で、仲間の囚人の身代わりとして死ぬことを願い出ました。

 

残念ながら、人類の歴史の悲劇は今もまだ続いています。あまりに多くの人が必死に「神はどこにいるのか?」と叫び続けています。けれども、私自身は未来に対して依然として前向きです。人類の歴史は単に私たちだけのものではなく、「彼」のものでもあるので、私は「花は咲く」と信じています。平和の種は、この社会使徒職の集まりの参加者の心に蒔かれ、この旅で出会った人々、日本二十六聖人殉教地・記念館や長崎平和資料館にいた若者たち、そして長崎原爆資料館や長崎平和公園にいた若い学生たちに蒔かれました。いつの日か、それらの種が満開に咲き誇り、世界中に美しい香りを届けてくれると願い祈っています。

最後に改めて、日本のイエズス会員とスタッフに「ありがとうございました!」と言って感謝したいと思います。また、歴史の誠実な証人として、声なき人々の代弁者となることに専念してくださった木村先生に特に感謝いたします。2023年という新しい年が、皆さまに豊かな祝福をもたらしますように。皆さまとその使徒職のために祈るとともに、次回は韓国でお会いできることを楽しみにしています。