止まったままの時間 ~福島からの報告~

片柳 弘史 SJ (イエズス会教会使徒職協働推進チーム)

「参加条件40歳以上の男女」、福島でのボランティア活動の募集要項の冒頭には、長い間この条件が掲げられていました。つまり、福島は放射能で汚染されているので、若者をボランティアとして受け入れることはできないということです。ですが、赤ん坊からお年寄りまで数十万人の人々が現に福島で生活しているという事実を考えるとき、このような制限を設けるのは理不尽ではないかという声があがりました。そうした声を受けて、この春から冒頭の条件は削除され、代わりに次の説明が付されることになりました。

「放射線の低線量被ばくによる健康被害は絶対に安全または危険とは言えず、万人に通用する安全基準はありません。自己判断、自己責任でのボランティア参加をお願いします。」 (判断材料として、国際協力NGOセンターの資料が付されています。)

つまり、放射能の危険を冒してまで福島に入るかどうかは、自分で判断するようにということです。この変更を受けて、イエズス会教会使徒職協働推進チーム(JPACT)では、今年5月に各地のイエズス会が担当している小教区や学校から若者たちを募集、ボランティア・ツアーを実施しました。危険を冒しても、いま現に「放射能汚染地帯」と呼ばれる福島の地で生活する赤ん坊、子ども、若者、お父さんお母さんやお年寄りに何が起こっているのか、彼らが何を感じているのかを自分の目で見届けたい、彼らの苦しみに少しでも寄り添いたいと願う若者は多いに違いないと考えたからです。

まずは、JPACTのスタッフで、今回のボランティアに 同行してくれた山本紀久代さんの詩から。

薄緑の木々、桜色の花、鳥の鳴き声、かすんだ空
のどかな春の景色

でもだれ一人田んぼに人影はなく
よく見ればその田んぼにはいく台もの車が横たわり、
放置され
なんと漁船までがころがっている

第1原発から6㎞のところにある校舎は
2年前まで子どもたちの歓声にあふれていた
今では無残に天井がはがれ、床は落ち
海からの強い風だけがその住人
その風に乗って放射能はどこへ運ばれて いくのだろう

発電所に通じる国道には
おびただしい数の警官が待機し
だれを探しているのか
なにを恐れているのか

ゴーストタウンというものは
広大な大陸だけにゆるされるものと思っていたのに
目の前には打ち捨てられた駅
打ち捨てられた町
駅前の看板がはげかけたペンキで語りかける
「安心して暮らせるやさしいまち」と

この国はどこへ行こうとしているのだろうか
わたしにできることはあるのだろうか
不安ともどかしさの塊りをかかえたまま
わたしはフクシマを離れた

今回わたしたちはカリタス・ジャパン原町ベースに滞在し、そこから社会福祉協議会を通した灌木伐採、家の片づけなどのボランティア活動に参加しました。その合間に、ベース・スタッフの案内で、原発から10キロ圏内にある浪江町請戸地区を視察することもできました。今年4月の避難指示改編によって「避難指示解除準備区域」に指定され、昼間の出入りが制限つきで許可された地区です。山本さんが書いて下さった詩は、そのときに彼女が目撃した光景を描いたものですが、わたしたち全員が見たこと、感じたことをとても的確に表現してくれていると思います。わたし自身は、「『時間が止まる』とはこういうことなのか」と身を以て実感しました。 次に、今回の参加者の中で最年少、医学部で勉強している学生の杉野健太さんが寄せてくれた感想の一部をご紹介したいと思います。

「なぜ福島に行ったかというと、福島の現状をこの目でこの体でこの心で確かめたかったからだ。去年のゴールデンウィークには岩手の釜石へ、今年の3月には南三陸と気仙沼に視察に行ったが、福島を訪れるのは初めてであった。
 福島には放射線量が高いために復興が進まず、2年前の3月11日15時38分に津波が来たときそのままの状態で時が止まっている地域があった。この地域を訪れたとき、あまりにも悲惨な状況で言葉を失ってしまった。岩手や宮城では着々と復興が進んでいる地域があるのに、この地域はなぜまだこんな状態なのか。福島の現状をこの身で思い知った瞬間であった。

しかし、福島ではボランティアの数がどんどん減っているのが現状のようだ。放射線に対する偏見のせいで福島を避けている人がたくさんいると思う。だが、レントゲンを一枚撮るだけで6.9mSv、放射線量が高いと言われている飯舘村は、0.55μSv/h、一日24時間いたとしても、13.2μSvなので、一日ボランティアしたとしても、レントゲンの600分の1程度に過ぎないということではないのか。確かに、どれほど人体に害があるのかは専門家でも意見が分かれているし、私にも分からない。けど、福島には自分の故郷を愛し、そこに戻りたいと思っているのに、ちいさな仮設住宅で暮らすことを余儀無くされている人がたくさんいる。そういう人の苦しみを感じて、少しでも力になりたい!そういった善意と熱意をもった人が全国各地からたくさん集うことを切に願っている。身内を亡くされて、傷ついた方に少しでも生きる希望を持ってもらえるような働きかけをするのもボランティアの役目だと思う。ボランティアにはいろんな形があると思う。一人の力ではどうすることもできないし、少ない人数では時間がものすごくかかる。ボランティアが継続的に長いスパンで何百人何千人何万人と集うことで、福島は必ず復興の兆しが見えてくると信じている。

現在は、福島に行く前の自分のように、福島の現状を知らない人が多すぎる。自分と同じくらいの年代の若い力が必要とされていると思う。たくさんの人がこの福島の現状を知り、自分も少しでも福島の復興の力になりたいと善意と熱意をもってボランティアに参加してくださり、福島の復興に繋がることを願っている。また、福島に観光に行ってお金を落とすだけでも、福島のためになる。これを読んで下さった方が少しでも福島のことを考えるきっかけになってくれたら幸いだ。」

医学生らしい使命感に燃えた杉野さん。参加者のうち最も若い彼の口からこれほど前向きな言葉を聞くことができたのは、本当に大きな喜びです。次に、小学校の教員をしている六甲教会信徒、吉村光基さんの感想文です。

 「私は現地での活動を通して、自分自身が福島のことを忘れてしまっていたということを思い知らされた。もちろん、ニュースなどで福島における今の状況をある程度は知っていたが、でもそこで暮らす人たちの思いや気持ちに対して敏感であったかというと、そうでもない。むしろ、東日本大震災後も私が暮らす町は平穏そのもので、私の生活自体何も支障をきたすことなく動いていて、そういう意味で福島のことを私は忘れてしまっていたと思う。
 また、久々に『ボランティアって何のためにやるのか?』なんて考えた。同じ東北でも福島の置かれている状況は他とはまた違う。瓦礫を除去したら住めるわけではない。放射能という目に見えない壁がある。ボランティアに行く人も他より少ないし、風評被害もまだまだある。差別的な発想も。この目に見えない壁、何とかならないかなぁと考え、少し気が重くなりながら帰った。
 私に出来ることの一つは『伝えること』である。私は今、仁川学院小学校で6年生の担任をしている。連休明けに授業の時間を使って子どもたちに話をした。また、学級通信にも福島のことについて書いた。
 保護者の方と話す機会があって、ある保護者は『私も福島のことを忘れていたように思いました。出来る限りの支援がしたいです。』とおっしゃっていた。また、保護者の一人は『今度、主人と福島の方へ旅行に行ってきます。大したことは出来ませんが、観光をして現地でお金を使うことも一つの支援かなと思ったので…。』と、わざわざ電話で伝えて下さった。とても嬉しい話だった。この『伝える』ことが枝葉となって広がりを持てば、何か状況が変わっていくのではないかと思う。」

自分の目で見、肌で感じてきたことを精力的に伝え、福島の人々と連帯していこうとする吉村さんの積極的な姿勢に感銘を受けます。次に、六甲教会の教会学校で活躍してくれている青年、久保信人さんの感想をご紹介したいと思います。

「ボランティアの行先を決める前に、はじめに、社協を代表して会長さんがご挨拶されました。『昔から代々続き、文化の町として歩んできた町が、あの日を境に大きく変わりました。皆この町を追われましたが、避難区域の解除等で少しずつではありますがボランティアの方の力をお借りして、この町を何とかしたいと思っています。皆さんが小高地区を救って下さいます。』と熱い思いと感謝の言葉をいただきました。作業は、依頼のあった方のお家に出向いて、家屋と庭の清掃を行いました。作業初日は、午前中だけ作業を行い、原町ベース・スタッフの案内で、福島第1原発に近い海岸や浪江の町まで向かいました。人の立ち入りを制限した区域になるので、警察の検問やガードマンによる通行車両の確認など物々しい雰囲気でした。福島第1原発が見える距離にある小学校に入ってみると、グシャグシャになった教室の黒板に卒業生の残したメッセージが書かれていました。その中でも特に目に留まったのは『必ず復興する!』という文字。変わり果てた地域を何とかしたいという地元社協のスタッフの方、同じ家にもう1度住みたいと願う地元の方、そして、この学校の卒業生のメッセージ。『皆、この町が大好き』という思いを強く感じました。」

子どもたちを愛してやまない久保さんらしい感想です。わたしも、黒板に書かれた字を見ながら、子どもたちのために祈らずにいられませんでした。
福島と関わるとき、わたしたちはいくつかの選択肢の中から立場を選ばなければいけません。おおざっぱに言えば、次のような選択肢が考えられるでしょう。

  1. 放射能に汚染された福島は、人間の住むべき場所ではないとする立場。その立場から、一日も早い全面避難を政府   に求め、住民にも自主避難を促していくことこそ、本当の福島支援。いわゆる「復興」は100年先の話。
  2. 今回の事故による放射能汚染は、人体に影響を与えるレベルではないとする立場。その立場から、政府の基準を満たした地域への住民の帰還、地域の復興を積極的に推進していく。
  3. 放射能の影響がどう出るかは分からないけれども、現に人々が福島で暮らしている以上、その人々に寄り添っていくという立場。現地に出かけ、あるいは密接に連絡を取り合い、人々と喜び、悲しみを共にしながら将来を模索していく。

 わたし個人としては、3の道を選びたいと考えていますが、皆さんはどうお考えになるでしょうか。この報告が、皆さん自身の考えを深めるためにお役に立てば幸いです。

山口からの被災地支援~善意はまだまだ広がる~

柴田 潔 SJ (山口教会)

東日本大震災から2年4カ月が過ぎました。その間の、被災地との関わりをまとめます。

初めて被災地ボランティアに行ったのは、2011年6月末でした。山口教会の加藤主任神父が「関心があるなら行ってみたらいい」の一言がきっかけでした。2回目までが、宮城県のカリタス・ジャパン塩竈ベースでの個人参加でした。当時のボランティアの内容は、ヘドロ掻きやがれきの片付けなどの肉体労働で、被災地の方から直接話を伺う機会はほとんどありませんでした。連日30度を超える中、一日で2~3リットル汗をかきました。傷ついた心と大地が“再創造”されることを願いながらひたすら作業しました。全国から集まったボランティアの方から多くのことを学びました。特にお世話になったのは塩竈ベースリーダー蒲池龍一さんです。蒲池は「神父さんに言うのは何だけど、百の説教よりも捨て身の努力が大事」と教えてくれました。自衛隊・警察・消防の震災直後の決死の救助と遺体捜索、まだ混乱する状況下でボランティアを切り盛りする蒲池さんの手腕に頭が下がりました。

ボランティアの合間に、被災地の状況も見ました。私は、イエズス会に入る前にプレハブ住宅の営業をしていたこともあり、家が流されることに特別の感情を持ちました。家を建てるまでの労力、30年かけて支払うローン、その間の家族の誕生と成長・・・家族の夢が流されたことで、12年間勤めた私の努力も跡形もなく流されたように感じました。「救いのないサラリーマンのために司祭になりたい」と願って叙階されましたが、被災地はその次元を超えていました。

私は、これから被災地とどう関わっていったらいいのか?塩竈から山口に戻って考えました。帰ってから始めたことは、福島のボランティアに負けない体力づくりでしたが、炎天下で走ると直ぐにばててしまい、これは無理だと分かりました。折角汗をかく習慣が付いたので、何かできないか?と考えていた時思い浮かんだのは、目前に迫っているバザーでカブトムシを売ることでした。朝からひたすら教会・幼稚園に隣接する山に入って、羽化したてのカブトムシを掘り当てました。4日間で100匹以上のカブトムシを捕まえ、幼稚園のお友だちに買ってもらいました。私にバザー全体の収益をどこに送金するかの相談がありました。その年の幼稚園の保護者会長さんは「顔の見える支援を。できれば子供たちに。」と希望されました。

特に困っているカトリック幼稚園を探し出そうと、山口から電話で問い合わせました。宮城県内は比較的無事で、隣の福島県の幼稚園に電話を掛け始めて何軒目かにカトリック二本松幼稚園と出会いました。佐藤せつ子園長から地震と原発事故の被災状況を伺いその年のバザーの収益は全額二本松幼稚園に送金することになりました。

福島支援がこうして始まり、11月に二本松幼稚園を訪問しました。2011年度に保護者会長だった渡邊守さんは、「お金をポンと出せる人はいるかもしれない。でも、暑い中汗をかける人は多くない」と、バザーで尽力した人たちをたたえてくれました。原発事故によって、住宅・土地・自然が汚染されて奪われてしまったこと、それだけでなく人の間に放射能・賠償金を巡る軋轢ができていることを現地で知りました。渡邊さんは「いがみ合うのはやめましょう。誰も悪くない。悪いのは原発事故。」と諭して幼稚園を1つにまとめました。

渡邊さんはJRバスの運転手で、原発事故直後浪江町から二本松まで避難者をピストン輸送されました。バスに乗り込む人たちは着の身着のままですぐに戻れると思っていました。移動中、「亡くなった乳児は(汚染物質なので)山中においていって下さい」と自衛隊・警察に指示され、「ごめんね。またほうむりに来るからね」と言って悲しい別れを告げた人にも出会いました。福島の方の苦しみは原発事故直後に留まりません。渡邊さんは仕事先の岩手で食事をしていたら、お店の人に「どこから来られたんですか?」と聞かれ、「福島から」と答えると、「ファブリーズ持って来て!」と言われショックを受けました。同僚のバスガイドさんは、ツアーのお客様から「トイレ休憩で福島は外して欲しい」と言われて涙が流れ出ました。サービスエリアは、実家のすぐ近くでした。
 “酪農(楽農)”ではなく苦悩(苦農)だと言う言葉も聴きました。毎日搾ったお乳が、市場に出回らないように紅で赤く染められています。酪農家の自尊心・やりがいはガタガタに崩されました。原発が本当に安全ならば、人がたくさん集まるところに建てたらいい、と渡邊さんは言われます。確かに、人口が減り、仕事がない地方の人々の足元を見て原発は建てられてきました。それでいて、原発を推進してきた人たちの事故に対する責任は何も追及されていません。これでは、福島の方たちは浮かばれません。

日本はいったいどうなっているのか?という怒りが湧いてきます。原発事故は既に取り返しのつかない事態に陥っています。「新基準にすれば安全」とか、「電気料金の値上げを防ぐために再稼働する」という話ではもうありません。「元に戻せない以上、もう続けてはならない。」というのが私の結論です。このような考えに至ったのも、バザーをきっかけに二本松の方たちと出会えたからです。幼稚園の保護者にも福島の現状を話す機会があります。中には、節電目標額を決めて、達成できたので支援に使って下さいと言われる保護者もいます。クリスマスの我慢募金では「クリスマスプレゼントはいらないから紙のお金で募金したい」と言う子もいました。大事に育てたカブトムシを「福島の子どもたちのために」とバザーの際に渡してくれる子もいました。大人の心も揺さぶられています。私は、卒園する園児さんに3つのお願いをしています①代替エネルギーの開発者になること②原発のお片付けを進める人になること③福島のお友だちの健康を守るお医者さんになること。教会が望む人材が社会に輩出されることを願っています。今年の夏に予定されている、福島の家族を招くための費用は、幼稚園の募金活動から始まり、山口地区で協力の輪が広がっています。

話は前後しますが、2回目の塩竈でのボランティアから帰ってから、一つの限界を感じました。「自分だけ何回も行ってもダメだ。別の人、特に若い人が被災地を体験することで支援が広がる」と考えるようになりました。しかし、山口と東北には距離やお金の問題があります。

躊躇していたとき『0泊3日の支援からの出発』(加藤基樹編者 早稲田大学出版部 2011年)という本に出会いました。大学は、2011年4月から半年で1300人の学生を派遣しています。その企画・手伝いをするのは一般の職員で、文字通り二足のわらじで非常時の東北を支援していました。私の覚悟は決まりました。長期の休み期間中にボランティアを企画・引率しようと決心しました。これまでに計5回で71名が参加しました。いつも大槌ベースを拠点にしていますが、元ベース長の古木眞理一(ふるきまりかず)神父さんは「グループで来る場合活動を準備してきて下さい」と言われました。毎回、幼稚園の先生が参加されるので、学童の子どもたちのための活動を考えます。仮設住宅の集会所では、主婦のアイディアで山口名物のフグ雑炊・瓦そばなど作りました。旅費の半額は、善意の方からの寄付で賄っています。こちらがお願いしなくても「自分の代わりに連れて行って下さい」と、毎回10万円ずつ渡して下さる方もいます。このような後ろ盾があって毎回実現しています。

バックアップを受けた若い人の中には、「防災のために尽くしたい」と、それを学べる大学を志願した女子高生がいます。小学5年生の女の子は1年かけて自己負担分の旅費を貯めて参加しました。参加した大人の意識も変わっています。「家族といられることは当たり前ではない」「もっと早く行けば良かった」「今からでもできることをしていきたい」「他の方にもぜひ勧めたい」・・・このような体験は、職場・家族・友人間での人の関わりにも影響を与えています。知らない間に、「思いやりあふれる私たちに」“再創造”されています。

まだまだ、被災地への善意は潜在的にあります。それを掘り起こしてまとめていくなかで、被災地の方は神様の働きを見るのでしょう。山口からできることは、まだまだあるはずです。それを追い求めることが私にできることです。特別に苦しい東北の方に、特別の情熱とエネルギーを山口から注ぎたい。そんな気持ちで2年4カ月が過ぎました。

書評:『日米地位協定入門』

前泊博盛著 / 創元社 / 2013年3月

山本啓輔(イエズス会社会司牧センター)

戦後、日本は、1952年にサンフランシスコ講和条約によって、連合国軍との戦争状態を終結させ、主権国家として国際社会の仲間入りを果たしました。同時に日本は、アメリカとの間で、安全保障のために、米軍の日本国内駐留を定める、日米安全保障条約を締結します。その際、在日米軍の日本における強大な権益を認める「日米行政協定」をも締結してしまうのです。1960年、日米安全保障条約の改定に伴って、日米行政協定も改定され、「日米地位協定」として新たにされました。しかし、日米地位協定は、日米行政協定と本質的には何も違いはなかったのです。

本書は、日米地位協定の本質を解説するものです。そこで明らかにされているのは、米軍は、沖縄だけでなく、日本国本土のどこにでも自由に基地を作ることができる、ということです。それに従えば、オスプレイのような危険な軍用機を、米軍は日本の基地のどこにでも配置することができるし、日本の上空のどこででも飛行させることができるのです。また、在日米軍には、様々な法外の権利が与えられています。その中の最たるものは、在日米軍の治外法権でしょう。つまり、在日米軍は、日本の国内法も憲法さえも、その適用範囲外なのです。結果的に、米軍は日本国内でやりたい放題であり、それらに対し、もともと日本政府は何ら制限を加えることができないのです。例えば、在日米軍兵による基地周辺での犯罪が減らないのも、この為なのだということがわかります。著者は疑問を呈します。日本は本当に主権国家なのか、と。

本書は、戦後日本の、みじめな対米追従外交の真実を知ることができる貴重な文献であり、一方、それが為に、私は読んでいて、日本人として暗澹たる気持ちになりました。しかし、だからこそ、多くの方に読んでいただきたい本だといえるでしょう。米国という国に対して、正しく関わるためには、現実をありのままに知り、そして、よく考えることが必要なのですから。

カトリック 世界のニュース(172)

アルン デソーザ SJ(司祭)
村山 兵衛 SJ(神学生)

ブラジル:教皇フランシスコ、「行きなさい、恐れるな、仕えなさい」

バチカン、7月28日(バチカン・ラジオ)。日曜日にリオデジャネイロで「世界青年の日」のミサを行った教皇フランシスコは会衆に、今や行ってこの経験を他のひとに伝えるときが来ました、と述べた。コパカバーナ海岸に集まった大勢の人々に向けて教皇は、世界青年の日のテーマに焦点を当てて、「行って、すべての民を弟子としなさい」とメッセージを送った。ともに集った若者たちに、教皇は三つのシンプルな言葉「行きなさい、恐れるな、仕えなさい」を掲げ、彼らを激励した。「この三つの言葉に従ってください。そうすれは、福音宣教する者が福音化され、信仰の喜びを伝える者が喜びを受けることを経験します」。

シリア:アレッポの小さな「世界青年の日」

アレッポ、8月2日(Agenzia Fides)。教皇フランシスコがリオで世界青年の日の閉会ミサを行った日に、約850人の青年キリスト者が、青年センターGeorge and Matilda Salemに集まった。アル・サベール地区のサレジオ会によって、ふり返りや祈り、ディスカッションや娯楽を行う活気に満ちた一日となった。あるアルメニア・カトリック司教はアレッポの若者たちと共有した経験について語った。「戦争の傷跡を残す都市で、これほど多くの若者が恐れることなくいるのを見て、驚きました。[中略]私たちは、WYDのはじめの数日に、『誰も希望を奪うことができない』という呼びかけとともに教皇が言われた言葉を最大限実践しました」。

中央アフリカ:四教区に復興資金が割り当てられる

バンガスー、7月30日(Agenzia Fides)。チャドとスーダンから来た急進イスラム民兵連合「セレカ」による襲撃と略奪を受けている中央アフリカのカトリック四教区は、人道組織「Aid to the Church in Need」が推進する緊急支援キャンペーンから援助を受ける。セレカの反乱軍はこの地域で、教会資産の50%を略奪した。被害地域のひとつ、バンガスー教区のアギーレ司教は声明の中で、人々はいま犯罪集団による広範かつ組織的な襲撃を経験している、と報告している。

ヨルダン:難民キャンプの改宗活動にカトリック教会が警戒

アンマン、7月30日(Agenzia Fides)。福音派のグループとつながりを持つキリスト者が行うある取り組みが、依然として議論の的になっている。彼らはヨルダン北部ザータリの難民キャンプで、福音書と霊的内省に関するリーフレットを配布する。同キャンプはヨルダン領土内にあってシリア内戦から逃れてくる難民の主要な受入れ地である。インターネット上の映像は今なお論争を引き起こしており、カトリック教会の責任者を代表する形で警戒が出されている。エルサレムのラテン総主教区Maroun Lahham大司教は「人道的取り組みを食い物にして改宗活動を達成しようとすることは、キリスト者の真のダイナミックな証しとは無縁のものです」と述べている。

オーストラリア:イエズス会難民サービス、新しい難民政策を非難

シドニー、7月22日(JRS Newsroom)。イエズス会難民サービスは、豪州政府のPNG(パプア・ニューギニア)難民解決策(両国間地域再定住協定)を非難し、残酷で非人道的な同政策の真の犠牲を明らかにするよう首相に呼びかけている。これは、豪州の納税者、PNG社会、そして豪州での避難を求める人々の命に、犠牲を求めるものである。亡命希望者をPNGに送り返すのは刑罰的で無分別、性急な政策発表であり、迫害を逃れる人の安全経路の強化よりも選挙勝利を目論んでのものと思われる。貧困生活を送る人が現在人口の40%以上もいるため、PNGは自国市民を養う資金とサービスを欠き、JRSなどの機関が行なうような特定サービスと支援を必要とする難民たちを放置することになってしまう。

福島スタディツアー

山本 啓輔 (イエズス会社会司牧センター)

私は、2013年5月27日から29日までの3日間、東日本大震災と福島第一原発事故の被災地である福島県南相馬市へ体験学習に行きました。それは被災地の今を見るとともに、かの出来事が、私たちに一体何を問いかけているのか、それに向き合う旅でもありました。

今回のツアーでの主なプログラムは、原発から20キロ圏内にある被災地、南相馬市小高地区の同慶寺の視察と、同じく浪江町の視察、そして南相馬市鹿島地区にある、仮設住宅での体験ボランティア、及び、仮設住宅に住む方々のための交流の場・眞こころカフェでの被災者との交流などでした。紙面の都合上、全てに触れることはできませんので、ここでは、2日目の浪江町の被災地視察について感じたことを書きたいと思います。

浪江町は、2013年4月に一部、立ち入りが許可されたばかりで、私たちは手つかずの被災地の状況を見ることができるとのことでした。南相馬市原町区のホテルから車に乗りこんで、私たちは浪江町に向かいました。その道すがら、車の窓から広がる景色を見ていました。一方は、見渡す限りの草原、反対側は山間部が続いています。草原というのは、津波で流されてしまった更地のことで、被災直後はきっと、土砂やがれきが表面を覆っていたのでしょうが、今は草原と化しています。以前そこには農村ののどかな田園風景があったのでしょう。「夏草や 兵どもが 夢の跡」という芭蕉の有名な句が、ふっと思い浮かびました。しかし芭蕉の時代と決定的に違うのは、同じ草原と言ってもそこは放射能で汚染された土地なのだということです。この草原の上で、再び、人間が安心して生活できるようになるには、一体どれ位の時間が必要なのだろうか、そんなことを思いました。そしてその反対側は、山間部が続いていました。山間部の森林には多くの放射性物質が蓄積されており、従ってこれらは必ず除染しなければなりません。しかし実際の山をみると、その広大さに、これらをどうやって除染するのか、一体どれ程の手間がかかるのかと、その困難さを強く感じました。

車が浪江町に入ると、景色は、一変しました。方々にがれきの山が散在し、津波によって、船や、車が陸地まで流されてきたその状況が、目の前に広がっていました。車を降りて、今度は実際に被災した土地を自分の足で踏みしめました。土砂とがれきが入り混じった地面のじゃりじゃりした感触を覚えています。半壊した小学校の中に入りました。ドアや窓ガラスは、破壊されて、体育館の床もその方々に深い凹みができていました。卒業式の練習をしていたのでしょうか、卒業式の垂れ幕が壇上の上、高いところに垂れ下げられたままでした。

これらを見たことによって、私は確かに大津波の被害の惨状を実感することができました。しかしそれよりもわたしに響いたのは、放射能汚染のせいで、かの荒廃した地を2年も手つかずの状態で放っておくしかなかったという事実でした。そのことに原発事故というものの非情さを思わないではいられません。浪江町の本格的な復興はこれから始まるのでしょう。

浪江町の視察及び今回のツアー全体を通して、私は、災害からの復興ということについて考えていました。そのことをこの記事の後半では書いてみたいと思います。
復興には二つの側面があると思われました。一つは、ふるさと・地域の復興です。それは、除染はもちろんのこと、がれき処理やインフラ整備等、それによって、そこに人が住めるようになることです。そしてもう一つは、人間の復興です。今回の震災と原発事故で、多くの人が、大きな喪失体験をし、心に傷を負ったのだと思います。避難生活が長期化する中、先の見えない不安といら立ちは、ますます被災者の精神状態を悪化させているとのことです。そんな彼らにとって、一番の復興とは、この過酷な現実を、それでもゆるし、受け入れ、再び希望をもって生きていけるようになることではないかと、私には思われました。それが私の思う人間の心の復興です。そしてこの2つの復興は、本来どちらか片方だけが先行しうるものではなく、相互に歩調を合わせつつ進展しながら、全体としての復興というゴールに到達するのだと思います。なぜなら、人間は、社会生活を営む場を得ることによって、はじめて生き生きとなれるし、またふるさと・地域も、人間にその場を提供して、はじめて地域社会として機能しうるからです。その時、人間と環境は、本来あるその有機的なつながりを取り戻すのではないでしょうか。 しかし実際には、地域の復興をしたくても、その地に立ち入ることすらできず、本来、セットになって、進めていかなければならない、地域と人間の復興が分断させられてしまっているのです。そして現実的にはむしろ、どちらの復興をも進めることができない、という事態に陥ってしまっているのではないかと私には思われました。

このような厳しい状況の中で、拠り所なく我慢を強いられている避難民の方々、そして事故以降、放置され、取り残されている彼らのふるさと・地域、この二つの不幸が現実にあるということを、私たちは、忘れず、ごまかさず、関心を持ち続けていかなければならないのだと思いました。それは隣人であろうとする私たちにとって、最低限の義務ではないかと思われます。

どうか避難生活の中で苦闘している方々にやさしい慰めがありますように。そして私たちには、一つ一つの現実に向き合う強さと、それを受け入れる柔和さが与えられますように。