台湾:社会問題に直面するイエズス会

ナレット SJ
新竹社会サービスセンター、レールム・ノヴァールムセンター 理事長
新樂-嘉樂 / 玉峰-石磊 / 尖石鄉 教会 主任司祭

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イエズス会員は、1950年代初期に初めて台湾にたどり着いたとき、今日の台湾とはまったく異なった島を見つけました。戒厳令は続いており、社会問題を扱うことは簡単なことでも単純なことでもありませんでした。この状況は一部の会員にはより多くの正義や労働者の権利の闘いを妨げはせず、その闘いを続けた結果、彼らの台湾での滞在は問題になり、禁止されていました。他の会員例えば2009年に亡くなった葉由根神父は、障がい者の権利のために闘い、施設を設立しました。それは台湾政府によって高く賞賛されており、設立者たちの活動は今日でも続いています。
今日、状況は大きく変化しました。若い労働者たちの寄宿舎は、1950年代1960年代の形態のものは、もはや必要なくなりました。諸権利を守る法律が制定され、民主主義は市民社会に浸透してきました。このことは、社会問題がもはや存在しないという意味ではなく、1950年代に先駆者たちによって設立されたセンターを通して、台湾のイエズス会は、より多くの正義や社会の全ての人の尊敬のために活動を続けています。

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現在、イエズス会は台湾で2つの社会センターを運営し、小教区を通して、原住民たちと共に活動を続けています。
1960年代、米国出身のE. Dowd神父は、新竹に若い労働者のための職業訓練校と寄宿舎を設立しました。現在ではそれが発展し、「社会サービスセンター」(新竹社會服務中心)、つまり「コミュニティセンター」となり、約30人が雇用され、幾つかの部門に分かれています。初めに、高齢者のニーズに応えるため、1990年代、デイケアセンターが設立されました。現在、毎日50人の高齢者を受け入れており、台湾の中では最もよい施設のひとつとみなされています。また「在宅サービス」部門では、ソーシャルワーカーが高齢者や障がい者の家を訪問し、必要なサービスを提供しています。もうひとつの部門では、困難にある世帯や家族へのカウンセリングサービスを提供しています。また様々な職業教室や、美術教室も運営しています。

このセンターは新竹では大変有名であり、地方行政によって手厚く支援されています。しかし幾つかの挑戦に直面しています。第一は、現在新竹でますます存在感を増してきている幾つかの大きくて有名な施設によって引き起こされている挑戦、第二は、社会施設の評価にあたって政府からより大きな要求をされていること、そして最後の挑戦は、センターで働くイエズス会員がいないため、いかにしてイグナチオの精神を維持し、センターが貧しい人と共に、貧しい人のために居続けることを確実にできるか、を知ることです。7名(イエズス会員3人、シスター1人、一般信徒3人)で構成され、年に3回会議を開いている理事会は、センターとその責任者である楊銀美さん(Ms. Yang Yinmei)が、これらの挑戦に対処し、センターの活動にイグナチオの「神のより大いなる栄光のために」というマジス精神(Magis Ignatian Spirit)をもたらすのを助ける責任があります。

1970年代に設立されたレールム・ノヴァールムセンター(新事社會服務中心)は、増大する労働者の個人の権利や要求の問いかけに応えて、1990年代、労働災害に苦しむ労働者たちを支援し、大挙して台湾に入ってきた外国人労働者たちの世話をするために、サービスを拡張しました。1990年代の終わり、1999年9月21日の集集大地震に続いて、センターは南投県の原住民コミュニティの中でもサービスを展開し、2004年以降は、新竹県でも活動しています。

レールム・ノヴァールムセンターは現在約10人の常勤職員の他、非常勤職員を雇用しています。センターのある台北において、活動は、主に外国人労働者のケアに集中しています。必要なときは通訳を使って支援し、必要ならばシェルターを提供しています。ここでは、労働災害や事故の被害を受けた方々をケアする部門を続けています。また都会に移動してきた原住民が雇用されるよう助け、南投県と新竹県の地元の原住民たちのために2つのラジオプログラムを流しています。

南投での主な貢献は、上質なマウンテンティーである阿朗茶を原住民の間で生産し販売するのを手伝うことです。初めはそんなに易しいものではありませんでしたが、その後、このブランドは今ではお茶の目利きの間では有名になり、貧しい原住民の農家が生活の水準を上げ、1999年の災害後、より明るい未来と向き合うのを助けました。新竹では、2005年に原住民の中学生たちのために個人指導教室が設立されました。そしてレールム・ノヴァールムのサービスは、困難を抱えている世帯のケアや、夏には新竹県の原住民村のご馳走である「ハニーピーチ」(honey peaches)の販売の手伝いにまで拡張しました。多くの家族の経済はそれに頼っています。

レールム・ノヴァールムセンターもまた、理事会で運営され、イエズス会員2人、社会のあらゆる分野から集めた専門家8人で構成されています。多くの意味で、現在行っている活動は1970年代にやっていたこととはまったく違います。しかし同じラインで活動が続いていると主張できるでしょう。虐げられる労働者は台湾人にはそんなに多くなく、しばしば独りで放っておかれ、惨めな扱いを受けているのは、外国人労働者です。彼らのケアは台湾人社会の正義に関する重要な問題点です。これが、ベリス・メルセス宣教修道女会の大変精力的な会員、Sr. Stephana Wei(韋薇)の指導のもと、レールム・ノヴァールムセンターが現在行っていることです。

台湾の市民の間で、原住民たちはしばしば差別され、最も貧しくて、そのほとんどが失業者として数えられています。こうした理由で、レールム・ノヴァールムセンターはまた、人口のこの範疇にある人々を注目の的にしてきました。新竹県では、センターは幹線道路からしばしば遠く離れたところにあり、アタヤル族が住んでいる村の教会を運営している何人かのイエズス会員とともに活動しています。これらの貧しい村々で、台湾のイエズス会は「直接的な」社会活動を行っています。イエズス会の小教区は1950年代に設立されて以来、イエズス会によって運営され、とても活動的で、活気があります。忘れてはならないのは、台湾のカトリック人口(おそらく約20万人)の少なくとも5分の2は原住民だということです。しかし私たちは、世界中の原住民コミュニティが悩まされるほとんどの問題にそこで出くわします。もし私たちは福音のよきしらせをもたらすことができるとすれば、これらの人々、特に若者たちが、何もしなければ自分たちの文化と伝統が消滅してしまうかもしれない世界に直面するときには、彼らを助けなければなりません。

もっとたくさんのことがなされるべきであり、イエズス会が直面している大きな挑戦は、社会使徒職に関して、人的資源とその分野で訓練された人材の欠如です。以下のことは、数年間この地区で計画していることです。つまり貧しい人々の奉仕のためにイエズス会員と一般の協働者の更なる訓練が緊急の優先課題です。このために、私たちは人(明らかに)、時間(確実に)、お金(不可欠に)を必要としており、それだけでなくイグナチアン的マジス(もっと)精神が、生活と希望を損なってしまった貧しい人々のために発言し続けるだろうという信頼をも必要としています。

クァンチーTV番組サービス

Steve Finch, 台北(台湾) 2014年2月14日(UCANew.com)

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落書きが散見され、灰色で、数十年前の外観をもった、クァンチー番組サービス(KPS)の本部は、開拓者の発祥地にはとても見えません。しかし、宗教上の放送基準では、中央台北に56年前建てられたこのイエズス会のTVスタジオは、世界でもっとも人口の多い国家への放送権の獲得という段になると、何年も先を照らす存在であり続けています。KPSはやんわりと中国に働きかけており、再度そうしているところです。

パートナーの江蘇省放送協会(JBC)が18世紀のイタリア人イエズス会員、ジョゼッペ・カスティリオーネについての共同制作ドキュメンタリードラマを放映するこの夏、クァンチーは、中国帝国でのキリスト教宣教師たちについての3回シリーズのTV番組製作に着手します。

カリフォルニア出身のイエズス会司祭ジェリー・マーティソンKPS副社長は、世界で最も大きなテレビ局であるCCTV(中国中央電視台)が、「おそらく年末ごろに」このシリーズを数億人の中国人の家庭に放送するだろう、と言います。

表面上、中国でのクァンチーの足場は、ほとんど意味がありません。厳密的にはまだ中国と戦争状態にある国家、台湾のカトリックTVスタジオのKPSは、宣教師たちについての番組を作っています。その番組は、キリスト教世界連帯団体(Christian  Solidarity  Worldwide)によれば「弾圧的」とレッテルをはられ、メディアの自由な番人である国境なき記者団(Reporters Without Borders)からは、「世界でもっとも洗練された監視システム」を持つ中国国家の、共産党の二つの放送局の検閲を受けています。

「台湾と中国においては、人間関係の中で、あらゆることが起こります」、と流ちょうな中国語の話し手であるマーティソン師は言います。

1990年代半ば、当時クァンチーの社長だったマーティソン師は、KPSスタジオの地下室で、台北の英語学校ジラフと組んで、カリフォルニア出身の彼が主演する学習番組を製作しました。

アメリカ英語とほぼ完全な中国語を切り替えながら、マーティソン師は授業というよりは説教をする形で教えました。この学習番組は「ジェリーおじさんの英語(Uncle Jerry’s English)」という名で放映されました。中国国内で放送する計画の予定で、宗教的な含みは水面下で保たれました。

「(施設ではなく)目で見える教会かコンクリートの建物であるかぎり、あなたがたは教会と言うことができます。恐らく、イエスのことなら、私たちは言えないでしょう。それは間接的な言及であるべきでしょう。基本的に私たちは、福音書の物語やたとえ話などを使いましたが、イエスの名前を示すことはしませんでした。実際に、イエスはそのことを気にしません」、と笑みを浮かべてマーティソン師は言います。

ジラフで築かれた関係によって、マーティソン師は1990年代後半にTVスターになりました。中国への放送権を認められている数少ない私設の放送局であり香港に拠点をおく新フェニックスTV局で15年以上にわたって、彼のアメリカ人的な良いルックスと丸刈りの茶色の髪は、レギュラーの顔でした。

文化大革命後の放送ジャーナリストで億万長者のLiu Changle氏に設立されたフェニックスTV局と、香港に拠点をおくRupert Murdch's News Corp Subsidiary Star TV局のキャスターは、初めからエンターテイメントを選んで政治的に敏感なニュースを避けていました。フェニックスの基準によればマーティソン師と彼の英語番組は冒険的であり、中国の基準によれば、前例のないものでした。
「私には他局が、ジェリーの(中国へ向けての)やり方で放送しようと試みたかどうかよく分かりません」とSIGNIS(世界カトリックメディアプロフェッショナル協議会)のアジアの会長であるAugstine Loorthusamy氏 は言います。「彼は『ジェリーおじさん』シリーズからよく学び、それが福音宣教の方法であることを発見しました」。

決して英語を教えたかったわけではありません、とマーティソン師は言います。彼はドキュメンタリー映画を製作するプランを持っており、1601年に北京の紫禁城に初めて入った西欧人で、先駆者的なイタリア人宣教師マテオ・リッチについての特別番組を撮りたいと長年望んでいました。長年、マーティソン師は中国人パートナーに拒絶され、「それは中国の法律に違反する」と言われたそうです。

しかしそのとき、「誰か」が(マーティソン師は誰だとは言いませんが)リッチの物語をPaul Xu Guangqiの物語と二つ一組にして製作するという「うまい考えを持っていました」。Paul Xu Guangqiはキリスト教改宗者で、イタリア人を介して西洋の幾何学を中国にもたらしたリッチの友人です。
中国人に焦点をしぼり、外国人を控えめに扱うことで、突如初めて、クァンチーは中国の視聴者のためにリッチについての映画を撮ることができました。

「私はそのとき、Jiangsu Televisionの会長に尋ねました。私たちが作る番組は宗教的要素をもっているのを知っていますね、それらは政府に検閲を受けることはありませんか。彼女は言いました、私たちが政府です。」と言ってマーティソン師はにやりと笑いました。「それは本当で、彼らは地方政府の一部でした」。

2006年1月にChinese televisionで放送されたとき、およそ25分のこの4回シリーズの番組は宗教的なことよりも文化的・科学的なことに焦点を置きました。初めの回にほとんど8分近くまで全くキリスト教についての言及はなく、18分が経過してはじめてイエスについて触れられました。

多分、もっとも明確にキリスト教について語られた部分は、ローマのイエズス会資料館内でのリッチの遺骨についてのインタビューでした。その意義は、彼が中国に対して、中国のために、そしてイエズス会のためにしたことによって説明されました。リッチによって明王朝の役人が改宗したことは、それとなく言及されましたが、都合よく省かれました。

このシリーズを後に放映するCCTVは、Jiangsu Televisionよりも編集でもっと厳密でしたと、マーティソン師は言います。その後に中国の国営放送局がクリスチャンの中国人ディレクターによって独自のリッチの番組を製作しましたが、それもまた放送前に検閲の手によって、苦しめられました。

いずれにせよ、KPSは先駆者でした。「中国本土で放送されるような番組をイメージしてみてください。その方法はもっとも微妙で、潜在意識に訴えるものでした。」とLoorthusamy氏は言います。

二本目の試み

クァンチーは二本目の宣教師映画、すなわち17世紀のドイツ人イエズス会員ヨハン・アダム・シャール・フォン・ベルの物語を推し進める前に、中国共産党権力トップからの合図を待っていました。2005年のドイツへの公式訪問の際、胡錦濤国家主席は、中国の暦を西洋暦と連携させる中国の取組に対するベルの「意義深い貢献」について言及しました。KPSはそれを映画製作のゴーサインとして受け取りました。

「このことを公的に述べることで、胡錦濤国家主席はおおよそ、アダム・シャールの存在を認めました」、とマーティソン師は言います。「従って私たちはJiangsu TV局と連携し、『今や私たちは番組製作ができるだろうと考えます』と私が言いました。」

2009年3月にCCTVによって初めて中国で放映されたとき、その映画はまたベルのキリスト教促進よりも、むしろ彼の天文学や数学の功績を証拠書類で立証するという科学や文化的交流という比較的無難なところに終始したものでした。ベルの皇帝との関係は、福音宣教という通常の活動を、中国の中で弾圧なしに行うための実用的な手段でした。彼の時代、推定50万人ほどの中国人が洗礼を受けました。

「興味深かったのは、KPSの各番組の中で、彼らはマテオ・リッチやアダム・シャールを中国の友人、中国に偉大な貢献をした人々として常に描くことで、彼らは実際には中国を西洋世界へ開いたのです」、とマーティソン師は言います。
そこで語られる内容は、中国はその他の世界の国々を喜んで受け入れるという近年の公式の路線に合っていて、その談話が2008年の北京オリンピックの中心となることであったと、彼は言い加えます。

「人々が、多くのことを犠牲にし、ある程度の失敗をしてきた人物を画面上で見る時、それは大きな共感を生み出し、私たちにとって素晴らしい経験でした。」、とマーティソン師は言います。

中国人視聴者たちがカスティリオーネの映画を今年の後半に見るとき、彼らは別の苦悩の物語に直面するだろう、と彼は言います。再びその時期は、注意深く計算されています。

その映画は、18世紀の中国を魅了したカスティリオーネの東洋と西洋を取り混ぜた絵を通して、中国の午(うま)年と結びついています。そのイタリア人イエズス会宣教師の描いた最も有名な作品7.7mの長さの絵巻物‘百駿図’は、毛沢東主席が1949年に中華人民共和国を勝ち得たとき、逃亡していた国家主義者によって紫禁城から盗まれましたが、台北の故宮博物院に収められている原画から複製され、KPSによって画面上で展示されています。

中国では、その絵は有名で、盗まれた宝物として考えられていますが、イタリアでは、カスティリオーネは依然としてほとんど知られていません。KPSは、来年のミラノ国際博覧会2015で提携してこの映画が放映されることによって、カスティリオーネの存在が変わっていくことを望んでいます。この博覧会は5年に一度、様々な都市が主催役を務める世界的な文化的イベントであり、最後に開催されたのは2010年上海でした。

JBCのディレクターGao Wei氏は近日上映の映画を売り込む最近の公開されたビデオインタビューの中で、「できたら私たちは、カスティリオーネの時代と私たちの時代の仲をつなぐ橋をかけたいものです。過去とつなぐ何かの助けになる関係を探している」、と述べています。

入り混じった動機

このプロジェクトは関わるどんな人にとっても大変様々な目標を成し遂げます、とミラノ出身の司祭であるEmilio Zanetti師は述べます。彼は、イタリアでの撮影と資金集めをし、このプロジェクトをカスティリオーネの故郷ミラノでの博覧会に結び付けることを支援するため、KPSによってコンサルタントとして参加を依頼されました。
中国人企業家や中国政府は、国の文化の陳列棚として、博覧会の中国セクションに力を入れて資金を出す約束をしました。そこにはカスティリオーネの作品(‘百駿図’を含む)とともに、依然として海外の略奪者の手中にある中国の宝物について強い当てつけがあります。
「もちろん、彼らの主な関心事は彼の美術作品です。なぜなら彼らはどこからでも中国に属していた全ての美術作品を取り戻そうとしているからです」とZanetti師は言います。

ところが中国南東部の浙江省とイタリアで撮影している間、キリスト教に広がっていくかもしれない関心がありました、と彼は付け加えます。「とりわけ、テレビの取材班、または故宮博物院や外務省の職員の、より若い人々の間で、私はその関心に気付きました」。
関心の原因は、中国美術にそのような足跡を残した聖職者カスティリオーネの背景を中国人がたぶんもっと知りたいことにあると、Zanetti師はみています。その映画はドキュメントが今年の後半に中国の数百万の家庭に届くとき、どんな宗教的メッセージを付与することが期待されているのでしょうか。

そのことが、1958年にラジオ放送局として開始して以来、クァンチーが到達すべき目指すことの中心で原動力となっている問いなのです。KPSが改宗者に説教しているか、または、そのメッセージが福音宣教の目的を実現するには薄すぎるかどうか、をいうのは難しいことです。マーティソン師にとって重要なことは、クァンチーの宗教的メッセージが中国に存在しており、それが絶えず先へ進み続けることです。
「間違いなく、全体としての目的は、これらの宗教的価値を中国の人々にもたらすことです」と、彼は言います。「もしできるなら、そして将来に私たちにできると望むなら、私たちは他の物語を伝えたいです。なぜなら中国の教会の真の成長は草の根の活動から起きたのですから。しかし、私たちはまだそれをすることができません」。

必要があればどこへでも行く
台湾での50年

イエズス会中国管区 HP

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第二次世界大戦が終わった時、中国人は8年間にわたる日本人との戦いの後、平和の時代が来るのを楽しみにしていました。日本人に対する彼らの勇敢な抵抗は、世界の賞賛を勝ち得ました。1939年にローマ教皇庁は300年続いた中国人市民の儀式(Chinese civil rites)の禁止令を撤廃し、カトリック信徒が先祖と孔子に尊敬を示す儀式に参加することを許可しました。福音が国全体に自由に広がっていくように思われましたが、その代わり、いっそう過酷な試練の時代に入っていきました。国民党政府は共産主義者によって転覆させられ、1949年に台湾へと退却しました。

1950年、無神論の共産党政府は、外国人宣教師を追い出しはじめ、一方で、中国人聖職者は、逮捕され、収監されました。最も悲痛な出来事は、上海の徐家匯(Zikawei)にあるカトリック高校の校長だったBeda Chang神父が殉教したことです。養成中の若いイエズス会員の召命を守り、彼らが他の地で勉強を続けられるために、国を離れる難民たちの流出に加わるよう手配しました。1951年、イエズス会宣教師として初めてカリフォルニア出身のEdward Murphy神父が台湾に入国しました。1952年以後、海外から神の栄光のためにブドウ園で働く目的で台湾へ入るイエズス会員の流れが継続的にありました。全部で579人のイエズス会員が20世紀の後半にはこの地に駐在しました。中国人の他にも、ヨーロッパ、北アメリカ、南アメリカ、そしてアジアの多くの国々の会員がいました。この多様化と国際化が今日の中国管区を豊かにしました。

台湾における最初の宣教師の努力の場所は、新竹と台北でした。そこには、諸言語と様々な国籍と諸文化の混乱がありました。つまり、あらゆる場所から来た外国人、様々ななまりで話す中国本土中からの中国人、ミンナン語やハッカなまりを話す地元の中国人、加えて、日本の支配時代からまだ日本語を話す地元の高齢者たち、さらには、固有の言語をもった台湾原住民たちがいました。このような多様性との遭遇は、地元のコミュニティに加わり、その一員になるために、マテオ・リッチの精神で言語を学び、慣習に適応した新入りのイエズス会員を豊かにしました。

戦争後の台湾は、多くの大変動を経験していました。イエズス会は福音を説くだけでなく、教育的、医療的、そして社会的な援助で台湾に支援を提供するようになりました。

1960年代、台湾の状況は次第に落ち着いてきましたが、貧しい人々はまだかなりいました。多くの人々は、都会に仕事、教育あるいはよりよい生活を求めて、田舎を離れました。新しい観念や要求からのカルチャーショックを和らげるために、彼らは指導と教育をとても必要としていました。戦後生まれの子どもたちは、あらゆる階層の人々の中で、重要な社会的地位を占めるまでに成長しました。洗礼を受けている、いないに関わらず、非常にたくさんの人々がイエズス会と関わりを持ちました。彼らは、イエズス会が経営する学校に通い、イエズス会の経営するホステルで厳密かつ愛情のこもった世話を経験し、イエズス会が担当する教育的、社会的、文芸的、芸術的、そして娯楽的な団体や行事に参加し、イエズス会員と生涯の友を作り、厳しい状況の時にはイエズス会が提供する援助で助けられ、イエズス会の運営するクリニックで治療を受け、イエズス会の製作するラジオやTV番組によって楽しみ、啓発され、またスライドショー、ドキュメンタリー、雑誌、書籍、およびイエズス会とその活動または公けの行事参加について継続的な情報の洪水によって影響を受けています。こうして一般にカトリック信徒、特にイエズス会員は、福音の灯を燃やし続けています。つまり、塩であり光であるイエスが全ての人を「彼自身」にひきつけたように、イエズス会員は同じ使命を遂行し、その姿を全ての人は見ることができるのです。

ここ数年の台湾の豊かさの上昇と、現代の社会的優先度の変化を考慮すると、イエズス会員は洞察を研ぎ澄まし続け、最新の社会動向をつかみ、そして奉仕の範囲を拡大しかつ深めることを常に必要としています。「より」社会のニーズを理解し、「より」効果的な行動の手段を発展させ、「より」効果的に「より」多くの人たちに奉仕するために、イエズス会の進め方は何なのか、ということを追求することは、私たちの責任です。

司牧活動を通じて、他者への奉仕のために命をかけているイエズス会員は、台湾のあらゆるところで見つけることができます。彼らは、新竹、台南、嘉義そして高雄の都会の小教区で、一般の人のための司牧活動を行い、山岳部では先住民族のために働きます(例えば、Manresa Center of Spirituality、Ignatian Spirituality Center、Cristian Life Communities、Christian Service Community、Marriage Encounters、Apostleship of Prayer等)。また、教育(FuJen Catholic University、St. Ignatius High School、St. Aloysius Industrial School、Tien Education Center等)、マスメディア(Kuangchi Program Service、Kuangchi Culture Group、Renlai Magazine)、インカルチュレーション(Aurora Center、Ricci Institute、Xavier Cultural Center、Tien Culture Foundation)、社会活動(Rerum Novarum Social Service Center、Hsinchu Catholic Social Service Center、知的障がい児のHua Kuang Center、老人の世話、ホスピス、海外からの労働者支援)があり、これに加えて、通常の仕事のほかに、芸術家、作家、講演家、宗教間対話をする人、パフォーマー、あるいは市民的なコミュニティ活動のメンバーである大勢の個人もいます。

台湾にはまだカトリック信徒は多くないかもしれません。しかし、たとえそのイエズス会員が誰であり、何であるのかを知らなかったとしても、イエズス会員を見たことも聞いたことも全くなく、あるいはイエズス会員の言葉や行動から展開したさざなみによって、小さい仕方であれ、彼、彼女の人生に全く影響を受けなかったという非カトリック信徒はほとんどいません。

台湾は、中国本土での大変動の間も、中国人の文化と自由の松明が燃え続けているとても特別な場所です。現在の台湾の使命は、その中国文化の松明の光が、世界中に広がるすべての中国人コミュニティにおいて輝くのを保証することです。

50年の今、イエズス会員は台湾で、人々と共に住み、笑い、泣いてきました。私たちが初めて奉仕した人々はみんなとても高齢で、あるいはすでに亡くなりました。しかし、私たちは友を作り、若者と老人双方に奉仕し続けます。私たちがいなくなった後もずっと活動を継続し拡大させるために、私たちが奉仕する人々の中から若者たちが、私たちの会に加わろうと名乗り出てくれることを心から祈っています。

台湾の若者との楽しい時間

東アジア・太平洋地域における移民労働者のイエズス会ネットワーク

安藤 勇 SJ

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6つの国と東アジア・太平洋地域(JCAPアシスタンシー)で移民労働者のために活動しているイエズス会員と協働者の代表者グループが、6月の第一週に一週間ジャカルタ(インドネシア)に集まりました。JCAP地域での移民のために任命されたコーディネーターであるイエズス会のベニー・ジュリアン神父がこの会議を招集しました。その目的は、将来も活動を続けて、新たにイエズス会機関を取り込んでいけるよう、このグループを発展させることでした。特にベトナムとマレーシアのことが考慮されました。

3年間(2015 - 2017)実行計画が決定されました。この計画は、移民労働者と在留資格がない人たちに焦点を絞っています。人身売買の犠牲者たちを含むイエズス会難民サービス(JRS)の活動もまた取り組まれるべきです。JCAP地域において、主要な共通の関心事のひとつは、とても多くの移民労働者が悪影響を受けている現在のブローカー制度に注目する必要があるということです。

JCAP地域は、毎年何十万人もの移民を送る側の国と受ける側の国を含みますので、参加者は受ける側の国から送る側の国まで、そしてその逆においても、移民に不可欠な情報に関して親密な協力をしていくことで同意しました。協働者たちからなる新しいイエズス会のネットワークは、この3年間で代表とされた各国に与えられる研究補助金を決定しました。その研究テーマは、以下の通りです。a) 移民の子どもたちの福祉(2015)  b) 移民の帰還と自国での受け入れ (2016)  c) ブローカー制度(2017)。

この件に関するより詳しい情報は、次回の通信の記事で提供します。

カトリック世界のニュース

アルン デソーザ SJ、村山 兵衛 SJ

教皇、ペレス大統領、アッバス議長、バチカンでともに平和の祈り

6月8日、Al Jazeera / Jewish Telegraphic Agency —パレスチナ自治政府のM・アッバス議長はイスラエルのS・ペレス大統領と教皇フランシスコとの平和の祈りの中で、「われらの独立主権国家に平和を」と祈った。三人の指導者は祈願を行った後、バチカン庭園にオリーブを植樹した。その後、プライベート会談を行った。

祈願の中でアッバス議長はパレスチナの民にとってのエルサレムの重要性を語り、神がパレスチナ人をイエスの誕生地ベツレヘムとともに祝福していることに感謝した。また、神に「われらの国と地域の包括的で適正な平和を」願い求めた。フランシスコ教皇は祈願の中で、「何度となく平和に近づきながら悪に阻まれてきました。だから今私たちはここにいるのです。私たちは天に目を上げ、みな同じ唯一の父をもつ子らであることを認めます」と述べた。ペレス大統領も祈願の中で次のように述べた。「かつては若かった私も歳をとりました。戦争を経験し、平和を味わいました。戦争の代価を払った遺族(親子たち)を、私は決して忘れません。そして生涯、私は平和へ向けての行動を、将来の世代のために諦めません。みな手をとり合って頑張りましょう」。

オナイエカン枢機卿、ナイジェリアの平和へ向けての対話を呼びかける

5月28日、Agenzia Fides ―独立後のナイジェリアでも依然影響力の強いソコトのスルタン、ムハンマド・サアド・アブバカル3世は、ナイジェリア・イスラム最高法廷がアブジャ国立モスクで催した祈りの集いで次のように述べた。「われわれは立ち上がり、声をひとつにして、あらゆるテロ活動、テロリストを非難し、ムスリムとして国に平和が支配するよう最善を尽くさなければなりません」。これについて同国のオナイエカン枢機卿は「スルタンの勇気ある声明を歓迎します」と述べた。250人以上の少女の誘拐(6月現在も未解決)は疑いもなく非常に深刻である。枢機卿は、非難の声明のさらに先へ向かう必要性を説く。なぜなら、枢機卿によると「ナイジェリアのムスリム共同体内部での対話が至急の課題と思われる」からである。「そうした対話があれば、ボコ・ハラムのような集団が現われて活躍する宗教的風土や雰囲気を生む流れや動きに対して、勇敢に誠実に対処できるようになるのです」。

JRSの神父、アフガニスタンで誘拐

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6月8日、The Tablet —アフガニスタンでイエズス会難民サービス(JRS)の責任者を務めるインド人イエズス会神父が誘拐され依然行方不明である。アレクシス神父(Alexis Prem Kumar, 47)は6月2日、JRSが西部ヘラート州ソハダト村で運営する学校から、銃をもった男たちに連れ去られた。アレクシス神父はインドで慈善事業に従事したのち、2011年7月にJRSアフガンの任命を引き受けた。誘拐犯は依然不明。インド人(労働者を含む)に対する同様の襲撃は、インドがアフガンで種々の開発事業を行うにつれて以前から報告されており、タリバンの激しい抵抗に直面していた。

中国本土のカトリック共同体で復活祭に20,000人が受洗

5月26日、Agenzia Fides ―中国本土のカトリック共同体は2014年の復活祭で福音宣教の実りを収穫した。全体で20,004人の受洗者のうち、70%は成人で、キリスト教入信の秘跡である堅信と聖体を同時に受けたという。

背教容疑で死刑に直面するスーダン人女性、拘置所内で女児出産

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5月27日、BBC News ―メリアム・ヤヒア・イブラヒム・イシャグさん(27)はキリスト者の男性と結婚したが、キリスト教棄教を拒否したことで背教者とみなされ、5月15日に絞首刑を宣告された。イシャグさんは処刑が執行されるまでの2年間、5月27日に拘置所で出産した女児を育てる許可を受けた。南スーダンのキリスト者との結婚がスーダン側のイスラム法では無効という根拠で、彼女は姦通罪も宣告されている。同法によると、ムスリム女性は非ムスリム男性と結婚できないという。これに基づき判事からイシャグさんに100回のむち打ちが宣告され、出産から回復してから執行される模様である。彼女は母とともに正教会のキリスト者として育った。ムスリムの父親は彼女の子ども時代に不在だったといわれる。

6月2日、Agenzia Fides ―スーダンキリスト教会協議会(SCC)は、イシャグさんの死刑宣告が「スーダン・キリスト者への明らかに直接的な迫害」であると宣言した。SCCは判決の無効宣言と彼女の即時釈放を求めている。同協議会は、判決が暫定憲法31,38条に抵触していること、また宗教と良心の自由を保障する国連人権憲章にスーダンが調印していることを指摘している。

ごあいさつ

吉羽 弘明 SJ (ブラザー)

この春、社会司牧センターのスタッフに加わったイエズス会ブラザーの吉羽です。未だにわからないことばかりで右往左往していますが、早く慣れたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。

私はイエズス会に入会後、これまで主に社会福祉に関係する分野とのかかわりを持ってきました。この社会司牧通信でも、北海道・浦河町にある精神障害者の地域活動拠点「べてるの家」について、また現在聖イグナチオ教会で活動している聖イグナチオ生活相談室についてなどをレポートする機会がありました。振り返ると、今の私がこのようなことにこだわっているのは、これまでの経験が大きな影響を与えているのかなと考えることがあります。

私はバブル世代で、小さな大学を卒業しましたが、それでも友人には内定を10社も出されたという人がいました。私自身はやっと卒業直前に勤め先を見つけた口なので、あまりバブルの恩恵を受けたという記憶がありませんが、それはともかくまだまだ牧歌的な働き方をしている職場は多かったと思います。私はその後離職を経験し、バブル崩壊もあって再就職先が見つからずに、6年間ほど非正規労働に従事したことがあります。それでもアルバイト先にはまだ正社員がある程度おり、アルバイトが正社員の代わりを果たすことがあまりなく、私のようなフリーターはまだ少なくて勤め先には多少余裕がありました。しかし段々と、「秀でた技能がないと、定職どころか安定した生活すら営むのが困難な社会になるのでは」ということを肌で感じることが多くなっていました。

先日、日本の生活不安について書かれた本を読んでそれについて語り合っている時に、20代前半の人がこのように言うのです。「この本にある『豊かな社会』って、一体何なのですか。そんなものは今まで経験したことがありません。」この言葉は非

耳を傾け共に時を過ごす (聖イグナチオ生活相談室の外出企画で)
耳を傾け共に時を過ごす
(聖イグナチオ生活相談室の外出企画で)

常に重いものでした。私(たち)にしてみれば、「豊かな社会」とはある程度自明なもので、きちんと働く人の尊厳が守られた社会であるとか、労働以外を楽しむことができる生活があるとか、「普通に生活する」ための収入が一つの仕事で可能であるとか(貧弱な発想でしょうか…)なのですが、彼らはもう生まれた時から縮小社会に入っていて、そんなものはもうどこかに飛ばされてしまっていて、「豊かな社会」とか言われてもピンとこないわけです。それどころか、ひょっとしたら「そんな、今はありもしないことを、昔を振り返りながら気楽なことを言っている」と反発を感じているのかもしれません。

「今の若者は批判意識がない」とか「社会の価値観にとらわれている」とか批判したところで、彼らが生きていくために社会に「おもねる」のはある程度仕方がないのではないか。むしろ、望まれる社会のモデルを次の世代とともに考察し、イメージしやすいように提示してそれを実践しようとすることが、少し先の時代を歩んでいて、遅かれ早かれ彼らより先にこの世を「引退」する私たち世代の役割なのではないかと思ったのです。

現在の社会について、「ヤンキー社会」とか「反知性主義」とか評されることがあります。社会学の勉強をしているわけでもないので、それが現代社会への妥当な評価なのかどうかはわかりませんが、ある程度当を得た考え方なのではないかと思っています。

何かを論じる時に、根拠となるものをいろいろと検討し、時に前の時代を振り返りながら考察・議論して物事を決定していくのではなく、知性やリテラシーをないがしろにした、思い付きあるいは思い込みにも似た考えを根性や常識などによって強化し、判断・決定していることが多いのではないか。だから、存在もしないことを根拠に物事が主張され、最悪の場合はそれが政策になったりします。

私は、これらでヘイトスピーチのような出来事についての一部を説明できるし、逆に今では説得力を失いつつあるリベラル勢力が、時代の変化によって人々の知性に対する受け止め方も変化しているにもかかわらず、以前と同じような用語や表現方法を用いていることで(主張していることが正しくても)、人々を説得できない、影響力を持たない・持てないことの説明もできる気がします。柔軟さがある知的探究を社会に取り戻すことが必要です。

私の能力や性格から、センターの先輩方がされてきたような大きなアクションを取ることはできないと思います。しかしこれまで述べてきたようなおもいを胸に、教皇文書や教令でも繰り返し述べられる貧困の構造面を見極めること、とりわけ日本に住む市民に今何が起こっているのかを理論的に分析し、それに基づいて私たちがどちらに向かっていくべきなのかを考える基礎となる研究を、社会司牧センターから発信できればいいなあと考えています。