天然資源マネジメントにおける和解と正義

中井 淳 SJ
下関労働教育センター所長

「ビッグに考えてほしい。あきらめないでくれ。世界はあなたたちを必要としているんだ。私の親愛なるイエズス会の仲間たちよ。」そんな励ましの言葉で締めくくられたチャールズ・ボー枢機卿のオープニングスピーチだった。今回のアジア・太平洋地区の社会使徒職会議はミャンマーのヤンゴンで行われた。私は七年ぶりの参加だ。来てよかったと思う。「あなたたちイエズス会員は、ビッグに考えることができる人たちだ。」と盛んにその言葉を繰り返し、私たちを持ち上げてくれたけれど、狭い視野で考えてしまいやすい私への戒めの言葉でもあった。

今回の会議のテーマは「ラウダート・シ ~天然資源マネジメントにおける和解と正義~」である。こんなに深刻な状況になっているとは。ミャンマーは天然資源の宝庫であり、それをきちんと分配し、活用していくならば、ヤンゴンの街のあちらこちらに路上で寝ている子どもたちがいるという悲惨な状況にはならないはずである。しかし、ミャンマー、そして東南アジアの国々は歴史の中で大国の植民地となり、独立したのちも、内部の権力者、外国の資本によって支配と搾取の植民地主義が続いているのだ。その利益は、決して貧しい人たちに渡ることはない。そして、10年後には国家の収入源であるジェイド(翡翠)は完全に掘り尽くされ、後に残るのは山が削られて残った砂漠だけである、と枢機卿は言われた。

「これはテロリズムである。エコロジカルなテロリズムだ。この世界のわずかな権力者たちが、誰が生き、誰が死んでいくのかを決定している。キリストが死なれたのはこのためだったのか? これが救いなのか、喜びの福音なのか? 私たちはISISのテロリストに対しては闘いながら、他のテロリストを認識していないではないか。経済的テロリスト、そして環境のテロリストを!! このテロリストたちが好き放題に貧しい人々、まだ生まれぬ世代の子たちを傷つけていくのだ。」そう叫ぶ枢機卿は、チェジュ島のカン司教に重なる。傷ついた場所から正義と平和を叫んでいる。

いくつかのグループに分かれてわかちあいが行われた。私たちは、日本、韓国、中国という北東アジアグループであった。三日目はフィールドワークで、いくつかの環境団体を訪れた。風刺画で環境正義の意識を啓発しようとする活動家の絵が飾られていた。もう食べる部分が全く残っていない骨だけになった魚と、食べ終えて置かれている箸。箸文化、つまり私たちのグループ(日本、韓国、中国)が天然資源を搾取していることを痛烈に風刺している。

私たち箸文化グループのわかちあいでは、何度も「加害者」という言葉が飛び出した。現代のコロニアリズム(植民地主義)の加害者である私たちという認識を確認しあった。同時に、日本と韓国は、原発の問題に何度も言及した。韓国はムン・ジェイン新大統領の政権が脱原発の方向へと舵を切ったと希望をわかちあってくれた。日本の状況がもどかしいが、その韓国の仲間たちと絆を深めていることを確認し、それは励ましと希望になる。中国の方で、一緒に手を組んでくれる人がいてほしい。(中国管区からの参加者は一人だけであった。)

原発の問題を解決しようとするとき、私はやはり、枢機卿が言った「ビッグに考える」ということが大切なのだと思った。私たち日本の文脈において、原発の問題が何よりも優先課題だ。しかし、『ラウダート・シ』の根幹のメッセージは、環境問題と貧困の問題が不可分であるということだ。ミャンマーは地球の温暖化に対しては、世界で二番目に脆弱な国であるという。サイクロン、地震、洪水で人々が生命と生活を奪われていく。アジアはその苦しみに対して責任を負っているのだ。根本的な解決は、この人たちの叫びに耳を傾けることだ。そして次世代の犠牲者たちに耳を傾けることだ(環境間正義)。そうして、エコロジカルな回心が行われてこそ、原発の問題も解決するだろう。

まったく新しい「緑の解放の神学」(環境における解放の神学)によって、革命を起こしてほしいと枢機卿は鼓舞してくれた。経済的な正義と環境の正義が統合され、世界を変えていく神学。レオナルド・ボフが言ったように「貧しい人の叫びはしばしば地球の叫びによって引き起こされている」のだから、と。

『ラウダート・シ』のメッセージを受けながら、管区のレベルで、共同体のレベルで、そして個人のレベルで今やっていること、これからやっていきたいことを参加者が書き出していった。中国管区から参加しているフェルナンド神父が、「貧しい人たちが私たちをどう見ているか、常にその視点を持って考えること」と言ったその言葉が胸に残った。貧しくされた者たちと友となり、寄り添う者となること。イエズス会の大切にするミッションである。

2020年の東京オリンピックのために使われる大量の木材は、パプア・ニューギニアから運ばれると聞く。今回はパプア・ニューギニアで働くイエズス会協働者とも時間を共にし、親交を深めることができた。彼ら、彼女たちが私たちの国がしていることをどのような目で見ているのか、その視点を私も忘れないようにしたいと思う。そのために、今回の出会いをこれで終わらせたくない。

刺激とインスピレーションを与え、視野を広げてくれる集まりであった。これからさらにネットワークを保ち、実践し続けていこう、と各管区からネットワークの窓口が選ばれた。切り崩されていき、砂漠となっていく山々の映像が思い出される。果てしなく大きな問題の前に立っていると感じる。しかし、何かをせねばならない。私たちの力は決して大きくないが、私が漕ぎ出していく沖はここにもある、と深いところで確信を感じている。

生野オモニハッキョの40周年

―地域での役割、コラボレーションの推移―

阿部 慶太 OFM
フランシスコ会司祭

大阪市生野区の在日韓国朝鮮人(以下在日)のための民間識字教室「生野オモニハッキョ」(母親学校の意味、以下ハッキョ)が7月16日に40周年を迎え、記念行事が行われました。1970年代、大阪市生野区は、人口約15万人中、4万以上の在日居住地域でした。大阪市内の他の区には夜間中学が開校されていたのに、生野区にはありませんでした。そのため、1977年7月、オモニたちからの要望に地元の有志が応える形で、日本基督教団の聖和教会の礼拝堂で、日本で最初の民間による在日のための識字教室としてハッキョが開講され、現在に至っています。

現在も、生野区の聖和社会館で、毎週2回月曜と木曜の夜7時半からハッキョが開講されています。ここで学ぶオモニたちは、太平洋戦争の前から、また、いわゆる朝鮮戦争の混乱期に日本にやってきた高齢者や結婚などで日本にやってきたニューカマーなど顔触れは様々で、最高齢は88歳のオモニです。スタッフは学生や社会人10数人が関わり、すべてボランティアです。クラスは小学校低学年のレベルから中学生レベルまであり、常時30人前後のオモニたちが各クラスで学んでいます。

オモニたちが文字を学ぶ理由は、日本で生活するために日本語を学ぶケースや、戦争など何らかの理由で初等教育を受けることができず、日本でも就学できなかったケースなど様々です。

オモニたちが高齢になってから努力して日本語を学び生活し、さらに、教室での学びと交流によって自分を取り戻し、韓国料理や舞踊などの文化を通じ行動範囲が広がる様子は、パウロ・フィレイの言う「文字を通じた解放」の生きたモデルとして地元に定着しています。

さて、日本の各地にあるハッキョの先駆けとなったこの教室の40周年記念式典が、7月16日、在日本大韓民団生野西支部(以下民団西支部)において行われました。当日はNHK大阪が取材に来るなど盛況でしたが、この行事に参加し、私が関わっていた1995年から2003年のころに比べると大きな変化が生じていることを感じました。

私が関わっていた1997年に、生野区に夜間中学が開校されました。これは、ハッキョが開講されて20年後のことでした。この時期、ハッキョから夜間中学へ進むオモニが増え、ハッキョの生徒数が一時的に減った時期がありました。しかし、最近は夜間中学からハッキョへというケースが増えたそうです。なぜなら、夜間中学には卒業がありますが、ハッキョには卒業がないため、夜間中学の卒業後の進路に、生涯学習の場としてオモニハッキョが紹介されているのです。

また、民団など民族教育を推進する団体は、バイリンガルの在日のメンバーが数多く在籍し、オモニに日本語を教えることについては否定的意見が以前は多くありました。ですが、今回は式典の会場も民団西支部大ホールでしたし、韓国芸術院会員による韓国民謡が披露されるなど、日本に同化するという目的のためには以前は協力することのなかった人々も思想的な点を超えて、オモニたちのために行事に参加してくれるようになっています。これはスタッフの尽力や地域との交流の積み重ね、そしてオモニたちの存在が大きいといえます。このように、この10数年の間、公立の学校、民族団体などとコラボレーションの輪が広がっているのです。

生野区という多数の在日が居住する地域の中で、地域活動と他の団体とのコラボレーションによって人々が集い交流し協力する様子は、在日外国人が多数居住する地域においても、今後モデルケースとして交流やコラボレーションについてのヒントを与えてくれるのではないかと思います。

「危機」にあおられて独裁を招くのか

―自民党改憲草案「緊急事態条項」を考える―

戦後70年の行き方を変えた5年間

2013年以来、戦後70年の行き方を転換させる政策が次々に採用されています。2013年には、行政機関の長(大臣や都道府県警本部長)に様々な情報を秘密指定する権限を与える秘密保護法が制定されました。秘密保護法は、秘密情報を漏らそうとした公務員はもちろん、情報を漏らすよう働きかけたジャーナリスト等も厳罰に処することができ、報道の自由、言論の自由に深刻な影響を与えることが懸念されています。

2014年には、これまで日本政府自身が憲法9条のもとでは認められないと説明してきた集団的自衛権の行使(日本が武力攻撃を受けていない場合でも、同盟国が受けている武力攻撃に対して日本が「反撃」すること)を認める旨の閣議決定がなされました。2015年には、集団的自衛権の行使を認めるとともに、自衛隊を海外の紛争地域に派遣して兵站作業を行わせることを認める安全保障関連法制が、強行採決により成立しました。

2016年には、通信傍受法(盗聴法)も「改正」され、警察が盗聴できる犯罪の範囲が大きく広がりました。そして、今年2017年には、何も悪いことをしていなくても「犯罪の計画を立てた」だけで処罰する共謀罪の趣旨を含んだ組織犯罪処罰法の改正案が国会を通りました。

他方で沖縄の名護市辺野古地区では、アメリカ軍海兵隊の新たな軍事基地の建設が、地元の民意を踏みにじって強行されています。世論調査の結果からも明らかなように、沖縄では新基地建設反対の意見が多数を占め、県知事や県議会の多数派も新基地建設に反対。衆議院や参議院でも沖縄の選挙区で当選した議員は全員が新基地建設反対の立場です。それにもかかわらず、「本土」の民意は沖縄に冷淡であり、新基地建設反対運動を誹謗中傷する声も広がっています。

また、翁長沖縄県知事は仲井眞前知事が行った辺野古の海面埋め立て承認処分を取り消しましたが、なんと裁判所は翁長知事の決断を「違法」と判断しました。しかも、新基地建設反対運動のリーダーが「威力業務妨害」等の罪に当たるとされて逮捕され、長期間の身柄拘束を受けたあげく、有罪判決を受けました。裁判所(司法)も、様々な理由をつけて、辺野古新基地建設の強行を是認していると言われても仕方ありません。

この5年間の流れの根底には、深刻な社会の分断があると思います。安全保障政策については様々な考え方があると思いますが、少なくとも「本土」の「安全」のために、沖縄を犠牲にすることは許されないと私は考えます。しかし、実際には、沖縄の必死の訴えに対して冷笑的に答えるという態度が私たちの間に蔓延していないでしょうか。また、私たちの国は、朝鮮の核開発やミサイル発射を脅威ととらえ、声高に非難しますが、核問題や拉致問題のために粘り強い対話を重ねる努力をしてきたでしょうか。

「戦争」や「テロ」の不安をあおる声が高まっています。しかし、ヨーロッパの先進国を含む世界の多くの国は、朝鮮の核実験や人権抑圧を強く非難しつつも、朝鮮と外交関係を持ち対話の努力を続けていますし、朝鮮で飢餓が発生した時には人道的な救援の手を差し伸べています。日本政府も、小泉首相が訪朝した時は、植民地支配について率直に反省の言葉を述べ、国交正常化と経済協力に言及するなど対話の努力を重ねた結果、朝鮮政府に拉致の事実を認めさせ、謝罪と一部の拉致被害者の帰国を実現するという成果を得ました。武力による威嚇ではなく、対話によって事態は前進したのです。

国内においても「テロ」や犯罪の脅威が語られますが、大規模なテロリズム犯罪は1995年の地下鉄サリン事件以来ほとんど発生しておらず、殺人事件の発生件数に至っては2015年に戦後最低を記録しました。

危機にあおられて近隣諸国や社会の中に分断線を引き、武力や権力による威嚇を行うことは問題解決を遠ざけ、かえって危機を招き寄せます。対話の道を探ることこそ、今求められていることではないでしょうか。

自民党改憲草案の先にあるもの

しかしながら、この5年間政権を担ってきた自由民主党が掲げている「自民党改憲草案」は、対外的・対内的な危機をあおり、個人の人権を抑圧し、政府に権力を集中させることで「危機」を乗り越えるよう説くものです。

以下では、自民党改憲草案の中で最も問題が大きい「緊急事態条項」の条文を具体的に見てみましょう。

自民党改憲草案では、武力攻撃、内乱、大規模な自然災害その他の「緊急事態」の際に、総理大臣が「緊急事態宣言」を出すことができる、という条文が入りました。国会の承認は必要ですが、事後承認でも構わないことになっています。

そして、緊急事態宣言が出された場合、事実上の独裁が認められることになります。

  1. 緊急事態の宣言が発せられたときは、法律の定めるところにより、内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができるほか、内閣総理大臣は財政上必要な支出その他の処分を行い、地方自治体の長に対して必要な指示をすることができる。
  2. 前項の政令の制定及び処分については、法律の定めるところにより、事後に国会の承認を得なければならない。
  3. 緊急事態の宣言が発せられた場合には、何人も、法律の定めるところにより、当該宣言に係る事態において国民の生命、身体及び財産を守るために行われる措置に関して発せられる国その他公の機関の指示に従わなければならない。この場合においても、第十四条、第十八条、第十九条、第二十一条その他の基本的人権に関する規定は、最大限に尊重されなければならない。
  4. 緊急事態の宣言が発せられた場合においては、法律の定めるところにより、その宣言が効力を有する期間、衆議院は解散されないものとし、両議院の議員の任期及びその選挙期日の特例を設けることができる。
自民党改憲草案 第99条(緊急事態の宣言の効果)

ここでは、内閣(政府)の判断で「法律と同一の効力を有する政令」(緊急政令)を作ることができるとされています。つまり、内閣(政府)が命令を出しさえすれば、これまでの法律を書き換えることができる、ということです。これは、内閣(政府)が、立法権(法律を作る権限)を持つ国会と同じ権力を持つことを意味します。なお戦前の日本では、議会を通さなくても「緊急勅令」によって法律を上書きできる制度がありましたが、関東大震災や、2.26事件(軍によるクーデター)の際には「緊急勅令」によって軍の司令官に権力を集中させる「戒厳」が宣告されました。国会を通さずに政府の命令だけで法律を作ってよいとすると、このような「戒厳」宣告すら許すことになりかねません。

もっとも、緊急政令には国会の事後承諾が必要だとされています。これは国会による民主的コントロールを定めたものとして、一定の意味があります。

しかしながら、第1に、事後承諾では国会のチェック機能が十分に働きません。法律を作る前に国会で十分に議論するからこそ、安保法制や共謀罪の審議の時のように、国会審議の中で問題点が指摘され、メディアでも様々な議論がなされ、大規模な反対運動も起こり、法案の修正が検討される・・・という国会によるチェックの仕組みがかろうじて働くのです。ところが事後承諾の場合、法律(緊急政令)がすでに成立し、実施されてから、国会に持ち込まれます。一度できてしまった既成事実へのチェックはどうしても甘くなり、十分な議論もなく承認されることになりかねません。

戦前の日本に前例があります。明治憲法のもとで、治安維持法という思想を取り締まる法律がありました。この治安維持法について、最高刑を死刑に引き上げる改正案が帝国議会に提出されましたが、議会では一度廃案になりました。ところが議会の閉会中に、政府は、「緊急勅令」によって治安維持法改正を行いました。のちに、この治安維持法改正の事後承諾を求められた帝国議会は、賛成多数でこれを可決してしまいました。議会の事後承認は歯止めにはならないのです。

第2に、自民党改憲草案には、事後承諾されなかった場合に緊急政令が効力を失うという定めがありません。そのため、緊急政令が国会で否決された場合でも、緊急政令が将来的に廃止されるにとどまり、「なかったこと」にはなりません。

たとえば、「軍事基地建設への反対運動を計画した者を処罰する」内容の緊急政令が作られ、その結果大勢の逮捕者が出たとしましょう。のちに国会は緊急政令を否決しました。その場合、逮捕は違法になるのでしょうか。国会で否決されたことで緊急政令は廃止されますから、緊急政令によって投獄された人たちは釈放されるでしょう。しかし、緊急政令が廃止されるまでの間、緊急政令は有効に生き続けているわけですから、緊急政令により逮捕されたり投獄されたりしたことは違法にはならず、緊急政令によって人権侵害を受けた人は泣き寝入りするしかなくなるのではないかと思われます。

このほか、緊急事態の際には、政府(内閣)は、国会であらかじめ決めた予算を無視して(軍事費も含めた)お金を使うことができるようになります。

また緊急事態の際には、だれであっても「公の機関」の「指示」に従う義務が課せられます。この「指示」は「法律の定めるところにより」出されるとなっていますが、法律で「政府は緊急事態の収拾のため必要なすべての指示を出せる」と書いてしまえば、結局は個別具体的な法律の根拠なしに、役所の指示に従う義務が発生し、従わない者を処罰することも可能となってしまいます。

このように、自民党改憲草案の緊急事態条項は、国会の持つ立法権と予算の承認権を政府(内閣)に移して独裁を認めるとともに、政府が具体的な法律上の根拠なく様々な命令を発して国民を総動員できる「国家総動員体制」を作り出すものです。

このように、自民党改憲草案は、「脅威」「危機」を強調して、政府への権力集中を正当化する構造を持っています。私たちの社会が、「脅威」を重視し、対話への努力を怠るのであれば、私たちは政府に独裁権力を与えることを求めるようになってしまうでしょう。対話の積み重ねか、「脅威」を打破するための「国家総動員体制」か。自民党改憲草案はそのような選択肢を私たちに突き付けているのです。

【証言】 済州四・三事件とわたしの家族

金 迅野(キム・シンヤ)
マイノリティ宣教センター共同主事
在日大韓基督教会 横須賀教会牧師

――2017年5日29日~6月3日、第4回「北東アジアの和解のためのキリスト者フォーラム」が韓国の済州島で開催されました。日本・韓国・中国・香港・台湾・米国などから約80名のキリスト者が集まり、和解に向けたエキュメニカルな学びと祈りの場が設けられました。5月31日には現地学習(巡礼)として、済州教区のカン・ウィル司教の引率のもと、海軍基地の建設反対運動を長年行っているカンジョン村や、四・三記念館を訪れました(本誌第185号も参照)。
1948年4月3日、当時米軍支配下にあった南朝鮮の済州島で、南北の統一・独立を求める武装蜂起が起こりました。それに対して軍や警察、右翼青年団などが鎮圧・大粛清を行い、一般島民を巻き込んだ大虐殺が繰り広げられました。犠牲者が何万人にも達したと言われるこの「四・三事件」の記憶・追悼のために建てられたのが四・三記念館です。
本稿は、四・三記念館において、「在日三世」である金迅野牧師が、父親の四・三事件の体験について語ってくれた「証言」です。 〈柳川〉


父について

わたしの父は1934年に生まれました。他界して17年が経ちました。わたしは決していい息子ではありませんでした。多くの息子たちがそうであるように、若い頃わたしはよく父に反抗しました。そればかりか、一人の具体的な人間の歴史と苦悩の経験についての感覚が決定的に欠けていたために、ほんとうのところ、長い間、わたしは父の話をまじめに聞こうとはしませんでした。そのことをいまはとても後悔しています。そのようなわたしが、今日は証人になろうとしています。正確には「証人の証人」です。そんな不遜なわたしですが、生前に、時折、恥ずかしがりながら、なんとか聴かせようとした父の話を、精一杯想い起こしてみようと思います。

軍国少年と解放

わたしの父は日本生まれの在日二世でした。彼が小学生の頃、朝鮮は日本に植民地にされていたので、多くの他の朝鮮人と同じく、父も「日本人」になろうとし、日本人として生きていました。自分のことを「軍国少年」だと言っていました。学校の成績はよかったようです。ある日、担任の先生が級長に推薦してくれました。父はとてもうれしかったようです。しかし、村のある有力者が、植民地の朝鮮人の子が日本の子どもの上に立つということはあってはならないと、強く反対したため、父は級長にはなれませんでした。皮肉にも、この出来事が起きて以降、父はより軍国少年の度合いを強めたそうです。それは、帝国のなかの階段を必死に駆けのぼるためでした。

この出来事があって間もなく、日本は戦争に負けました。わたしの父もわたしの祖父も「解放」されたのです。多くの日本人がそうであったように、軍国少年だった父も、日本の敗戦に打ちのめされました。しかし、祖父は、それまで仕方なく「愛国者」のふりをしていたのでしょうか、突然、「マンセー(万歳)」と叫びながら村中を走り回りました。父はそれを見て、苦々しく、「非国民」と思ったそうです。

ある祈り

解放後すぐ、1945年か46年に、父の家族は、大阪から船に乗って、彼らの故郷である済州島に戻ることになりました。不幸にも船は嵐に遭い、沈没しそうになったそうです。大人たちは荷物を海に投げ捨て、大騒ぎでした。父はとても怖かったと言っていました。その喧騒のなかに、父は異様な光景を目にします。一人の女の人が狂ったように祈っているのでした。それは彼の母、わたしの祖母でした。彼女はカトリック信者だったと聞いています。帝国のエリートを目指す少年だった父は、祖母の祈る姿を見て、「狂っている。この状況で祈るなんて、なんの役に立つのか」ととても軽蔑的な気持ちを持ったと言っていました。

しかし、四・三事件のせいで、祖父と長男の父と次男の叔父は済州島から逃げることになりました。その結果、祖母と小さい末っ子の叔父は済州島に残されることになりました。祖父は、社会主義者としてなんらかの運動に関与したと思われます。それ以来、父が祖母に会うことはありませんでした。ある日、わたしは、このことを話す父の目に涙が浮かんでいたのを覚えています。

土について

軍国少年として日本で育った父でしたが、その強い軍国志向は次第に溶けて、故郷への愛情に変わっていったと言います。済州島の土が彼を変えたのだそうです。

「土がふつうの人の感覚を取り戻させてくれた。土は美しい草木ばかりでなく、牛や鶏や馬や犬や豚を育てる。排泄物をぶちまかれながら、黙ってそれを飲み込みながら、土はそれらを育てる。島ではすぐに友達ができた。学校に行く時、ぼくらは村を三つ越えていかなければならなかった。その間中、ぼくらは土の上でふざけあったり、土につばを吐いたり、小便をしたり、強く踏みつけたりした。それでも、土は、そんなぼくらを怒ることもなく、受け入れてくれていた。美しい花が、静かに、さりげなく咲いている姿を見て、土に頬ずりしたくなった。」

土をめぐる父の話は、しかし、幸せなまま終わりませんでした。済州島の土は変わってしまったと言うのです。済州島の土はアスファルトで厚化粧して完全に変わってしまったと。父は1988年の東亜日報の記事を見せながら、四・三事件の犠牲者が、虐殺されたあと、済州国際空港の滑走路の一部になっているところに埋められたと教えてくれました。

「いまでも、友達とじゃれあいながら学校に行く道で強く踏みしめた、そしてときに頬ずりしたくなった土の感触は覚えている。その土がいま、変わってしまった。だから、そのアスファルトの上に足を乗せることはしたくないと思うんだ。何かが、アスファルトの重さに、いや、何重にも積み重なった暴力の重さに喘いでいると思うから。そしてその暴力があったことがアスファルトで蓋をされて明らかにされてはいないから。このことは、あの島から遠くはなれて日本の東京で暮らしている、わたしとおまえに、とても深くかかわりのあることだ。だから、もし、故郷の済州島に行くようなことがあるとしたら、おまえは、飛行機では行くな」――これは父の遺言のような言葉でした。

蜂起/大虐殺/事件

わたしの家族が日本に暮らすようになったのは、祖父と父が四・三事件に巻き込まれた(かかわった)ことに原因があります。彼らがかかわったのが、1947年3月1日のデモ(警官の発砲によりデモ隊6人が死亡)なのか、その後のゼネストなのか、1948年の四・三事件そのものなのか、もはや確かめようがありません。わたしが聞こうとしなかったこともありますが、父もあまり詳しく話そうとしなかったからです。しかし、わたしは一度、父がその場にいた事件について語ったのを覚えています。

父は何かのデモに友達と参加していました。中学生の年齢ですが、言葉を取り戻すためにまだ小学生だったかもしれません。参加した人たちが「鳳仙花」を歌っていました。突然、銃声が鳴り、父の隣で腕を組んでいた友達が倒れました。彼の身体から流れる血が父の服にもつきました。父はすぐに家に逃げ帰りました。その夜、父は、祖父の手配した船で日本に行くことになりました。密航です。その夜の月はとてもきれいだったと父は言っていました。彼は小さな船の船室に入れられました。立てば頭が出てしまうような底の浅い船です。少しでも頭を出すと棒で殴られたと言います。その狭い船室でどのくらいを過ごしたのでしょう。排泄もその中でするしかなかったそうです。

夢にうなされる

わたしは父がよく夢にうなされていたのを思い出します。そのうめき声は、ときに、離れたわたしの部屋にまで聞こえてきました。うなされながら夢からさめた後の父の顔は土色をしていました。脂汗のようなものをかいていたようにも思います。それは、長い間、わたしにとって、ただの「うめき声」にすぎないものでした。なぜ彼がうなされるのか、そこにはどのような記憶や歴史が横たわっているのか。わたしはまったく理解していませんでした。

それが明らかになったのは、結婚したい相手がいることを告げたときでした。その報告に喜んでいた父でしたが、わたしが彼女の父親が平安道の出身だと告げると、父の顔は突然曇りました。父は、平安道の一部の青年たちが四・三事件のときに虐殺の側に回ったことを話しはじめました。そしてゆっくりと、わたしが聞こうとしてこなかったことを口にしだしたのでした。

暴力は、人と人を分断します。家族と家族を分断します。しかし、神は、二つの家族の間の分断を和解と一致に向けてくださいました。双方の家族は、時間をかけながら、済州島から逃げてきた社会主義者の家族の経験と、朝鮮戦争の勃発とともに弾圧から逃れて越境した平安道のクリスチャンの家族の経験を、相互に受け入れました。困難はたくさんありましたが、わたしは彼女と結婚することができました。何よりも、神は、社会主義者の家族から牧師が生まれたことを、平安道出身の長老が涙を流して祝福する時間を与えてくださいました。

わたしの家族は、しかし、まだ、いろいろな形で分断されています。四・三事件によって、日本と韓国に生き別れました。実は、日本に父と逃げてきた次男の叔父は、持病の肺の病気とリウマチを治すこと、そして意志のある者は勉強をさせてもらえると信じて、わたしが生まれた1960年に北朝鮮に「帰国」しました。父が亡くなる数年前に、叔父の死亡を淡々と知らせる手紙が北朝鮮から来ました。咸鏡北道の炭鉱の班長で終わったとのことでした。「読むか」と言って手紙を渡したときの父の複雑な顔を忘れることはできません。北にいとこや甥や姪がいるはずですが、いまは会うすべがありません。しかし、わたしは、神が、この家族の分断の亀裂を縫い合わせ、相まみえる時を備えてくださることを信じたいと思います。

声なき者の声

父のうめきは、それ自体、小さな「うめき声」にすぎません。しかし、そのうめきの背後にあるものが「証言」として聴かれるまでに40年という時間がかかりました。これは、特別なケースでしょうか? わたしはそうは思いません。父のうめきは、「声なき声」・「声なき者の声」を表していないでしょうか。彼の「うめき」の他にも、聴かれることを望んでいる、証言になるのを待っている「うめき声」、「つぶやき」、「声なき声」がないでしょうか。

すでにこの世を去られた「従軍慰安婦」のハルモニ(おばあさん)たちの「うめき声」、済州国際空港の滑走路のアスファルトの下に埋められた人々の「うめき声」。カンジョン村で取り去られてしまって消えてしまったクルンビの岩土の「うめき」。世界には、いまも、「証言」になることを待っているそのような「声なき声」が満ち満ちていないでしょうか。

わたしは、神こそが、そのような「うめき声」、「声なき者の声」を「証言」に変えてくださると思います。わたしたちクリスチャンは、そのような「うめき声」、「声なき者の声」を聴くことの場へと招待されています。わたしは四・三事件の「証人の証人」でしかありません。「声なき者の声」を聴き逃したことのある者でもあります。しかし、わたしは、それでも、イエスにつきしたがいたいと思います。イエスこそが、そのような「声にならないうめき」を最もよく聴き、いまも聴いてくださる方だと信じるからです。そして、そのように聴く者を、声を失った者の代わりに、証人としてくださると信じるからです。