<社会問題とカトリック教会の考え>
センターの連続セミナー
~2017年「家庭における愛」 & 2018年「日本社会の今を診断する」~
ボネット ビセンテ SJ
イエズス会社会司牧センタースタッフ
昨年のセミナー「家庭における愛」を振り返って
家庭の状況、夫婦関係や親子関係、子どもの数とその教育、家庭と仕事の両立、家庭をつくって子どもを育てられるような労働条件であるかどうかなどは、それぞれの社会の状態を表わす信号です。
また、それらの課題に対するそれぞれの国の政策、子どもの手当て、学校教育のコスト、若い人々が独立し、結婚できるための安定した仕事にかかわる政策などは、大きな社会問題であり、その国が実際に家庭を大事にしているかどうかを明らかに示していることになります。
以上のようなことを考えて、昨年のセミナーのテーマとして、カトリック教会の教皇フランシスコが発表した文書、『愛のよろこび』(使徒的勧告“Amoris Lætitia”)を選び、家庭にかかわる諸課題について考えるようにしました。
今回のセミナーでは、新しい二つの試みをしてみました。その一つは、第1回目の参加者に、家庭についてのアンケートを書くようにお願いしてみました。
教皇自身は、教会全体で家庭について考え論じ合うにあたって、まず司教だけでなく、信徒も含めてできるだけ多くの人々の意見を知るために、全教会にアンケートを送りました。しかしさまざまな理由があって、このアンケートは日本の教会内でほとんど知られていませんでした。そういうこともあって、教皇庁から送られたアンケートの数多くの質問のなかから、中心と思われるものを選んで、皆さんに答えていただき、セミナーのための良い準備になりました。
もう一つの試みは、信徒によるシンポジウムでした。経験も、家庭の状況も異なる3人の方にお願いして、それぞれ日本、あるいは自分の小教区における家庭に関することについて語っていただきました。結婚の準備、家庭への司牧的なケア、子どもへの家庭内の教育などが主なポイントで、多くのセミナー参加者にとっては、いろいろと参考になったそうです。
セミナーで諸講師が取り扱った内容は、次のようにまとめられると思います。
- 喜びをもたらす愛の基礎。旧・新約聖書における愛の深さとすばらしさ、そこからあふれ出る家庭の愛(夫婦、子どもや高齢者への愛)、教会が説く充実した結婚への道の根源、愛の霊性。
- 日本社会のなかで、家庭、女性や子どもが置かれている状況。政治家の「約束」とその現実。子どもの貧困や教育にかかわる諸問題。外国人、難民、移民の家庭の諸問題。
- 結婚と家庭にかかわる教会の司牧的な義務とその現実。結婚の準備と結婚後の司牧的なケアについて、小教区で異なる現実。そして、教会の説く充実した結婚ができなかった人々、結婚の無効宣言を求める人々、離婚して再婚した人々、同性愛者などに対する教会の司牧的なケア。
毎回参加者からいただいたコメントには、「勉強になりました」、あるいは「とても参考になりました」というたぐいのものが最も多かったです。「数年ぶりにセミナーに参加しましたがとてもわかりやすく解説され、また参りたいと思いました」とか、「初めて参加してたのしいセミナーで大変良かったです」というようなものもありました。結婚や家庭についての司牧活動に関して、まだ「教会ができることは多い」という、それぞれの小教区に対する注文のようなコメントもあり、信徒からの望みとして大事にすべきであると思いました。
その他にいくつかをピックアップすると、「旧約聖書における愛を類型化して、わかりやすく伝えていただけたのがありがたかったです」、「経済優先の家庭を形成しているうちに、人への愛を見失ってしまいそうです」、「あらゆる苦難を通して愛が成熟していく姿を見て、闇から明かりへの移行を見る感じがしました」、「希望やヴィジョンは、変えることもできると信じたい」、「今日のお話で伺った大切なことを心に留めて、夫や子どもにも知らせ伝えていきたい」、「移民の家族を支える(友だちになる)ことは、私たちにとって大きな喜びになるはず」というような貴重な多くのコメントも、セミナーの振り返りのためになると思います。
2017年度連続セミナー「家庭における愛」
家庭をテーマにした2つのシノドス(世界代表司教会議)を受け、教皇フランシスコは使徒的勧告『愛の喜び』を発表しました。教皇は、どんな家庭もいつも完全で型通りのものではなく、家庭は、愛を発展させていく場だと述べています。そして、「家庭よ、歩み続けましょう、希望を失ってはなりません」と呼びかけています。今年度は、家庭をテーマにして、ご一緒に私たちの生活を見直してみませんか?【日程】2017年4月19日開講~全12回。第1・第3水曜日18:30-20:00
今年のセミナー「日本社会の今を診断する」
数年間、このセミナーで第2バチカン公会議や教皇たちの公の文書を通して、社会問題についてのカトリック教会の考えを取り扱ってきました。
今年は、その考えに照らして、「キリスト者として日本社会の今を診断する」というテーマにしました。社会の福音化のために私たちがいただいている使命の素晴らしさを新たに認識して、パウロが言うように、「兄弟たち、喜びなさい。…励まし合いなさい。…そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます」(2コリント13,11)、となることを一緒に求めたいと思います。
2018年度連続セミナー「キリスト者として日本社会の今を診断する」
『いのちへのまなざし』は「すべての人が与えられたいのちを十全に生きることができるように」と願って、日本カトリック司教団から昨年、増補新版が発行されました。すべてのいのちをいつくしむ神のまなざしが、私たちのまなざしとなりますように! この連続セミナーを通して、教会の社会問題についての考えに照らしながら、キリスト者の私たち一人ひとりが、日本社会の今をご一緒に診断してみませんか。【日程】2018年4月18日開講~全12回。第1・第3水曜日18:30-20:00
「ピースカフェ」を企画して
井上 友里子
ピース9の会imagineメンバー
私たちにとって、ピースカフェの企画は新しい挑戦でした。私たちは数年間の青年会活動の中で、多くの仲間と素晴らしい時を過ごしてきました。青年会での仲間との繋がりや共に祈る時間は、他のコミュニティには無い美しさがあります。だからこそ、この気持ちを社会に向け考える集いを作れたら、きっと、今まで心を一つに望んできたことがより広く実現できるのではないかと考えるようになりました。
しかし、実際には世界情勢について友人たちと話し合う機会が無く、心の中で葛藤しているに過ぎませんでした。何かもう一歩深く踏み込んでいけるような時間を作り、なんとかこの葛藤を打破したい。ピースカフェは、そんな想いを持つ私たちが、「ピース9の会」の呼びかけ人、松浦司教様の声かけで出せた、勇気のようなものでした。
勢いにのって取り組みだしたものの、プログラムを企画しだすと、とても悩みました。この機会を大切にしなければならないという強い思いから、学ばなければならないことを挙げてみると、きりの無さに途方に暮れてしまったのです。私たちは、いったん立ち止まりました。
準備に協力してくださった、会場である下関労働教育センター所長の中井神父様と、スタッフのシスター山本は、「青年たちが集まるだけで素晴らしいこと」、「あまり背負いこみ過ぎず、第一回目という心持ちで取り組んでみていいんじゃない」と励ましてくださいました。そして思いついたのが、リラックスした雰囲気で、普段は訊けない疑問も安心して口に出せるような、「ピースカフェ」でした。
一日目は、まず、ピース9の会の集いで昨年10月に発表した内容を報告しました。10月の集いでは、青年を対象にアンケートをとり、その結果をもとに劇を作って現代の青年の多くが持つ悩みや社会の見方を表現しました。テーマは「私たちを分断するもの・繋ぐもの」。日常生活や社会において、他者と分断されていると感じる時/繋がっていると感じる時について、質問を投げかけました。青年たちの回答から気がつかされたことは、多くの人が始める前から様々なことに諦めを持っていることです。
この発表の報告の後、分かち合いの場を持ち、松浦司教様にファシリテートしていただきました。なぜこのピースカフェに参加しようと思ったか、どんな疑問を持っているかなどを、確かめ合いました。分かち合いで語られる言葉に耳を傾けていると、実はいつも一緒に活動している青年の中に、深く平和を望んでいるだけでなく、社会問題に興味を持っている人がいることに驚かされました。同じ問題に関心を持ちながらも、その話題で交わってこなかっただけだったのです。仲間は身近にいたということに、光を感じずにはいられませんでした。夕食の後、テゼの歌を用いた祈りの時間をとり、平和への願いを重ねました。
二日目には、まず、シスター山本のギターで、みんなで歌って朝の祈りをし、中井神父様に海外での出会いと体験を分かち合っていただきました。特に韓国でのご経験については、青年たちも息を呑んで話を聞きました。
その後、コラージュ作りのワークを行いました。分かち合い中心の集いで、深刻な内容も多く話されることが予想されたので、分かち合いが苦手でも取り組みやすいように言葉以外の表現ができる場を用意したのですが、予想以上に全員が楽しんで作品を作ることができました。
まとめとして、松浦司教様に最後の分かち合いをしていただきました。キーワードとして挙がったのは「越えていく」ことでした。それは、多くの人の話の中に、様々な言葉に言い換えられて表れていました。国や性別のようなカテゴライズされるものであったり、心の内側にある諦めや恐れであったりを、私たちが越えて解り合っていくことの大切さを、その場にいる全員が、それぞれの形で見つめている気がしました。
二日間が終わって思ったことは、私たちは今越えていくことを始めたばかりだということでした。私たちに今すぐできることは何だろうと、改めて考え直して気がついたことがあります。それは、仲間を増やし続けることです。
こういった勉強会の後は、「考え続けなくてはいけない」といつも思い、考え続けてきました。しかし、考え続けているだけでなく行動に繋げていきたいと思った時、つまずいてきたのです。私たちをつまずかせていたのは何だったのか。それは仲間の少なさだったのではないかと思います。「世界平和」というとテーマが大きすぎるけど、ピースカフェでの語らいは、私たちに身近な人と出会い直し、仲間になる大切さを教えてくれました。今後も、仲間を増やしていける活動を、さらに考えていけたらと思います。
排除ZEROをめざして
―東西のコリアタウンとドヤ街を歩く―
柳川 朋毅
イエズス会社会司牧センタースタッフ
難民鎖国とヘイトスピーチ
日本カトリック難民移住移動者委員会(J-CaRM)の全国研修会2017が、11月23日から25日にかけて、大阪(一部の現地学習は神戸)で行われました。今回は「国籍を越えて人びとが出会うために ~排除ZEROキャンペーン~」というテーマのもと、全国(国籍としてはむしろ世界中)から約150人が参加しました。
1日目はまず、外国人の人権擁護に精力的に取り組んでいる駒井知会弁護士が「難民とともに生きる、日本社会の未来」と題した基調講演を行いました。難民・難民申請者に対して日本社会がどれほど冷徹な態度を取り続けているのかという話は、何度聞いても悲しく恥ずかしい思いになります。けれども、熱意と愛情あふれる駒井弁護士の姿、憤りつつもユーモアを忘れないその話しぶりは、ある意味で小さな希望も感じさせてくれました。
その後、4つの分科会に分かれました。日本の教会と外国人との関わりについて、J-CaRMとカリタスジャパンが共同で開始した「排除ZEROキャンペーン」についてなどの分科会がある中、私は第4分科会の「排外主義に対して」に参加しました。講師を務めたのは李信恵(リ・シネ)さんです。在日コリアン1世の父と2世の母を持つため、自らを「在日2.5世」と紹介する李信恵さんからは、自身も攻撃対象となったヘイトスピーチ・ヘイトデモ、ネットでの壮絶な差別的書き込みなどが説明されました。辛くて見られないので毎回中座することにしている、と言って流した映像には、目を覆いたくなるほど下劣なヘイト行為が写っていました。直接私に向けられた言葉ではないにもかかわらず、恐怖と悲しみで思わず涙がにじみました。こうした攻撃を直接、しかも長期間にわたって浴びせ続けられた彼女の痛みは、どれほどのものだったのでしょうか。
生野コリアタウンを歩く
2日目は朝から現地学習に出かけました。JR鶴橋駅に集合し、生野の「コリアタウン」へ向かいます。案内してくれたのはコリアNGOセンター事務局長の金光敏(キム・クァンミン)さんです。
鶴橋駅から桃谷駅にかけての一帯は、韓国・朝鮮系のお店が食材・食品店を中心に約130店舗も密集しています。日本の多くの商店街が次々と寂れていく現実がある中、日本最大規模といわれる生野コリアタウンには多くの買い物客・観光客が行き交い、想像以上に活気があふれていて驚きました。
コリアタウンを歩く現地学習は他にもありましたが、私たちのグループは「民族教育の今」というテーマで、朝鮮学校と大阪市立の小学校を訪れました。
午前中に訪れたのは、大阪朝鮮第四初級学校という朝鮮学校です。70年の歴史をもつこの学校では現在、在日3・4世を中心に約100人の生徒が学んでいます。各学年1クラスずつの計6クラス、それぞれ算数、図工、国語(朝鮮語)などの授業が行われている様子を見学させてもらいました。先生たちの丁寧な指導のもと、生徒たちは皆熱心に授業を受けていました。
朝鮮学校は学校教育法上、134条で定められた「各種学校」の一つとされています。いわゆる「一条校」とは異なり、主に国ではなく都道府県からの補助金によって支えられてきましたが、大阪府は現在、朝鮮学校への補助金を停止しています。文部科学省が定める学習指導要領に基づいて授業がなされているので、インターナショナルスクールなどの外国人学校の中では最も日本の公教育に近いにもかかわらず、扱いはまるで異なります。朝鮮学校の扱いが不当に差別的だとして、国際社会からもたびたび非難されていますし、高校無償化の対象から意図的に外されていることに関しても、各地で裁判になっています。
午後に訪れた御幸森小学校は、大阪市立の公立小学校でありながら、韓国・朝鮮にルーツのある子どもたち向けに、韓国・朝鮮の言葉、歴史、文化などを学ぶことができる「民族学級」を設けています。大阪市全体でも4~5校に1校、生野区に限って言えば区内のほとんどの小・中学校に民族学級が設けられています。私たちが訪れた際はちょうど、発表を間近に控えた伝統芸能の踊りと演奏の練習の真っ最中でした。
朝鮮学校とは異なり、週一回の民族学級だけでは、言語や文化を習得するには決して十分な時間ではありません。けれども民族学級のもつ意義を、金光敏さんは自身の経験を基に次のように語ってくれました。「言葉や文化の学習はあくまでも手段でしかなく、もっと大切なのは、自分の出自に対して誇りや肯定感をいかに持てるか。アイデンティティは内発的に形成されるのではなく、人との関係性によって築かれていく。特に、マイノリティ(社会的少数者)のアイデンティティは、マジョリティ(社会的多数者)の在り方や接し方にかかっている」。子どものころ、差別や貧しさから人生を諦め、将来に夢や希望を抱けずにいた金さんは、民族学級と出会って自分のルーツを学んでいくうちに、自己肯定をする機会を得たのだといいます。
2日目の夜の交流会では、ベトナム料理に舌鼓を打ちながら、各国の歌などが披露されました。J-CaRMの委員長である松浦悟郎司教(名古屋教区)だけでなく、開催地である大阪教区の前田万葉大司教も加わり、盛大な宴になりました。
釜ヶ崎での夜まわり
この研修期間中、私は釜ヶ崎(大阪・西成区)にあるイエズス会の施設「旅路の里」に泊まりました。毎週木曜日には旅路の里を拠点に野宿者を見まわる「木曜夜まわり」が行われています。2015年の夏以来、約2年ぶりに参加させてもらいました。毛布やカイロを抱えて、冷え込みの厳しい夜の釜ヶ崎を巡ります。
わずか2年の間に、釜ヶ崎の街の外観もだいぶ様変わりしていました。表面的には確かに「綺麗に」なってきていますが、様々なところにフェンスが過剰に張り巡らされ、居場所・寝る場所から人々を追い出しているかのようです。簡易宿泊施設が並んだいわゆる「ドヤ街」も、外国人旅行者向けに改装したおしゃれな安宿が目立つようになりました。クリスマスを控え、ホテルや飲食店ではクリスマスツリーやイルミネーションが明るく輝く中、その前を通り過ぎると、とたんに暗い街になります。イエスの産まれた馬小屋とはどんな場所だったのだろうかと、考えずにはいられません。
山谷・渋谷の越年闘争
寒さが厳しい冬の期間、路上生活者にとってはしんどい季節です。特に、多くの企業が休みになる年末年始の時期は、日雇いなどの不安定な雇用で働いている人々にとっても死活問題です。福祉などの行政サービスも手薄になるこの期間、「ひとりの餓死者も凍死者も出さない」を合言葉に、全国各地で越年闘争が始まります。関西では釜ヶ崎、東京都では山谷をはじめとして、数か所で取り組みが行われます。私は今回の越年は、山谷と渋谷に顔を出しました。
教皇フランシスコは「いつくしみの特別聖年」が閉じられるにあたって、年間第33主日を「貧しい人のための世界祈願日」にすると決めました。第一回目の祈願日(2017年11月19日)のメッセージにあるように、貧しい人のことを、単なる週一回のボランティア活動や、良心を慰めるためのその場限りの善行の対象としてだけ考えるのではなく、貧しい人と真に「出会い」、「分かち合い」を生き方とする必要があります。彼らと共に食事を作り、食べ、語り合う中で、社会の中に存在する様々な排除の形についても認識させられます。
新大久保と多文化共生社会
1月末、金迅野牧師(196号参照)が共同主事を務めるマイノリティー宣教センターの企画で、新大久保の街を歩きました。案内してくれたのは、コリアNGOセンター東京事務所の金朋央(キム・プンアン)さんです。
東京都新宿区全体では現在、住民の12%以上が外国籍で、特に外国人の多い大久保や百人町は、丁目によっては半分近い割合です。日本国籍を取得した外国ルーツの方も相当数いるでしょうから、そうした方を含めたら過半数になるかもしれません。
個人的な思い出ですが、大学院生時代、新大久保にはよく、先輩の韓国人神父に連れられておいしい韓国料理を食べに行きました。韓流ブームが陰りを見せた2012~3年頃、排外主義の格好の標的となり、ヘイトデモが繰り広げられた街でもあります。そうした街を歩きながら改めて、外国人も貧しい人も排除されない、差別のない「多文化共生社会」をどのように築いていくことができるのかを考えさせられました。
バチカン国際会議
「核兵器のない世界と統合的軍縮の展望」
戦争は人間の心の中で生まれる ―平和・開発・軍縮―
和田 征子(まさこ)
日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)事務局次長
日本基督教団 洗足教会 長老
昨年は7月に「核兵器禁止条約」が国連で採択され、10月にはICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)のノーベル平和賞受賞が決まるという、被爆者の運動にとっては大きな前進の年でした。そして更に11月10日-11日に、バチカン(ローマ教皇庁)「人間開発のための部署」の主催で、「核兵器のない世界と統合的軍縮の展望」と題する国際会議が開かれ、私は被爆者として招待を受け、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)から出席いたしました。
ローマ教皇庁が軍縮に関する会議を開くのは初めてとのことでした。背景には核兵器禁止条約の採択と、核兵器使用の可能性が懸念されている現在の緊張した世界の状況があると考えられます。この会議の趣旨として提示されたのは、キリスト教の基礎にある「平和」と「開発」の概念でした。そして今回、『軍縮』という語が追加されました。
「各自およびすべての人々の『統合的人間開発』なくしては、真の永続的な平和はありえない。同時に軍備の削減は、その根源にある暴力を根絶することなしにはあり得ない。人類にまず平和、善、正義を求める決意がなければならない。あらゆる種類の悪と同様に、戦争は人間の心の中で生まれるものである(マタイ15:19、マルコ7:20~23)。軍縮とは国家の軍備だけではなく、自らの心を武装解除して平和を作り出す者となるようにすべての人間に関わることである」と記されていました。
参加者は教会関係の枢機卿・司祭、牧師らの宗教指導者、市民社会代表、政府と国際機関の代表、著名な学者、ノーベル平和賞受賞者、学生など招待者をはじめ、約300人。それぞれのセッションで社会的に大きな影響力を持つ方々――地雷禁止国際キャンペーンのジョディ・ウィリアムズ、北アイルランド問題の平和解決に貢献したマイレッド・マグワイヤ、貧者のために創立したグラミン銀行のムハマド・ユヌス、中満泉国連軍縮大使、IAEAのモハメド・エル・バラダイ、NATOのローズ・ゴッテモローらの発言を聞きました。
私もスピーチの機会を与えられ、「核兵器の人道的結末と平和への道」のセッションで被爆者のこれまでの運動、証言、そして非人道的な核兵器廃絶への訴えをし、共感の拍手をいただきました。
10日、教皇は参加者への特別謁見の際、演説をされました。「核兵器の使用による破局的な人道的・環境的な影響についても、心から懸念せざるにはおれません。いかなる種類であれ過誤の結果として偶発的な爆発が起こる危険性も考慮に入れると、核兵器の使用と威嚇のみならず、その保有も強く非難されるべきです。核兵器は紛争の当事者だけでなく、人類全体に影響を及ぼす恐怖の心理を助長するために存在しているからです」。
これらの言葉は被爆者が運動の中で長年訴えてきた思いで、誠に力強いものでした。そして教皇は更に「…極めて重要なのは、広島と長崎の原爆の被害者である被爆者ならびに核実験の被害者の証言です。彼らの預言的な声が、何よりも次の世代のための警告として役立つことを願います」と述べられました。
報道では一般的な「予言」の文字が使われていますが、私は聖書に基づき「預言」の文字を使いたいと思います。被爆者の体験・存在は身をもって神様から託された「預言」としての力を持っており、被爆者の使命は、その預言を成就することにある、と考えるからです。
演説の後、参加者全員が謁見をゆるされました。7月に採択された「核兵器禁止条約」は9月20日に署名が公開され、バチカン市国はその初日に署名・批准をした国の一つです。私は長崎の被爆者であること、禁止条約への署名・批准をすでにしていただいたお礼と、核兵器廃絶を求める「ヒバクシャ国際署名」への賛同をお願いし、イタリア語の署名用紙と折鶴をお渡しいたしました。まだ署名の返送はなされておりませんが、必ずいただけるものと思っております。期間中、バチカンの最高幹部の枢機卿、ノーベル平和賞受賞の方々の署名もいただきました。
国内外の15社くらいのメディアの取材を受けました。バチカンの国営放送は毎週日曜日の朝2時間、カトリックの番組を放送しているとのことで、ホテルの屋上で、青空のもと聖堂を背景にしてのインタビューは、感銘深いものでした。AP通信、アルジャジーラなども、十分な時間がとれない取材もありましたが、一人でも多くの人、場所に核兵器廃絶の願いと運動を届けたいと思いました。
11日、この会議の最後に出された暫定的結論の中に「すべては結びついている」という言葉が繰り返され、世界が抱える様々な問題の関連が示されています。これは教皇が謁見時の演説で再度引用された、ご自身の過去のメッセージに他なりません。
「軍拡競争は激化を続けており、核兵器だけでなく兵器の近代化と開発の対価は、諸国にとって大きな財政負担となっています。そのために、貧困との闘い、平和の促進、教育、環境および医療プロジェクトの実施、人権の発展など、人類が直面している真の優先順位は、二次的な位置に追いやられてしまっています」
『核兵器の人道的影響に関する会議へのメッセージ』2014年12月7日参照
人が人として生きるために、優先されるべき課題は、すべて関連しています。非人道的兵器の開発のために費やされる多くの資金、労力、時間のために、多くの「人間的開発」がないがしろにされています。そのためには「すべての人が結ばれる」こと、包括的な対話の重要性があげられています。
「核兵器国と非核兵器国が関与し、市民社会、国際機関、政府、宗教界が参加すべきであり、特にカトリック教会は、あらゆるレベルでこの対話を進めるために努力することによって、すべての人が結ばれ、核兵器をなくし、統合的な人間開発に力を注ぎ、平和を築くことができる。この暫定的結論が終わりではなく、これからの対話と行動の始まりである」と締めくくられています。これらの結論は、バチカンとして、さらに国連会議をはじめ、他の国際会議の場でも発信され、核兵器のない世界へと、力強くリードする指針であると思います。
祈りに始まり、祈りに終った国際会議です。11日には、礼拝にも招かれ、世界中で平和を祈り、奉げられている礼拝を感謝し、胸が熱くなりました。被爆者であることとクリスチャンであることは、私の中ではコインの両面です。フランシスコ教皇のツイッターの言葉「政治活動はこころからなる、人間への奉仕、共通善への奉仕、さらには被造界を守る奉仕のためになされなければなりません」は、私のこれからの行動にさらに大きな確信を与えるものでした。