Promotio Iustitiae125号
『リーダーシップと統治:和解と再創造への呼びかけ』
梶山 義夫 SJ
イエズス会社会司牧センター所長
Promotio Iustitiae(正義の促進)の125号(2018年1月)が発刊した。『リーダーシップと統治 : 和解と再創造への呼びかけ』である。14論文中のいくつかを選んで、その要約ではなく、各論文を読んで筆者にとって役立った内容に触れることにする。《略》と記した論文に関しては、タイトルと著者の紹介に留めた。原文を読む一助となれば幸いである。なお、原文(全文)は、http://www.sjweb.info/sjs/PJ/からダウンロードできる。
『イグナチオ的リーダーシップの特徴 : 実りをもたらすオリエンテーション』
Sarah Broscombe (コーディネーター、イグナチオ的リーダーシッププログラム、ヨークシャー、イギリス)
『霊操』は基本的に神との友情を育むためのものであり、その友情はリーダーシップの源泉である。また『霊操』の二つの旗の黙想が求める、イエスのように貧しさ、はずかしめ、謙遜を受け入れる生き方は、リーダーの生き方でもある。
リバデネイラ『イグナチオの統治のしかた』(邦訳 : 新世社)「権威は隣人を助け、隣人に役立つために必要なので、持っていることは必要ですが、世の味がし、においがするような方法で手に入れるものではなく、かえって世を蔑み、真の謙遜さによって獲得するようなものでなければなりません」(5:10)。
リーダーシップのためのオリエンテーションは、誠実な生き方、神との友情、自由、謙遜であり、その実りは、魂を助けること、広い心、識別された愛、実践的な英知、変化に対応する姿勢、慰めである。
『イエスのスタイルのリーダーシップ』
Carlos Rafael Cabarrus Pellecer SJ (統合された養成のためのイグナチオ的運動 : MIFI、グアテマラ)
リーダーは、パイオニアでなければならない。
思いやり、協力関係の構築に優れていること、根源に立ち返ること、先入観、執着、恐れから自由であること、富、権力、個人的利益を拒否することが求められる。
不正などによって共通善が損なわれた場合、怒りを覚え、戦う。
信仰がなくても、イエスの生き方――神をいつくしみの父として示す。現状に対して、神の国を現実に可能な在り方として示す。聖霊による癒しとゆるし、人々と交わる喜びに生きる。神の国のための使命を受け継ぐ人を養成する。人々を抑圧する悪と戦う。十字架を担う――に招かれていると感じる。
本会の事業体においては、チームを形成し、強化すること、その活動だけではなく、その質を常に振り返り、評価すること、「神のより大いなる栄光のために」とは、現に生きている人間が活動の基準となること、人間と自然の権利に関する教育がなされること、文明や社会を変容させることに貢献することが重要である。
リーダーシップは、社会を変容させるためのものである。
『今日のイグナチオ的精神による統治』
Sandie Cornish (博士、カトリック社会教説専門家、オーストラリア)
神との和解のために、識別が重要である。その識別は、統治にかかわるすべての人の責任である。統治にかかわる非会員も識別のための養成が与えられ、また実際に識別の過程に参加すべきである。
他者との和解のために、貧しい人々を優先とすることは、貧しく謙遜なイエスに従おうとする望み、そしてラ・ストルタのヴィジョン――イグナチオは1537年、ローマ近郊のラ・ストルタにある小聖堂で、御父と十字架を担うイエスを見た。そして御父が御子のそばに自らを置いたことを悟った――に根差していて、イグナチオ的統治の中心課題である。
創造との和解のために、投資に対する倫理的基準も必要である。節約、再利用、という観点から、組織のシステムを再検討する。「被造物の一つひとつを思い浮かべながら、それらが私を生きながらえさせ、私の命を守り続けたことに心を打たれて、感動のこもった感嘆の声をあげる」(『霊操』60)。
協働とネットワーキングの根底には、イグナチオとその同志たちが自らの関係を主における友と考えたことがある。
『イエズス会社会使徒職の諸活動におけるリーダーシップ』
Elizabeth Garant (正義と信仰センターおよびジャーナル『Relations』総所長、カナダ)
《略》
『イエズス会社会使徒職の諸活動におけるリーダーシップ』
Elizabeth Garant (正義と信仰センターおよびジャーナル『Relations』総所長、カナダ)
《略》
『ミッションの奉仕のための統治 : 地域上級長上協議会の役割』
Mark Raper SJ (ミャンマー地区長、ヤンゴン)
《略》
『リーダーシップと統治 : 持続可能で、安定し、豊かな社会のための類型論と課題』
Paulin Manwelo SJ (哲学教授、キンシャサ、コンゴ民主共和国)
《略》
『今日のコンテキストにおける統治とリーダーシップ』
Stany Pinto SJ & Erwin Lazrado SJ (JESA : Jesuits in Social Actionメンバー、グジャラート、インド)
南アジアの課題としては、貧困、民族、宗派、基礎学力、階級、カーストなどが挙げられる。またインドでは近年、ヒンズー・ナショナリズム組織によって支援される右翼原理主義政府がインド憲法にのっとらない政策をとっている問題があり、少数者の人権が危険な状態にある。
政府の最近の政策に対して、多くの教会グループは貧しい人々や周縁に追いやられた人々の側に立つよりも、身を守るために政府と提携する。JESAは信仰の奉仕と正義の促進を実行する先鋒であるが、社会活動に従事していた人が、チャレンジの少ない使徒職やチャリティのためのプロジェクトに移る場合もある。私たちにとっては、人々を抑圧する不正な社会構造の変革にチャレンジしている人々やチャレンジできる善意の人々との提携を構築する時である。
JESAの問題点としては、個人的スタイルや組織中心のスタイルに慣れすぎていること、物質主義的・世俗的生活形態が若い会員に入り、社会使徒職に関心を持たなくなる傾向にあること、諸センター間の共同活動が少なく、十分な結果をもたらさないことなどである。
抑圧された人々の叫びに耳を傾けなければならない。その叫びが、私たちにとってチャレンジである。
周縁に追いやられた人、貧しい人、傷つけられた人、ダリット(旧不可触民)、アディヴァシ(インド先住民)、女性、こども、非正規雇用者、マイノリティ、移住を強いられた人、移民に対するエンパワーメントを様々なレベルでネットワーキングしながら、促進することが重要な使命である。
PEOPLESJ (People’s Leadership for Equity, Solidarity and Justice)の養成プログラムは、貧しい人々や周縁に追いやられた人々の村やスラムの中でのリーダー養成やネットワーキングの強化、女性の社会参加の促進などのためのプログラムである。このプログラムのプロセスで重要なことは、貧しい人々や周縁に追いやられた人々が中心であること、リサーチが基本であること、組織そのものが目的ではなく、人々を中心とする組織を形成すること、協働、評価、効果をもたらすチーム形成が強調されなければならない。
『教会とイエズス会において、社会正義とエコロジーを促進するリーダーシップと統治のためのチャレンジ』
Ludovic Lado SJ (ジョージタウン大学イエズス会客員教員、ワシントンDC)
組織としての教会の信用度は、性的虐待によって著しく損なわれた。性的虐待とその問題への対処を誤ったことの根底には、聖職者主義がある。
教会が社会の中にあるという根源的在り方については『霊操』102の受肉の観想、教会の統治の在り方についてはマルコ10:42~45が示している。
教会ヒエラルキーが富と権力を得ようとする誘惑に陥り、救済のミッションを見失うと、教会自体が自己目的となり、さまざまなアビューズが起こる。
協働性(collegiality)の原理は、教皇・司教のレベルだけではなく、信徒を含めた参加型の統治であり、この統治が必要である。
聖職者主義が強すぎる教会で、信徒に対するエンパワーメントを行い、統治に関する諸規定を改革して、聖職者権力を制御する構造を構築しなければならない。
教会が社会に貢献しようとするならば、まず教会の中で、和解、正義、平和の奉仕が始められなければならない。司教は率先して生活と行動面で良い模範とならなければならない。
『社会正義とエコロジーを促進するリーダーシップと統治のためのチャレンジと障害』
Yolanda Gonzalez Cerdeira (ERIC-Radio Progresso、ホンジュラス)
貧しい人々や排除された人々の現実に根差して、正義とエコロジーを促進させるためのリーダーシップと統治の在り方が必要である。このことを阻止する誘惑は、彼らの現実から遊離した快適な生活、時のしるしに目を閉じて、教会で指導的立場を保つこと、大きな組織を守ろうとすること、官僚主義などである。
正義の促進は、周縁に追いやられた人々や排除された人々の地域のプロジェクトだけの課題ではない。このチャレンジは本会全体で受け止めるべきである。
本会のすべての活動、大学、学校において、正義とエコロジーを促進させる方策、また養成課程に貧しい人々との出会いを優先させる方策が必要である。
政治的な事柄にかかわろうとしない恐れが、ミッションを阻んでいる。
家父長的要素を持つ本会の統治の改善は、女性に耳を傾けることを始めなければならない。個人主義的な要素や上意下達的要素の改善のためには、本会と会員が持つ感受性と思考の在り方を変容させなければならない。
東アジアの平和と和解のためのプロジェクト第一弾に参加して
長安 まみ
幟町教会(広島教区)信徒
2018年2月23日から26日までの4日間、「東アジアの平和と和解のためのプロジェクト」第一弾として、ソウルへの旅に参加させていただきました。広島の幟町教会からは、3人の青年が参加しました。
今回の旅では、近現代以降の日本と韓国の間の歴史と今もなお残る問題を学び、その傷を悼み、自分たちの国がしてしまったことを知った上で、韓国の青年たちと平和について分かち合う機会をいただきました。
1日目のはじめは、日本の朝鮮学校を支援しているモンダンヨンピルというNGO団体の運営するカフェに伺いました。朝鮮学校というもの、ヘイトクライムなどの被害、モンダンヨンピルの啓蒙活動、朝鮮学校について日本の多くの人が持っているイメージが偏見であることを学びました。
次に、戦争と女性の人権博物館に伺い、慰安婦問題はもちろん、南アフリカやベトナムの戦争で性暴力の犠牲になっている女性たちについての展示を観ました。私は、この博物館に行く前は慰安婦問題については白黒はっきりつけられない問題のように思っていたのですが、多くの酷似する証言や資料を観て、日本が組織立って行った深刻な戦争犯罪であることを知りました。そしてまた、被害女性たちについての展示を観る中で、加害国の人間でありながらもその傷がまるで自分自身や家族が受けた傷のように感じられました。
どんな戦争の中でも女性が性暴力の被害にあっており、未だに被害が続いている現代の中で、そのような悲惨な被害が二度と起こらないようにと願う彼女たちの想いを知り、その平和を祈る少女像とも出会いました。13歳や15歳の子供時代に性奴隷にされ、想像するのも恐ろしいほどの傷を受けた彼女たちが、世界中の女性たちのことを考えて力を振り絞っている活動には本当に温かい想いがこもっていると感じました。
2日目は(日本からの)独立記念館を訪れました。広大な敷地に記念碑や展示パビリオンがいくつも設置されている様子は、日本植民地からの独立は日本人が思っている以上に韓国にとって非常に重大な歴史なのだと感じさせるものでした。独立運動の勇士たちの活躍を見ると、日本と韓国での歴史の伝えられ方に差があることも明らかであり、戦争において他国に虐げられ、故郷だけでなく文化や歴史までも奪われてしまうことの深刻さがまざまざと伝わってきました。
3日目の午前中は、日本軍が植民地化の数年前に設立した西大門刑務所(ソウル刑務所)を見学しました。この刑務所は日本敗戦後も独裁政権下でそのまま使用されており、1987年に閉鎖されました。現在は資料館として使用されています。私たちは、展示を観ると共に、1983年から1987年の民主化宣言までこの刑務所に収監されていた方(後に無罪判決)のお話も伺うことができました。そこで行われていた拷問や待遇の残酷さを垣間見、それは日本軍が残していったものであること、ここでもまた自分たちが受けた傷を他者に同じように与えてしまうといった負の連鎖の歴史を知りました。
この日の午後は、イエズス会センターのイグナチオカフェで、韓国のカトリックの青年たちと分かち合いをさせていただきました。中井神父様のお話を伺った後、25人ほどの青年たちと一緒に平和について分かち合うことができました。
私たち日本のグループの中には、この時までに学んだ歴史から、韓国の青年たちと語り合うことに不安を持っていた人もいました。また、韓国の青年たちの中にも、日本に良い印象を持っていなかった人もいたと思います。それでも、彼らは私たちの話に一生懸命に耳を傾け、理解し、力づけてくれました。そういった彼ら一人一人の姿勢に聖霊の働きを感じ、とても感動しました。分かち合いの後、彼らが用意してくれたパーティーでも私たちは色々なことについて語り合い、素晴らしい友人を得ることができました。
ここまでの3日間で、日本では問題視されてきている朝鮮学校への差別が韓国ではほとんど知られていないこと、慰安婦問題を含む1910年以後の植民地としての朝鮮半島での出来事は、日本では十分に教育に取り入れられておらず、また正しく報道されていないものが非常に多いということなど、たくさんの衝撃を受けました。
私を含む9人の日本の青年たちはそれぞれにその問題に共感し、様々な想いを持ったと思います。
4日目には、韓国のカトリックの歴史についても知る機会をいただきました。韓国では、キリスト教を儒教以上に優れた宗教として国内から自然発生的に信者が生じ、その後の度重なる弾圧に耐えながらも生き延びてきた歴史があるそうです。多くの殉教者、聖人たちが守ってきた歴史の上に現在の韓国におけるカトリックの活発な活動があることをとても誇らしく思い、素晴らしい韓国での旅に名残を惜しみながら私たちは旅を終えました。
この旅で特に大きな恵みを感じたのは、3日目にたくさんの韓国のカトリックの青年たちが私たちをとても温かく迎え入れてくれたことです。短い時間ではありましたが、私たちは同じ信仰のもとに平和について分かち合い、互いを知り、共にミサを捧げることができました。
旅を終えた今、私は何人かの友人とこの旅について分かち合いました。その中で日本や韓国以外の国の人も植民地時代の問題に注目し、知っているということを知りました。改めて、旅に出る前は何も知らなかった自分がとても恥ずかしくなりました。日本人の友人とも話をしたのですが、政治的な問題を内包している話題でもあり、なかなかこの旅で得たことをうまく共有できずとても悲しくなりました。
でも、この旅で得た仲間たちの温かいメッセージを見るととても勇気づけられ、今回知ったことを伝えたい、平和についてもっと色々な人と分かち合いたいと、想いが強くなっていきます。私たちは、仲間同士の結束を強め、また今回得たことを自分の生活に持ち帰って広げる努力をしなければならないと思います。
この素晴らしい旅が平和のための最初のステップとして、日韓のカトリックの連帯がより強く続いていくことを願います。
最後に、この旅に導いてくださった神様、企画してくださったイエズス会の中井淳神父様、支えてくださった多くの韓国の司祭、シスター方、この旅で出会えたたくさんの青年たちに感謝致します。
この主のお導きに応えていくことができますように、どうかお祈りください。
シンポジウム 「信徒として日本社会の今を診断する」
(まとめ/文責) 柳川 朋毅
イエズス会社会司牧センタースタッフ
イエズス会社会司牧センターと聖イグナチオ教会共催の2018年度連続セミナーは、「キリスト者として日本社会の今を診断する」というテーマで行っています。以下は、2018年5月16日のシンポジウムに登壇いただいた3名の信徒による発題のまとめです。
山岸 素子
上智大学経済学部の出身です。大学卒業から今に至るまで、ずっと滞日外国人と難民支援に関わってきましたが、その原点となっているのは、上智大学でボネット先生をはじめとした神父さんや先生方に出会ったことです。当時、在日外国人は外国人登録時に指紋押捺をしなければならなくて、それはすごく差別的な扱いだと、ボネット先生は大学教授でありながらそれを拒否し、オーバーステイの非正規滞在者として大学にいらっしゃいました。それを支援する運動に参加するだけでなく、ボネット先生の授業やゼミの中でも、日本社会の在日コリアン、水俣、沖縄などのテーマを設けて、その現場に行って、そこの人たちに出会って、現場で感じて体験したことをゼミで深めていくという経験を4年生までずっとやりました。その時の経験が今に繋がっています。
1990年代から2010年頃まで、多くの外国人が日本にやってきましたが、非正規滞在の人もたくさんいました。90年代、私が大学を卒業してNGOに就職した当時は、日本社会の中に労働力が不足していたので、アジア諸国から観光ビザで来て、そのままオーバーステイで働いていた時代でした。ピーク時には30万人くらいがそうやって働いていましたが、日本社会の雰囲気としても、そういう人たちをとても寛容に受け入れていた時代だったと感じています。
一方で当然ながら、アジアから来た弱い立場の人たちが、賃金未払いにあったり、突然クビを切られたり、事故に遭っても病院に受け入れられずたらいまわしになったりという色々な人権侵害が起き、それに対応する救援活動も生まれました。
当時、カトリック教会にもフィリピン人やラテン・アメリカの人が大勢来だした時代でした。社会司教委員会は『国籍を越えた神の国をめざして』(1993年)という司教団メッセージを発し、日本の教会の中にも、日本社会に先行して多文化・多国籍のコミュニティができていきました。
その後、90年代の後半からはカトリック横浜教区の「滞日外国人と連帯する会」で6~7年間働きました。そこにはラテン・アメリカ、フィリピン、韓国デスクがあり、多国籍のスタッフが集っていました。私はそうした活動を通じて、多様な国籍や文化背景、民族的背景を持っている人たちと一緒に働き、集っていることの豊かさを逆に感じることができました。
一方、日本社会の中で、外国人が日本人と同等の権利を保障されず、平等な待遇を受けていないというのも事実で、様々な人権侵害が起こっています。私が滞日外国人と連帯する会やカラカサン(移住女性のためのエンパワメントセンター)で出会った人々の多くは、国際結婚で日本に来て、暴力の被害に遭ったりして助けを求め、こういう機関に来て、日本社会で生きていくための色々な支援を受けています。こうした活動を通じても、日本人だけのコミュニティにいなかったことが、自分にとっては日本社会的な閉塞感を突破するヒントになるような経験をさせてもらっているなと感じています。
このポジティブな感覚は、今の日本社会にあっては、すごく大切なポイントではないかと思っています。1990年代の日本社会は、オーバーステイの外国人も許容されていたような寛容な社会でした。ところが2000年代にアメリカで同時多発テロが起きたことによって、全世界的にテロとか監視とか移民排斥とかいう排外主義的な流れが高まっていく中で、日本社会全体もそのようになってきていると実感します。私のいる多国籍のコミュニティはそれを突破するような力を持っていて、それはまた、多様な人が一緒にいるコミュニティだから、日本社会が均一化を求めるようなものとは違う豊かさがあります。
もう一つは、カトリック・ベースや、キリスト教に基づく活動であるということに、社会の中で今、閉塞的で排外主義的になっているものとは違う価値観を生み出しているものがあるのではないかと感じています。移民排斥や排外主義が高まっていて、外国人と日本人は対等ではないという状況は、25年前から改善されるどころか悪くなっているところすらあります。それをなんとかしていくためには、今回の『いのちへのまなざし【増補新版】』にもあるように、「一人ひとりの尊厳が大切にされる。神の前で一人ひとりが同じように大切なんだ。人間の尊厳と権利は平等である」というカトリックの考え方が、日本社会へのメッセージとして大切だと思います。
日本での難民の状況は本当にひどく、ほとんど受け入れません。去年は1万9千人くらいが難民申請をし、認定されたのは20人だけ。どんな形で庇護を求めてきても、シャットアウトしているのが日本社会の現状です。そうした社会の中で、カトリックの教えを基にした発信をもっとできるのではないかと感じています。
柳下 修
横浜の小さな教会にずっと通っています。普段は、栄光学園というイエズス会の中高で、理科と倫理を担当しています。中学校で来年から「道徳」という科目の教科書が配られるようになるので、8社ほどから送られてきた道徳の教科書を、どれを採択するかということで見ているのですが、中身はすごくよさそうな話であふれています。例えばマザー・テレサの話とか、個々の題材は綺麗な話がいっぱい載っているのですが、それにきっちり結論まで全部載っているんですよね、誘導的に。この話はこういうことですよね、という風に、ばっちり押し付けるところがあります。
もう一つは、指導要領にある20数個の項目が、この項目はこの教材、この項目はこの教材という風に全部対応させてあって。しかも、「日本国民として~」という項目もあって、これは何なんだろうと・・・。山岸さんの話にもあったように、今、日本で学ぶ子どもたちの中には、日本人じゃない人もいっぱいいるのに・・・。
うちの学校では、価値観を全部押し付けるみたいな方法ではなく、それぞれの子どもたちが考えられるようにやっていきますのでいいのですが。日本中で一定の道徳観が押し付けられちゃうと、これは大変なことだなと、教科書を見ながら改めて思っています。
ソフトテニス(軟式テニス)部の顧問をしています。そこで出会う公立学校の若い熱心な先生方を見ていると、忙しさの中で教材研究の時間がなかなか取れず、道徳の授業をやりなさいと言われたら、多くの学校で教科書をそのまま押し付けるような授業になってしまうのではないか。しかもそれを文章で評価するという・・・それがすごく心配です。
「時は空間に勝る」という教皇フランシスコの力強い言葉があります。『福音の喜び』には「時は空間を統御し、それを照らし、後戻りすることなく、不断の成長の連鎖へと変貌させるのです」と書かれています(223項)。我々の社会って、確かに悪くなっていくことは色々とあると思いますが、すごく長い目で見ると、いい方に向かっているんじゃないかなと。時をかけてちょっとずつ働いていけば、後戻りじゃなくて、ちゃんと成長の連鎖の中で我々は生きているのだということは、希望なんじゃないでしょうか。移民の問題にせよ、道徳教育の問題にせよ、すごく暗い大変そうに見えることはあるんですが、ゆっくり諦めずに時間をかけていくのが私たちの活動ではないかと思っています。
まずは、せかしに乗らずゆっくりしましょう。そして、私たちは体があって、そこに心も魂もあって、なので、しっかり食べることを大事にすることが大事だと思っています。結婚して今年で30年になりますが、ずっと奥さんがお弁当を作ってくれていて、自分はお弁当で一番養われていると思っています。
私の勤める学校では豊かな家庭の子どもたちが多いけれども、最近ですと、夕ご飯いつもひとりでコンビニで買ったもの食べている子とか、ひとりでファミレスに行って食べているという話も聞こえてきます。それじゃあねえ・・・って思いますよね。でも、それはまだ食べられているんですが、食べられない子たちがいる、という貧困の問題が確かにあって、それは何とかしなければと思います。皆が十分に食べるものがあって、ゆっくり楽しく食べられるというのが大切かなと思っています。
黒須 優理菜
この4月から社会人になったばかりで、私が今の日本社会を診断することはできないので、一人の青年として、一人の信徒として、今自分自身に何ができるかなと考えました。所属はイグナチオ教会で、2年前まで5年間ほど、中高生会のリーダーをやっていました。今はリーダーを卒業して、青年の活動にちょっとずつ参加しているところです。
今、柳下さんが食事の話をしてくださったので、まずはステラ・キッズ・カフェについて。私がここ2年くらいで立ち上げた活動で、子どもたちと一緒にご飯を作って食べるという活動をしています。その趣旨として「“こ”食」の問題があります。ひとりで孤独な食事をしたり、皆が個別に違うものを食べたり、コンビニ食だったり、子どもだけでの食事だったり、冷凍庫の食品を温めるだけの食事だったりというところが日常生活では多くあります。そうした中で、「皆で同じものを食べよう、同じ食卓を囲もう」、それこそが教会の原点で、初代教会がやったのは、皆でパンを割き、分け合い、食事をし、祈ることです。それを福音宣教の一環としてやりたいのですが、まだ方法を模索中です。
イグナチオ教会に所属している子どもたちは裕福な家庭の子が多いイメージで、実際に有名どころのハイレベルの学校に通っているけれど、どこかに傷を負っている子も多くいます。親とうまくいっていないとか、いじめられるので学校に行けないとかの理由で、居場所を求めて教会に来る子どもがとても多いんです。私たちリーダーは、教会学校は家であり、いつでも帰ってきていい開かれた場所であるということを意識して、毎週教会学校をやっていました。
ただそうすると、受け止めたいという気持ちは強いけれど、私も大学生で責任能力もなく、どこまで子どもたちの家庭の事情や学校のことに踏み込んでいいかわからず、それがすごく苦痛でした。担ってあげたいぶん、自分ができることが分からなくて。だからこそ、子どもだけの関わりではなく、自分たちだけで担うのではなく、教会全体として、誰かに助けを求められる状況が必要なのではと考えました。
たぶん教会の中には、医療関係者やカウンセラーや先生方が多くいると思います。ただ、どこから頼ればいいかわからないので、すごく悩んだ時期がありました。それをマジス(教会報)に書いたら、実はこんな活動をやっているんだよ、と声をかけてくれる人が増えました。自分から助けを求めたり、声を上げたりすることはとても大切なんだと感じました。
翌年に私はリーダーを卒業したので、リーダーOGとして大人と子どもを繋ぐことを考えた結果始めたのが、ステラ・キッズ・カフェやステラ・スタディ・ルーム――放課後、信徒会館の図書室に子どもたちが来て、勉強し一緒におやつを食べる――という活動です。
私自身、教会に来始めたのは17歳のときでした。病気をしたり、誰かに相談したいけれど先生にも友達にも家族にも打ち明けられず相談できる人がいないな、というときに、教会に行ってみたいなと思ったのがきっかけです。教会は開かれた場所であるということは今は理解しているつもりですが、本当に困っている子どもたちに、教会は開かれているって伝わっているんだろうかと危惧しています。
日本の多くの人は特定の宗教を持っているわけではないので、そういう子たちがどこか窓口を見つけられない限り、自分ひとりで抱え込んでしまいます。教会は開かれているということを、どうやって伝えていけばいいのかが今の課題です。宗教の関わりというのは、無理やりに推し進められるものではなく、その子どもたち(大人でも)の神様との出会い、教会との関係性というのは、それぞれその人のタイミングがあります。求めているタイミングで、きっと神様は示してくれますが、神様が示してくれるタイミングを、私たちはどう気付くことができるのでしょうか。
私はイグナチオ教会からワールドユースデーに派遣してもらったり、「えきゅぷろ!」や「カトラジ!」といった色々な団体に関わらせてもらいました。そういった活動で、常にどこかに窓口を用意しておくということが大事なんじゃないかと思います。子どもたちや、教会に行けずにどこかに助けが欲しいと思っている人たちが、ちょっと検索したら、こんなのやってるんだと気付ける場所が用意されていることが必要です。私はその恩恵に与れたから、今こうやって活動しているけれど、教会という存在を知らなければこの道はありませんでした。私は一応両親がクリスチャンなので、教会行ってみるか、となったけれど、教会を知る場所として、何かのイベントがあること、常にどこかが開かれていることが重要ではないかと思います。
今私が一人の青年として、信徒としてできることは、呼ばれたところ、神様に示されたところに行って、実際に声を上げて生きるということです。
2018年度連続セミナー「キリスト者として日本社会の今を診断する」
『いのちへのまなざし』は「すべての人が与えられたいのちを十全に生きることができるように」と願って、日本カトリック司教団から昨年、増補新版が発行されました。すべてのいのちをいつくしむ神のまなざしが、私たちのまなざしとなりますように! この連続セミナーを通して、教会の社会問題についての考えに照らしながら、キリスト者の私たち一人ひとりが、日本社会の今をご一緒に診断してみませんか。【日程】2018年4月18日開講~全12回。第1・第3水曜日18:30-20:00
アジア諸国における移民労働者の経験の分かち合い
安藤 勇 SJ
イエズス会社会司牧センタースタッフ
2018年4月17~21日、東アジアの9つの国および地域からイエズス会のグループの代表たちがマニラに集まりました。東アジアの移民労働者に関するプログラムを見直し、準備をするためです。イエズス会アジア太平洋協議会(JCAP)は2010年に、社会活動に関する共通の優先課題として移民問題を選びました。私たちはその結果この地域で構築されたイエズス会のネットワークに属しています。このネットワークは2014年の6月に始まりましたが、現地機関のいくつかはすでに何年も前から自国内で活動してきています。
この数年間で、年一回の会議のほか、SkypeやGoogleドライブ、メーリングリストなどを活用することによって、コミュニケーションや統治機構が構築されてきました。現実問題として私たちの機関のほとんどは小規模で、資源も極めて限られているにもかかわらず、移民労働者に関する共通の関心が豊かな協力関係の中心になっています。ネットワークでは過去3年にわたって、移民の残された子どもたち、再定住、ブローカー制度に関する共同研究の成果を英語のブックレットにまとめました。
今回の年次会議では、ネットワークに加盟する各機関からの通常報告のほかに、教皇庁人間開発のための部署(2017年1月創設)からの創造的なインプットもありました。また、海外に離散しているフィリピン人たちをエンパワーメントするリーダーシップ・トレーニング・アテネオ・プログラムや、ストレスに向き合うためのセッションもありました。
この移民ネットワークの目的は、脆弱な移民労働者の人権を促進し、守り、移民と移住の構造的原因に立ち向かい、社会変革を促進するために社会的意識を高めることです。
しかし、他の機関や社会グループと協力しながら意識啓発活動を行うだけでなく、移民を送り出す国と受け入れる国の両方でよりよい保護をめざすためには、アドボカシー計画がなおさら不可欠です。東アジアの特徴は、私たちは移民の送り出し国と受け入れ国の交差地域にいるのだという事実です。
マラウィ : 全ムスリム共同体の強制移住を目撃
2017年5月、ミンダナオのイスラム大都市であるマラウィで、激しい戦闘が勃発しました。昨年10月に戦闘が終結した後も、軍隊の包囲が続いていました。5か月間の戦闘で、多くの人々が殺されました。中央モスクやカトリックのカテドラルを含む建物も破壊されました。何千人もの市民が、何も持たずに自宅から退避しました。
私たちのプログラムには、その地域周辺のムスリム避難所への訪問が組み込まれていました。軍による包囲が解かれてから半年が過ぎていましたが、軍による統制は全面的に広がっていました。戒厳令も布かれていました。
私たちは皆、厳しい「マラウィ訪問ガイド」を受けました。リーダーと車両が当てられ、それに乗った参加者の公式訪問のみが許可されました。その他のいかなる車両も侵入できませんでした。ルートは厳格に定められており、携帯電話、カメラ、タブレットなどの機器は大幅に制限されていました。人々と会う際には、宗教的・文化的にも配慮が求められました。
私たちは、900人以上の人々のためにテントが建てられた一つの避難所に、一時間以上滞在しました。全員がムスリムで、私たちをとても温かく出迎えてくれました。彼らはすべてを失ってしまいました。テントの中には、食糧や水さえも、何もありませんでした。子どもたちは数名のボランティアと共に、周囲で遊んでいました。
リーダーたちが私たちを、人々が集会や祈りのために集まるスペースに招いてくれました。そして入れ代わり立ち代わり、150人以上の人々が私たちに会いに来て、彼らの現状について話してくれました。彼らの話を聴きながら、私は自ずと東日本大震災と福島原発事故のことについて考えていました。なので、私は日本でも強制移住に苦しんでいる人々がいるのだと伝えました。「あなた方は一人ではない」と言いました。他者との連帯を築くことによって、彼らはいくらか励まされたようでした。
実際、彼らの状況は希望を超えているように思えました。
生きた連帯のしるし
私たちは、多くの公的機関および民間の部門が、避難したすべてのムスリム共同体を支援するために非常に大きな貢献をしたということを学びました。それらは必要な食料や衣料、そしてテントを建てるための土地を提供しています。カガヤン・デ・オロ・ザビエル大学の主導で、避難先のムスリムたちに援助物資を分配するために、大学のキャンパスを使って物資の調整をしているということに特に感銘を受けました。大学の農学部はSEARSOLIという機関を通じて避難所周辺での畑づくりを促進し、そこに住む人々に必要な野菜を栽培しています。避難所で暮らす人々が自分たちでも農業を行えるように、種を提供するだけでなく、若いボランティアグループも派遣しています。
ザビエル大学はまた、避難したムスリム家族のために、アンガット・ブハイ再定住村に24平米の家を60戸建てるプロジェクトも実施しています。私たちは滞在中、建てられたばかりの最初の家を訪れました。この「社会司牧通信」が届くころには、60家族がそこに入居することができます。イエズス会のザビエル大学のモットーは、「私たちは単に家を建てるのでない。共同体を築くのだ」というものです。