マイケル・チェルニー枢機卿とのオンライン講演会
ムカディ イルンガ SJ
学校法人上智学院 カトリック・イエズス会センター
1. 2020年11月27日、カトリック・イエズス会センター(上智大学)とイエズス会社会司牧センターがオンライン講演会を開催し、バチカン移民難民セクション次官のマイケル・チェルニー枢機卿SJにご講演いただきました。これは上智学院が企画した「教皇フランシスコ来日・来校一周年記念」プログラムの一つでした。「コロナ禍の時代における移民難民と新しい世代の答え」をテーマとして、チェルニー枢機卿が印象深く、傑出した講話をしてくださいました。
2. コロナ禍の間の教皇フランシスコの教え、説教、謁見演説、司牧的な手紙と新回勅『フラテッリ・トゥッティ(Fratelli Tutti)』に基づき、チェルニー枢機卿は「コロナ危機において教皇フランシスコが様々な教えを通して道徳的、そして模範的指導者として私たちを導いてきた」と指摘しながら話を始めました。
実際、教皇フランシスコは、私たち全員が、恐れて迷子になっている激動の時代に、漂流していると感じていることを認識していました。福音書に載っているイエス・キリストの弟子たちと同様、私たちも皆同じ船に乗っていて、予期せぬ激動の嵐に直面しています。恐れに満ち、弱くて、目が眩んでいます。私たちは皆一緒に、泣いて助けを求めています。しかし、私たちは同じ船に乗っているにもかかわらず、同じ立場とは言えません。弱い立場に置かれた移民、難民などの人々がより多くの苦しみを抱えているのです。
3. パンデミックによって、移民、難民が「普段」から置かれている状況が明らかにされました: 不確実性、激しい不安、不安定な栄養と宿泊、健康状態の悪化、法的な問題、失業または仕事を見つけたとしても搾取や酷使の危険性。
パンデミックにより、これまでしていた不安定労働さえもなくなりました。国境が閉鎖されているため、自分の国に戻ることはできませんが、生き延びるための生活費はありません。さらに、政府は自国民を優先しているため、社会的および健康上の安全性の測定に関しては、政府によって忘れられることがよくあります。しかし同時に、配達、警備、ヘルスケア、農業、食品加工、メンテナンスなど、最も暗い時間帯に重要(エッセンシャル)なサービスを提供する人のほとんどは移民、難民、季節労働者です。そうした人の多くは、自らの健康を危険にさらしています。
4. パンデミックは、多くの移民や難民がいかに不安定で危険な生活を送っているかを理解するのに役立ちました: 混み合った収容所や拘留所に入れられた人、医療保障がないまま道端で生活を送っている人、三密を避けられない状況で貧民街に住む人などです。パンデミックによって、私たちがどれほど不正義な社会に生きているかが明らかになりました。
このような状況から出ていくために、どのように対策できるかについて、教皇フランシスコがいくつかのアドバイスを教えてくれています: (1)利己主義を超えて、共通善を優先すること; (2)無関心、不可視性、個人主義の破滅的なイデオロギーを拒否すること; (3)無視しないこと、忘れないこと; (4)分裂を助長しないこと; (5)偽善者にならないこと; (6)貪欲、利益への熱意、そして目先の満足に基づく経済モデルを拒否すること; (7)人々を最優先に考え、単なる技術的な解決策を拒否することです。
5. パンデミックは、「私たちが共に暮らす家」への不正義、不平等、暴行の蔓延という文脈において発生しました。したがって、パンデミックが気づかせてくれたように、新型コロナウイルスという「小さいが恐ろしいウイルス」もですが、社会的不正義、機会の不平等、疎外、弱い立場の人への保護の欠如といった「もっと大きなウイルス」もあるので、両方の治療法を見つける必要があります。
教皇フランシスコを引用して、チェルニー枢機卿は次の事実を強調しました。「新型コロナは災害ですが、私たちは利己的な無関心というさらに悪いウイルスに見舞われる危険性があります。」そして、教皇フランシスコからの教えは、「正義、慈善、および連帯の抗体」を解き放ちます。そのような抗体を開発するために、教皇は教会の社会教説を参照し、その原則は次のとおりです: 個人の尊厳、共通善、貧しい人々のための優先的選択、物財の普遍的用途性、連帯と補完性の原理、そして私たちの「共に暮らす家」の世話。
6. 枢機卿は、私たちがどれほど脆弱で相互依存しているのかを新型コロナは示していると指摘しました。ただし、脆弱性と相互依存性は一致の要因となる可能性があります。それは、対話と友愛と連帯の文化を構築しなければならないことを意味します。
これは『フラテッリ・トゥッティ』の招きです。この回勅の中で、教皇フランシスコはすべての人々と国家の間の友愛と社会的友情を求めています。「物理的な近さに関係なく、生まれた場所や住んでいる場所に関係なく、私たちが一人一人を認め、感謝し、愛することを可能にする友愛の開放性」を求めています。個人と公共の行き過ぎた自己中心性の代わりに、国家主義と個人主義のイデオロギーに勝つための愛と開放の態度を求めています。そうした狭いイデオロギーは、「冷淡で快適でグローバル化された無関心」につながるからです。教皇フランシスコのこの呼びかけは、移民、難民、避難民、人身取引の犠牲者にいくつかの影響を及ぼします。
7. 移民はしばしば戦争、迫害、そして自然災害から逃げています。すなわち、環境的および社会的災害を避けるために旅立ちます。これらの災難と悪に直面して、移民と難民は「自分自身と家族のための機会を求めています。彼らはより良い未来を夢見ており、それを達成するための条件を作りたいと考えています」。
しかし、国家主義(ナショナリズム)と人民主義(ポピュリズム)の政権は、移民を締め出し、防御壁の後ろに身をかがめようとしています。移民が「他の人のように社会生活に参加する資格があるとは見なされず、他の人と同じ本質的な尊厳を持っていることを忘れがち」という外国人嫌いの考え方をよく目にします。教皇フランシスコが強調するこの精神は、キリスト教とは相容れないものです。「それは、起源、人種、宗教に関係なく各人が持つ不可侵の尊厳、そして兄弟愛の最高の掟といった、私たちの信仰の深い信念よりも、特定の政治的選好を設定するため」です。移民と難民に対する適切な道徳的反応は、4つの動詞に要約することができます: 歓迎する、保護する、促進する、そして統合することだと枢機卿は強調しました。
8. 最後に、チェルニー枢機卿は、『フラテッリ・トゥッティ』が若者たちに、この友愛、連帯、そして無償の文化の創造に積極的に参加するよう呼びかけているという事実を強調しています。これは、若者が自分たちの文化に根ざしていることを義務付けています。若い人たちは、自分のルーツと歴史を理解する方法を知っている必要があります。植物の根が弱いと、生き残れません。歴史の感性と共通の物語のない文化についても同じことが言えます。過去の世代から来る人間的および精神的な富を受け入れるかは若者次第です。新しい文化への夢を実現するためには、世代間の対話が必要です。これは、若者もまた、移民や難民といった異なる人々に対する開きへ導かれていることを意味します。
枢機卿は若者たちに、この教皇フランシスコの呼びかけを思い出させます: 「私は特に若者たちに、自分たちの国に新たに到着した他の若者たちに敵対し、後から来た者を脅威とみなし、他のすべての人間と同じ不可侵の尊厳を持っていないとみなす人々の手に乗らないように促します。」
9. 質疑応答のセッションも行われました。参加者からはさまざまな質問がありました: パンデミックへの世界的な対応と宗教間の対話; パンデミックおよび国際政治(バチカン、米国および中国); イタリアと日本における移民と難民の状況; 難民を支援しているカトリックNPOの特異性; 教会における性的虐待など。チェルニー枢機卿はほとんどすべての質問に対して洞察に満ちた回答をしました。
※ チェルニー枢機卿が、パンデミックに関連した教皇フランシスコの8つの文書をまとめた書籍『Life After the Pandemic』の日本語訳が、カトリック中央協議会から出版されました。日本語題は『パンデミック後の選択』です。
“脆い神”への眼差し 新型コロナウイルスのときにあたって
清水 靖子
ベリス・メルセス修道会員
「パプアニューギニアとソロモン諸島の森を守る会」海外調査メンバー
長年の熱帯雨林保護活動に、ちょっと疲れた時期があった私は、リニューアルをかねて、2002年から一年間、ボストンで休憩の一年間を過させていただいたことがある。それまでの日々は、原生林を裸にし、泉を壊し、地下水を砒素汚染までして逃げようとする巨大日系伐採企業・地球温暖化欺瞞広告の日系石油企業などとの対決や調査、著作、そして現地の村人との連帯という、メチャメチャハードなスケジュールに追われていた私であったので、一年間のボストン留学は、ふっと息を抜く日々でもあった。
勉学仲間たちは、「ツインタワーの崩壊は米国政府による自作自演である」と言う、目覚めた意識の素敵な友人たちで、女性神学を学びながら、いっぱいの元気を頂いた。イエズス会のロジャー・ハイツ師からは、私が以前から抱いていた神への眼差しを、さらに深めるという貴重な方向付けの指導を頂いた。
というのは、学期の終わりに、「脆い神の神秘 Mystery of the Fragile God 」という小論文を仕上げて、彼に提出した私。その論文の内容は、長年の熱帯雨林の原生林を守る活動のなかで見つめてきたことを紡いだもので、原生林の多様な生命の相互依存の神秘の美しさと、外部からのブルドーザーなどによる侵入に晒されると将棋倒しのように崩壊させられていく命の輪の脆さ、そして、その中に受肉しておられる神、“脆い神の神秘”を記したものであった。
それ以前の神学を紐解いても、“脆い神”などとは、どの神学者も語っていない。「“脆い神”というタイトルで、きっと没にされる」と、そっと論文を提出した私であった。
ところがロジャー・ハイツ師は、美しい微笑みで、こう言われたのだった。「遠回しに、“Mystery (神秘)”という言葉を加えなくてもいいのだよ。神は“脆い神”なのだから、“The Fragile God ”という題ずばりでいい!!」
「・・・えっ?そうなのですか?」「そう・・・」今でも、彼の部屋の静けさと、優しい佇まいを思いだす。大神学者というよりは、映画にでも出てきそうな面立ちと、深い沈黙の観想者であることを併せ持ったロジャー・ハイツであった。(注:1)
帰国後の私に、彼の元から、『脆い世界の中を神と共に歩む』 “Walking with God in a Fragile World ”という本が、プレゼントとして届けられた。その本のメッセージは、“9月11日の犠牲者の一人は神だった。神自身もfragileなのだ”というものであった。
あれから20年近く経った。そしていま、宇宙の唯一の青い星である地球の生命は、そのfragilityへの一途を、崖縁への落下寸前の勢いで辿っている。
長年人間が、原生林や生きとし生けるものの生命を、将棋倒しのように踏み躙り、自分勝手に使い、崩壊させてきたように、今度は自然界とウイルスからの逆襲が、人間を襲い、生命を浸食している。
その只中に、Fragilityを担って受肉された神がおられる。
この危機にあって、私には、自らを諭し、目覚めて生きていきたい幾つかのことを、拾ってみた。
その① “フェイク宣伝”に惑わされない冷めた目をもつこと。政治利用されている“大合唱”に洗脳されないこと。
例:“地球温暖化防止キャンペーン”の欺瞞、“CO2削減キャンペーン”の欺瞞について。
このキャンペーンは実は、チェルノブイリ事故以後の、原子力産業の衰退危機のなかで、その復活を意図したイギリスのサッチャー首相と、呼び集められた御用科学者たちによって始められた。当初から原発推進を目的にしてきたのである。
まずは1988年にIPCC(気候変動に関する政府間パネル)を大上段に設置。表面は地球温暖化問題を強調。原発や軍需産業推進と水面下で関わりを持ちながら、キャンペーンを強行してきた。2009年には、その土台の“温暖化グラフの捏造”が発覚するという、クライメイトゲート事件が起こり、世界を震撼させた。IPCCの問題点が世界に知れ渡ったのである。
しかし、日本の政府とマスコミは、それを小記事扱いにし、真相に蓋をした。日本政府は、その翌年6月のAPEC(アジア太平洋経済協力)のエネルギー担当相会議の声明で、原発が温暖化防止対策に貢献するとして、さらなる建設促進を盛り込んでいく。
2011年に破局的な福島原発事故が起る。脱原発に舵を取る国々とは反対に、「原発は“CO2削減”に不可欠」、「事故処理も汚染もコントロールされている」として、いまも原発とオリンピック開催の大合唱をつづけている日本である。
しかし実は、原発こそが、CO2排出の最たるもの、地球温暖化の元凶であることを忘れてはならない。ウラン濃縮・核燃料サイクル・放射性物質処理の全過程でのCO2排出。原発からの温排水による海水温度上昇など。
原発推進だけではない。IPCCと連携する国際諸機関は、CO2削減の大合唱と共に、原生林皆伐を許し、裸にされた大地への“単一植林”(“ユーカリ植林”やオイルパーム・プランテーション他)に、温暖化防止策として、そのビジネスやプログラムに、お墨付きと資金提供をしてきたのだ。CO2・化石燃料を、地球温暖化の犯人にでっちあげながら。
しかしCO2は植物にとって無くてはならない存在なのである。そのことは語られない。そもそも、私たちの母なる地球は、何十億年の歴史のなかで、周期的に、温暖化と寒冷化の時期を繰り返してきた。その過程で海水面の上昇もあった。現在の地球温暖化が、その周期と関連しているとする科学者の見解は重要である。
IPCCの推進側が、原生林を所有するパプアニューギニア代表を、温暖化防止のヒーローとして持て囃し、受け皿のプログラムをつくらせ、膨大な支援金を与えたことがある。結果として、この代表も受け皿も、その金の汚職塗れになって停職処分を受ける顛末という事件まで発生している。その類の金に巨大NGOさえも群がっているのは悲しい。
“地球温暖化防止キャンペーン”が、温暖化を防止するどころではなく、歪んだ政治・ビジネスと、膨大な金のやりとりに向かっていく、その一端をここに記してみた。オリンピックの展開と金儲け主義と類似している側面もある。詳しいことは「太平洋の森から」No.41(2020年7月)を参照にされたい。(注:2)
温暖化防止策として、最近脚光をあびているのが自然エネルギーである。しかし、その一端として、膨大な量のパーム椰子殻(PKS)や、パーム油を燃料とする発電方式が、日本各地に建設され始めている。多くの日本の商社が、そのため熱帯雨林の岸辺に群がって、膨大な量の輸入を行っている。この発電は、熱帯雨林を再度破壊させるものであり、日本内外の反対運動に目を止めて、皆さまにも連帯をお願いしたい。
その② 新型コロナウイルスを引き起こした根源を見失ってはならない。
武漢の研究所にかぎらず、欧米も日本も、生体実験、生物・化学兵器、生命の連鎖を変異させるウイルスや毒物の製造を行ってきた。
戦争中、日本が侵略した中国・アジア・太平洋諸島で、生物・化学兵器を使用しての人体実験や生体実験を行った日本。それに関わった医者たちは戦後、咎めも受けずに、日本の医学界の重鎮に上り詰めていく。医学界と軍需産業が結びつく闇は深い。
新型コロナウイルスの蔓延のなかで、生命の輪を脅かす、この医学界の暗闇にも、私たちは目を止めていかなければ、真相と全貌を見失っていく。平和をおびやかす闇の力への抵抗として・・・。
その③ 加害の歴史に蓋をしないこと。
侵略先での残酷な加害も、負け戦も、隠しつづけて、民衆をお国のために、駆出してきた日本。“国賊”と言われないために、それに殉じてきた民衆。その陰で、膨大な儲けをしてきた死の商人たち。戦艦と戦闘機と武器を製造してきたその同じ企業群が、今も、膨大な軍需費用を手中にしている。
日本政府は、今年も膨大な防衛費を獲得した。福祉も医療も弱者も切り捨てながらの、あまりにもお粗末な新型コロナウイルス対策。「国民の皆さまの協力を」と連呼する首相の姿に、「国家総動員」を連呼する大本営の姿が重なって見える。
菅首相は1月18日に開会した通常国会の施政方針演説で、今夏の東京オリンピック・パラリンピックを「人類が新型コロナウイルスに打ち勝った証し」として開催する決意を強調した。私は声を限りに言い続けたい。新型コロナウイルスに打ち勝つには、オリンピックをこそ、中止すべきであると。
その④ 問いつづけたい。
“誰がどう儲け、誰が何を失っていくのか”。繰り返されるフェイクニュース、“温暖化防止キャンペーン”の欺瞞。それを操っている陰の力は何なのか。
そして、裸にされていく地球の只中で、最も弱く脆くされた者たちと共に、沈黙の神、“脆い神”がおられる。
イエスが死をもって、何に抵抗をしたのか。イエスが生命をかけられた私たちの解放は、私たちがどのように生きるためであったのか。
問いながら、歩んでいきたい。この新型コロナウイルスの闇のなかで・・・。
注:1) Roger Haightは、著名な神学者であり、米国のイエズス会師。1999年に出版された“Jesus Symbol of God ”(Orbis, 1999)は、米国カトリック出版連盟から最高賞を受けた。彼の分厚いその著書からも私は学ぶ幸いを得た。
注:2) 「パプアニューギニアとソロモン諸島の森を守る会」のニューズレター。公式HPから読むことができる。 http://www.pngforest.com
天皇の生前退位と私たちの信仰
柴田 智悦(ちえつ)
日本同盟基督教団 横浜上野町教会牧師
2016年8月8日のいわゆる天皇のビデオメッセージによって、翌2017年6月9日に「皇室典範特例法」が制定され、天皇の「生前退位」が決定し、2019年から2020年にかけて一連の代替わり儀式が総額166億円もの国費を投じて行われました。キリスト者である私たちは、この「生前退位」をどのように捉えていけばいいのでしょうか。
1.天皇の自己認識
私がこの「生前退位」についてお話しさせていただく際、いつも見ていただく動画があります。それは、毎年8月15日に日本武道館で行われる、全国戦没者追悼式における君が代斉唱の場面です。
正面を向く参列者の視線の先は、こちらを向いている壇上の天皇皇后です。そして、君が代の伴奏が始まり、参列者が君が代を歌い出した時、壇上の二人は微笑みながら参列者の方を見ています。しかし、決して口を開いて歌うことはありません。これは何を意味しているのでしょうか。やはり君が代は天皇を賛美する歌であって、本人たちは一般民衆の賛美を受け取っている、そのような象徴的光景ではないかと思います[1] (2020年は新型コロナウィルス感染拡大防止のため演奏のみでした)。
もう一つは、「代替わり」儀式において最初に行われた、新天皇の即位を示す「剣璽(けんじ)等承継の儀」の動画です。宮内庁提供による時事通信社の映像では、「剣璽」と共に新天皇が退出し「儀式は約5分で終了した」とのコメントが入ります[2]。一方、内閣広報室の映像では、この後「国璽(こくじ)」と「御璽(ぎょじ)」を持った職員が退出して儀式が終了したことが告げられます[3]。
「剣璽等承継の儀」は国事行為として行われましたが、かつてこの儀式は「剣璽渡御(とぎょ)の儀」と言われ、新天皇が皇位継承の証として三種の神器(画像はイメージ)のうちの剣と璽を受け継ぐ儀式でした。しかし、神話に基づく剣璽を継承する儀式を、さすがに政府も国事行為とするわけにはいかず、苦肉の策として「国璽」と「御璽」も同時に継承することとし、剣璽「等」承継の儀としたのです。しかし、宮内庁側の意識としては、剣璽だけの継承でこの儀式は終了しており、国事行為とするために付け加えた「国璽」と「御璽」にはあまり関心がなかったようです。
なお、この「国璽」は、現在は勲記に押印されるだけのようですが、「大日本国璽」と刻されています。しかし、「大日本国」という帝国は1945年の敗戦と共に滅び、現在は「日本国」となったはずですが、未だに戦前の、しかも現在は存在していない「大日本国」を国家の表徴としていることも問題です。
2.天皇の地位
かつて大日本帝国憲法において第一章は天皇条項でした。「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」(第一条)、「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」(第三条)と天皇を現人神(あらひとがみ)として神格化し、「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総覧シ此ノ憲法ノ条規ニヨリ之ヲ行フ」(第四条)と、天皇が三権を掌握し、国の主権を持つとしていました。
現行の日本国憲法も第一章が天皇条項ではありますが、その地位は国民主権に基づくとしています(第一条)。天皇は主権者である国民の総意に基づき、象徴の地位にあるに過ぎません。ただ、天皇条項が第一章にあるのは国民主権の民主主義に反するとも言えますが、あくまで天皇の権能は制限的なものに過ぎません。そして、天皇の国事行為にはすべて内閣の助言と承認が必要とされ(第三条)、その数は12(第六条、第七条)に限られており、国政に関する権能は与えられていません。つまり、天皇の公的役割は自分の意思ではなく、形式的儀礼的に国事行為を国家機関によって行うのみなのです。
3.国民主権の視点から
そもそも天皇の使命は、皇位の継承にあります。メッセージでも「象徴天皇の務めが常に途切れることなく、安定的に続いていくことをひとえに念じ、ここに私の気持ちをお話しいたしました」と結んでいます。結局は皇位の継承という「天皇家の事情」を滞りなく行うために出された発言でした。
しかも「生前退位」を考えたのは、「次第に進む身体の衰えを考慮」すると「重い務めを果たすことが困難になった場合、どのように身を処していくことが・・・良いことであるかにつき、考えるように」なったからです。その「務め」とは、憲法で定められた国事行為だけではなく「象徴的行為」、具体的には「遠隔の地や島々への旅」「国内のどこにおいても、その地を愛し、その共同体を地道に支える市井の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識を持って、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務め」のためです。そのような「象徴的行為」「公的行為」を続けることが困難になったので「生前退位」を考えたのです。
しかし、「象徴的行為」「公的行為」は憲法に定められておらず、かえって憲法第一条では、天皇の「この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」と規定されていますから、今後の天皇制をどうするか決めるのは、主権者である国民であって天皇個人ではありません。従って、このメッセージは明らかに前天皇の政治的発言、政治への介入であり、憲法違反と言えます。
また、この天皇メッセージを契機として、2018年7月、オウム真理教の元幹部13名の死刑が執行されました。これは「平成の事件は平成のうちに終える」という国の強い意思の表れだと言われています。天皇の生前退位に基づく新元号制定がなければ、この13名の死刑執行もなかったかもしれません。自分の発言が「大切な国民」の死期を早め、事件の真相解明の道を閉ざしてしまったことを前天皇は知っているでしょうか。たとえ死刑囚であろうと、その命が元号によって左右されてしまうとすれば、もはや主権在民と言うことはできません。
4.政教分離の視点から
新天皇を神格化する神道行事の大嘗祭も皇室行事として行われましたが、国費が充てられました。その他の国事行為として行われる一連の儀式も、どれも宗教儀式と考えられますから、明らかに政教分離違反であり、私たちの信教の自由を侵害しています。
2020年11月8日の立皇嗣の礼を経て皇嗣となった秋篠宮は、大嘗祭への公金投入に懸念を示し「宗教色が強いものを国費で賄うことが適当かどうか。内廷費で行うべきではないか」と述べたことがあります。これも明らかに政治的発言ですが、多くは好意的に受け止めました。しかし、彼は同時に「大嘗祭自体は絶対にすべきもの」と言っています。それは、私的行為とされる宮中祭祀には、外部からの介入を許さないという意思の表明だったとも言われています。
5.信仰の視点から
私たちキリスト者は、唯一の神である主以外の存在を神としません。しかしながら戦前、戦中、その唯一の神である主と並べて天皇を拝み、神社を参拝し、植民地とした韓国にまで行って、神社参拝は国民儀礼であって偶像礼拝ではない、と主張しました。天皇神格化によって、あらゆる批判が封じられ、人権が抑圧され、天皇の名によってアジアに対する侵略戦争が正当化されました。この反省が、憲法第20条の政教分離原則において明文化されたのです。
前天皇は護憲派からも人気がありました。あたかも、昭和天皇の代わりに、追悼の旅に出かけているかのように受け取られていたからです。しかし、前天皇も昭和天皇の戦争責任を謝罪することは決してありませんでした。それは、天皇制国家の加害の事実から、国民の目をそらせることになります。「平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、心から安堵しています」と2018年12月20日の記者会見で前天皇は語っています。しかし、アメリカ主導の対テロ戦争を自衛隊が後方支援していることをはじめ、世界においては紛争や戦争が絶えていないことはどう見ていたのでしょうか。
かつて教会が神格化された天皇の前に膝を屈めたことを反省し、二度と同じ過ちを犯さないため、イエス・キリストのみを主と告白する決意を新たにし、この世において「見張り」として立てられた預言者としての務めを果たしていきたいものです(エゼキエル33:7)。
コロナ禍における私たちのミッション
~聖イグナチオ教会国際青年会の新しい福音宣教~
馬杉 成華
聖イグナチオ教会国際青年会
ニューノーマルな教会活動
新型コロナウイルスの拡大により、昨年はあらゆる場面において「ニューノーマル」という言葉を耳にした方が多いのではないでしょうか。いち早く柔軟に変化に対応することが求められるこのポストコロナ時代に、私たち信徒もニューノーマルな教会活動について考える機会が多くあると思います。
2020年は私たち聖イグナチオ教会国際青年会(St. Ignatius International Youth Ministry)にとっても、常に新しい福音宣教のあり方について考え、新たな取り組みを続けた一年でした。
新型コロナウイルスは、私たちの生命や仕事、様々な行事や住む家など、あらゆるものを奪い、また人々を不安と混乱の内に陥れました。しかしウイルスは私たち青年から、信仰や共同体としての絆、そして福音宣教の灯火を奪うことは出来ませんでした。むしろ、いくつかの良い変化をもたらした一面もあるのではないかと、今となっては感じています。
2020年2月、東京教区ではミサを含むすべての活動を教会で行うことが出来なくなりました。皆で灰の水曜日のミサに与り、四旬節や新年度に向けて、新たな気持ちで準備を進めていた矢先のお知らせでした。なぜ今なのか、いつ日常に戻れるのか、という誰にもぶつけることの出来ない葛藤と不安を抱きつつ、これまでの楽しかった教会での活動の写真を見返していたことを覚えています。教会に皆で集えること、一緒に聖歌を歌えること、一緒に食事をして祈れること等、これまで当たり前に過ごしていた日曜日がどれほど大きなお恵みであったのか、私たちは身をもって感じることとなりました。
緊急事態宣言によって家にいる時間が増えたことで、それぞれの場所からオンラインミサに与り、初めは静かな黙想の時間を大切に過ごしていました。しかし次第に一人で過ごす時間が長くなるにつれ、誰かと「繋がる」ことを強く求めるようになった人は、青年に限らず多いのではないでしょうか。
その点で、国際青年会は小さな共同体ではありますが、兄弟姉妹そしてキリストと出会い、共に信仰を分かち合い支え合うという、非常に大切な役割を果たしていることに気付きました。いつでも誰でも帰れる場所、そして少し神様から離れてしまいそうな時に希望や気付きが得られる場所である青年会の存在は、今回のパンデミックの間、私たちの大きな信仰の支えとなっていたのです。信仰は決して一人だけではなく、他者との繋がり、また共同体の中で深まるものだと、このパンデミックを通して改めて感じました。
このような使命を背負う私たち国際青年会は、教会に行けない間も、皆との繋がりを保ち信仰を分かち合う場を提供するため、3月には全ての活動をオンライン(ZOOM)にて再開させることを決定しました。
オンラインでの青年会活動
まず最初にオンラインで行った活動は、聖書の分かち合いでした。聖書箇所や分かち合いの質問などをパワーポイントに載せ、皆で聖書朗読、黙想をした後に4-5人ずつの小さなグループに分かれ、20分ほどの分かち合いをします。3月末に始めて以来、週一度欠かさず続けている活動ですが、今では北海道や九州に住む兄弟姉妹、また既に母国へ帰ってしまった過去のメンバーたちも積極的に参加してくれています。どれだけ物理的に離れた場所にいても、イエス・キリストによって私たちは一つであるということを身を持って感じます。
そういう意味で、今回のパンデミックは私たちに、よりオープンでクリエイティブになること、そしてどんな時も信仰を持って神様に仕え続けることの大切さを教えてくれました。ミサや聖体賛美式、praise and worship(賛美)や十字架の道行までもZOOMで行ったことで、場所を問わない霊的活動が可能となりました。また、オンラインだからこそ出会えた兄弟姉妹が世界中に増え、私たちの活動範囲が格段と広がった一年でした。
上智大学との合同イベント
このような、国際青年会にとってのニューノーマルな活動スタイルを象徴する一つの例に、教皇来日1周年のお祝いイベントの開催が挙げられます。昨年11月、国際青年会は上智学院カトリック・イエズス会センターとの共催で、「コロナ後の世界ですべてのいのちを守るため」と題したオンラインイベントを行いました。これまで上智大学との関わりは殆どありませんでしたが、イエズス会センターの皆さんが、ZOOMでのバイリンガルイベントの開催経験が豊富な私たちに声をかけて下さり、共催が実現したのです。
今回のイベントにはジェームズ・マーティン神父様をはじめ英語話者のスピーカーを招くということで、一番課題となったのは同時通訳の方法でした。
通常、国際青年会のオンラインイベントでも英語→日本語の同時通訳は行っていますが、今回のような長い講話を素人の私たちがどのように通訳すればよいのか、また通訳はどこから配信すればわかりやすいかなど、検討すべきことが非常に多くありました。
そして皆で知恵を出し合った結果、今回はスピーカーから原稿を事前にもらって予め全ての翻訳を作成しておき、当日はZOOMのチャット機能を使って翻訳文を流すことにしたのです。エクセルシートに原文を打ち込み、その横に翻訳文を追記していく作業は簡単ではありませんでしたが、「教皇様が残して下さったメッセージを出来るだけ多くの人と分かち合いたい」という同じ想いを皆が持っていたからこそ、無事に当日を迎えることができました。
「すべてのいのちを守る」というテーマで、教皇様が来日時に語られた言葉一つ一つは、まさに今のこのコロナ禍において非常に意味あるものとなっているのではないでしょうか。個人的には特に、今回のプログラムを通して、「日本の若者は同年代の仲間にとって希望であり、キリストの生きた証人となれる」というメッセージに再び力をもらいました。まだまだ先の見えない状況ではありますが、私たち自身が常にキリストに信頼を置いて信仰を生きることで、誰かの光になれるのではないかと思うのです。そのためにも今回、難民問題をはじめ、いのちを守っていくことの責任とその重要性について学び、考えを分かち合うことが出来たことが、非常に良かったです。
これからのミッション
さて、今年2021年1月27日で、聖イグナチオ教会国際青年会は設立から4周年を迎えます。当初から、私たちはAd maiorem Dei gloriam(すべては神の大いなる栄光のために)という精神を大切に活動してきましたが、このコロナ禍においてさらに、その言葉の重みを感じます。どのような苦境にあっても、時には希望を失いそうなことがあっても、「私たちは神様に仕え続けるのだ」と力を与えてくれる言葉でもあります。
特にオンラインの活動を行う際は、対面での活動に比べて非常に多くの準備が必要となります。パワーポイントやビデオの作成から役割分担の共有、また当日のオンラインツールの管理と翻訳等、気が遠くなる作業も多いことが事実です。しかし、全ての小さな行いでも神様のために愛を込めて奉仕することで、いずれ大きな栄光に繋がるのだと信じて日々活動しています。
国際青年会での一つ一つの活動を通して、自分自身の信仰が深められると同時に、共同体としての信仰がより一層深められていると、私たちは強く感じます。神様、そして国際青年会という第二の家族との出会いによって、私自身も本当に変えられました。メンバーたちが謙虚に自分自身を捧げ、喜び楽しんで奉仕している姿、他人の痛みや苦しみに寄り添い祈っている姿、そしていつもイエス・キリストを中心として信仰を生きる姿を見ると、「私もそう生きたい!」と強く感じるのです。
そして私が彼らからとても良いインスピレーションを受けて満たされたように、より多くの青年たちにとって国際青年会が、神様の愛に触れて救われる場・きっかけになれば良いなと思っています。青年会は単なる出会いの場に留まらず、交わりの中で互いの信仰を育み、またそれを外へと広げていく人を育てる場なのではないでしょうか。
これからも私たちは、イエス・キリストによって結ばれた一つの家族として、若く熱い心で福音宣教を続けていきたいと思います。