ミャンマー軍クーデターと尊い国民の犠牲者
ビセンテ レクイェス
ロヒンギャ難民の支援者
2021年2月1日に、ミャンマーで軍人による殺人的な政権乗っ取りが起こりました。その完全な影響が明らかになるには、今後数年間はかかるでしょう。国は壊滅的な崩壊の崖に向かって進んでいます。その悪影響は、分断された国の政治や経済制度、文化、国民の健康状況に浸透して、社会のすべての側面に及んでいます。私たちの目の前にあるこれらすべての複雑さの中で、その悪影響がまさに今ここで深く感じられる点、つまり国民の犠牲者を見抜くことができます。
国民の犠牲者は付随的なものであり、武装勢力や利害関係者によっては二次的な被害として却下されますが、実際には、他のすべての被害を測定する上で重要な損害になります。
恐ろしい統計があります。912人の死者と集団墓地が見つかったことが確認されました。2人の子どもを含む254人のうち65人が、本人不在のまま死刑宣告を受けました。約1,963人が逮捕令状を逃れ、5,269人は現在勾留されています1。7月、コロナウイルスは致命的な感染を引き起こし、4,181人が亡くなり、感染が確認された数は208,357人に上りました2。6月15日には一日の感染確認数は225件でしたが、7月14日には新規感染数が7,083件まで上がりました。2020年12月には、海外に出稼ぎに出ていた約42万人の労働者がミャンマーに戻りました。2021年に新たに解雇された労働者は207,000人に増加し、カヤー州では人口の50%近くが国内避難民で構成されています3。さらに、2020年には約370,020人が避難民になり、2017年8月以降バングラデシュに避難した742,000人以上のロヒンギャがミャンマーに帰還できなくなっています4。
国連開発計画(UNDP)の報告によると、パンデミックと政権の暴力の危機により、2022年初頭には、5,400万人の難民のうち、2,500万人が貧困の状態に陥る可能性があります5。日本と中国が注目を集めている一方で、シンガポールは依然としてミャンマーへのトップ投資主であり、その10億ドルの投資は危険に晒されています。一部のアナリストは、シンガポールがミャンマー国内の軍の銀行預金とその代理人を利用して、軍事政権の立場を活用できると述べています6。タイはシンガポールと中国に次ぐ第3位の有力国です。タイのアマタ経営グループは、ミャンマーで起きている暴力情勢のために2億7,500万米ドルのプロジェクトを停止しました。人命、国民の生活、機会、自由、希望等 の喪失感は長く続いています。
これらの数字は現実的に人間の顔を表しています。それは、ミャンマー人口の3分の1を占める若者の顔です7。Aye Aye※は、国民民主連盟(NLD)の地区公安派出所に逮捕された28歳の青年リーダーです。彼女は3日間拘留され、拷問を受けました。そのため、抗議デモについてもっともらしい虚偽の話を捏造しなければならず、彼女の家族はAye Ayeを釈放するために、警察に賄賂を贈らなければなりませんでした。結局、彼女は姿を消し、今はタイ国境の町で不確実な状態のまま、一人暮らしを送っています。
Kyaw Kyaw※は、彼女の家族がクーデターの混乱に巻き込まれたため、義務教育を完了することができませんでした。父親は殺され、一家の資産は軍によって没収されました。Kyaw Kyawは飛行機でタイに渡り、母親も彼女を追ってタイに来られるよう、心配そうに待ち続けています。26歳で高校教育を受けていないため、これからの選択肢は限られており、コロナ検疫を終えた後、工場で働きたいと望んでいます。
Moe※は2016年に、あるNGOでドライバーとして働いていました。2021年、彼は平和的な抗議運動がいかに激しく抑圧されたかを経験した後、国民防衛隊(PDF)に加わりました。MoeがFacebookに投稿した写真には、迷彩服を着て、その小柄な体には不釣り合いなほど長い狙撃銃を持ち、ぎこちないポーズを取った彼の姿が写っていました。
それから、1988年の学生運動リーダーの一人娘、Nai※もいます。27歳のNaiは2019年に、ノーベル平和賞受賞者たちが参加した南アフリカでの平和会議に青年代表として出席しました。彼女は今にも泣きだしそうに身を震わせながら、自分たちの世代がどのように自由のために戦っているかを情熱的に話していました。国際社会の支援は効果が望めず、ミャンマー国軍の勢力は強大かつ残忍です。さらにすべての反対勢力が結集できるだけの基盤はなく、いつまでもまとまれずにいます。それにもかかわらず国民の「春の革命」は戦いを続けなければなりません。彼女は、両親の政治的関りによる苦しみを今は理解していると語りました。私は、彼女の話を国境の町の薄暗い食堂のテーブルの向こう側で聞きながら、自分自身に問いかけました。軍によるクーデターは、ミャンマーの若者に実際は何をもたらしたのだろうか、と。
今後、数年経ったら、やや遠いが希望に満ちた未来において、形成されたこの世代間の癒しと民族間の繋がりは利益として見なすことができます。しかし、繰り返しになりますが、どのような悲劇的な国民の犠牲で、利益が得られるのでしょうか?つまり、いわゆる「春の革命」は、Naiと他の若者たちに、1988年に親たちが反対運動を誘発したように、自分たちの将来のために戦うよう促しています。今日の若者は、彼らのアイデンティティと運命を形作り、軍事政権の暴力的な手から支配権を奪うことを勇敢に主張しています。どういうわけか、1988年の学生蜂起とZ世代の間の文化的ギャップが埋められています。若者は、統一された文民政府の発展に向けて戦いを繰り広げます。
※ 個人の保護のため、記事中の人名はすべて仮名
本業以外のボランティアが人生・社会を変える
柴田 潔 SJ
聖イグナチオ教会助任司祭
司祭への召し出し
最初に、召し出しのきっかけについて書きます。大学を卒業して、住宅会社に就職して4年目、同僚たちは休みの日にパチンコや映画に出かけていました。私は、ボランティアをしようと思いつき、南山教会の“祈りと奉仕の集い レジオ・マリエ”に出会います。朝、聖霊病院に行って、ベッドから車椅子にお乗せして、浴室に移動して、服を脱がせて、体を洗い、一緒に湯船に浸かります。この時「身障者と健常者の垣根がなくなる体験」をします。この体験が後々大きな意味を持ちます。
本業は、住宅会社の営業マンでしたが、休みの日にボランティアをしました。この2つの世界をいったりきたりすることが司祭への召し出し(無償の奉仕)につながりました。しんどい時もありましたが、続けたことが大きな意味を持ちました。導入にこのお話をしたのは、本業以外でしていたことが人生を変えたことをお伝えしたかったからです。
被災地ボランティアとカブトムシ
本題に入ります。叙階後は、主に山口県の幼稚園で働きました。幼稚園でもモンテッソーリ教育の資格を取るなど忙しくしていましたが、ボランティアもしていました。東日本大震災から3ヶ月経ってから、被災地でヘドロかきを黙々としました。津波の片付けをしましたが、役に立っている感じはしません。家を売る仕事をしていたので、津波で家が流される、命を守るはずの家が流される衝撃は言葉になりませんでした。「自分がしていることに意味があるんだろうか?」と虚しさで一杯でした。この体験も大きな意味を持ちます。ボランティアベースのリーダーは「神父さんに言うのは何ですが、百の説法よりも捨て身の努力が大事」と教えてくれました。
「自分にできる捨て身の努力は何だろう?」 山口に戻って始めたのは、教会の向かいにある亀山でカブトムシを捕まえて、教会と幼稚園共催のバザーで販売することでした。ちょうど、羽化したカブトムシが地上に出てくるタイミングでした。カブトムシを掘る姿勢は、ヘドロかきの姿勢と同じでした。役に立てなかった虚しさに、今度はカブトムシを捕まえた喜びが合わさりました。4日間で120匹のカブトムシを捕まえました。バザー全体の収益は、福島県のカトリック二本松幼稚園に送られ、放射能から守れる砂場小屋になりました。秋になると、生まれた卵が幼虫になって私のところに戻ってきました。以来、10年間、その繰り返しで11世代目になります。
また、2011年の冬休みからグループでの被災地ボランティアを始めました。「繰り返し自分がボランティアに行っても関心は広まらない。若い人に経験を積んで欲しい」と考え始めます。後押ししたのは「行ってあなたも同じようにしなさい」(ルカ10:37)のイエス様の言葉です。山口教会の瀬川さんご夫妻にも協力いただきながら、2019年までに計20回、延べ200名が参加しました。幼稚園の先生たちも多く参加し、人の役に立つ喜び、命の大切さを実感できました。この体験も大きな意味を持ちます。
初めは岩手県の大槌ベースでしたが、閉鎖された後は福島県の南相馬ベースにお世話になっています。福島は原発事故の影響で、まだ3.6万人が避難生活を強いられています。家が残っているのに住めない現実を間近に見た若い人たちは「知らなかった。ここが日本なのか!」とショックを受けます。原発事故は環境破壊の最たるものです。「道を挟んで、片方は住んでもいい。片方は帰還困難区域で立ち入れない。その代わりに毎月賠償金がもらえる。この違いは、何なんだろう?」と考えます。回勅『ラウダート・シ』を深めたい方は、是非この現実を見てください。
難民支援と子どもたちの心
もう一つ力を入れているのは難民支援です。2015年9月、シリア難民の4人家族は難民ボートでギリシャ領の島に向かう途中で沈没し、お父さんだけが助かりました。アイラン君がトルコの海岸に打ち上げられた写真を見た山口天使幼稚園の上田園長先生から「難民支援について調べていただけますか?」と依頼がありました。その頃、神学部の卒論ゼミで一緒だった学生さんがイギリスで急死したことを知りました。「彼女がしたかったことは何だろう?」という思いと、アイラン君の写真が難民支援に向かわせました。「ドイツはなぜシリア難民を受入れるのか?」というシンポジウムで、あるハンガリー難民の方の実話を伺いました。
1965年ハンガリー動乱のクリスマスのころ、10歳の私は家族とハンガリーを離れることになった。「自分は難民になる。家もなくなる、国もなくなる・・・これからどうなるの?」と不安でいっぱいだった。そんなとき、駅で、同じ年くらいのドイツの子どもが箱をくれた。きっと、言葉が違う私たちに何かを感じたのだろう。開けてみると中にケーキが入っていた。きっと楽しみにしていたクリスマスケーキだっただろう。自分は難民になる・・・不安がいっぱいある。「でも、いいこともある」。そう思って頑張ってこられた。50年経っても忘れられない。思い出すと涙が出てくる。
子どもの優しい心には力がある、と感じた体験が大きな意味を持ちます。幼稚園で難民募金を呼び掛けます。「こまっているおともだちが あぶないくにから あぶなくないくにに もどれますように」「せかいじゅうのおともだちが うんどうかいできる へいわがきますように」。子どもたちの柔らかい心、素敵なお祈りに心を打たれました。
カブトムシの話に戻ります。山口から四ツ谷に異動になった際、100匹のカブトムシの幼虫を連れてきて、地下で育てました。そして37つがいが教会学校のお友だち、信者のお孫さんたちにもらわれていきました。中には夜脱走して朝部屋の中を飛んでいるのを見つけたり・・・カブトムシで生活が変わった方もおられるでしょう。このカブトムシ、初めはヘドロかきの姿勢からでした。
今年のカブトムシ献金(約20万円)は、難民支援協会(JAR)を通じて、日本に来られた難民の方に充てられます。カブトムシは東日本大震災がきっかけですが、その年にシリア内戦が始まっています。2011年のジュネーブでの緊急人道支援国に、日本とシリアの両国が挙げられました。津波は一瞬で多くの人の命を奪いましたが、シリアでは爆撃などによる死の恐怖が10年以上毎日続いています。カブトムシを育てる楽しさと、難民の厳しい状況を結びつけようと考えています。
まとめと課題
コロナが終息したら被災地ボランティアを再開しようと思っていますが、教会で司牧しながらできるかわかりません。また、憂慮すべきは首都直下型地震です。これから30年の間に発生する可能性は70%と言われています。旧大川小学校で大切な娘さんを亡くされた佐藤敏郎さんは「念のためのハードルを高くすることで想定外は防げる」と言われています。いざ、地震が来て「想定外だった」とするのではなく、できることを考えて準備しようと思っています。
コロナで自粛中ですが、次のアクションを溜める期間にできたらと思っています。教会は、確かに仕事が多岐にわたっていますが、それで力尽きてしまうのではなく、被災地支援と難民支援、首都直下型地震への備えこそが自分のミッション、という意気込みで取り組むつもりです。
私のこれまでの体験では、少し無理をしてでも、本業以外のことに深入りすることが人生を豊かにしてきました。信徒一人一人、教会についても同じでしょう。「社会正義」と聞くと、一部の人が関わるというイメージを持っているかもしれませんが、見たり触れたりする出来事に思い切って深入りすることが社会正義を実現するように思います。イグナチオ年、そのチャレンジをしていきましょう。
平和文化と私の天職:ボストンから広島への旅
メアリー ポペオ
NPO法人 Peace Culture Village 共同創業者
7年前、私はこれからの人生で何がしたいのか、これといった考えもないままボストンカレッジを卒業しました。カトリックの家庭で育ち、イエズス会の価値観で教育を受けた私が考えていたのは、ただただ自分の人生とキャリアを世界に捧げ、神の御心のままに生きていきたいということだけでした。どんな人生が待ち受けているのか、当時はまだ謎に包まれていました。
そして今日、神は私を広島へと導き、ピースカルチャービレッジ(PCV)という平和教育を行うNPO法人の共同創業者としました。毎日、原爆の被爆者や仲間とともに、ここ広島で起きたことを世界中の人々に伝えるという大役を担っています。国際的で多様なバックグラウンドを持つチームの中で、難しくも重要な課題に向き合いながら日々成長を感じられること、そして広島でいうところの「平和文化」が宿る神の国をこの地球上に創ることは私にとってかけがえのない機会です。私は自信を持って、これは私の天職だと言えます。大学を卒業した頃の私は、神がここへと続く道を用意しているとは知る由もありませんでした。
地球の反対側から広島で働くことになるまでの7年間についてここで少し説明したいと思います。アメリカで育った私は、学校で一度も広島と長崎での原爆について学んだことはありませんでした。実際のところ、イエズス会の教育を受けることがなければ、原爆投下について深く考える機会は無かったかもしれません。
ボストンカレッジでの歴史の授業で、長崎でのキリスト教徒の迫害の歴史について学んだのが最初のきっかけでした。隠れキリシタンの歴史に興味を持った私は、研究のための助成金を得て長崎で一夏を過ごし、そこで初めて原爆の話に出会いました。
ご存じの方もいらっしゃると思いますが、日本の徳川幕府は1600年代にキリスト教を禁止しました。日本に住むキリスト教徒は、信仰を放棄するか、拷問と死を受け入れるかを選ばなければならず、その結果多くの人々が殉教しました。キリスト教徒のコミュニティは約250年間隠れ続けていましたが、その間ずっと秘跡を受けたり司祭に会ったりすることはできませんでした。
禁教令が解けた後、キリスト教徒はついに隠れ続けることから解放され、自由に信仰を持つことが許されました。彼らは30年かけて、自分たちの礼拝所である浦上天主堂を長崎に建設しました。しかし、この歓びに満ちた大聖堂を残酷な運命が待ち受けていました。1945年8月9日、原子爆弾が浦上天主堂の真上に投下され、当時の東アジア最大のキリスト教コミュニティを壊滅させたのです。
長崎での夏が私の人生を変えました。原爆資料館を訪ねると、私が自分の家で毎日祈りを捧げていたものと何ら変わりのないロザリオや聖母マリアの像が、原爆の熱線で溶け、真っ黒焦げになっていたのです。
私は、アメリカがそのようなことをしたという混乱と、これまで自分がそのことについて学んでこなかった恥ずかしさに苦しみました。長崎でのあの夏は、私に地球市民としての役割と責任について考えさせた人生で初めての経験だったかもしれません。核兵器の問題はもはや遠いものではなくなっていました。私の信仰と人生とが絡み合い、とても身近なものに感じられたのです。
この経験をきっかけに、毎年夏になると広島と長崎を訪れるようになりました。大学卒業後、最初に取り組んだのは、ボストンと日本両方での核廃絶のアクティビストとユースオーガナイザーとしての活動です。ハーバード大学での勤務の傍ら、アメリカ・フレンズ奉仕団やグローバルゼロといった組織で、大統領候補者への働きかけや、政府高官や議員へのロビー活動、デモの計画、署名活動などを行いました。また、女性平和基金と新日本婦人の会の皆様のご協力のお陰で、毎年恒例の東京から広島へのピースマーチに参加することができました。
日本での滞在の間、私はたくさんの被爆者の方々との出会いに恵まれ、彼らの証言を聞くことができました。その中でも特に私に影響を与えたのは、同じキリスト者の伊藤正雄さんです。ある日の午後、私は原爆で家族と人生を失った伊藤さんに、アメリカ人のことを今も憎んでいるかどうか尋ねたのを覚えています。 伊藤さんは、私の質問にどう答えるかを深く考えているかのように、目を閉じ、しばらく黙っていました。
やがて目を開け、原爆直後は怒りのあまりアメリカに対する報復を夢見ていたと明かしました。しかし、教会で神と出会い、自分と同じように平和のために祈り行動しているアメリカ人の友人ができたことで、考えが段々と変わってきたことを教えてくれたのです。伊藤さんは、自分の心の中で平和を育むことができなければ、未来の世代のために平和な世界を創ることなんてできないよ、と私に言いました。現在、伊藤さんは近くの米軍基地から軍関係者が広島平和資料館を訪れた際にガイドを行っています。
伊藤さんの話を聞いて私は涙が溢れました。キリストが説いた赦しの心を目の当たりにし、その繊細な思いを打ち明けてくれたことに対する感謝の気持ちでいっぱいになりました。伊藤さんのような被爆者の方々が、私が広島への移住を決心した大きな理由の一つです。私はその時、彼らともっと多くの時間を過ごし、可能ならば、平和な世界を実現するという彼らの使命が達成されるよう自分にできることをしたいと思いました。
広島への移住を決定づけたもう一つの理由は、自分のキャリアを平和活動に捧げたいという思いの高まりでした。フルタイムの仕事をしながらのボランティア活動で燃え尽きてしまっていた私は、自分の想いとスキルを活かしながら具体的な方法で平和に貢献する仕事を見つけたいと思うようになっていました。
私は、神は私たちの日常生活の中で人々を通じて働きかけて下さっていると信じているのですが、平和活動でのキャリアを考えていた2016年、平和運動の師であり、広島平和文化センターの元理事長だったスティーブン・リーパーに連絡を取りました。ちょうどその時、新しいNPO法人を作ろうとしている最中だったスティーブは、立ち上げメンバーとして私を広島に誘いました。そして数カ月後、新しい生活を求め、私は広島の地に渡りました。
アメリカ人と日本人の仲間とともに、私たち二人は2017年にPCVを立ち上げました。PCVは、平和教育、社会起業家精神、若者のエンパワーメントを通じて持続可能な平和文化の創造を目指す、若者主導のNPO法人です。被爆者の数が年々減っていく広島で、10代、20代、30代の若者による次世代の平和文化リーダーの育成を行っています。また、平和活動に時間とエネルギーを費やしたい私のような若者のために、平和文化の創出に繋がる雇用を生み出しています。
PCVでは、平和文化リーダーのためのオンラインスクール、広島を訪れ平和学習を行う学生向けのフィールドトリップや平和プログラム、広島平和公園でのVRウォーキングツアー、そして世界中から参加できるオンライン広島体験プログラムなどを行っています。
昨年、私たちはオンラインだけで40カ国から5500人以上の人々にプログラムを届けることができました。平和、テクノロジー、若者のエンパワーメントの分野での私たちの取り組みが実を結び、2017年にノーベル平和賞を受賞した核兵器廃絶国際キャンペーン (ICAN)とのコラボレーションや国連が主催するSDGグローバルアクションフェスティバルへの登壇が実現しました。
私はPCVでの仕事を、神から与えられた仕事だと捉えています。原子爆弾が絶望と放射線、そして死をもたらした都市で、私たちは希望、愛、創造的なエネルギーをプログラム参加者と互いに与え、与えられる環境のもと日々勤しんでいます。被爆者の方々もまた、私たちとともにこのエネルギーを多くの人々に届けて下さっています。広島の持つ周波数が私に大きな希望を与え、まさしくここは神が私にいてほしいと望む場所であると確信しています。
神が私にこのような道を用意しておられたとは想像もできませんでした。将来のことは未知数ですが、広島の過去・現在・未来の力、そして被爆者と若者がともに生み出すエネルギーを世界と共有し、私たちが次世代に残したいと心から思う世界を創りたいです。神が他にどんな道を用意しておられるのか楽しみにしながら、私はこれからも天命を全うしたいと思います。
東ティモールにおけるイエズス会社会サービスの洪水救援活動
ジュリオ ソーサ SJ
東ティモールイエズス会社会サービス責任者
2021年4月4日の復活祭の前夜、全国で12時間以上降り続いた豪雨により、突然の洪水や土砂崩れが東ティモール島全体に被害を及ぼし、道路、橋、家屋などの生活に不可欠なインフラが破壊され、水道、電気、通信が寸断されてしまいました。首都ディリとその周辺の低地は最もひどい被害を受けました。41人の死亡が確認され、数人が行方不明と報告されました。国連が提供した報告書によると、全国で計33,177世帯が被害を受け、約3,012人が修道院、学校、小教区ホールなどの17か所の避難所に避難しました。また、計2,163ヘクタールの農耕地も被害を受けました。
現在、一時的に避難していた人々のほとんどが帰宅していますが、住む場所がないため、避難所に残っている人がわずかながらいます。いずれにせよ、彼らが日常生活を取り戻すための支援はまだまだ欠かせません。この洪水には誰もが驚きました。文字通り国全体を麻痺させた災害に対して、誰も予想も準備もしていなかったのです。
東ティモールでは、さらにCovid-19の発症数が増加し続けています。洪水以前、パンデミックを封じ込めるために政府によってロックダウンが課されていました。そのため、食料などの物資を輸送することも限られて、都市から離れた地域では多くの飢餓状態が発生してしまいました。
災害は人々の生活に深刻な被害を引き起こしました。なんとしてでも被災者を支援しなければなりませんでした。食料などの生活必需品、建設資材がたくさん必要でした。最も切実かつ緊急だったのは、清潔な飲料水、食料、衣服、寝具、調理用具、衛生用品を手に入れることでした。
4月8日、政府は30日間の「災害事態宣言」を発令し、国際援助を要請しました。多くの人々や団体が直ちに人道支援をしたり寄付をしたりして、洪水被害者を支援し始めました。東ティモールイエズス会社会サービス(JSS-TL)は被災者と連帯して、困窮者支援に貢献しながら、洪水被害者を支援するための手立てを組織しました。
JSS-TLは社会奉仕に直接関与する宗教団体として、他の修道会と協力して、被災者の緊急ニーズに直ちに対応しました。chefe sucoと呼ばれる地域社会の指導者とのつながりを急いで確立し、最も危機に瀕した洪水被害者に手を差し伸べることができるようにしました。JSS-TLの優先事項は、他の国内および国際機関が到達できなかった遠隔地に行くことでした。すぐに、さまざまな場所、特に避難所に、食料、衣服、水、毛布等を配布し、多くの水タンクや簡易トイレを設置しました。私たちの対応にとって大きな制約となったのは、被害を受けた地域社会、特に道路や橋が壊されたり、コロナウイルス感染が拡大したり、政府によって衛生的理由で遮断されたりした、都市から離れた地域の人々に関するデータが不十分だったことです。
洪水発生以降、JSS-TLは多くの被災地域に、米、麺類、牛乳、食用油、台所用品、マットレス、衣服、浴用石鹸、建設資材などの必需品を配布する支援を続けました。支援先はディリなどの地域で、2000以上の家族にのぼります。人道的対応の次の段階は、人々の暮らしとインフラの回復や再建を含む早期復旧への支援です。政府やとりわけ被災した地域社会の要請を受けて、JSS-TLは、より長期的な復興計画で政府を支援する準備を整えています。JSS-TLは、ある地域が被災地域と新たに特定された場合、その地域社会のシェルター再建を請け負うことにしました。
今回の洪水は、宗教、政党、グループへの所属に関係なく、社会の改善のために一緒になって働く機会です。私たちが招かれていることは、分かち合うことです。特に困窮している人々に資源を分かち合うならば、私たちが一つの大きな家族として暮らし、働き、そして成長するためにこの世界は確実によりよい場所になるのです。なぜならば、分かち合うことは互いに気遣うことだからです。キリストのように仕えたいという思いこそが、困窮した人々に力を与え、その人たちに奉仕するように、また最近の洪水危機とCOVID-19パンデミックを克服するようにと私たちを駆り立てているのです。多くの人々が故郷を追われていること、洪水被害、断続的なロックダウン制限が複合して、多くの家族が飢餓状態に追い込まれているのです。
受益者(洪水被害者)とのインタヴュー
Nicolao Soares
私たちの家は全壊し、何も残っていません。薄いゴザの上で寝るだけです。寒くて子どもたちが病気になることもあります。私たちにマットレス、台所用品、食料を持って来てくれたJSS-TLに感謝しています。今、私たちは眠ることができ、家族に料理を作るための十分な用具を持っています。
Domingas da Costa
すべてを失いました。家は全壊しました。3人の子どもと私は草を編んで作った薄っぺらい1枚のゴザの上で眠るだけでした。JSS-TLは私たちが最も必要としているもの(食べ物、マットレス、台所用品)を持って来てくれたので、私は幸せです。神はまさしく私が求めていたものを提供してくれました。私の子どもたちはもうゴザではなく、これからは柔らかいマットレスの上で眠ることでしょう。
Joaninho Ribeiro
Joaninho Ribeiroは泣きながら語りました:
父は洪水で亡くなったわけではありませんが、病気になり、私たちの家を守るためのフェンス作りに取り組んだ後で死んでしまいました。私たちは、JSS-TLの救援に感謝しています。
Ana da Costa Martins
私は子どもたちをどうやって食べさせていくか心配してきました。食べ物がなくて、子どもたちが泣いたり死んだりするのを見たくありません。眠ることもできませんでした。JSS-TLの支援に心から感謝しています。
Maria Sousa Amaral
たくさんのものを失ったので、悲しいです。家は流されてしまいました。洪水で家が徐々に破壊されるのを見ていたら、私自身が壊れてしまいました。いつ新しい家を建てることができるか分かりません。必需品や食料を援助して私たちを助けてくれたJSS-TLに感謝します。
Maria da Conceição
Maria da Conceiçãoは、納屋に住んでいます:
私はすべてを失いました。いつ子どもたちのために新しい家を建てることができるのか分かりません。私の家族、特に子どもたちを支援してくれたJSS-TLとそのメンバーの皆様に感謝しています。