東京パラリンピックの光と影
宮永 久人
大阪教区信徒、脳性マヒの障がい者
日本カトリック障害者連絡協議会(カ障連)元会長
コロナ感染拡大が続く中にもかかわらず、この夏、オリンピックとパラリンピックが日本で開催されました。コロナ禍での開催の是非の問題もありますが、身体障がい者の当事者として、パラリンピックの光と影について、思ったことを記します。
光の部分としてまず述べたいことは、障がい者の存在が大きくクローズアップされたことでしょう。障がいをもつアスリートたちの活躍によって、さまざまなところに光が当てられました。
それと同時に、闇の部分で見るならば、オリンピック・パラリンピック全体が土建国家の公共事業と化していました。残された多くの建物の維持費や撤収費が膨大になると言われています。オリンピック・パラリンピック全体の経費の赤字を誰が清算するのか。負の遺産があることも忘れてはならないでしょう。
それでも光の部分を見るならば、新国立競技場の建設の際、パラリンピック開催のため、さまざまな障がい者団体の意見を取り入れて、バリアフリーの建物となったことです。このバリアフリー化が、今後の競技場建築の模範的な基準になるだろうと言われています(NHKクローズアップ現代プラスによる)。
余談になりますが、日本カトリック障害者連絡協議会(通称:カ障連)では、以前から、カトリック教会主催の大きなミサで、障がい者への配慮が足りないことをしばしば訴えてきました。例えば、2017年の高山右近列福式(大阪教区)の時などです。そのような努力もあってか、東京ドームでの教皇ミサ(2019年)では、かなり綿密な準備が行われました。事前にカ障連の役員が下見をして、会場責任者の電通と何度も打ち合わせを重ねました。下見に行って驚いたことは、東京ドームは約30年以上前の建物で、バリアフリーがあまりなかったことです。そのハンディからスタートして、何回も交渉を重ねて、種々の障がい者が満足して参加できるミサになりました。フランシスコ教皇が弱い者を特別に大事にしておられるのに、ふさわしいミサでした。
30年前に比べると、現在のさまざまな建物にバリアフリーが施されているのはうれしい点です。最近改築が進む東京の駅でも、ホームドアや斜面エスカレーターの導入、点字ブロックもスマホで読み取れる案内バーコードが入り、車椅子にバリアを感じない高さのものが開発されています。
真の闇として、心のバリアフリー化がまだまだということでしょう。パラリンピックは参加することに意義があると思っていますが、あからさまな勝利主義を標榜していた選手たちを快く思っていませんでした。オリンピックのもつ序列主義・能力主義の根には、古代ギリシャの優生思想があります。優生思想とは、優れた者だけに生きる価値があり、劣った者は生きる価値がないという考え方です。津久井やまゆり園の障がい者を殺害した相模原障害者施設殺傷事件の犯人である植松聖はこの思想の持ち主と言われています。この思想の根は深く、アテネの偉大な哲学者であるプラトンは『国家』という哲学書の中で、優生思想を露骨に述べています。古代ギリシャの人びとに優生思想があったのは確かです。
もちろん光の部分もあります。脳性マヒ障がい者である私がもっとも心惹かれたのはボッチャでした。私と同じ、それぞれの国で偏見を持たれやすい脳性マヒをもつ選手たちが世界各地から集まり、競技に没頭していました。そこには国籍や勝敗を超えて共感するものがありました。日頃偏見を持たれている脳性マヒ者が、各国において人間として遇されるようになる契機となりますように。
別の光の面ですが、私は言語障がいがあり、日頃から手話を使っています。開会式で多くの障がい者が入場してくる姿にも心打たれるところがありました。その開会式と閉会式の中継をNHK教育テレビでは、すべて手話通訳付きで行ったことも新鮮でした。手話を使う支援者の方から、とても分かりやすいと評判がよかったです。
これも余談ですが、最近、コロナについての政治家の記者会見を見るようになりましたが、横で手話通訳者の姿を見かけるようになったのもよかったことです。ちなみにカ障連の仲間の手話通訳者もテレビで時々見ることができ、うれしくなりました。
最後に闇の側面ですが、オリンピック・パラリンピックには常に国家主義がつきまといます。近代オリンピック以降、権力者の権力誇示や国威の発揚に利用されてきました。メダルを何個取るかで国家の宣伝をするのは馬鹿げています。また、オリンピックなど国際的な大会をとおして、愛国心を煽るような風潮にも疑問を感じています。国家主義を掲げ、天皇制国家への回帰を目指す政権の思惑には乗らないようにしたいと思います。
*お断り*
この原稿は、宮永氏が現在寝たきりで自力で長い文章を記すことができないため、英隆一朗神父(カ障連協力司祭)が要旨を受けとり、加筆修正を加えたものです。
コロナ禍での教育と希望の光
鈴木 和枝
不二聖心女子学院教諭
人間を超えた存在を認識し、おそれ、驚嘆する感性をはぐくみ強めていくことには、どのような意義があるのでしょうか。・・・わたしはそのなかに、永続的で意義深いなにかがあると信じています。・・・地球の美しさについて深く思いをめぐらせる人は、生命の終わりの瞬間まで、生き生きとした精神力をたもちつづけることができるでしょう。
レイチェル・カーソン
『センス・オブ・ワンダー』(新潮社)より
地球の美しさについて、私たちはどのように思いをめぐらせているでしょうか。自然の神秘を感じるとき、また自然への脅威を感じて戸惑うとき、私は『センス・オブ・ワンダー』を読み返します。9月1日から10月4日まで、私たちキリスト者は“Season of Creation(被造物の季節)”[1]を過ごしてきました。UAPs[2]に書かれている4つの方向づけは互いに関係し合い、また補完し合って捉えるべきかと思いますが、この特別な時期は4番目の「『ともに暮らす家』(地球)への配慮と世話を協働して行うこと」を心に留めて過ごしました。自然の恵みに感謝し、ともに暮らす家の人々すべてがこの恵みをいつまでも共有できるよう努力していきたい、と思いつつ、このコロナ禍での限界を感じながら過ごしたことも確かです。
私はカトリックの女子中高で働き、理科と宗教を教えています。学校のキャンパスは自然環境に恵まれており、そうした豊かな生態系を生かした学習は理科の授業以外に総合的な探究の時間などでも展開されています。私の宗教の授業では、新約聖書の内容を教えるほか、JPIC[3]をテーマとした単元で、回勅『ラウダート・シ』を取り上げながら環境問題を信仰の視点から見つめたり、日本では未だ廃止されていない死刑制度をテーマに人権問題について考えたりする時間を持っています。
『ラウダート・シ』に書かれている「総合的なエコロジー」については、神とわたし、自分を取り巻く自然環境とわたし、その自然環境を変化させていく社会構造とわたし、周りの人々とわたし、それぞれの関係とともに、わたし自身に向き合うことにより、環境問題や貧困の問題といった切迫した課題に一人ひとりが真剣に取り組むことを促すものであると話します。生徒たちは、その「総合的なエコロジー」という言葉や「エコロジカルな回心」の概念を学ぶのですが、用語としてよりも、実際はむしろ学校生活で展開されているさまざまな活動やお祈りを通してその大切さを体験しているのではないかと思っています。
この「総合的なエコロジー」を実践してきたとも言える学校のカリキュラム・プログラムは2020年以降、コロナ禍の中で多くの変化を強いられました。授業はオンラインを併用しながら行われ、体験的に学べたはずの多くのプログラムができなくなりました。海外の姉妹校への訪問を含めた体験学習、近隣の社会福祉施設での奉仕活動も今は行っていません。上手に感染対策をすれば対面授業もグループワークもできるようになりましたが、2021年9月現在、デルタ株が若者にも猛威を振るい、再び多くの活動に制限がかかるようになってしまいました。
2021年3月にオンラインで行われた「正義と平和協議会全国会議」で私は、「コロナの下の当事者、現場の声に耳を傾ける-『教育現場』」のセッションに参加しました。多くの学校が2020年度は感染対策や、その上での授業など、日々の対応に追われるのみで終わってしまった印象を持ちました。自分の学校だけではなかったと正直安心感も抱きました。
しかしそこにとどまらず、ある方がおっしゃった次のような発言が心に刺さりました。「この時代に育つ子どもたちが大人になったときに、『この世代の大人はコロナ禍を経験したから』と言われるような何らかの特徴が見られるかもしれない」ということです。何らかの特徴とは、ネガティブなこともあるかもしれませんし、ポジティブなこともあるかもしれません。教員としてはもちろん子どもたちがポジティブな特徴をもつ大人になり、コロナ禍を経験した世代としてよい方向に世の中を変容させて欲しい、そのようなビジョンを持って教育に携わり続けたいと思いました。
コロナ禍現役の生徒たちは、頭では「コロナだからできなくなったことがあるのは仕方ない」と分かっていながらも、挑戦したかった多くのことができなくなったことを嘆くことも実際あります。実に気の毒です。ところが昨年度の終わり頃から、何名かの生徒たちが自主的にある社会的なテーマをもって、全校生徒に呼びかけ勉強会を開きたいという動きをもつようになりました。ミャンマーの民主化運動をしている人たちの応援を通して、ミャンマーの情勢を伝える生徒たち。別の生徒たちはLGBTQ、またある高校3年生は高校生平和大使に選ばれ、同下級生に呼びかけて有志を募り、核の問題についての勉強会を行い始めました。
国連が掲げるSDGsは学校の教育活動の多くの場面で取り上げられてきましたが、言葉だけが頭をかすめていたような印象もなくはありませんでした。ただ掲げているだけでは、斎藤幸平氏が説く「SDGsは『大衆のアヘン』」[4]の状況になりかねません。しかし、これまたある生徒たちのグループが、月ごとに学校で取り上げているSDGsのテーマに沿って、啓発動画を作ることを提案してきました。分散登校に入ってしまったため、動画作成や各クラスでの視聴を依頼するにとどまらざるを得なくなりましたが、本来ならば有志を募っての勉強会を開いて、そこで出たことを実践に移す計画をもっていました。
大人たちが「ポストコロナ、ウィズコロナの教育とは何か」と校舎内で起きている問題に右往左往しながら、あるいは新聞やネット、教育論の本を読みながら机上で頭を悩ませている間に、生徒たちはこれまで学校が提供してきたプログラムの枠を越えて、広く社会の問題を探し出し、他の生徒たちを誘ってダイナミックに学んでいこうとしていたのです。
UAPsに関する2019年2月のイエズス会総長の書簡には「エコロジカルな回心」に導く説明として、
自分自身から一歩踏み出し、他者にとって善であるものはすべて愛をもって尊重することが必要です。もし私たちが個人主義や何もしないということから脱出できなければ、被造界と和解した人間の生のモデルは可能とならないのです。
とあります。こうした社会問題に取り組み、全校生徒に向けて呼びかける生徒たちは枠にとらわれずに前に歩む大きな力をもっていると確信できます。
冒頭に紹介したレイチェル・カーソンの同著書には次の言葉もあります。
子どもたちの世界は、いつも生き生きとして新鮮で美しく、驚きと感激にみちあふれています。残念なことに、わたしたちの多くは大人になるまえに澄みきった洞察力や、美しいもの、畏敬すべきものへの直感力をにぶらせ、あるときはまったく失ってしまいます。
子どもたちに対して、学校あるいは家庭、社会で大人が種まきしたこともたくさんあったと思いますが、関心というアンテナや吸収力といった一人ひとりがもっている力が、コロナ禍で誰かのために何かしなきゃという思いと合わさって自発的な行動に至ったのだと想像しています。教員としてこの時代に自分が何をしようか考えることも大切ではありますが、神様が子どもたちに授けてくださった力を信じていくこと、そこに希望の光があるように思っています。
[1] 日本のカトリック教会では、「すべてのいのちを守るための月間」という名称で祝われる
[2] 2019年にイエズス会総長より発表された「イエズス会使徒職全体の方向づけ 2019-2029」 UAPs: Universal Apostolic Preferences
[3] Justice, Peace and the Integrity of Creation(正義と平和、創造界の保全)
[4] 斎藤幸平氏の著書『人新世の「資本論」』(集英社新書)で、冒頭より述べている言葉
兄弟であるわたしたちが、兄弟になる ― 回勅『兄弟の皆さん』を読んで ―
西村 桃子
セルヴィ・エヴァンジェリー会員
先日、回勅『兄弟の皆さん』の邦訳が刊行しました(カトリック中央協議会、2021年9月)。回勅の翻訳作業に携わり、それを通しての感想を書かせてもらいたいと思います。
昨年の春、パンデミックが思いもよらない形でわたしたちの生活を直撃し始めていた頃、多くの人が不安にかられていました。わたしも不安はもちろんありましたが、それと同時に「今こそ、世界が一つの家族として変わることのできるチャンスの時だ!」と大きな希望を抱いていました。パンデミックのおかげで、わたしたちはいかにすべての人とつながっており、影響し合っているのかを実感することで、兄弟愛をより生きることができると考えたからです。
しかしコロナが長引き、回勅が出された昨年10月から邦訳が出た今年9月まで、世界は一つになるどころか対立・分断がますます進んでいったように思います。中国の香港の政策転換、アジア系に対するヘイト、ワクチン接種の途上国との格差、ミャンマーやアフガニスタン情勢などのニュースを日々見聞きし、また、さまざまな問題で苦しんでいる人々に触れているうちに、少しずつ自分が抱いていた兄弟愛の希望がなくなっていくのを感じました。そのような状況の中で、回勅を読み、翻訳作業を始めました。
本回勅で教皇は、現代社会における多くの問題に対して明確に、かつ具体的な提言をしています。それはわたしにとって、どう言葉で表していいのか分からずにもやもやしていた事柄に対して、きちんと言語化してくれました。そして、自分がそれらの問題に対してキリスト者としてどのように生きればいいか、信仰のまなざしを養ってくました。
数え上げればきりがないのですが、回勅の12番では、金融界や経済界が用いている「世界に開かれた」という表現について書いています。それは、国外の利権者への開放、経済大国の自由を指し、一つの文化様式を押しつけるために世界経済によって悪用されている、と教皇は語っています。そしてこれらは、「己の身を守ろうとする強者のアイデンティティには有利である一方、弱く貧しい地域のアイデンティティは薄められ、より脆弱で従属的なものにされようとしている」としています。個人的に「世界に開かれた」と聞くと、無意識に漠然とポジティブなイメージがありますが、使用される分野によってはただ額面通り受け取るのではなく、その裏に隠されている意図などを知り理解していく賢さ、大切さを学ばせてもらいました。
回勅では教皇が絶えず心にかけている移住者、周縁部で暮らしている人々、もっとももろく弱い人々についても語っています。教皇は第2章で、よいサマリア人のたとえ話を出し、わたしたちは道端に倒れている人のそばを通った人(避けて去っていった人々、足を止め近づいて世話をした人)の、どの人と同じだと思うか、問いかけています。そのほかにも、教皇はわたしたちが近くにいる人々だけではなく、離れたところにいる兄弟である人々と、どのように実際に関わっているのかと問いかけ、人間として、キリスト者としてどのように関わっていくべきかを語っています。
これらの教皇のことばを読んでいくうちに、わたしはキリスト者として世界中の人々が神の子で、わたしたちは皆、兄弟であることを信じてはいるけれど、現実としては、遠く離れた人々のことをあまり知らないし、身近に感じておらず、実際は「兄弟である」とまでは言いきれない、と思いました。そして「兄弟である」わたしたちが「兄弟になる」ためには何をしたらいいのだろうか?と考えるようになりました。
わたしの所属する宣教会は、福音宣教と宣教者の養成が使命なのですが、特に若者を優先して司牧活動を行っています。年2回若者と合宿を行っているのですが、6月に「兄弟になる」というテーマで合宿を行いました。それは、わたしだけではなく、少しでも多くの若者が、兄弟であるわたしたちが兄弟になることができるきっかけになるのではないかと考えたからです。
合宿では、キリストの死と復活によって一つとなったわたしたちは、皆キリストの体でつながっている兄弟姉妹であること、そのつながっている離れた兄弟姉妹の現実を知り、自分の一部として感じることが実際に兄弟になっていく第一歩なのではないか、という視点から深めました。知ること自体、その現実を愛する方法で、知ることで祈ることができるからです。
知らないかもしれない現実の一つとして、南米ベネズエラの紹介をしました。というのも、以前日本に住んでいて、コロナでビザがまだ下りていないものの、再派遣される予定のわたしたちの会のベネズエラ人の宣教師がいるからです。彼女は、ベネズエラの状況や家族の状況、その中でどうして自分は日本で宣教師として働きたいのか、といったことを分かち合ってくれました。以前会ったことのある人やこれから会うかも知れない人の国や家族の状況を知ることで、知らなかった現実を身近に感じることができたように思います。
そして、石井光太さんの書いた本『本当の貧困の話をしよう 未来を変える方程式』(文藝春秋、2019年)を使い、さまざまな貧困の現実をグループごとで知り、分かち合い、参加者に共有するワークショップも行いました。
また、祈りの集いの中では、5月に激化したイスラエル・パレスチナ問題について知り、イスラエル・パレスチナの平和のために祈りました。
合宿の最後に、回勅の文章を引用しながら、わたしたちが身近な人だけではなく、離れている人も兄弟として実際にどのように生きていけばいいか、ということについても分かち合いました。その中で、わたしたちがすべての人とより兄弟となっていくために、具体的なコミットメントができたらいいな、という願いを込めて、いくつかの小教区や団体で行われている、塾に通えない小・中学生を若者が教えている学習支援やコロナでより必要性が増している食料支援についても話をしました。
回勅のおかげで、若者と一緒にすべての人と兄弟になることについて深められたことに感謝しています。
最後に、緊急事態宣言が長い間続き、家に閉じこもることで、こころも閉ざしがちになりそうな中で、広い視点で今の社会の現実をキリスト者のまなざしで知ることができ、わたしたちは皆兄弟であり、どんなことがあろうともお互いにつながっていることを、この回勅を読むことで再認識させてもらいました。そして、世界が今抱えている現実を知った上で、悲観的にならず、希望をもって毎日を生きることも教えてくれました。
祈りと愛をもってなされた働きが、わたしたちを真に兄弟にしてくれるのだ、と感じています。直接会えない人々や、これからも会うことがなくてもつながっている遠く離れた兄弟に、神さまが祝福を注ぐためにわたしたちの献身を用いてくれていることを信じて、祈りのうちに誰かの顔が浮かんだらその人のために祈ったり、良心のうちにイエスに頼まれているのではと思ったことを実行したり、外を歩いているときに気になった人やものごとに足を止めて小さな愛の働きを行おうと日々しています。
タリタクム(TALITHA KUM) 人身取引禁止ネットワーク
アビー アベリノ MM
メリノール女子修道会 / タリタクム アジアコーディネーター
「タリタ・クム、少女よ、立ち上がれ!」
これは、マルコの福音書の中で、イエスがヤイロの娘に言った言葉です(5・41)。
タリタクム日本は、CBCJ(日本カトリック司教協議会)から委託されたJ-CaRM(日本カトリック難民移住移動者委員会)と協力して、人身取引対策を目的とした、日本女子修道会総長管区長会と日本カトリック管区長協議会のネットワークグループです。
私がタリタクムのネットワークに参加した2016年、日本は昔も今も目的地の国でした。私は、近隣のアジア諸国や遠く離れたアフリカ諸国から、搾取の被害に遭っている多くの移民や難民に出会いました。特にフィリピンからの移民女性に同伴してきました。多くの場合、私は騙され、搾取された女性や男性に出会いました。それが私の心に何かを引き起こすきっかけとなり、この人身取引対策のミニストリーに関わることになったのです。
日本では、技能実習生、日系フィリピン人児童(JFC)、日本語学習者などが人身取引の被害者となっています。
タリタクム日本は、移民や難民、非正規滞在者の権利と尊厳を守る活動をしています。移民労働者の労働搾取事件に対するカウンセリングや法律相談を行っています。搾取の被害者である女性技能実習生の救出や、保護のためのシェルター提供などの危機介入を行っています。人身取引に対する啓発キャンペーンとして、セミナー、ニュースレターの配布、2月8日の「世界人身取引に反対する祈りと啓発の日」と7月30日の国連の「人身取引反対世界デー」に合わせてイベントを開催しています。今年の7月30日には、他の宗教団体の協力を得て、人身取引の生存者や被害者のための宗教間オンライン祈祷を実施しました(WCRP日本委員会人身取引防止タスクフォースとの共催)。
タリタクム日本は、他のタリタクムのネットワークとの連携を開始し、人身取引対策における送り出し国と送り先国の連携を強化し、特に意識向上と予防に努めています。
タリタクムとは何か? 私たちは何をしているのか?
タリタクムは、人身取引に反対する奉献生活者の国際ネットワークです。UISG(国際女子修道会総長連盟)のプロジェクトです。タリタクムは、共有すること、互いの経験から学ぶこと、そして相互支援の価値を認識する諸ネットワークのネットワークです。
世界中のシスターが率いるタリタクムのネットワークは、人身取引の危険にさらされている人、人身取引に巻き込まれている人、人身取引から回復した人にとって、希望のしるしであり、解放への道筋となっています。タリタクムにとって、この活動の中心は、人とコミュニティを中心としたものです。
タリタクムは、5大陸94カ国、約60のナショナルネットワークで活動しています。アジア(東南アジア、東アジア、南アジア――中東の3カ国を含む――)には16のネットワークがあります。タリタクムのネットワークは、地域や国際的なレベルで人身取引防止のための活動やアクションを実施しています。タイのネットワークでは、性的に搾取された女性や子どもの被害者の保護と支援を得意としています。インドネシアとフィリピンでは、NGO、地方自治体、国際機関、その他の宗教団体と協力して意識向上を図っています。
何十年も草の根で活動してきたタリタクムは、人身取引をなくすために取り組まなければならない3つの主な原因を特定しました。これらは、
- 新自由主義的な経済政策と慣習
- ジェンダーの不平等
- 強制的な移住や不公平で不十分な移民法・政策が、移住する人々の脆弱性を高めていることです。
タリタクムの優先事項(アドボカシー)
- 「搾取のない経済」を推進します。
- 女性のエンパワーメントを強く優先して提唱します。
- 権力の非対称性に関する意識の向上
- リスクのある少女や女性が質の高い教育を受け、働く機会を得られるようにすること
- 特に女性が搾取されやすい労働分野(家事・介護、農業、食品、観光、接客業)における労働権
- 女性と少女に特別な注意を払いながら、移民の合法的な経路の実施を提唱します。
「人間は、搾取されたり、売買されたりする対象として扱うことはできません。労働者の権利は保護されなければならず、賃金は尊厳ある生活のためのものでなければなりません。経済システムは、人間の苦しみや搾取ではなく、人権のグローバル化を促進するものでなければなりません。
タリタクムは、すべての人に立ち上がってもらい、人身取引の経済を、私たち全員、特に女性に力を与え、安全で繁栄するコミュニティを育むケアの経済に変えていきたいと考えています。」
私たちは、特にCOVID-19のパンデミックが起きているこの時期に、介入者とそれに伴うサバイバーのためにできることをしています。
アジアでは最近、「TK Youth Ambassador Against Trafficking in Persons」を立ち上げました。より多くの若者に、特に予防に関わることを奨励しています。現在、25名の若者がそれぞれの国で人身取引防止大使になるための養成を行っています。日本からは3人の若者が、大使のリーダーになるための養成を進めています。
学校や行政、教区の仕事など、私たち一人ひとりが人身取引と戦うために果たすべき役割があると思います。
“ 蜘蛛の巣が団結すれば、
ライオンを縛ることができる”
アフリカのことわざ