振り返り、今も戦時下 (国策下) を生きる
林 尚志 SJ (1934年生)
下関労働教育センタースタッフ
此処のところ、この街(下関)を歩くと時々どきっとする。手製銃で撃たれ亡くなったこの選挙区選出の代議士・元首相のポスターが、あちらこちらに張られたままなのだ。「この国を守る」とキャッチフレーズが叫んでいる。自分も守れなかったですねと、そっと言ってみる。そして自分に言い聞かせるつもりで、人の尊厳を手段化する者は自分も守れない、と言い足してみる。さらに、国を守るとはどんな国を守り、その守る国策とはどのような国策なのか。主権者とは言葉だけで、国民一人一人は、鮮明に言い表せない国家権力者・為政者の闇の構造・力の手段として、生殺自由な駒なのかとの問いが付きまとう。
国民学校1年生(現小1)の頃(1942)、叔父の家に親族が集まっていた。父の男兄弟5人、女姉妹4人とその家族の、夜遅くまでの宴会だった。叔父の徴兵出征前夜の送別の宴だった。早く寝込んだ私が夜中に便所に行くと、中でうなり声がした。見ると出征するM叔父が縄でぐるぐる巻きにされ閉じ込められていた。驚き、すぐに母親を起こし知らせたが、何か諭されてまた寝入ったことを思い出す。その後のことは忘れたが、一葉の写真が残っている。丸刈りで上着に襷をして、虚ろな眼でうなだれ気味のM叔父が、大きな日章旗の幟を背景に多数の人々と写っている。「天皇陛下万歳」を唱えた記憶がある。
後で母親に聞いたのだが、M叔父はその夜酔いが回り、戦争に行きたくない、人を殺したくないと叫び、暴れ出したので、父たちが縄で結わき黙らせたそうだ。それが一番若い叔父と会った最後で、その後山羊と一緒ににこやかに写っている支那(シナ=中国)からと、戦車上の比島(フィリッピン)からの写真を見ただけだ。申し訳ないが、お墓も何処にあるのか知らない。国家国策の陰に滅没していったM叔父の戦死が知らされた時、泣くのを見たことのない父親の背中が嗚咽で震えていたことを憶えている。
15年戦争(1931-45)が始まっていた1934年、東京の家の住所を知らないが、下落合の聖母病院で生まれた。市内・府内をいくつか転々とする北海道移民三代目の出戻り父と、新潟から職探しで上京した母との大恐慌(1929)後の都会生活は楽ではなかったようだ。
そんな中での軍国少年は、南方方面最高指揮官マレーの虎や皇軍加藤隼戦闘機隊に憧れる教育と環境の中に育った。蓄音機の軍歌レコード曲を窓から外に流し、訓練中休憩の兵隊さんたちが聞くのを喜んでいた。そのため、今でも軍歌が次から次と出てくるほど、「内部被曝」は酷い。
カトリック信徒の家族なので、日曜日のミサ帰り、灰色の影が付いてきて怖く、母親の陰に隠れたことを憶えている。あの家は敵性国家の宗教を信じるスパイかも知れない、気を付けろと警告されて隣組八分だった。それゆえ、風呂を分かち合った向かいと左隣の家の子どもとの付き合いしかなかった。警戒警報・空襲警報・防空壕・食糧難などの少年期の体験で、ウクライナの戦争(2022)下の子どもたちが心に迫る。
東京空襲(1942)が始まると、命を護るため、母子4人は国策通信社(同盟通信)で働く父を残して新潟の寒村へ疎開するが、生活が難しく、鉄道の駅のある日本海側の街へ移った。集団疎開ではないので、男性の大人・青年不在の異様な村社会で、生存への苦悩の経験が忘れられない。学校での異常な暴力・いじめ・ひもじさ・野外作業・軍事訓練・虱退治、配属将校の威張りなど様々な勉強(?)と共に、厳しいけれど四季豊かな自然から生き延びる逞しさが身に付き、戦後の焼け跡を生き抜けたと思う。
戦時中、教壇から皇国思想の洗脳と国家神道への追いやりを受けながら、子ども心でも反発抵抗をしていた。戦後たがを外されても、抵抗心・反抗心の固まりみたいだったことは寂しい。学徒動員で命拾いして復員した生真面目な先輩に、将来の夢を聞かれて、ぐれた返事でがっかりさせたことが悔しい。
しかし、トラウマ的に悲しい心の景色は、夢で見たある場面だ。校舎の周りに穴を掘り、鬼畜米英が上陸してきて残虐行為をされる前に「自決」させられる夢で、死にきれない私の口を塞ぎ殺そうとする女性の先生の姿が頭から離れない。殴る先生、全校生徒の神社強制参拝への嫌悪抵抗の心情は今でも消えない。国家総動員(1938)、一億総玉砕(1945)等の悪夢の国策下の少年期だった。
国体護持、一億総懺悔(1945/8/31)、GHQ、東京裁判(1946-48)等々、何処吹く風で焼け跡、隅田川の畔(東京大空襲跡)の黒々とした路上の人々の中を素通りして、各駅でDDTをぶっかけられながら、口に入るものは何でも食べるかのように、怖いもの知らずのように生きていたが。母方の大好きな叔父さんが復員後苦労一杯背負って、食べる路探してやはり最初の警察予備隊(1950)に入ったのには、子ども心にもがっかりしたのは何故か。
朝鮮戦争(1950)が始まって周囲の人々の生活に貧富の差が始まったのを体験したが、政治的・経済的動向に敏感に反応することは遅かった。焼け残った書物への飢えはあったが、紙の統制で文字化された情報への近づきはばらばら差が生じていたと思う。それこそ戦後のGHQによる紙の統制(プレスコード:1945)下、通信社の出版の仕事に従事した父が、製本過程で出る余り紙片を教科書のない学校に提供したことを憶えている。
紆余曲折を経て内心の声に従って「ミサ」に戻り、不思議なことにアイルランドの従軍司祭だったイエズス会士W・ドイル神父(♰1917)の生き方を追ってイエズス会に入った(1958)。それから数年以上、激動の戦後社会から世捨て人に成る。新聞もほとんど読まない、浅沼代議士が刺殺されたニュース(1960)を修練長に知らされきょとんとしたり、ヴェトナム戦争の北爆開始(1964)を批判して睨まれたり、1968年の騒乱罪適用の10・21国際反戦デーには、高田馬場周辺で機動隊に追われていたが、大学のバリケード封鎖時(1968)も所詮日和見的であった。
米国イエズス会員D・べリガン神父(♰2016)の「Can you stake your life on the issue? (君はそのことにいのちを賭けられるのか)」の生き方に心揺さぶられて、ヴェトナム戦争敗北直前の米国に1年半短期滞在する(1972-4)。ヴェトナム戦争反対の兵役拒否青年たちとの連帯等、米国の国策に反してビザ更新延長を拒否され国外へ退去帰国。この国家に属国扱いで存続する日本の限界を感じた。安全保障・経済的依存性を越えて、経済力・軍事力の優劣にも依らない人間の尊厳に基づく対等の場は、どのような歩みを経て形成されるのか。敵性国家とか冷戦構造とか国家の対立関係から脱出して、国家を形成する主体者の民衆の連帯を、境を越えてどのように創造していくのか課題である。
歴史を振り返り、沖縄・韓国への訪れすら二の足を踏んでいたが、キリスト者青年労働者の運動(JOC)、カトリック労働者運動(ACO)のおかげで、学習と連帯活動へと最初の一歩の背を押してもらった。イエズス会のSELA(Socio-Economic Life in Asia)のおかげで、東南アジアにおける日系企業の労働者の状況と環境破壊の現状を調べる目的で現地を歩き、様々な体験を重ねた(1977前後)。
例えばマレーシアでは、日本軍の軍票を現金化しろと銃剣による傷痕を示し責められた。シンガポールで中国系の人が結婚式の祝い会で同席を断る理由として、華僑虐殺記念塔と虐殺現場に連れていかれた。インドネシア、東ティモールにおいても、現地の人々から歴史認識の浅薄さを常に学ばされた。
やっと少し目覚めて東ティモールの独立にほんの少し関わると、これまたインドネシアの国策に触れ、ブラックリストで東ティモール入国阻止(1992)、かつインドネシアからの経済的利権亡者日本の国策にも好ましからざる人物(persona non grata)となり、外務省は私を守れないと言い、インドネシア国外退去を勧めた。国家とか国策とかを肌身で感じながら、何かを学び取っていた。
生まれた時からの戦時下(国家・国策の縛り)をいつも感じている。ちょっと振り返っても、かつても今も同じように国家の、その時の権力構造の国策遂行の手段とされている現実から自由ではない。その時々の国家の仮面を被っている、人間世界の正義・愛の欠如した欲のマグマとその火砕流のグローバリズムは、悲鳴をあげて壊れていく自然環境と人類社会を待ったなしの崖っぷちに立たせている。
結局、共生共栄を掲げた国策は、現在も軍事的・経済的・文化的侵略と同化を継続しているのだ。国策を改善すると異議を唱える者を黙らせ潰していく闇の力の流れを減速・消滅させる長い時間の歩みは、今も一人一人その存在・尊厳をかけて生きているかけがえのない私たちなのだ。
情報・経済的グローバリズムがもたらす新しい利益拡大の攻め合いに生きる現代、戦時下に生まれ育った者として、核兵器禁止条約(2021)にも参加できず、原子力緊急事態宣言(2011)継続下でも原発依存の国策しか提示できない、この国の脆弱な価値観の基盤の上にいることを嘆くが、新しい地平の展開を諦めない。人新世期のあらゆる境を越えての対話からの創造に希望の礎を置いているからだ。さらに、世界中の国家が向かうべき理想としての日本国憲法9条の根幹を拡げ、あらゆる現実への民主的対応の努力を、国策を通して追求するのが、戦時下に生きた人間の責務なのだ。
88年間の人生が戦時下で始まったが、相変わらず国家とその国策の下で、国籍・国境を越えた連帯の下で是是非非の闘いの戦時下である。思うに、もっと早くから国家に向き合い、その国策の創出、遂行へ一人の人間主体者として向き合う参加・連帯の密度を高めなかったことを不甲斐なく思う。しかし今も、人間の生存・森羅万象の生存と全存在の相互の与え合い支え合う地球世界・人類社会の進化への成し遂げの闘い(歩み)の只中にいたい。
原爆投下は唯一の選択肢だったのか?
ロバート ディーターズ SJ (1924年生)
上智大学名誉教授
アメリカにおける世論の反応
ニューメキシコ州ロスアラモスを拠点とする大規模プロジェクト : 原子爆弾の開発と製造、精製前ウランとプルトニウムから原子爆弾の材料を製造する2つの大規模な工業用地。この計画のすべては、最高機密に指定されていました。また、議会は「軍事目的」に必要な数十億ドルを認可する必要があり、計画に直接関与したごく少数の主要な議員だけが実態を知らされていました。
1945年8月6日以降、アメリカの一般市民には「新しい爆弾」が広島を破壊したとだけ伝えられました。
当時は、テレビはまだ十分普及しておらず、ニュースの主な情報源は、ラジオ放送・新聞・雑誌でした。日本の降伏と軍事占領後、アメリカ合衆国の記者と写真家は、厳格な監視下でのみ、被爆した都市を訪問することを許可されました。
アメリカ合衆国が何をしたかを知り、アメリカ人が熟考し始めたのは、1946年の初めになってからでした。ジョン・ハーシーの評論と報告書であり、6人の生存者の個人的な体験に基づいて記された『ヒロシマ』は、何百万人もの人々に衝撃を与えました。この3万語のエッセーは、多くの新聞や定期刊行物にそのまま転載されました。全文の朗読がラジオで放送され、「数十万」部の無料の小冊子が配布されました。ある歴史家がコメントしたように、「おそらく真珠湾攻撃以後初めて、アメリカ人は普通の人間である日本人と対峙した」のです。
アメリカでは、1945年8月までに、硫黄島攻略、フィリピン奪還作戦、特に沖縄占領、そして日本本土に対する焼夷弾爆撃が一般に知られていました。日本の敗北は明白であり、原爆はとどめを刺す最終兵器でした。「家族の元に帰って自分の人生を送れる」というのが、ほとんどのアメリカ人の気分でした。
広がる後悔と慰めの神話
ヒロシマとナガサキの被害が知られるようになった後、より思慮に富んだアメリカ人、特に私の友人でありアドバイザーであるヘンダーソン神父の声に、人々は徐々に耳を傾けていきました。
たとえば、8月17日に、US News & World Reportの編集者は次のように書いています。
「軍事的必要性が私たちの批判への答えですが、すべての文明国の中で、毒ガスの使用がためらわれているにもかかわらず、これまでで最も破壊的な武器を老若男女に対し無差別に使用することを躊躇しなかったこと、このことが私たちの心から消えることは決してありません」
(ガー・アルペロビッツ、『The Decision to Use the Atomic Bomb and the Architecture of an American Myth』※、p. 438)。
- 邦訳は『原爆投下決断の内幕――悲劇のヒロシマ・ナガサキ〈上・下〉』(ほるぷ出版、1995年)
キリスト教教会と一般社会の両方から、原爆投下に対する賢明な批判の小さな流れが、大きくなり始めました。この苦々しい批判を阻止するために、ハーバード大学のコナント学長は、政府で活動していた小さなグループを集め、決定的で詳細に記された解説を公開し広く配布しました。そこには、製造された原爆が、どのように、なぜ、投下される決定がなされたのかが記されていました。
このために、原爆を使用するというトルーマン大統領の決定を、合理的でバランスの取れたものであるとアメリカの人々が見なすよう教え込む論文を著すようにと、元陸軍長官のスティムソンを説得しました。論文の骨子は、大統領の直面した決断を説明することでした。トルーマン大統領は、日本に無条件降伏の要求をどう飲ませるかの判断を迫られており、決断の分岐点に差し掛かっていました。一つは、多くの米兵の犠牲を伴う日本本土への本格的な上陸作戦および軍事占領を命じるということ。あるいは、原子爆弾投下の衝撃によって、この恐るべき兵器が日本全土へ使用されることを日本の支配者に懸念せしめ、無条件降伏を受け入れさせるということでした。
この説明を説得力のある方法で書き、出版するために、コナントのグループは、すでに引退していたスティムソンの権威と名声を求めました。スティムソンの門下には、ある若い男性がおり、他の人物、特にコナントによってしばしば編集された論文は、定評のある全国紙Harper’sに、初版が掲載されました。TIME、New York Times、およびその他の影響力のある出版物に、論文の全部または一部を転載する許可が与えられました。出版物は、地元の主要紙だけでなく、ラジオ局や図書館にも送られました。論文は、明確かつ力強く書かれており、直接的に、あるいは講評や討論を通じて大きな影響を与えました。
論文における印象的かつ意図的な省略の一つは、1945年の夏、大統領に対し十分に討議され支持されたという提案の記録でした。それは、天皇制が非軍国主義の政体(国体)に保持され得るという保証を含めた、より詳細な降伏の条件を日本に伝達するという箇所でした。
この論文は、歴史の「正統な」解釈を一般の人々にしっかりと植え付けるという、その主な目的を達成しました。世論調査ではアメリカ人の90%以上が、そこに描かれているトルーマンの原爆投下の決定が合理的であると認めていたことが示されました。原爆を使用するというこの決定について広範囲に調査し、著述したガー・アルペロビッツは、この見解を「アメリカの神話」と呼んでおり、アメリカ人や他の多くの人々の良心の呵責を和らげました。
この神話は、今日でもアメリカや他の国々、そして日本においてでさえ受け継がれています。ほぼ80年後の現在、歴史家や一般の読者は、25年以上「秘密」であった多くの文書を読むことができます。しかし、世論調査によれば、今でもアメリカ人の少なくとも半数と、日本人の多くが、この作り上げられた神話を信じています。
つらぬけ平和憲法
大倉 一美 (1934年生)
東京教区司祭
今年は77回目の沖縄慰霊の日、広島・長崎原爆慰霊の日、そして終戦記念日を迎えます。いま、ウクライナに対するロシアの侵攻に動かされて、日本は憲法9条によって「戦争の放棄、軍備や交戦権を否認」したにもかかわらず、憲法改正へと突き進んで来ています。二度と過去の過ちを繰り返さないために、決意を新たにし、太平洋戦争時の私の小さな体験と、戦後の平和への歩みについて記すことにしました。
はじめに
私が小学校に入学した1941年(昭和16年)の4月から、尋常小学校が国民学校と名が変わり、教育内容もすっかり変わってしまいました。一年生の教科書も「サイタ サイタ サクラ ガ サイタ」から「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」と変わりました。そして12月8日、真珠湾攻撃によりアジア・太平洋戦争が始まりました。
幼児洗礼の私は戦時中、更に学童疎開が始まったため、聖書もカトリック要理もあまり知らずに、1944年(昭和19年)9月に学童疎開地の福島県白河町に旅立ちました。疎開生活は暗く、苦しく、飢えと寒さの毎日でした。授業はほとんど行われず、寺の墓地を整理開墾してサツマイモを作り、東北線の土手にカボチャを植え、野草を採りに行くのが日課でした。白坂という小さな駅の近くに広大な馬鈴薯(ジャガイモ)畑がありました。疎開児たちは来る日も来る日も、馬鈴薯畑の害虫を取るために強制的にかり出されました。しかも収穫された馬鈴薯は全部軍隊に徴集されました。
1945年8月15日の正午、疎開先の寺の庭で天皇の無条件降伏の言葉を聞きました。9月末に同級生たちはそれぞれ東京の親元に帰って行きました。徴兵された父がまだ復員して来なかったこと、さらに目黒の借家が人手に渡ってしまったため、私は白河町に残り、母と弟、祖母の四人の六畳一間暮らしが始まりました。
中国から復員し、銀行員だった父が、ある日会社に出かけて行って林の中で縊死してしまいました。思えば「戦争神経症」だったのでしょう。それから母の苦難の日々が始まりました。旅館の仲居として、私たちを一人で支えたのです。
敗戦後まもなく、旧制中学が廃止され、やがて新制中学が始まりました。私は新聞配達を始め、僅かな小遣いを稼ぎ、早朝の配達が終わってから中学に行きました。新聞配達で稼いだ金で、一冊の本を買いました。この本は、日本聖書協会が平和になった日本人に対して発行した新約聖書でした。これが私と聖書との最初の出会いです。
1947年5月3日に施行された平和憲法は私たちに大きな希望をもたらし、私たち皇国小国民を平和な国民に変えてくれたのです。
司祭として労働者運動と共に歩む中で
帰京した私は、ヨゼフ・フロジャック神父の助けで高校に入学しました。フロジャック神父に感化され、司祭になろうと決意し、カトリック東京神学院に入学しました。1963年に司祭叙階、一年後にカトリック徳田教会の助任司祭に任命され、JOC(カトリック青年労働者連盟)運動の司祭として歩み出しました。
1965年2月、米軍の北爆を機に「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)運動が生まれ、反戦デモが始まりました。同じ年の6月に日韓基本条約が結ばれ、その批准阻止のために国会周辺で連日10万人規模のデモが行われました。ジョシスト(JOCメンバー)たちと共に、毎日のようにデモに参加しました。やがて70年安保反対闘争が始まり、東京教区刷新の動きが若手の司祭たちから起き、「東京教区大会」が開催されました。
1974年から小岩教会、町田教会、清瀬教会へ転任し、2003年から再び徳田教会で働き、2021年11月に主任司祭を引退、現在に至っています。小岩教会時代から、カトリック労働者運動に司祭として参加してきました。
アジアの労働者たちを支援して
海外に進出した日本企業が現地でトラブルを起こし、労働者たちが弾圧される事態が多発しました。その一つが「アジアスワニー事件」です。1984年6月、韓国の裡里〈イリ〉市にあるアジアスワニー工場の労働者である「金徳順〈キム・トクスン〉さん強姦未遂事件」が起きました。関東地区JOCの有志の呼びかけに応えて、27団体が参加した「韓国労働者を支援する会」が生まれ、日本のスワニー本社に対して、解雇撤回、謝罪を求める闘争を開始しました。
1989年の秋に起きたのが「韓国スミダ闘争」です。東京のスミダ電機本社から、馬山〈マサン〉自由輸出地域のスミダ電機工場に一枚のファックスが届き、工場の450名の女子労働者全員が解雇されました。これが女子労働者の生存権回復のための「海を越える労使紛争」です。「進出企業問題を考える会」が支援の中核となって、日本の労働組合、市民団体と共に、10月14日から翌年の6月8日までの206日間にわたってスミダ労組の支援運動を続けました。労組幹部が勝利して帰国したときに同行した私は、スミダ労組から大歓迎をうけました。「正しい者はその正義によって救われる(箴言11・6)」という神の言葉が文字通り実現し、彼女たちは謝罪文、退職金と和解金を受け取ることができたのです。
正義と平和協議会と共に
1990年、白柳誠一枢機卿は私と岡田武夫師、大原猛師の三人で東京教区に「正義と平和委員会」を結成するよう命じられ、東京正平委が9月に発足しました。
戦後補償問題に関わる
1991年8月14日、ソウルで金学順〈キム・ハクスン〉ハルモニが記者会見を行い、12月6日に金学順ハルモニと3名の元「慰安婦」を含む35人の原告が日本政府を相手取り、謝罪と補償を求め提訴しました。これが、戦後補償請求裁判闘争の始まりです。
1993年4月に、フィリピンの元「慰安婦」のロラ・ヘンソンさんたちが、日本政府に謝罪と補償を求めて提訴しました。彼らの支援団体である「フィリピン人元『従軍慰安婦』を支援する会」に東京正平委も参加し、今日まで支援運動を続けています。
私は「慰安婦」問題に関わる中で、2000年の「女性戦犯法廷」の裁判の裏方役を果たしました。国外から記者たちが沢山来て、民間裁判ながら、日本の戦争責任について、責任者に対する判決も出たことを全世界に報道したのです。
反テロ戦争に非暴力で闘う人々に連帯して
2001年の9・11事件に対する報復として、米国がタリバン政権を攻撃したときから、米国大使館前で抗議行動が始まりました。米軍がイラクを攻撃し始めた2003年2月19日以来、後方支援と称して、イラクに自衛隊が初めて派兵されたことで、首都圏中心に宗教者たちによる非暴力の反対運動が始まりました。
私は2007年から、「平和をつくり出す宗教者ネット」の呼びかけ人の一人として、全国の僧侶、門徒、キリスト教諸派の牧師たち、信徒の有志から寄せられた「イラク派兵反対、自衛隊の撤退を求める」署名を持って、毎月1回、内閣府に行っています。イラクに自衛隊が派遣された2003年の暮れから数えて、今年の7月で222回目になり、署名は10万筆にのぼっています。最近では沖縄反基地運動、辺野古新基地建設のために遺骨を含んだ土砂を埋め立てに使うなという抗議運動も始まりました。
幟旗「つらぬけ平和憲法」を掲げて
ここまで70年間、私が歩んできた道を振り返って見たとき、行動の動機は「戦争体験と平和憲法」と「キリストに対する信仰」です。これからも日本が戦争を決してしない国であるよう、同じ志をもっている人たちと連帯して行動していく決意です。
復活されたイエス・キリストが弟子たちに最初にかけられた言葉は、「あなたがたに平和があるように(ヨハネ20・19参照)」でした。この主の「平和」はただ単に「戦争や暴力がない」ということではありません。しかし、現実のこの世界において、戦争は最大の暴力であり、人間の尊厳、神がよしとして作られた自然界全てを破壊する最大の悪です。ウクライナに対するロシアの攻撃はそれを実証しています。1990年の東京正平委誕生のときに作った「つらぬけ平和憲法」という手書きの幟旗を掲げて、私は平和運動に参加してきました。この旗は2000年の夏、嘉手納基地を包囲する2万7000人の「人間の鎖」のときにも沖縄の空にひるがえりました。旗の文字も色褪せて来ていますが、「平和のために働く人は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる(マタイ5・9)」という主のみ言葉に励まされ、「平和憲法をつらぬき通す」志は少しも色褪せていません。
出逢いと繋がりの中で生かされる喜び
有吉 和子
カトリック労働者運動 (ACO) 北九州・関門地区会員
必要なのはただ、純粋に、単純に、民になりたいという望み、……不断に根気強く働きたいという、無欲な望みです。
(教皇フランシスコ、回勅『兄弟の皆さん』77)
私は、社会の中で、人との関わりを大切にして、主に導かれ生かされたいと願い歩んでいます。核兵器の廃絶と脱原発社会を求め、日本カトリック正義と平和協議会「平和のための脱核部会」に加入し、繋がっています。また、外国人技能実習生や留学生の相談を受ける活動や、長崎県の大村入国管理センター収容者との面会活動を続けています。ネットワ-クの中で繋がって、一つの小さな歯車として働くことができることを喜びのうちに体験しています。活動を通して、「何よりも大切なのは一人の人間の命、人間の尊厳」と強く感じます。
ACOの会員として
私は、ACO(通称アセオ:カトリック労働者運動)の会員です。アセオは人間が大切にされる新しい社会を目指して、日本全国7地区の仲間と繋がって歩み、世界キリスト労働者運動(WMCW)に加盟し、世界とも連帯しています。世界キリスト労働者運動(WMCW)は、世界中のキリスト者の労働者運動で構成された国際運動です。社会的、経済的、文化的に生活条件を改善し、人間の尊厳を求めて、福音に基づき、国際的に連帯して使徒的活動を続けています。
アセオでは、毎月の例会で行う「生活の見直し」の分かち合いを大切にしています。この分かち合いを通して、私たちアセオ会員は、互いの生活のどこに主の福音があるかを探し、主キリストに繋がって、互いに愛し合って歩むことを大切にしています。優しさと愛情のうちに表わされる充実した生活を送るため、会員が互いに尊敬して支え合うことを大切にしています。
ある時、「アセオの基本は、単なる活動ではなく、主イエス・キリストに立ち返り、キリストに繋がって動くことです。何を大切に生きるか、本当に目指すものを探す『生き方の見直し』は大切です。皆さんの『生活の見直し』は、神様を愛し、会員同士が互いに愛し合い、生き方を支え合うためのものです」と話されたアセオ担当司祭のメッセージが心に響き、今も私の心の奥深いところで大切にしています。
現在、私は全国アセオの国際担当として働いています。アセオ各地区の国際担当者の方々との連絡、メールでの国際関係についてのやり取りにおいても、互いを大切にして、連帯してその役割を担い歩めることを感謝しています。
コロナによるパンデミックは世界共通の問題で、その影響をWMCWからの情報を通しても再確認します。世界のそれぞれの地域で弱い立場に置かれている人々のコロナ禍による状況を知ることができました。そして、日本からもコロナ禍の日本社会の現実を世界に発信して共有しています。国際的にも連帯して、見て、判断し、「生命最優先の社会正義」を求め、実行に向かうため活動しています。
日本で働く外国人技能実習生
技能実習生問題については、外国人技能実習生権利ネットワークの会員となり、実習生からの相談を受けて、彼ら一人一人の人間の尊厳を取り戻すために、労働組合ユニオン北九州の仲間と協力して活動を続けています。学ぶことも多いです。現在の取り組みの多くは、ベトナム人技能実習生からの相談です。相談のほとんどが、残業代の未払い、労災隠し、暴力、強制帰国、劣悪な労働環境や生活環境、そして解雇問題です。最近は妊娠、出産問題の相談も増えています。
多くの実習生は人間としての尊厳を大切にされず、即戦力として、安価な労働力として、まるでただの機械のように扱われています。本来、来日前の研修で日本語を学んでくることになっていますが、彼らのほとんどは3年間の実習後も、日本語を理解することが難しいです。日本語をはじめ、実習に必要な教育もなされないまま来日します。彼らは日本に来てからもきちんと研修を受けることなく、多くの会社はベトナム語の通訳がいない状態で彼らを受け入れています。
実習生に対する暴言や暴力の問題は、言葉が通じないために彼らにイラつくことも原因の一つだと感じます。コロナ禍のパンデミックが続く中、小さい立場に置かれたベトナム人技能実習生の身体的、精神的痛みの相談は続いています。
以前、大村入管にも元ベトナム人技能実習生の収容者がいました。面会の際に通訳をしてくれていたベトナム人シスターが、「ベトナムでは、『日本は労働条件も良く給料も高い。ぜひ日本で働きましょう』と宣伝されています。悪質なブローカーによって多額の借金を背負い、日本にやってくる若者が多いです。彼らは被害者です」と話してくれたことがありました。
実際に面会した元ベトナム人技能実習生の収容者のうちの1人は、親にたくさん借金をさせて来日しましたが、低い賃金で働き、重労働に耐えられず失踪し、最終的にオーバーステイで入管に収容、その後強制帰国させられました。「親に苦労をかけました。申し訳なく、悔やんでいます。このままでは帰れません」と涙ながらに話してくれた姿を忘れられません。
すでに多民族・多文化化している日本社会にあって、これからより一層人権が守られ、人間の尊厳が大切にされることの必要性を改めて確認します。
大村入管面会活動を通しての喜びと希望
私がはじめて大村入管での面会に行くようになってから7年半になります。長崎教区の信者の方と情報を交換し、長崎インタ-ナショナル教会の柚之原牧師、長崎教会管区難民移住移動者委員会担当司祭の川口神父とも繋がり、面会活動をしています。2年半前からは、イエズス会の村岡ブラザ-と共に、その後、1年前からは同じくイエズス会の中井神父と共に面会を続けています。
今年3月1日、多くの方の協力により、6年以上大村入管に収容されていたベトナム人、グェン・バン・フンさんに在留特別許可が下りました。ボートピ-プルとして1989年に日本に来たフンさんはカトリック信者で、私が彼に面会をするようになって3年近くになります。
2月末、フンさんの特別許可の情願の署名について川口神父から連絡をもらいました。署名の呼びかけ人は柚之原牧師です。2019年に大村入管で餓死したナイジェリア人収容者の方とも1年近く面会を続けていた私は、あの時の辛さをもう繰り返したくないという強い思いから、関わりのあるあらゆる団体のネットワークを通して緊急署名をお願いしました。福岡教区信徒使徒職協議会、アセオ、外国人技能実習生権利ネットワーク、ベトナム人技能実習生ホットライン、そして在日ベトナム人の友人等、多くの方が賛同し、署名してくれました。
在留特別許可が下り、仕事もできることになったフンさんは、柚之原牧師が引受人となり、大村で生活を始めています。4月中旬に会った際、収容所のアクリル板越しではなく、直接会って話をすることができるのが夢のようで、胸がいっぱいになりました。彼は毎日朝ミサに参加しているそうです。6月9日には甲状腺の手術を受け、健康を取り戻し元気に生活しています。大村入管面会に行ったときはフンさんにも会うようにしています。一人の人間として生かされる喜びを分かち合ってくれるフンさんの様子を嬉しく思い、主に感謝です。
教会内だけでなく、教会を超えて社会と繋がり、人間の尊厳を求めて、出会いと交わりに感謝して、祈りのうちに歩みたいと願います。