ミャンマーの人々とともに歩む

イエズス会社会使徒職委員会


 2021年2月1日、ミャンマーにおいて同国国軍がクーデターを起こしました。その背景には、2020年11月8日に行われたミャンマー連邦議会の総選挙があります。その選挙で与党の国民民主連盟(NLD)が改選議席の8割を超える396議席を獲得しました。この選挙に対して、国軍が支持する連邦団結発展党(USDP)は不正であると抗議し、ついにクーデターを起こして国家権力を掌握しました。

 クーデターによる政権奪取に対して、NLD所属の一部議員らが国民統一政府(NUG)を設立し、少数民族とともに抵抗運動を続け、また多くの人々が抗議デモを行っています。国軍側はこの抗議活動を軍事力によって弾圧し、少数民族に対しても軍事行動を展開しています。クーデター以降、2000人以上の市民が虐殺されたといいます。また、今年7月、民主活動家4人の死刑が執行されました。

 日本政府は、ミャンマーの軍事政権を承認していません。しかし、日本の外交姿勢に対してミャンマー国民から批判の声も挙がっています。欧米諸国が国軍やその関連企業に対して標的制裁(targeted sanctions)を発動しましたが、日本は厳しい措置をとらず、むしろ「独自のパイプ」をいかして国軍幹部にも働きかけを行うとしたからです。また、日本がミャンマーに供与しているODA(政府開発援助)について、クーデター後も実施中の案件を継続しました。さらに、ODAによる建設事業の一部が国軍関連企業に発注されていたこともわかりました。ミャンマーの人々の批判は、国軍関連企業とビジネスをしていた日本企業にも向けられています。

 今年2月24日に始まったロシアによるウクライナ侵攻をめぐる報道によって、ミャンマーへの関心はかなり低下したように感じます。けれどもイエズス会アジア太平洋地域上級長上協議会とそのもとにある移民難民委員会は、7月に開催された会議において、ミャンマーの状況を緊急かつ最優先事項ととらえ、さまざまな角度からミャンマー支援を考察しました。その中で、イエズス会ミャンマー地区長Girish Santiago神父が上級長上協議会と委員会に行った提案、およびミャンマーからのある難民の声の要約を記載することにしました。また今後、イエズス会社会司牧センターや下関労働教育センターなどの活動を通して、ミャンマーに関する情報発信や支援活動を展開していきたいと思います。

ミャンマーからの難民の声

 2021年2月1日以降の、私の故郷、ミャンマーの状況について共有したいと思います。私の個人的経験は、自分の町にいる時に始まりました。人々は町から避難するために準備をしていました。そのため、日曜日のミサに教会に行くことができませんでした。

 娘から町を出るように言われた私は、自分の町から20キロほど離れた村に逃げました。私が到着した時には、すでに300人ほどがその小さな村に避難してきていました。難民を収容する場所を作るために会議を招集し、チームを作りました。それは混乱の始まりの頃だったので、その後次々と避難者が村に到着しました。何日か経って、ようやく事態が安定しました。私たちは、受け入れてくれる村があったので幸運でした。

 クーデターから1か月が経って、家に戻りました。家に居る間にも、国軍と地元の抵抗軍の戦いが断続的に続きました。家に帰るなという命令が出ていました。パンデミックがその地域で起こりました。ある団体のサポートが得られたので、私たちは幸運でした。その団体に、この場を借りてお礼を言いたいと思います。

 2021年11月には、身を寄せていた村に軍から圧力がかかったため、別の村に避難することを強いられました。村の家の多くが今に至るまで破壊されたままです。私たちが追い立てられて次の村にたどり着いた時、そこにはすでに何千人もの人たちがいました。6千人の人々は、そのほとんどが女性、子ども、そしてお年寄りでした。そのため、私たちが入る余地はありませんでした。私たちは他の人たちのように逃げることもできず、家に留まることもできませんでした。

 私は地元の町に安全な場所を探しましたが、12月の終わりには町で激しい戦闘が起こりました。特に、2022年1月8日には町の南側の地区で非常に激しい戦闘が勃発しました。何千人もの市民が町から避難しました。私と私の家族は救援部隊によって1月9日に避難させられました。その時から、3か月以上、今いる場所に留まっています。私は一時的に支援してくれる友人がいます。しかし、今私とともにいる家族は5人だけです。娘たちと孫たちの幾人かは別の場所におり、彼らのことが非常に心配です。私がここにいる間にも、私の元いた町では戦闘が続いています。

 これらが私の経験です。私たちは数日から数週間、物資に事欠いていましたが、私たちを迎えてくれた村では、家や物資を分けてくれます。彼らは、このような時には忍耐強くいることが重要であると教えてくれます。私はたまたま、この聖週間に人々が何をしているか聞きました。若者たちが子どもたちにカテキズムや読み書きを教えているのです。状況が許す限り、移動しながら活動するそうです。

 この間、他にも多くの試練に直面しました。特に食料や水の不足は深刻でした。町が封鎖されたため、ほとんど何の薬も手に入りませんでした。もし手に入るようなことがあっても、食料や薬の値段が跳ね上がっていました。事態を悪化させたのは、人々の収入が途絶えたことで、家族の必要に応えられなくなったことでした。社会の中で弱い立場に置かれた家庭、女性たちは特に苦境に立たされました。

 また、地域でコロナウィルス感染症が蔓延することも懸念の一つでした。一度は地域全体で大流行しました。自分たちで自分たちの世話をしなければならなくなり、難民キャンプでは、家族に必要なものも手に入りませんでした。生活用品などは通常の2倍の値段になりました。インターネットや電話も使えなくなりました。

 IDP(国内避難民)の安全確保の重要性を特に強調したいと思います。多くのお年寄り、特に女性は、トラウマを受けました。私の妻も、今の村に来るまで、トラウマゆえに昼も夜も眠れなくなりました。私たちは、安全と、家に帰るための見込みあるアプローチを必要としています。今特に必要としているのは、国内避難民のための安全な場です。今、私たちにとってそんな場所はどこにもありません。

 そして食料も必要です。雑草とトウモロコシをスープにしている人たちがいるほどです。薬も手に入りません。復興プログラムも必要です。家々は破壊され、収入の目途も立たないからです。子どもたちは1年半教育を受けていない状態ですから、彼らへの教育支援も必要です。

 誰が指導権を握るとしても、人権を尊重してほしいのです。そして、パンデミックに備えてコロナウィルスのワクチン接種を早急に必要としています。田舎の人たちは接種が受けられていません。また、願わくは、国内避難民のために、やり甲斐のある就業機会も用意してほしいと思っています。今は難民キャンプや避難先で、みんな仕事を失った状態なのですから。

フランシスコ教皇のカナダ訪問と謝罪を見て

デイビット マッキントッシュ
マイノリティ宣教センター共同主事

 今年の7月24~29日に、フランシスコ教皇がカナダを初訪問しました。以前にもヨハネ・パウロ2世が教皇として3度カナダを訪れましたが、いずれの訪問でもカナダの先住民の代表と会い、その長い歴史や豊かな文化について言及するとともに、先住権・自治権・解放などのテーマにも触れて先住民の尊厳を称えつつ、彼らのキリスト者としての信仰と歩みを奨励しました。

 昨年夏、カナダ西部のカムループス市に今も残る「Indian Residential School」(インディアン寄宿学校)旧校舎の敷地内に、何の墓標もなく215体の子どもの遺体が埋められていたことが発見され、カナダ内外に大きな衝撃を与えました。日本でも、そのニュースを見た方は多いと思います。その後、他にもいくつかの寄宿学校跡で遺体が確認されています。

 「インディアン寄宿学校」とは、カナダ独立(1867年)の40年ほど前から、「キリストを知らない者を主に導く」との宣教概念の下で教会が、1883年からは先住民に対する国の同化政策の下で、約15万人の子どもたちを親・故郷から引き離して「教育」した学校網のことです。全国通算130箇所に設けられ、最も盛んだった1930年代には、全国の先住民の7〜15歳の子どもの4人に3人が寄宿学校に送られました。

 「在学中に自分のことば(英語・仏語以外の言語)を話すと体罰を受け、辛くなって家に帰ろうと逃げ出せば、更に酷い罰を受けた。」「ある友だちが逃げた後、二度とその姿を見なかった。」このような証言に加え、性的虐待の証言も多く残されています。栄養失調や病気を含めると、寄宿学校で幼くして亡くなった子どもの数は、確認できるだけでも6000人と言われています。この寄宿学校制度は、「文明化」と「教育」の名の下で、最後の一校が扉を閉めた1997年まで続きました。カムループスの発見は、寄宿学校における子どもたちへの虐待や死について知っていた人さえもが、よろめくような衝撃でした。

 寄宿学校制度が個人に、家族に、コミュニティに、次世代に負わせた痛みと傷跡は、あらゆる形で今にも及びます。例えば、カナダの先住民の自殺率は、カナダ総人口平均の4~5倍です。北方のイヌイットの間では11倍、ある地域に住むコミュニティでは40倍のところさえあります。この差のすべてが寄宿学校のせいとは言えません。しかし全国の先住民が数世代にわたり体験してきた差別・蔑視・周縁化・文化の破壊、尊厳と権利の侵害がすべて凝縮され、子どもたちに押し付けられた場が寄宿学校だったと理解すれば、法制上の差別はおおよそ消えた今も残る数々の格差の大きな要因の一つであることは確かです。

 寄宿学校を支え、そこで働いた人々は、個々人が虐待行為をしたか否かにかかわらず、植民地政策と白人至上主義に加担していたと言わざるを得ません。これら寄宿学校の大半は、カトリック教会と聖公会が運営し(政府直営学校を除いた数の約3/5と1/4)、残りは長老教会とメソジスト教会(1925年の「合同」後は、カナダ合同教会)が運営していました。カムループス寄宿学校は、1978年までカトリック教会が運営していたものです。

 今日これらの教会につながる者は、大抵、「カナダのジェノサイド」の罪の責任を負うとの自覚があります。この罪を神と先住民の兄弟姉妹の前に告白し、癒しと和解に向けて歩むべき道を当事者とともに模索することを約束する謝罪は、1986年にカナダ合同教会が(これは「植民地主義」に加担したことへの謝罪)、1993年には聖公会が、翌1994年にはカナダ長老教会が寄宿学校について謝罪し、1998年には再び合同教会が寄宿学校に特化した謝罪をしました。

 カトリック教会も1991年に、カナダ司教協議会と、最も多くの学校を運営したカナダ・オブレート会が謝罪をしました。しかしその謝罪が教会の頭である教皇によるものではなかったことを問題視する先住民や人権活動家は多く、カナダ政府が2006〜2015年に行った先住民問題の「真実と和解委員会」でもこのことが課題となりました。これを受けて2017年には、カトリック信者でもあるジャスティン・トルドー首相が教皇に対し、カナダを訪れて先住民の地で謝罪をするよう求めました。これに応える訪問が実現しないうちに昨年のカムループスの発見と衝撃が起きたため、カトリック教会および教皇への批判が一気に高まりました。

 これにどう応じるべきか、きっとこの頃にはカナダの司教協議会、バチカン、先住民の指導者、寄宿学校の生存者の間で盛んに意見が交わされたことでしょう。そして昨年秋に、カナダのカトリック司教協議会が寄宿学校に特化した謝罪文を出し、今年3月にはカナダ先住民会議の代表団と、寄宿学校の被害者や子孫、あわせて30名ほどがバチカンを訪れ、フランシスコ教皇と面会しました。代表団、当事者と対談した上で、そこで初めて教皇の口から謝罪の言葉が語られたわけです。これらのステップを経て、今年7月の教皇のカナダ訪問が実現しました。

 私は、今年の6月半ばから7月前半にかけて、3年ぶりに母国カナダに帰国しましたが、私がつながる長老教会・合同教会の方と会うたびに、「教皇がこの歴史的な訪問でどのような言葉を語るのだろう」と話題になりました。今回の訪問で最重要課題となる寄宿学校の問題は、これまで3回の教皇訪問では全く触れられなかったという事実もあり、教会関係者、各地の先住民、一般のメディアからは、期待と悲観が交互に聞こえてくる、そのような時でした。

 今回のカナダ訪問は、おそらくフランシスコ教皇の健康と体力を鑑みて、エドモントンとケベックの2都市だけを拠点としました。それぞれの地で大規模なミサが行われましたが、最も注目されたのは、先住民との出会いの場と、そこで語られた教皇の言葉でした。教皇がどのような心と姿勢で今回カナダを訪れたかは、エドモントン到着の翌日、そこから80キロ南にあるマスクワシス先住民居住区で開かれた集会で語った挨拶の中で簡潔に表明されました。

寄宿学校から帰らなかった子どもたちの名を記したバナーを前に、祈りと祝福を捧げるフランシスコ教皇

「今日、私はここ、太古の記憶とともに、まだ開かれたまま傷跡が残されているこの土地にいます。私がここにいるのは、あなたがたの間での悔い改めの巡礼の第一歩が、再び赦しを請い、深くお詫びすることであるからです。私が謝罪するのは、多くのキリスト教徒が、残念なことに、先住民族を抑圧する植民地化の考え方をあらゆる方法で支持したことです。お詫びいたします。特に、寄宿学校制度を生んだ当時の政府によって促進された文化的破壊と強制同化の政策に、教会と宗教共同体の多くのメンバーが協力したことについて、赦しを請います。」

 数多くの先住民コミュニティから招待を受けた教皇は、特に今回の訪問の大きな動機となったカムループスを訪問地に選ばなかったことについて批判の声が上がっていたことに対し、次のようにも述べました。

「それ(招かれたすべての地を訪問すること)は不可能ではありますが、私の想いと祈りの中に皆さんがいることを知っておいてください。私は、この国のあらゆる地域で先住民族が経験した苦しみとトラウマ、困難と課題を認識していることを知っておいてください。この悔い改めの旅で私が話す言葉は、すべての先住民のコミュニティと人びとに向けられたものです。愛情を込めて皆さんを抱きしめます。」

 教皇はまた、「悪」とも呼んだ寄宿学校制度について、「深い恥と悲しみを感じている」と個人の想いを度々述べ、植民地主義と同化政策への加担については、教会の頭として、「教会の名の下で二度とこのようなことが起こらないように」と悔い改めの言葉を語りました。そして、これから和解に向かう歩みについて、次のように述べました。

「私は、この国のキリスト教徒と市民社会が、先住民族のアイデンティティと経験を受け入れ、尊重できるようになることを信じ、祈っています。すべての人が共に歩むことを学べるように、これらの人々がよりよく知られ、尊敬されるようにするための具体的な方法が見出されることを願っています。私としては、引き続き、先住民族を支援するすべてのカトリック信者の努力を奨励していきます。これには時間と忍耐が必要であることを理解しています。人の心を貫くようなプロセスが求められます。私がここにいること、そしてカナダの司教たちの決意は、この道をたゆまず歩む私たちの意志の証です。」

 教皇のカナダ訪問と謝罪の言葉がカナダ各地の先住民にとってどれだけ必要なものだったのか、その訪問を見て深く実感しました。フランシスコ教皇の謝罪が心からのものであり、また歴史的なものであったことは確かであり、先住民を含む大半のカナダ人がそれを認め、評価したようです。

 しかし同時に、「教会の数多くの子たちの先住民に対する罪」と表現して、一つの体、一つの組織としての教会の責任告白には不十分であるとの批判や、カナダでも長らく議論されてきた聖職者による女性・子どもへの性的虐待の問題については、今回の訪問で語られなかったことについても、不満の声が残されています。カナダ政府や他の教会と同様に、カトリック教会も、謝罪の後にどのような行動を取るのか、これからもなお注目されます。罪から癒しと和解へと通じる道のりは、教皇が述べた通り、時間と忍耐を要する長いものです。「…だとしても、長く待たずにできることがある」との声にも頷かされます。バチカンに残されているであろう寄宿学校関連史料の閲覧を先住民や研究者に許すことは、その一つでしょう。

 最後に、私がこの夏カナダに帰国した時の話をもう一つします。7月1日には、カナダが155年前に英国から独立した日を祝う「カナダ・デー」がありました。私はここ10年以上日本に住んでいるため、カナダでこの日を迎えるのは実に11年ぶりでした。かつてこの日は、英国からの「独立」と、英・仏系カナダ人による「開拓」と、先住民を含む「多文化共生」を祝う日でしたが、今年は違いました。先にも触れた2006~15年の「真実と和解委員会」以来、カナダ各地でその地域に住むFirst Nation(先住民)がカナダ・デー式典の企画に積極的に関わるようになり、この日のテーマが過去の「入植者が創った国を共に祝おう」から、「先住民も祝える国を共に創ろう」へと大きく変わっていました。

 バンクーバー市中心街の歩行者天国に設けられた大ステージでは、様々な移民コミュニティの歌や踊りが披露されましたが、最も印象に残ったのは、先住民の出演者が登場する前に舞台に立った地元グァワエヌク族の首長、ロバート・ジョセフさんの言葉です。 「どうぞ皆さんも、(真実と和解委員会から出た)『94の行動への呼びかけ』などを読んで、和解のために自分が居る場所でできることを考えてください。和解は、あなたから始まるのです。和解をあなたの生活の中にも取り入れてください。」

 その3週後に、カナダを訪れたフランシスコ教皇が似たメッセージを語りました。主よ、キリスト者として、一市民として、不義の罪を負うものとして、意志を持って和解に努める者とさせてください。アーメン。

日韓青年平和フォーラム2022に参加して

朴 未有
大学生

 私は2022年8月22日から26日まで、韓国の坡州〈パジュ〉市とソウルで行われた日韓青年平和フォーラムに参加しました。主催団体の「日韓和解と平和プラットフォーム」は、歴史を正しく直視し記憶を共有しながら、互いの多様性を認めつつ、真実の和解と、核兵器や武力によらない平和を願って、日韓の市民と宗教者が共に集い、語り合い、交流し、また社会に向かってメッセージを発することを目的としたフォーラムです。

 このプログラムに参加しようと思ったきっかけは、日本と韓国の関係と歴史を自分の目でみて感じ、学びたいと考えたからです。日本で暮らしていると、特に日韓関係の歴史に関する本以外の情報を日本語で得ることが難しく、韓国語が分からない私は知ることが困難でした。また、情報が錯綜しているため、何も知らない状態で探してしまうと、正しい情報の判断がより困難であり、さらにパンデミックの影響により国同士で自由に行き来ができない中で、交流すらも難しい状況でした。そんな中でこのフォーラムを開催していただき、そして無事に参加できたことは、私の人生に大きな影響を与えました。

 ここで個人的な話になってしまうのですが、私は生まれた国、国籍、住んでいる国が全て異なります。韓国国籍なのですが、日本での暮らしでは通名を名乗り、日本語で話していたため、周囲の人たちからは日本人と思われ、そう扱われていました。国籍が韓国でありながら、朝鮮学校に通うこともなく日本の教育を受け、韓国コミュニティに属することも大学に入るまでは一切ありませんでした。

 このように、自分のルーツがたくさんあるのだとぼんやりとだけ考えていた私が、選挙権がどこの国にもないことを知ったのは浪人生の時でした。当時の私は、親戚に会いにいくことと、K-POPが好きなこと、そして家で食べる料理に韓国料理が多いこと以外には、韓国との関わりがありませんでした。アメリカではアメリカで生まれた人にはアメリカ国籍が与えられたり、イギリスでは出生してから10年以上暮らすと市民権を申請できたりすることなどをちょっとした知識でのみ知っていました。政治についてもやっと関心を持ち始めた頃で、日本では選挙権年齢が18歳にまで引き下げられ、周囲の友人たちも意識していたこともあり、私の選挙権はどこにあるのだろうとワクワクしていました。もしかして、私のルーツのある国全てにあるのかもという期待までしていました。

 その後に父に聞いた言葉は「私たちの家族の誰も、選挙権はどこにもない」というものでした。自分の意見で何も変えることができない、その資格がない、居場所がないのだという気持ちになりました。時代によって制度が変化したのかもとそれぞれの国の制度を調べて、それでも結局どこにもないことを改めて知り、人知れず涙したことが今でも記憶に残っています。

特に印象深かった二日目の最初のワークショップでは、「若者から見た日本社会の歴史認識の現状」について話しあい、質疑応答の時間がありました。中でも、日本の教育を受けた在日韓国人の視点として、また若者としてという両方の視点を持って参加することができた時間はとても有意義でした。

 日本の教育を受けた在日韓国人の視点では、「物心ついた頃から周囲の差別と無理解に常に怯えながら、時に自分のアイデンティティを隠しながら生活しなければならず、そのため自分自身の存在について否定的になってしまう」というお話が特に自分と重なりました。私が韓国籍であると知られた場合には質問され、それに答えることを求められます。また、両親の世代は、韓国や在日韓国人に対する悪いイメージがあり、平気で日本人より劣っていると言う人がまだいます。

 今、目の前で楽しく話している友人が私の国籍を知った時、それでも今までと同じように仲良くしてくれるとは限りませんし、仕事相手も同様に、またこれからも今までと同じような関係で仕事をしてくれるか分からないのです。そのくらい不安になるようなことで、デリケートなことであるにもかかわらず、信頼して伝えた相手に、勝手に自分の国籍のことを話されてしまうこともあります。知られると生きづらくなってしまうなどの懸念があるから信頼して話したことを、理解が乏しいゆえに簡単に心を潰されてしまいます。このワークショップでそのモヤモヤを言語化していただいたことにより、避けるのではなく向き合うことに意識が向きました。

 若者としての視点からは、歴史を語ること自体がタブー視されていることにより、関心の向けづらさや、それを人に話せないことによってより離れてしまうということが挙げられていました。一緒に参加した友人と後から話したことなのですが、今回のプログラムで学んだような内容を日本で歴史を学んだ際、日本史を選択しても世界史を選択しても、日韓の歴史については深く学びませんでした。そのため、関心を持って熱心に調べない限りはインターネットによる記事などが情報源となってしまい、「韓国そして韓国の人は日本が嫌いなのである」といった偏ったイメージを持ってしまうのではないかと考えました。

 2000年代の韓流ブームののち、ここ数年では、若者を中心にK-POPに関心を持つ人が増え、韓国人もしくは在日韓国人に対する関心を持つ人が増えていますが、そこから反差別のための行動に繋げることができないという点は、どちらの視点からも問題視すべきことだと考えました。

 三日目、戦争と女性の人権博物館に行き、水曜デモに参加しました。戦争と女性の人権博物館は、日本軍性奴隷制生存者たちが経験した歴史を記憶・教育する場で、アートなどで表現されていて、より近くでハルモニたちを感じました。戦時性暴力という、今もなお続く問題と向き合うきっかけとなり、自分が世界で行われている戦争と紛争の動向を知ることができていないことを再認識しました。

 水曜デモでは、韓国の立場としては、日韓関係だけでなく、広く東アジアの連帯と平和を望んで訴えていることなのであると知り、自分のルーツとは直接関係のない国にも目を向けて考えるという、私自身にできていなかったことの重要性を知りました。今もなお、苦しみ続けている人がいるという現実と、その人たちの心に寄り添い続けるだけでなく、きちんと名誉と人権回復を達成するために連帯するべきです。そのために私たち若者の世代が歴史を知り、訴えに耳を傾け、そして行動に移すことが不可欠です。この水曜デモへの参加は、特に日本側の若者の参加者にとって、政治や歴史に関する自分の意見を持ってはいけない、もしくは話してはいけないように感じられる日本での風潮から、自分の意見を持っても良い、言っても良いのだと気づくことができ、救いになりました。

 三日目の日韓青年が願う「私たちの未来」のミーティングは、上で述べたような自分のルーツとアイデンティティから起きた苦しみと葛藤について、今回の旅で同じグループの参加者に初めて話した場所でした。私は日本にいる時は、説明することに対して毎度ストレスを感じていました。いくら説明しても理解されなかったり、信頼して話しても大勢の前で暴露されたりした経験もありました。そこから自分のルーツやアイデンティティについて話すことを避けるようになりました。しかし、日韓青年平和フォーラム2022に参加して、私の葛藤を理解しながらも、在日韓国人という「特異な」存在ではなく、ありのままの私と気持ちを理解しようとしてくださる素敵な方々と出会いました。

 「社会問題との向き合い方」や「在日韓国人」についてすごく葛藤しているときの私に、こんなに素晴らしい出会いができたことを伝えてあげたいです。孤独を感じてきたことが多かったので、今回温かい方達に出会うことができて、傷ついた心が、諦めや放棄による一時的なものではなく、本当の根本から癒されたような気持ちになりました。

 この素晴らしい旅と出会いが、今後も東アジアの平和のための連帯が続いていき、実を結ぶことを願っています。

 最後に、企画運営してくださった全ての方々と、この旅で出会えたたくさんの青年たちに感謝申し上げます。

ベトナムへの支援 : 現状を踏まえて将来を創る

平井 裕
ジャパ・ベトナムスタッフ/ダイナミック コー・クリエーション代表

 ジャパ・ベトナムは今夏ようやく、二年ぶりの訪問ツアーを実施した。支援をしているホーチミンの近郊の3地域は、車で片道数時間かかる農村地域にあり、そこに住む人々は、日々の生活に困っていて、また見るからに貧しく、人間的な生活を送るのに不十分な環境にある。少数民族の子供が生活する寄宿施設のあるロンディエン、メコンデルタの端にあたり雨季には道路まで水が溢れるベンチェ、それからカンボジアからのベトナム難民が暮らす湖畔地域のタドウである。

 生活環境という観点で、3つの地域はいずれも、飲料水の水質の課題を抱えている。都市部では上水道は飲料として使わず、濾過した水を買う。しかしながら農村部では、浄水池からの水は飲料に不適当であるがやむを得ず飲んでいたり、雨水を利用したりする。メコン地域では、井戸水は不純物による汚染もあり、メコン川の水は水量不足で海水が逆流するために塩分が多く、飲料水としては適さない。一昨年、ベンチェの小学校にベトナム製(カラムは日本製)の浄水装置を寄贈し、設置した。今回、学校の努力でその装置がきちんと稼働していることを確認できたことは収穫であった。上水道がそんなものだから、下水道については推して知るべしである。

ベンチェの支援先:小学校の浄水装置 

 ベトナムの課題の一つは衛生問題である。今回、コロナの蔓延で、衛生的な課題についてかなりの人々が気付いて、これまでの生活習慣を見直しただろう。果たして今までの習慣を変えることができただろうか。日本人の衛生観念は強く、普段から清潔にすることに気遣っている。企業教育に出てくる5S(整理、整頓、清掃、清潔、躾)にも“清潔”が登場している。ただ、外と家の境界がない、裸足もいとわない生活では、かなりの苦労をして清潔を保っている。手洗いの習慣も日本ほどないので、より一層の保健衛生教育が望まれ、また将来の未病対策に繋がる食生活の改善教育も課題である。

 さて、今回のコロナで、生活が大きく変わらざるを得なくなり、そのために仕事も暮らしも大きく変わったことは、ベトナムも同じである。都市部で生活ができなくなり、実家のある農村部への人口移動があり、都市に戻ってこない状況がある。ホーチミンでは、観光業が大きな打撃を受けて、多くの中小ホテルが廃業、または新規に資本の投下を受けている。

 一方で不動産業は相変わらず順調のようで、それを支えているのが富裕層である。2021年におけるベトナムの上位1%の富裕層が保有する個人資産は、全国の個人資産全体の26.5%を占めている。また、上位10%の富裕層が保有する個人資産が、全国の個人資産の59%を占めた(ワールド・インイクオリティ・データベース2021より)。ただ、アジア諸外国と比べて、まだ富裕層と貧困層の差が大きくない状況であり、富裕層が今後増加して行った時にどう社会が変わっていくかである。10%の富裕層が大きくキャスティングボートを握っていると言える。富裕層の社会貢献意識は日本より高い。

 コロナが終結した街にでてみると、ほとんど感染距離も気にせずマスクをせずに会話し、飲食店も繁盛している。外食の習慣が多いベトナム人は、食事・カフェ等に充てる費用が多い。ショッピングモールも新しくできて、そこで見る光景は、開発途上国とは言えない様子である。

 ベトナムの教育制度は義務教育が9年、大学進学率が増加していて現在は28%以上と言われている。実利を求める教育が中心で学費も高いが、親は子供のために教育への資金投下に糸目をつけない。学歴社会でもあるからだ。塾・スポーツ・習い事も盛んになってきている。ただ、大学で身に着けた知識や技術、能力を活かせる場がない、仕事がない状況である。

 一方で、大学にいけない若い層が、労働報酬と経験を求めて海外に出る傾向も増えている。日本がその受け皿として設けているのが“技能実習生制度”であり、今多くの問題を抱えている労働制度である。ホーチミンの賃金が高くなって、安い労働力の補填として考える国には行かない傾向も出てきていることで、日本よりは韓国、欧米の選択が増えていると聞く。

ロンディエンの子供達 

大学卒レベルでの日本での就職希望者が多いことは、日本を理解してくれる人を増やすという意味で望ましい。大学入学を目指した日本語教育熱は依然として高いが、日本語の習得の困難さと、日本での受け入れ態勢の不備、不十分な奨学金で他国に負けている。移民ではないと言いながら、無し崩し的に外国人人材を日本に入れていく傾向が大きくなっている。これは、

日本の経済を成り立たせるだけの人材が、日本から得られないということが大きな要因である。日本は大昔から海外人材を登用し、同化させながら、日本文化を作ってきた経緯がある。今はそれがあまりにも急激に起こり、文化が破壊されるのではないかとの危惧を呈する人もいる。一方、日本経済の停滞を、労働力の面からだけでなく、意欲のある人材で活性化を図れるのではないかとの期待もある。

ベトナムは基本的には農業国で、国民の約5割が農業従事者である。GDP全体の約14%を農林水産業が占めていて、輸出も約16%、米・コーヒー・トウモロコシ・ゴムなどが輸出額で高順位を占め、アグリテックで農業の高度化を狙うも、品質・技術の未熟、機械化・付加価値化で遅れている。地方に行くとその豊かさが確かに感じとれる。温暖な気候で、苦労が少なくても作物を収穫でき、食べていけるベトナムは、過酷な気候と災害が多い日本と異なる。そのためか、大学で農学を学ぶ学生も多いはずなのだが、日本の様な農業改善をしようとする体制があまり見えない。

一方でベトナム人の新しいことに挑戦する姿勢は日本を凌駕するものがある。大学卒で就職しても3年くらいで職を変える、それも関連しない職に就くことも多く、こだわりがあまりない。総じてベンチャー精神が旺盛で、起業も多いがうまくいくケースが少ない。近視眼的で先の将来を見通した計画性があまりないことに起因する。今回のベトナム滞在で、新規の起業家に出会い、ベトナムのチャレンジ精神を垣間見た。ローカルな植物を活用した蚊取り線香づくり、サプリメント“霊芝”の新しい製法と製品化、プール製造会社の水泳教室経営、若い事業家のプランテーションづくり、アセロラの栽培農家などである。

以上のことを踏まえて、ベトナム支援の新たな視点としては次の様なことが考えられる。貧困から脱却し、果ては国際的にも活躍できる“人財”創りにはやはり教育が必須である。地方の学校への支援を継続し、そこで日本語・英語教育のボランティアなども可能かと思う。富める者・国から優秀な子供達・学生への奨学金を支給すること。大学教育の詰込みや幼児教育の知育偏重を鑑みて、“自分で考えて、計画を立てる”ための教育と、人生・将来設計の相談機関を設けること。また日本の技術・知識と同時に日本の文化を学ぶための留学制度を作ること。逆に日本人にベトナムやその文化を知ってもらう機会を作ることなどがあげられる。

子供の教育の視点では、ジャパ・ベトナムのメンバーのアイデアで、小学生の日系企業の見学ツアーを検討している。こと教育に関しては、社会主義国ゆえの制限がかかる現実がある。困っている人達に対しての支援は、どうしても日常の生活の支援(食費、生活費、学習費、医療費等)になるのは否めない。ベトナムはHIV/AIDSへの対策が十分ではないので、これは継続する必要がある。よく言われることなのだが、支援は“魚より釣り道具”が望ましい。すなわち、仕事をつくり、自分達で自活・自立できるようにすることが理想であるが、そのアイデアを日本からも提案して行きたい。ビジネス創成が盛んなベトナムだから、日本が協力して地道な仕事づくりをしていくべきだと考える。