都市再開発による野宿者排除の中での渋谷の野宿者の越年

下川 雅嗣 SJ
渋谷・野宿者の生存と生活をかちとる自由連合 (のじれん)


 この25年間、年末年始は渋谷の公園にいて、野宿者と一緒に年越しをしている。渋谷野宿者越年越冬闘争である。「闘争」という激しい言葉を使っているのは、野宿者(野宿の仲間)にとって、極寒の冬を越すこと、そして役所も閉まり、日雇的な仕事がなくなる年末年始を過ぎ越すことが、如何に難しいかを示すためであり、仲間にとっては生き延びるための「闘い」だからである。

 今年は、寒さはさほど厳しくなかったが、野宿の仲間の居場所という意味では、厳しい闘いだった。というのは、25年間「のじれん」の共同炊事(炊き出し)の拠点だった美竹公園が、2022年10月25日に封鎖され、それ以降、渋谷区による野宿者排除の嵐が吹き荒れ、越年闘争の拠点となる場所が維持できるかどうかさえ怪しかったからである。結論から言うと、この越年期間(12月28日~1月4日)、仲間の命が一人も奪われることなく、全員で生き延びた。以下、年末に渋谷において、どのような野宿者排除が行われたのか、そしてどのような越年だったのかをまとめてみる。

美竹公園での排除

 美竹公園および隣接する公有地は、東京都・渋谷区共同の再開発事業である「渋谷1丁目地区共同開発事業」の対象となっている。これは、約1万平米を渋谷区・東京都がヒューリックと清水建設に70年間貸し出し、施設を建設・運営させる計画である。かつての児童会館跡地、渋谷区分庁舎跡地には14階建てのオフィスビルが建てられる予定である。美竹公園の部分は、地下を掘ってホールをつくり、土をかぶせた地上の部分が、あらたな「美竹公園」に指定される、ということになっている。つまり、公共施設が、営利目的のオフィスビルとなり、「美竹公園」は単なるビル前広場とされてしまう都市再開発計画である。

 再開発にかかわる工事は、2023年度4月以降から行われるというのが渋谷区による説明だったが、2022年10月25日(火)早朝6時半、渋谷区は100人程度の区職員、警備員を導入して、突然の美竹公園の封鎖を強行した。封鎖は当時公園に起居していた6名の野宿者に対して一切の予告なく行われた。さらに職員は、公園の出入り口を締め切ると同時に、トイレと水道を使えなくした。野宿の仲間の抗議を渋谷区職員は無視し、封鎖作業が終わった段階で、「トイレが使いたければ公園を出てくれ。公園を出たら、もう入らせない」と言い放った。身体的・精神的苦痛をもちいて追い出しを行おうとする、とんでもない拷問であり、人権侵害である。

 美竹公園に起居する野宿の仲間のがんばり、および応援に集まった人たちの18時間にわたる抗議と数度にわたる交渉の末、日付が変わった頃にようやく公園出入り口のひとつの開錠をかちとった。以降一か月半の間、美竹公園は出入りができる状態が維持され、「のじれん」による共同炊事も12月10日(土)まで実施された。

 10月26日以降、美竹公園に起居していた野宿の仲間および「ねる会議」等は、渋谷区との話し合いを求めていたが、渋谷区は話し合いをズルズルと引き延ばし、その間に行政代執行による追い出しの手続きを始めた。さらに、ようやく話し合いに応じても、「福祉的アプローチを利用しろ」と繰り返すばかりだった。

 これでは進展の見込みが無いとの判断から、美竹公園に起居していた仲間は、行政代執行による追い出しの第3段階である「戒告」における荷物の撤去期日前日であった12月14日までに美竹公園から出て、近隣の区立神宮通公園(北側)に移っていた。予想通り、12月14日の午前8時、渋谷区は、予告なしに数十人~百人規模の渋谷区職員、警備員を動員して、美竹公園の再封鎖(仮囲い設置)を行った。

神宮通公園での排除

 さらに12月14日午後4時ごろ、神宮通公園(北側)に渋谷区公園課長ほか数名がやってきて、美竹公園から移ってきた仲間の荷物を移動するように、また神宮通公園(北側)が利用禁止になっている旨を連呼した。これに仲間と支援者が対応している間に、別の入口から数十人の渋谷区職員、警備員が公園内に入って人垣を作り、仲間と支援者が、荷物のある場所に戻れないようにした。その上で渋谷区職員は、公園内の荷物の撤去、運び出しを始めた。運び出した荷物はトラックに積み込まれ、移送された。その間に警備員の人垣は、仲間と支援者を取り囲む形で狭められ、最終的には10メートル四方程度の一角に拘束される状態になった。荷物の持ち主が目の前にいて、所有者であることを主張していたにもかかわらず、渋谷区は、すべての荷物を「所有者不明」として持ち去ったのである。

 拘束されていた人たちは身につけていたもの以外何もない状態で、したがって寝場所がない、毛布もない、靴も上着もメガネもない、持病の薬が飲めない、翌日の仕事に行けないといった状態で取り残された。このような暴挙は言うまでもなく命を直接的な危険にさらすものである。この強制撤去は、なんら法的根拠にもとづかない違法なもので、ただの暴力による強制、強奪であった。

 翌日以降、粘り強い交渉の結果、荷物の大部分は取り戻し、12月17日、24日は、「のじれん」による共同炊事も神宮通公園(北側)で実施された。しかし、公園の利用禁止は続き、起居している仲間を威嚇するように警備員が配置されていて、そのような不安定な緊張状態の中で越年闘争が始まったのである。

なぜ公園が必要なのか

 この一連の間、渋谷区はHPなどでしきりに、ホームレスに「福祉的アプローチ」や「ハウジングファースト事業」を勧めていると広報していた。この問題性について少し説明しておこう。

 ある程度長く野宿している仲間には、過去に福祉課窓口でひどい対応をされた者、「貧困ビジネス」施設で不当な搾取や暴力を経験するなど福祉的アプローチを利用した際にひどい経験をした者、高齢であることや保証人がいないために生活保護を利用した場合でも施設以外に居宅の確保が難しい者、生活保護申請に際する親族への扶養照会を望まない者、就業していて生活保護基準を上回る収入があるが借金返済の必要があり困窮している者等がおり、「福祉的アプローチ」を利用できない人も多い。渋谷周辺の路上にいる私の知っている仲間は、ほとんどがそのような人たちである。

 さらに、渋谷区の「ハウジングファースト事業」の場合は、当該施設の利用期間は原則三か月のみであり、その先の保障はないにもかかわらず、既存のテント等の放棄を当人に誓約させる形で運用されている。短期の利用期間終了後に、生活保護や就労自立に至らず、路上に戻らざるを得ないことを憂慮した仲間が、その後の生活状況のさらなる悪化を懸念して、利用を躊躇するのは当然と言えよう。

 さらに、共同炊事の場としての公園の必要性、これらの支援活動の公的性格についても述べておく。これらの支援活動は、失業等による生活困窮の結果、公園や路上等で起居することを余儀なくされている人々が多数存在し、かつそれらの人の健康で文化的な最低限度の生活を営む権利が公的な諸施策を通じて十分に保障されていない状況、すなわち公助の欠如があるためである。また、現在の経済構造と政策が続く限り、野宿者は常に新しく生み出され続けている。

 彼らにとって共同炊事は生き延びるための鍵となる。まずは、生きるために必要な食事の場である。さらには、仲間どうしの交流・情報交換の場であり、この場を通して、他の炊き出しの場や寝場所、段ボール探しなど、路上で生き延びるコツの習得が可能となる。さらには、医療や生活保護などの福祉的アプローチにアクセスする経由地にもなるのである。また、「のじれん」の共同炊事では、「あげるーもらう」の関係ではなく、一緒に作り、一緒に食べ、片づけるなどもやっているので、崩された自尊意識や人への信頼の再構築にもなる(コロナ対策のために、どんぶり飯ではなくパック飯にして、一緒に食べるのではなく各自の場所に持って帰るとした時点で、この特徴はほぼ失われてしまっているが)。

 これらは本来、人権を保障すべき行政が行うべきことであるが、それが十分機能していないため、民間でやらざるを得ないので、公的性格があると言えよう。また、このためには、物理的な一定空間が必要となるので、公共空間で行うのは仕方がないとも言える。

2022-2023越年闘争とこれから

 越年開始時、美竹公園を封鎖され、神宮通公園(北)が利用禁止とされ、神宮通公園(南)しか開いていない状態だった。神宮通公園(南)は狭く、かつ人通りが多く、また水場もなく、炊事をするのが難しい場でもある。そのため、炊事作業は北側で行い、出来上がったものを南側で配食することになった。しかしながら、「あげるーもらう」関係の脱却という観点から考えると、北で作って南で配食するのは、あげる側ともらう側の完全な分断を意味して、単なる炊き出しになってしまっていたのは残念だった。だが、この公園の状況、およびコロナの状況下、これ以上の手は思いつかなかった。

 越年闘争は、具体的には、連日16時集合、打ち合わせの後、共同炊事、配食(18-19時)、寄り合い(18時半)、集団野営、パトロール(夜回り)を行った。配食は100~150人程度の仲間が集まった。毎晩、寝る場所のない新しい仲間に寝られると呼びかけ、10名弱が集団野営をした。夜回りは2つのコースに分かれ、60~80人程度に声をかけ、ビラやカイロを置いた。コロナを警戒して、多数が集まるイベントは、31日の紅白歌合戦上映、年越しそば、1月2日の「さすらい姉妹」の芝居上演のみに抑えた。

 越年闘争は終わったものの、越冬闘争はまだ続いている。また、冬が終わっても毎週の共同炊事や夜回りは、渋谷に野宿の仲間がいる以上、続けていかなければならない。しかしながら、2023年1月現在、まだ神宮通公園(北)は利用禁止の状態になっていて、神宮通公園(南)は狭いため、北側と南側に分断されたままの共同炊事が続いている。また、南側は目立つ場所なので、もう少し目立たない場所に集まりたいと思っている仲間も多い。野宿の仲間が安心して居られる、集まれる安定的な場所は未だ確保できておらず、いつ、さらなる追い出しが行われるかわからないという不安の中にある。これからも読者の皆さんの注視、支援をお願いしたい。

◆のじれんHP⇒ https://nojiren.wixsite.com/index

人間の苦悩から人間の希望へ~アフリカでの体験から~

ギスラン チケンドワ マタディ SJ
テイヤール・ド・シャルダンセンター (コンゴ民主共和国、ジュマ)

1. 個人的な体験、決定的な出会い

 修練院での2年間(1994-1996)、私はイエズス会が「実習」と呼ぶものの一環として、2か月間、さまざまな病院で過ごしました。そこで私は、患者さんだけでなく、その親族や医療スタッフとも出会い、素晴らしい体験に恵まれました。1997年から1999年までの3年間、聖ペトロ・カニジオ大学で哲学を学んでいたとき、私はキンシャサ大学で法律を学んでいたムボンボに出会いました。ムボンボの早すぎる死は、私に多くの問いを投げかけました。「なぜ、彼女なんだ? なぜ、この若くてかわいい女の子が、私の友人が?」と。

 それから私は、苦しみと死の謎を解き明かすために、その答えを探し始めました。一般的な苦しみや死についてではありません。ムボンボという、顔も物語も知っている具体的な人物の苦しみと死についてです。そして、彼女の苦しみと死によって生じた疑問は、多くの人々の苦しみと死へと広がっていきました。老若男女、黒人と白人、富裕層と貧困層など、自分の愛する人、友人がなぜ苦しみ死んでいくのかと、幾重にも思いを巡らせる人々についてです。この体験と疑問から、私の最初の本『苦しみを超えて ~ある患者の証言』が生まれました。初めて出版されたイタリア語版では、『神と人間の苦しみ ~ある患者の証言』というタイトルが付けられました。


 この最初の本がきっかけで、2冊目の本が生まれました。『苦しみ、信念、希望  エイズに苦しむアフリカのためのヨブの知恵』です。この本の特徴は、私がムボンボに触発された体験だけでなく、コロナウイルス感染症により、残念ながら影が薄くなっているHIV/エイズの流行という文脈で、ヨブ記を読み直した結果であることです。この2冊目の本は、フランス語とドイツ語で読むことができます。

 たとえコロナウイルス感染症が私たちを悩ませ悲しませたとしても、この手ごわい残酷なパンデミックに立ち向かうため、あらゆる方向から展開された感銘深く賞賛に値する努力もまた、同じ状況下で現れていることに目を向けましょう。このように、死と苦しみは決して最後の言葉にはならないことを示し、その無限の愛を示すため、神はその苦しみと死と復活によって私たちを贖ってくださったのです。

2. 希望と生命(いのち)の神学に向けて...

 私は、ムボンボや病人たちとの体験から、またHIV/エイズやコロナウイルス感染症のような伝染病の文脈でヨブ記を読み、黙想することによって、生命(いのち)と希望の社会学・神学を、次の4つの詳細に分類するに至りました。

2.1. 苦しむすべての人の尊厳を守る

 ヨブの苦しみは、彼が神の僕と見なされることを、最後まで妨げるものではありませんでした。それどころか、苦しみに向かう姿勢により、ヨブは優れた神学者であるだけでなく、強いとりなし手でありました。

しかし今、雄牛と雄羊を七頭ずつわたしの僕ヨブのところに引いて行き、自分のためにいけにえをささげれば、わたしの僕ヨブはお前たちのために祈ってくれるであろう。わたしはそれを受け入れる。お前たちはわたしの僕ヨブのようにわたしについて正しく語らなかったのだが、お前たちに罰を与えないことにしよう。 (ヨブ記42:8)

 病にある人の尊厳を守ることは、経験によって最もよく学べる価値観です。HIV/エイズやコロナウイルス感染症のようなパンデミックの時代には、感染者を拒絶し、軽蔑する誘惑があります。特にアフリカでは、十分な医療インフラが整っていないため、この危険は非常に大きいのです。

2.2. 奇跡や魔術の代わりに、医学を特に重視すること

 多くのアフリカ人は、あらゆる深刻な病気は魔術師によって引き起こされると信じています。特に、ムボンボのケースのように、若い人たちに病気が起こり、死に至る場合はなおさらなのです。そのような信仰は、人々が病気の本当の原因と闘うことの一助にはなり得ません。

 HIV/エイズやコロナウイルス感染症が、まさにそうなのです。多くの人々は、これらの大流行が魔術によって引き起こされ、魔術やあらゆる種類の呪文によって治すことができると考えているのです。生命の神学と社会学、そして生命の希望により、魔術に代わって、私たちが神から授かった、病気を治療するという人間の能力を主張しなければなりません。

 何世紀にもわたって、アフリカ人は実績のある医療行為を発展させてきました。しかし、魔術や呪術を信じるがゆえに、それ以上発展しない危険性があるのです。魔術師のようなスケープゴートを探すのではなく、不幸や死を引き起こす原因について責任ある研究を行うことに重点を置くべきでしょう。生命の神学と社会学は、神によって創造された自然の中に癒しの力を見出すよう人々を励まさなければなりません。

2.3. 生への通過点として死の現実を考える

 アフリカの通過儀礼とは、

「男や女の生を永遠に刻み、その人が通常選択するよりも深く人生に引き込む出来事である。イニシエーションとは、その人が誰であるかを定義するものであり、その人から何らかの力を噴出させるものであって、その人の本質的な自己だけが残るまで、その人からすべてを剥ぎ取るものである。」*

 Malidoma Patrice Somé, The Healing Wisdom of Africa: Find Life Purpose through Nature, Ritual, and Community (New York, Penguin Putnam, 1988), p. 275.

 イニシエーションとは、アフリカの男女が生と死の本質を学ぶ伝統的な学校なのです。通過儀礼から学ぶ最も重要な価値観は、生は死よりも重要であり、生を守るためにいかなる状況でも闘わなければならないということです。

 実際、死は生への通過点と考えられています。生命と希望の社会学・神学では、死は、主イエスが豊かに与えてくださる満ち溢れる命への道のりであることを主張するために、これらの文化的豊かさに焦点を当てなければなりません(ヨハネ10:10、12:24)。HIV/エイズやコロナウイルス感染症のようなパンデミックは、苦しみや死さえも引き起こし、そして今ももたらし続けています。生命と希望の社会学・神学は、主イエス・キリストのうちにある満ち溢れる命への道のりとして、人々が死を受け入れられるように準備しなければならないのです。

2.4. 人間の性の尊厳を促進する

 アフリカの人々は子どもをとても大切にします。多くの民族がそうであるように、子どもは神からの贈り物であると信じています。おそらく他の民族以上に、多くの子孫を残すことが神と祖先からの祝福のしるしであると信じています。

 しかし、無責任な性行為はHIV/エイズを蔓延させる危険性を高めますし、ご存知のようにコロナウイルス感染症についても社会的距離を置かなければなりません。このような状況において、何が何でも子どもを産みたいという思いは、計り知れない結果をもたらすことがあります。HIV/エイズとともに生きる孤児の多さは、この事実の生きた証拠であります。生命と希望の社会学・神学は、性の表現が成熟した責任ある方法で行われなければならないことを、時宜を得ているかどうかを問わず、人々に思い出させなければなりません。

3. より大きな責任への呼びかけ

 私が個人的に経験したことを記してきました。苦しみが、これまでもそしてこれからも、決して最後の言葉ではないということを、私は未だに理解しようとしています。最後の言葉とは、命であり、神が私たちに与えてくださる貴重な贈り物です(ヨハネ10:10)。

 コロナウイルス感染症のような深刻な危機の今こそ、超越への開放を促し、民族間の新しい形の連帯を進めることができますように。

≪おすすめの一冊≫

佐々涼子(ささりょうこ) 『ボーダー 移民と難民』集英社 2022年 本体1800円+税

「二〇二一年一二月。私は難民センターの長い廊下を、スーツケースを引きながら歩いている。廊下沿いには一二の個室が並んでいて、開け放たれたドアからは低い冬の陽が差し込み、壁にかかる木製の十字架に淡い影を作っていた。これから私は、ここで生活している人たちと寝食を共にする。期間は一か月。」冒頭の文章である。その建物の正式名称は、イエズス会日本殉教者修道院。2020年4月からは、「アルぺなんみんセンター」として利用されている。

この本の第一部は「泣き虫弁護士、入管と闘う」、第二部は「彼らは日本を目指した」、そして著者のアルぺなんみんセンターでの経験がつづられている第三部「難民たちのサンクチュアリ」である。憧れの国にたどり着いた人たちを、私たちはどう受け入れてきたか、どう拒否してきたかを問う良書である。

アフリカにおける日本の外交政策

オドマロ ムバンギジ SJ
上智大学客員教授

はじめに

 日本とアフリカの関係について議論すると、サハラ以南のアフリカと、日本との貿易と投資の問題が必ず出てくる。この問題は1970年代から続いており、国によっては、ウガンダのように1922年まで遡る。日本はウガンダの綿を輸入し、ジーンズを生産していたのだ。日本からアフリカへの最も一般的な輸入品は、トヨタ、日産、三菱などの自動車、テレビ、コンピューターなどの電子機器である。ウガンダの公共交通機関における最も大きな革新は、通称「Boda Bodas」と呼ばれるオートバイの利用であり、ウガンダのバイクのほとんどは、日本製のヤマハとホンダである。

ウガンダの首都カンパラの路上には、トヨタ車やヤマハ、ホンダのバイクがあふれる

 経済的に大きな可能性を秘めた地域としてアフリカへの関心が高まる中、日本とアフリカの関係には大きな課題がある。日本を含む主要先進国による多くの援助、投資、貿易によるイニシアティブにもかかわらず、なぜアフリカは低開発のままであるのかということだ。これまでの政策とアフリカの内部事情に問題があるように思われる。

アフリカが提供する機会

 アフリカと日本が効果的な協力関係を築くため、克服しなければならない大きな課題のひとつに、認識の問題がある。確かにサハラ以南のアフリカは、奴隷制度、植民地支配、武力紛争、経済成長の遅れ、HIV/エイズ、エボラ出血熱、そして今回のコロナウイルス感染症といった地球規模のパンデミックなど、経済的にも政治的にも多くの困難に直面してきた。しかし、これらの課題だけがアフリカ大陸を特徴づけているわけではない。よって、克服すべき最初の課題のひとつは、アフリカに対する認識の変化である。

 アフリカ大陸は鉱物資源にも恵まれており、世界人口を養える耕地の約6割がアフリカにはある。また、アフリカは30歳以下の若者が人口の約6割を占めている。この若年層の多くは大卒の高学歴者であるが、そのほとんどが失業者である。

 日本を始めとする先進国は、アフリカ大陸のリスクばかりに目が行く傾向にあり、アフリカに内在する大きな可能性にはあまり目を向けてこなかった。その結果、日本からアフリカへの主な投資は、南アフリカ共和国、モロッコ、チュニジア、エジプトなどのアラブ・北アフリカ諸国が中心となっている。サハラ以南のその他の地域は、主に安価な原材料、特に鉱物の供給源であり、工業製品の準備市場であることに変わりはない。

 13億人以上の人口を抱えるアフリカは、世界の貿易における大きな市場である。この巨大な市場と安価な労働力の恩恵を受けてきた日本は、アフリカの若者の技術力を向上させるために、もっと努力する必要があるのではないだろうか。

日本のアフリカへの関わり:多様で矛盾に満ちたアプローチ

 日本のアフリカへの経済的関与は、日本の外交政策および外交の一環として行われる。無償資金協力、技術協力、円借款、投資・貿易の4つの手法でアフリカ支援が行われてきた。世界第3位の経済大国である日本は、1988年以来、フランス、ドイツ、米国と同程度の政府開発援助(ODA)をアフリカに投じてきた。しかし、日本のアジア諸国へのODAはそれ以上である。また、考慮すべき重要なこととしては、アフリカには54の国があり、いくら援助しても大海の一滴のようなものである。

 日本がこれまで、アフリカに対して継続的な関心を持っていたことは間違いない。しかし、本格的に関わり始めたのは、21世紀に入り、2005年がアジア諸国の間で「アフリカ年」と宣言されたときからである。1970年代から1990年代にかけて、アフリカ諸国と日本の間で貿易や投資が行われていたにもかかわらず、日本にはアフリカに関する一貫した政策がまだ確立されていなかった。例えば、1990年代の日本のアフリカにおける主要な貿易相手国である南アフリカは、日本の対アフリカ輸出の30%、対アフリカ輸入の50%を占めていた。1990年代前半、日本のアフリカへの輸出入は全体の1%程度に過ぎなかった。つまり、米国が南アフリカに経済制裁を科していた時期、日本はアパルトヘイト下の南アフリカとの唯一の主要貿易相手国として、多大な恩恵を受けていたことになる。

 2017年、日本の対アフリカ輸出額は約175億ドルであり、そのうち南アフリカ向けは25億ドルである。輸入に関しては、同年、日本はアフリカから683億ドルを輸入している。明らかに日本とアフリカの間には大きな不均衡がある。それでも、アフリカから日本への輸入額のうち、57%は南アフリカが占めている。これは、日本と南アフリカの貿易関係が古く、南アフリカがアフリカでも有数の経済大国であり、高い工業力を有しているからにほかならない。

 その背景には、かつて東西冷戦の対立を回避するため、非同盟運動を含むアジアとアフリカの国々を結ぶ枠組みである「南南協力」の議論が常に行われてきたことが挙げられる。日本は国際政治に対して平和主義を志向していたため、冷戦の地政学に巻き込まれることを避けようと企図し、そのことがアフリカと距離を置いたことに影響していると考えてよいだろう。冷戦時代、1960年代から1990年代初頭まで、アフリカは超大国間の代理戦争の舞台であった。冷戦下の武力紛争に巻き込まれた国々は、ソマリア、アンゴラ、モザンビーク、ナミビアなどである。しかし、これは冷戦時代の独裁的な政権と貿易を行うことで、日本が間接的にその政権の権力維持と戦争資金の確保を可能にしたことも意味している。

 日本がアフリカに地政学的な関心を持ち始めたのは、1990年代初頭である。1993年、日本は国連平和維持活動の一環として、モザンビークに自衛隊を派遣した。同年、日本は有名な「アフリカ開発会議(TICAD)」を開催した。直近のTICADは2022年8月27日から28日にかけてチュニジアで開催され、アフリカ支援のために300億ドルの拠出が約束された。日本は南スーダンに平和維持軍を派遣しており、2011年にはアフリカの角における海賊対策という国連の取り組みの一環として、ジブチを拠点とする軍隊を設置した。

 アフリカにおける日本の関心は、国連安全保障理事会の常任理事国入りを目指していることと関連している。54か国からなるアフリカは、国連総会で一定の影響力を持っている。つまり、援助や技術協力は、国益と切り離すことができない。日本は援助を外交の道具として使っているのである。

おわりに:政策転換の必要性

 日本のアフリカ外交は、所有と自立の原則、そして国家による介入というアジア型開発モデルによって導かれてきた。しかし、日本のアフリカへの関与が、意図した結果をもたらすためには、いくつかの矛盾に対処する必要があると指摘されている。机上では問題がないように見える政策の枠組みも、実行に際して困難を来たす。ほとんどのアフリカ諸国はまだ開発アジェンダを自分のものとしておらず、自立していると言えるアフリカ諸国はほとんどない。アフリカの開発政策は、いまだに資金を拠出する機関により大きく左右されている。

 自立は、アフリカの国々が人的資本を十分に発達させ、それが雇用の創出につながる場合にのみ実現するであろう。国家の介入を重視するアジア型開発モデルをアフリカに適用すると、一部の独裁政権を強化してしまう傾向がある。政府が公共サービスを提供できない場合、民間部門、それも非営利の部門に権限を与えることが必要である。学校、病院、社会開発、環境保護プロジェクトは、往々にして信仰に基づく組織によってよく行われ、日本の開発機関から資金を得ることはほとんどない。

 技術移転もまた、日本の対アフリカ協力が大いに役立つ分野である。アフリカの労働力の増加を考えると、日本はアフリカに低い生産コストで工場を設立することができる。アフリカの鉱物を輸出し、付加価値をつけないという政策が、アフリカを低開発にとどめている大きな要因の一つである。  

 日本が投資できる他の分野は、通信、農業、金融サービス、再生可能エネルギー、特に太陽光発電と風力発電であろう。日本はまた、より良い移民政策を導入することで、アフリカの教育された労働力を利用することができる。つまり、情報通信技術の分野で21世紀に必要とされるスキルに重点を置いたアフリカの高等教育への投資は、日本が長期的にアフリカから熟練労働力を確保し続けるためのひとつの戦略である。

 この小論の写真に見られるとおり、アフリカの公共交通機関は大きな課題である。日本は、自らの経験に基づき、公共交通機関の管理に関する技術的なノウハウによって、アフリカ諸国を支援することも可能である。日本がアフリカの道路や鉄道のインフラに投資することも考えられる。また、日本は長年、化石燃料に依存した自動車をアフリカに供給してきたため、アフリカへ電気自動車のみの輸出に徐々に移行するなど、アフリカの気候変動の緩和・適応策に貢献する必要がある。

私たちはミャンマーとともに

アジア太平洋移民・難民ネットワーク

すべての善意ある人々へ:

 軍隊である国軍(タトマドー)が、ミャンマーで公然と権力を掌握し、民主的に選出された政府を弾圧し、民主的な指導者を投獄してから、2年が経とうとしています。

 世界的パンデミックのさなか、多くの人々が苦しみ、恐れているときに、ミャンマーが数十年の闘いの末に火を灯し、守り続けてきた民主主義の灯火は、自国民に対して放たれた、国軍の恐怖と暴力によって再び消し去られたのです。

 この2年間、国軍は恐怖政治を続け、村々を襲撃しました。家や教会を焼き、非武装で罪のない活動家、抗議者、民間人を拘束し、拷問し、殺害しました。国内避難民(IDP)は、クーデター前の33万人から、2023年1月23日現在(UNHCR)において、120万人を超えるまでになっています。

 世界銀行の報告によれば、2022年にはミャンマー人口の約40%、つまり約2,200万人が貧困に陥り、貧困率は2020年3月時点の2倍になるとのことです。軍事政権は、反対意見を抑圧し、通信やメディアを遮断し、ジャーナリストを逮捕しました。裁判所が発行した令状がないにもかかわらず、法的に捜索、押収、逮捕、監視、通信の傍受を許可してきました。このような事態は、現在も続けられています。

 いま、私たちはミャンマーにいる兄弟姉妹の勇気と信念を讃えます。苦しみながらも、人々の意志が重んじられ、自由と権利が回復され尊ばれること、安全と安心が得られることを求めて、強く、揺るぎない努力を続けているのです。

 静かに声を上げ、街頭で、村で、さらにはソーシャルメディア上で抗議し、軍事政権による虐待と支配の終結を要求しています。国家のため、国民のため、こうした大胆不敵な努力のほとんどが、若者たちに率いられてきました。ミャンマーをより住みやすい国にするために命を捧げた方々のご冥福をお祈りいたします。 

 危機を終息させるための緊急かつ断固とした行動を求める声は、これまで以上に高まっており、到底あと1年も待つことなどできません。ミャンマーと連帯し、アジア太平洋移民・難民ネットワークは、3つの行動指針を実行するよう呼びかけます。 

 第一に、ASEANをはじめとする世界の指導者は、ミャンマーにおける暴力の終結と民主主義の回復のため、可能な限り早急に外交的な介入を行わなければなりません。この国に平和と民主主義を取り戻すには、国際社会の支援が不可欠です。政治的な交渉が、良心と慈愛に導かれたものでありますように。 

 第二に、国軍に対し、敵対勢力や無実のミャンマー市民に対して行われているハラスメント、虐待、暴力の即時停止を求めます。国軍が信頼を求めるならば、その信頼に値することを世界に示さなければなりません。つまり、政治犯を釈放し、さまざまな利害関係者を正義と思いやりに基づく有意義な対話に再び参加させる必要があります。危機の流れを変え、暴力と苦しみを終わらせるために、国軍は責任を共有し、行動する道を選ばなければならないのです。ミャンマーの傷が癒えることなく、手遅れにならないように。

 第三に、世界中の個人や地域社会に対し、ミャンマーに対する懸念をできる限り表明し、示し続けるよう呼びかけます。指導者に手紙を書き、あなたが見ているものを見てもらうのです。ミャンマーの人々に救命物資やサービスを提供するために、人道的援助が緊急に必要です。緊急に支援を必要としている人々への援助が無料で、迅速かつ安全に行われることを願っています。しかしそれ以上に、公益のために効果的な行動をとることを強く求めます。私たちはミャンマーを忘れてはなりません。

   私たちは、より良い明日に向けて自分たちの国を救い、形づくるというミャンマーの熱意と一体であり続けます。すべての人に正義と平和があるよりよい未来を、ミャンマーの人々とともに追い求めます。私たちは、ミャンマーのカトリック司教団がミャンマーのすべての関係者に向けて行った切実な訴え、すなわち「私たちは人として十分に苦しんできたのだから、すべての銃を置き、兄弟姉妹としてすべての人に手を差し伸べ、国家として、国民として団結し、平和という聖なる巡礼を始めましょう」であると、信仰をもって団結しているのです。ミャンマーの兄弟姉妹の皆さん、信念を貫いてください、私たちは皆さんとともにいます。世界はあなた方を忘れません。今日、皆さんとともに、「WE ARE MYANMAR」です。 

エチオピアからの難民―あらゆる困難に逆らって、適合するように努力する―

アベベ サレシラシェ
特定非営利活動法人 アデイアベバ・エチオピア協会

 エチオピアはアフリカの角に位置し、人口は約1億2千万人、国土は日本の約3倍である。古代より続く国のひとつであり、独自の文化、言語、文字体系を持ち、多種多様な人々が暮らしている。エチオピアは、コーヒーとナイル川の発祥の地である。そして、ヨーロッパの植民地支配によるアフリカの激動の最中、独立を堅持してきた。

 1974年、最後の皇帝は、共産党の軍事政権によって廃された。それ以来、エチオピアは独裁政権の下に置かれ、さまざまな民族の対立と不安定さを経験した。政情不安のため、多くの若者が国外に脱出し、主に欧米に亡命を図っている。その数はとても少ないが、日本にも難民がいる。

 私は1990年代に奨学生として来日した。当時はまだ、エチオピア人の数は少なく、そのほとんどは学生だった。私たちは「在日エチオピア人共同体」という、法人格のない協会を設立した。エチオピアの新年を祝うため、年に一度集まっていた。協会の構成員は、ほぼエチオピア人だけであり、イベントの参加者もエチオピアの人々であった。

難民申請者の窮状

 欺瞞に満ちた2005年のエチオピア国政選挙の後、全国民が街頭に出て、自分たちの投票を尊重するよう要求した。与党は暴力で応え、首都アディスアベバだけで198人のデモ参加者を殺害した。野党の党首と何万人もの党員と支持者が刑務所へ送られた。野党の党員や支持者に対するテロが繰り広げられる中、若者たちは迫害から逃れるため集団で国外に逃亡した。

 この時以来、日本にもエチオピア人難民が流入するようになった。エチオピア人は、奨学生、国際結婚(日本人との結婚)、就労、難民申請など、さまざまな理由で来日する。現下、約540人のエチオピア人が日本に滞在しており、そのうち207人が東京に住んでいる(2022年6月現在)。

 これら新規入国者のほとんどが日本の言語や文化などに慣れていない一方、日本の難民制度は、彼らを受け入れ、社会に統合するための組織や設備が整っていなかった。難民申請者の多くは、3か月の滞在ビザを与えられ、身分(在留資格)のない観光客のような生活をしている。

 言い換えると、その都市に住んでいるにもかかわらず、当該役所は難民申請者を住民として認めないということだ。その結果、貨物輸送の際に保険加入が義務付けられている世の中であっても、国民健康保険に加入することができない。何より、このビザでアパートを探すのは不可能に近く、ボロボロのダンボールハウスに法外な料金を払わざるを得ない。

 無資格で生活するため、労働許可証もない。にもかかわらず、生活に伴う支払いの義務があるため、最低賃金を下回るような怪しい会社に搾取されることは間違いない。この様な不安定な状況に加え、難民申請者は3か月毎にビザを更新する必要がある。その際、有効期限の1か月前に申請書を提出し、期限直前に4,000円を支払い、新しいビザを受け取るために入国管理局へ2度足を運ばなければならない。

 想像していただきたい。難民申請者は労働許可証を持たず、生きていくのに必死であるのに、ビザを更新するためにお金を払わなければならないのだ。私も何度か東京入国管理局に同行したことがあるが、サービス業が世界でも類を見ないほど発達しているこの国で、難民申請者に対する非礼な扱いの度合いに正直うんざりしてしまった。一瞬、別の惑星にいるような気分になる。もちろん、尊敬に値するスタッフもたくさんいる。管理局も限られたスペースと人員で、多くの申請者を抱えているのは理解できる。

 難民申請者が、このような過酷な環境に対処することが難しく、難儀することは自明のことだ。難民申請者であることの浮き沈みを目の当たりにしている私たちにとって、彼らの窮状を少しでも緩和するために寄り添うことほど、やりがいのあることはないだろう。

 しかし、在日エチオピア人共同体は、このような状況に対応できるほど組織化されておらず、対応が法的に認められているわけでもない。そこで熟慮と討議を重ね、次の合意に達した。日本の法律で認可された機関を設立し、困窮者が集中する東京都葛飾区に事務所を開設すること。明確なビジョンとミッションを持ち、未解決の問題に取り組んでゆくこと。

 したがって、私たちは3点を柱にした協会を設立することにした。

  1. 在日エチオピア人の支援
  2. 日本人とエチオピア人の円滑な融合・理解・協力の架け橋となること
  3. エチオピアの貧困削減に貢献

 その結果、2009年にアデイアベバ・エチオピア協会(Adeyabeba Ethiopia Association)を設立し、2010年3月に東京都に特定非営利活動法人(NPO)として認可され、葛飾区四つ木に事務所を開設した。当協会の役員とボランティアは、みな無報酬で活動することとした。このようにエチオピアの人々を支援する中で、外国人の日常生活の複雑さやフラストレーションが、頻繁に誤解され、見過ごされていることが分かった。

 言葉の壁があるため、住所変更、健康保険、保育園、マイナンバー、確定申告などの手続きは、不可能ではないにせよ困難だ。パッケージの中身を理解することができないため、日常的な買い物にも困難が伴う。風邪薬や頭痛薬など、普通の薬をドラッグストアで買うのも一苦労。クリニックや総合病院で、医師の診察を受けるのも、通訳なしには考えられない。日本語がわからないと予約を断られることもある。アパートを借りるのは、日本人でも難しい。一流大学の学生でさえ、下働きになってしまう。

 そのような中で、私たちは、エチオピア人難民申請者が、円滑に社会に溶け込めるよう、そのギャップを埋めるべく努力している。また、日本人会員、サポーター、ボランティアの方々は、困っている人たちを支援するために、素晴らしい働きをしてくれた。

 難民申請者の多くは、高等教育を受け、落ち着いた生活を送り、特定の分野で活躍し、自分の家族を築きたいと心から願っている若年層であり、活力に満ちている。

 欧米と異なり、日本では入国審査が結論に至るまでに長い年月を要する。多くの難民申請者は、自分の将来がどうなるのかと不安に思っている。彼らは、将来の準備をしないまま、自分の最盛期を失いかけていると感じている。

 苛立ちやストレスは、難民申請者によく見られる現象だ。私たちには専門のカウンセラーはいないが、伝統的・文化的な方法でカウンセリングを行い、彼らの助けになろうと努力している。しかし、このような問題はカウンセリングの域を出ず、すぐに解決できるような特効薬はない。自分の将来が危うくなったとき、癒しは余りに遠く手が届かない。

 一般の日本人は、難民の窮状を理解し、より良い対応と有効な手続きを望んでいると思う。私たちはこのような動きを見て嬉しく思うとともに、世論の圧力によって多くの変化が起こることを期待している。

 私たちは、政策立案者の心変わりと、難民申請者の問題を全面的に取り扱うという政治的意志を待ち望んでいるのだ。ウクライナ戦争以来、6か月ビザや労働許可証を伴う在留資格の発行など、いくらかの改善が見られるようになった。私たちはこれを歓迎し、発展途上国同等の水準に見合った、より好条件かつ公正な移民制度が実現することを望む。

 私たちの組織、アデイアベバ・エチオピア協会は、難民申請者の窮状を緩和するため、どなたからの協力も歓迎し、難民申請者の苦難が和らぐまで尽力するものである。