MAGIS世界大会 in リスボン
渡辺 徹郎 SJ
イエズス会新司祭
MAGIS世界大会がポルトガルのリスボンで2023年 7月22日から31日まで開催された。「MAGIS」とはイグナチオ的霊性にもとづく青年活動グループで、世界各国に展開している。対象年齢は18-35才であり、日本においても東京の四ツ谷を中心に活動している。
MAGISはワールドユースデイに先行して10日間の日程で世界大会を開いており、今年度もリスボンのワールドユースデイに合わせて開催され、約2000名の青年が80か国以上から集まった。イエズス会日本管区は今回初めて公式に巡礼団を派遣し、日本・中国・フィリピン出身の青年から成る23名の巡礼団が日本から参加した。
MAGIS世界大会の日々は朝の祈り、ミサ、活動、意識の糾明、MAGISサークルといわれる分かち合いから構成されるが、その中心は体験(experience)と呼ばれる活動である。初日に開会ミサをしたのち、約2000人の参加者は23日から30日にかけて、様々な国籍が入り混じる30人程度の小グループに分かれて、ポルトガルやスペインの様々な場所に体験のために派遣された。各体験は巡礼、エコロジー、芸術と文化、信仰と霊性、社会奉仕の5つのテーマのいずれかにもとづいている。この体験において、参加者は世界各国の参加者と寝食をともにしながら、濃密な時間を過ごすことになる。
例えば、巡礼の体験であれば、参加者は毎日20キロメートルの道のりを、世界各国の参加者とともに支え合いながら歩くことになる。最初は互いに面識もなく、文化・言語・人種の異なる参加者同士であるが、同じ信仰を共有する仲間として、体験の中における活動や祈り、分かち合いを通して深い絆で結ばれていく。
それだけでなく、体験を通して少なくない参加者が神との出会いを経験するのである。例えば、日本からのある参加者は、幼少期から教会活動に熱心に参加してきたが、今回の体験を通して初めて神の存在を確信するに至ったと、分かち合いを通して生き生きと語っていた。青年は感受性に富み、柔軟である。同じ信仰をともにする多種多様な仲間たちと濃密な時間をともに過ごすことによって、聖霊の火花が散るのである。聖霊の働きは青年たちに充満し、多くの豊かな信仰体験を引き起こす。
8日間におよぶ体験を終え、約2000人の参加者は30日にリスボンの会場で再び一堂に会した。最終日である31日の派遣ミサは、イエズス会総長アルトゥーロ・ソーサ神父の主司式で行われた。多くの参加者はMAGIS世界大会で神から頂いた沢山の恵みに感謝しながら、喜びのうちに8月1日から始まるワールドユースデイへと向かった。
MAGIS/World Youth Day リスボン大会に参加して
イエズス会 MAGIS巡礼団 (麹町聖イグナチオ教会 日曜学校リーダー)
2023年8月、150万人以上のカトリック青年がリスボンに集い、交流し、教皇フランシスコと共にミサを捧げました。私はこのイベント、ワールド・ユース・デー(WYD)と、その直前に行われた、イエズス会主催の青年の集いであるMAGISに参加してきました。
この経験、特にMAGIS期間中に毎日行った分かち合いを通して、様々なバックグラウンドを持つ沢山のカトリックの人々と語り合い、日本社会でキリスト者として生きるとはどういうことかを改めて考えることができました。
私は0才の頃に幼児洗礼を受け、保育園児の頃から高校を卒業するまでほぼ毎週教会学校に通っていました。しかし、教会の友人の多くがミッション系の学校に通う一方、私は小学校から大学まで公立の学校に通っており、友達もほとんどがキリスト教とは何の関係も無い人々でした。
学校の授業で宗教に触れる機会があるとすればそれは世界史や地理の授業でしたが、宗教やキリスト教が登場するのは免罪符とか王権神授説とか宗教戦争とか、一般に悪い評価が与えられるものに関係する文脈ばかりでした。高校や大学になると、カルト勧誘に対する注意喚起もよく目にするようになりました。逆に、宗教の良さについて教えられたことは、小学校から高校までの12年間で一度もなかったように思われます。このように、日本社会では宗教には「やばい」「洗脳」「非科学的」といった悪いイメージがつきまとい、実際にカルト教団に関係する痛ましい事件も定期的に起こっています。
私は、このような「宗教=悪」という価値観を受け入れていないつもりでした。いくら友達が「宗教ってやばいんでしょ」と言っていても、私はカトリックだし、神さまを信じているし、実際に自分が見聞きしている教会活動に、無理な勧誘だとか教義の押しつけだとかいう「やばさ」はなかったからです。しかし、今回のMAGIS/WYDで色々な国出身の若者たちと話す中で、自分も実はこの価値観を内面化していたのだということに気が付きました。
私は今回のMAGISで最初に分かち合いをしたときに、生まれて初めて「神さまに出会ったな」という経験をしました。私は先の予定が見えないことに関してすごく不安を抱く性格なのですが、今回の旅では、リスボン空港で他の参加者と落ち合った後もその日どこに泊まるのかよくわからない、MAGISが始まって2日経ったと思ったら今度は小グループに分かれてイベリア半島中に散らばり、また泊まる場所も、いつご飯が食べられるのかも、何もわからないというような状況が続きました。
その小グループに分かれた最初の日、私たちはポルトガルの最北部の森の中を歩き続け、日が傾いてきたところで、チラチラと木漏れ日が落ちる中、初めての分かち合いを行いました。そのときの分かち合いの内容は、ここまでMAGISに参加してきて、肉体的・精神的にどうだったかというものでした。私はそのとき先の見えない状況に強く不安を抱いていたわけですが、その気持ちは他の参加者もある程度共有していたらしく、自然とその話になりました。そのとき、ある友人が“Let God take control of everything”と言いました。これが私にとっては神さまの声だったのです。
何が私にそう思わせたのか、あのときの雰囲気のおかげなのかもしれません。彼女の言葉が私の不安にピンポイントで刺さったからなのかもしれません。しかし私はなんとなく、その言葉を英語で外国の人に言われたから、それを神さまの言葉として受け入れることができたように思うのです。もし日本語で「神さまが全て考えて導いてくださるのだから、神さまに身を委ねなさい」みたいなことを言われていたとしても、私は「あなたは敬虔な信者さんなんですね、私と違って。私はそれでも現実的にとても不安ですけど」と思ってしまっていた気がするのです。日本語という、日本の社会や文化と強く結びついた言語で話し、考えているのでは、私は神さまの言葉を受け入れられなかったと思うのです。
このとき、私は「宗教=悪」という構図に抗ってきたつもりでいながらも、なんだかんだ日々の生活の中からその価値観を吸収してしまっていたことに気が付きました。思えば、今まで約20年間も教会に通っておきながら、神さまを身近に感じてこなかったというのがおかしな話でした。小さい頃から教会に通っている人には誰にでも、神さまの存在を疑う瞬間があると思います。私は小学校高学年くらいから堅信を受けた中学2年生くらいまで、神さまが本当にいるのかどうかを真剣に考えていたのですが、その時出した結論は、「神さまが本当にいるかいないかはわからないけど、いると信じていれば自分が困ったときにお祈りという形で神さまに相談できて楽だから、神さまはいると信じよう」というものでした。
そのとき以来、私のスタンスは基本的に「神さまはいるのかいないのかわからない」というものでした。やはり、神の存在は非科学的で、宗教に深入りしすぎるのはあまり良くないという価値観に私は影響されていたのです。今回神さまの声を聞くという体験をしたり、MAGIS/WYDに参加したこと自体、神さまに呼ばれたのだと思うことがあったりして遂に、神さまはいるのだと本気で信じるようになりました。
私は今、日曜学校でリーダーとして活動しています。ここまで書いてきたように、私は自分が4歳の頃から14年間教会学校に通い続けましたが、それを通して自分の信仰が育まれてきたのか自信がありません。そして、今の日曜学校でも、私たちが子どもたちの信仰を育めているのか、よくわかりません。
日々の活動では、絵本や聖歌などを通して神さまのお話を子どもたちに伝えています。それでキリスト教の知識は身につくかもしれません。私たちリーダーが愛を持って子どもたちと遊べば、子どもたちはそれで楽しいでしょう。子ども同士の友情も深まるでしょう。しかし、それだけで本当に良いのでしょうか。
教会学校における信仰教育のあり方について、私たちはこれから真剣に考えていかなければなりません。
ブラジルの 「民衆の教会」
森 晃太郎 SJ
イエズス会新司祭
今回、私は様々な分野でカトリック信者1人1人が自ら神の働きに参与しこの世界と関わる「民衆の教会」を見たいと望み、ブラジルに渡った。
主にイエズス会員が働くアマゾン地域のマナウス(Manaus)とロライマ(Roraima)及び隣国ガイアナ(Guiana)、そしてサンパウロ、リオデジャネイロを訪れた。ロライマでは、先住民族が住む地域の訪問、協働者の集まりへの参加、ラジオ局の見学、移民支援活動を視察した。マナウスでは、先住民との共存を模索する活動団体や貧困地域の教会の人々と出会った。サンパウロでは、パティオ・ド・コレジオ(Pátio do Colégio)でジョゼ・デ・アンシエタ(José de Anchieta)の足跡を辿り、日系ブラジル人の人々と関わり、夜のカテドラルでホームレスの実体を目の当たりにし、ブラジルの歴史を肌で感じた。リオデジャネイロでは、管区長館を訪れ、コルコバードの丘やコパカバーナを観光し、ファヴェーラの人々と共に過ごした
旅の中で私は、ブラジルの教会が様々な異なる共同体からなることを実感した。アマゾン地域の北部には、自然豊かな環境の中でシンプルな生活を送るワピシャナ(Wapichana)という先住民がいる。私は彼らの住む地に立ち、同じものを食べ、共に歌い踊る中で、想像や情報、映像などで作られた頭の中の「先住民」という枠を超え、この世界を彼らと共に生きていると実感した。
また、イエズス会と諸活動団体が協働しベネズエラからの移民を支援する「スマウマ(Sumaúma)」という組織がある。彼らは、毎日200人もの人々が移動してくる中、仕事や住居探し、事務手続きを手伝い、朝昼夕2000人分の食事を作り、150人の子どもたちの教育の世話をしている。「スマウマ」とは、先住民の人々からすべての木の母と呼ばれるアマゾンのシンボルである。この木は、森の中で最も大きく、その根も深く、他の木々が水分を吸収する助けとなる大切な木である。移民の人々にとり協働者がスマウマであり、協働者たちにとり信仰の核である神の存在がスマウマのようであった。
そして、リオデジャネイロには、スラムや貧困街を意味する「ファヴェーラ(Favela)」がある。この街の人々は話し好きで、苦労を感じさせない程にとても明るく温もりに溢れていた。街も世間一般で言われる治安が悪く危ないという様子も含め、生き生きしており人間味に溢れていた。
旅の終わりにこの地で私は、今回の旅を象徴する 1枚の絵に出会った。それは、教会を囲む塀に描かれた「最後の晩餐」の絵である。この絵に心が躍った。ブラジル各地で出会った共同体はこの絵のように、それぞれの場所や環境の中で生きる人々によって、その人たちから滲み出る共同体の特徴と個性があり、それに伴い姿や形を変え生み出される教会の豊さがあるように思う。私はそこに「民衆の教会」を見た。
【映画紹介】 『旅するローマ教皇』――教皇フランシスコとともに旅をしよう、祈ろう、そして夢を見よう――
編集部
『旅するローマ教皇』
原題: IN VIAGGIO
2022年、イタリア、83分
監督・脚本: ジャンフランコ・ロージ
シラ書 34章9-11節
旅をした人は、/多くのことを知っており、
経験豊かな人は、/洞察に富んだ事柄を語る。
経験の乏しい者は、/わずかなことしか知らない。
しかし、旅をした人は、/広い知識を身につける。
初めて飛行機を利用して世界各国をめぐり、「旅する教皇」と呼ばれた聖パウロ6世。26年間で100回以上も世界中を飛び回り、「空飛ぶ教皇」と呼ばれた聖ヨハネ・パウロ2世。高齢かつ、コロナ禍によるしばしの中断があったとはいえ、教皇フランシスコはそれをもしのぐ頻度で精力的に海外を訪れている。
本作は、教皇フランシスコの(現時点ではさらに増えているが、映画制作時には)9年間で37回、53か国にのぼる司牧訪問の様子を収めたドキュメンタリー映画である。800時間におよぶ膨大なアーカイブ映像に、ジャンフランコ・ロージ監督独自の撮り下ろし映像を加えて編集・創作されている。
映画の中で教皇自身が吐露するように、「容易に」訪れられた国がある一方で、訪問には極めて難しい「識別」を要した国がある。行く先々で教皇が直面するのは、笑顔で大歓迎する民衆だけではない。いかんともしがたい問題を抱えた地では、政治的、あるいは宗教的な緊張関係がスクリーン越しに伝わってくる場面が多々ある。
戦争・紛争の終わりは見えず、難民を生み出し続ける世界。環境破壊の結果相次ぐ自然災害で苦しむ人々。貧しさや犯罪から社会の隅へと追いやられ、希望を見いだせずにいる人々。さらに世界を覆った感染症のパンデミック。教皇は魔法使いではなく、訪れたところで問題がすぐに解決するわけではない。それでも、現実世界と対峙し、出かけて行って人々と直に触れ合い、その声に耳を傾ける。ともに痛み、慰めを祈る。教皇が語る言葉以上に、そのまなざしが、沈黙が、そして祈る姿が何より印象に残る。書籍ではなく、映像作品でしか味わえない感覚だろう。
また、そうした対立は、教会の外の社会の話だけではない。映画の中で教皇は、教会内での性虐待の問題や、植民加害の責任とも向き合い続ける。ロージ監督自身は「キリスト者」ではないため、教会内部で作られたいわゆるプロパガンダ的な映画ではなく、外の世界から見える教皇のリアルな姿が描かれている。
とはいえ、題材が題材だけに、カトリック“製”の映画でないにもかかわらず、結果として非常にカトリック(普遍)的な映画になっている。無関心のグローバル化から抜け出し、連帯のうちにともに夢を見るために、大きな示唆を与えてくれる。信者であればなおさら、教皇フランシスコの旅を追体験しながら、ともに旅し、祈り、夢を見ることができる、まるで巡礼や黙想会に参加したような不思議な感覚を覚えるだろう。
ちなみに、ややネタバレになってしまうが、2019年11月の日本訪問の様子も登場する。ただしそのシーンはとても短く、しかも広島での場面に限られる。とはいえ、53か国のうち、映画で取り上げられない国の方が多いのだから、短くともこのシーンが挿入されたのには、核使用の脅威がかつてないほど高まっている中、ロージ監督の平和への想いが込められているのだろう。
地球のみんな!元気をわけてくれ!
金 鎮善 (キム ジンソン)
ピースモモ、ガバナンスマネージャー
2023年8月29日から9月2日まで、2022年に続いて二番目に行われた2023日韓ユース平和フォーラムに参加してきました。昨年出会った方々ともう一度つながることも、同年代に会うことも、また、新しい所属や心持でイベントに参加すること自体も、とてもわくわくしていました。特に、所属が変わった最近3ヵ月間、以前には知らなかったことがとてもたくさん分かるようになり、視界が開かれたことも、フォーラムに参加している私の態度に多くの影響を及ぼしたようでした。昨年のフォーラムでは、日韓関係に重点を置いて考えていましたが、今回は平和というキーワードに合わせ、すべてのことを考えてみることができたのです。今回のフォーラムの全体の日程のうち、いくつかに集中して記録を残してみたいと思います。
グラウンドルール
今回のフォーラムには、昨年とは違い、資料集一ページに及ぶ「グラウンドルール」が事前に作成され、現場で適用されました。特に、宗教、背景、職業、年齢、ジェンダーなど多様性を尊重し、不必要な言及を避けようという条項が目につきました。「日常的な対話でそれらをすべて除くとどのように対話ができるの?」という思いもありましたが、お互いの権力関係が生じ、違和感/不快感を与える可能性があるなら、できるだけ止めたほうが良いに違いないでしょう。
グラウンドルール(抜粋)セミナーにはさまざまな参加者がおられます。多様性が尊重され、楽しさと暖かさが共存するフォーラムを目指しましょう。 宗教やバックグラウンド、仕事、年齢、ジェンダーにかかわらず、フォーラムはどのような個も尊重される場です。 ジェンダー、セクシャリティ、地域、学歴、年齢、家族関係 などについて不要な言及を避けましょう。 参加者の中には、自分とは異なるライフスタイル・価値観・問題をもっている人がおられます。 自分と相手の立場が違うことを考慮したうえで発言し、 相手のアイデンティティを軽んじる言葉は控えましょう。
私も今回、長い時間席を外していた参加者に何も考えず、「彼女と電話してきたの?」と聞き、すぐ謝罪をしたこともありました。恋人の有無も明らかにせず、恋人の性別も明らかにせず、恋人に対する話をしても構わないという話もしなかったのに、私は今省略された前提を「当然のこと」と受け止めることができる環境に置かれているために、何の考えもなく、発言することができたのです。些細に見えますが、自らのこのような「権力」と自らが誰かを「傷つける可能性」を悟ることから、多様性に対する包容と共に暮らす知恵を得ることができるのではないでしょうか(ある方は「厳格すぎる、これは日本の道徳教科書の影響ではないか」という意見をくれました。日本の道徳教科書についてはいつか機会があれば書いてみたいです)。
このようなグラウンドルールは私にもちょっと難しかったので、フォーラムを準備してくれた実行委員会の大人にも難しかったようです。特に実行委員会の二人の発言に対する報告が少しあったそうです。スタッフたちの会議の末に、お二人がプログラムの前に参加者の前に出て、なぜそんなことを言ったのか、自らについて反省した内容とおわびをしてくれました。私はその瞬間とても胸がいっぱいになりました。私が望んでいた尊敬できる大人の姿、そして誰も聞いてくれるはずがないと諦めず、自分の意見を明らかにし、相手の謝罪を受け入れている若者らの姿、これらを見ることができただけでも、今回のフォーラムの価値は十分だと思いました。おわびをした大人の方たちや、それを見ていた実行委員会の他の大人の方たちにも、おそらく大きな考えるべき材料を投げかけてくれたはずです。報告をした青年の参加者たちや、意識をしていなかったが、報告があったと聞いて自分の違和感を理解できた青年たち、また自分とは関係ない問題だと思っていた青年たちまでも、私たちが勇気を出して伝えた声に大人たちが反応することを経験できたからです。この経験があった前と後では、まったく同じであるはずがないでしょう。
関東大震災の朝鮮人・中国人虐殺
「関東大震災虐殺の歴史の現場」というテーマで、荒川周辺のフィールドワークをし、関東大震災虐殺を広く知らせるために設立された「グループほうせんか」の西崎雅夫さんに直接説明を聞く時間がありました。西崎さんは関東大震災当時に行われた虐殺に対する証言を集め、それを基に真相を明らかにし、後代に残すために、講演などを行っている方です。『証言集 関東大震災直後 朝鮮人と日本人』、『関東大震災 朝鮮人虐殺の記録 : 東京地区別1100の証言』などの本を出版し、そのうち二番目の本は韓国で翻訳が進行中でもあります。
私はこの本の翻訳を進めている「1923歴史館」(韓国、天安)の常設展示を通じて「関東コリアン・ジェノサイド」について、もう少し学ぶ機会がありました。震災後、何らかの仕掛けがあるように、どれだけ早い時点から、日本政府がデマを流すことに加担したかを示す電報の記録のようなものを見ました。しかし、今回のテーマでは、そのような構造的な分析よりは多くの個人の証言を基に、ストーリーテリングのように話を仕切ってくれました。どうしても関東大虐殺について習ったことがない人が多かったため、それに合わせた方式だっただろうと思われます。おかげで、当該虐殺が行われた現場から生き生きとした多くの証言を聞き、感じることができました。多くの参加者たちは全く知らなかったことを知ることとなったという感想を共有してくれました。
私は一方では、あまりにも直接的な話で、こんなに詳しく聞きたくないという感じも受けました。日韓間の歴史を学ぶ時、どんなことがあったかは知るべきですが、それがこのように詳細な方向でなければならないのかについての悩みがいつもあったのです。日本側にはそれらの事実は衝撃と反省を与えることもあると思いますが、韓国側にはどちらかというと敵対心を植えつけるようになるのではないかと思っているからです。そのため、このような事実を扱う時、他人の苦痛をどこまで明らかにするか、どのような目的で示しているのか、たくさん悩む必要があると思います。このようなフォーラムの場合であれば、むしろ深めるために、虐殺があったという証拠となる証言を何個か聞いて、国家がデマ拡散に加担してきたことを示す電報の記録と分析などを教わり、これに対する両国の取るべき対応に対する考えを分かちあってみる機会を作ったらどうなったのだろうと少し思いました。
韓国人被爆者
「韓国人被爆者問題から日韓の歴史を考える」という小田川興さんの講義も受けました。タイトルのように、「韓国人」被爆者問題という一つの話題でありながら、日韓の絡み合った歴史をまとめて学ばなければならなかったです。
日韓の間に国境がなかった日本による植民地時代、両国の国民は混ざり合って生きるしかありませんでした。当然、広島や長崎に落ちた原爆の被害は、日本国民だけではなく一緒に暮らしていた朝鮮人にも及んだのでした。しかし、原爆直後に朝鮮が日本から独立したことで、原爆の一部の被害者は日本国家の責任から逃れたと考えられていました。しかもこの件では韓国人被爆者についてのみ取り上げられましたが、直後に朝鮮が分断されたため、韓国/北朝鮮/朝鮮籍に区分される多様な在日コリアンとしての身分が問題解決をさらに難しくしたのでしょう。
歴史的にも難しい背景を持っていますし、しかも韓国側では原爆のおかげで解放されたとか、お祭りムードだったので被爆者に全く関心を払いませんでした。その後、日韓国交正常化の際にも、いわゆる「請求権を解決」してしまったため、原爆被害者も慰安婦・強制徴用と同様に補償を受ける道を閉ざされてしまったように見えました。最近、被爆者が直接行動をしはじめ、韓国や北朝鮮でも被爆者に対する調査を進めているなど、新たな動きはあるものの、日本からの支援はないということです。
関東大虐殺と同様に、どの国も責任を負わなかった事件だと言えるでしょう。可能であれば、市民の力を集め、真相をはっきりと明らかにし、記録を残し、最終的には責任を負うべき正確な対象(政府)に追及しなければなりません。時間が経ったから忘れてもいいのではないかとならないようにするために、私たち若い世代が正確に記憶を受け継いでいかなければならないという気持ちがさらに強くなりました。
横須賀基地
横須賀基地は在日アメリカ海軍司令部のある米軍施設です。1871年に横須賀造船所が設立され、1903年以後は大日本帝国海軍に、1945年以降はアメリカ軍海軍に利用されています。現在、横須賀の主要施設や工場が返還される地域に含まれているそうです。
グループと一緒に港に着くと、ボートに乗り、横須賀港の様子を1時間かけて周りました。山の下を突き破って弾薬を保管しているコンクリート施設と積載しやすいように組み立てられた弾薬、巡洋艦と機雷を追跡/破壊できる装備を備えた大きな船の間をあちこち駆け巡りました。新しい波止場を建設中の現場も通りかかったのですが、実はアメリカ軍が他国の土地を勝手に利用しているのを見るのは初めてではないのに、これが現在までも続いている暴力だということに気がつきました。フィリピン、台湾、韓国と日本につながる「軍事的な防衛ライン」を自分たちの土地からかなり遠く離れているところに、このように一生懸命準備している姿がちょっとムカッときました。
法的には「軍隊」のない日本のはずなのに、湾岸戦争とイラク戦争でそれぞれ最も多く、または先制攻撃でトマホークを発射したのは横須賀の母港の「ファイフ」と「カウペンス」だそうです。しかも軍事費は世界9位の541億円を出費しています。世界軍事力ランキング2021では5位になりました。有事の際、即時対応のための武器装備や埠頭施設が横須賀に設置され、最近までも作られている状況です。
こうした中で「平和憲法」の代わりに「集団的自衛権行使」の根拠が挿入され、「キャンプデービッドの精神」とかなんとか言っているから、横須賀市民は戦争の恐怖に震えざるを得ません。横須賀など日本の反基地運動をする方々の緊張感がとても高く感じました。韓国と同じように反戦・反基地運動をしようとする市民の数がそれほど多くなく、多様な代案を模索中であったため、これについても様々な意見を交わしました。軍需産業と軍事活動から出る炭素排出量を根拠に環境団体と連帯をする方案、青年と女性が運動に参加しやすいよう企画段階から一緒に議論すること、私の属する団体であるピースモモで計画中の東北アジアが皆で早期警報を叫ぶ、といったようなものでした。横須賀の反基地活動家の方々に会って、このように連帯の種を作り出したこともとても大切な経験でした。
まとめ
2023年8月15日、日韓ユース平和フォーラムを主催している日韓和解と平和プラットフォームでは共同声明を発表しました。日米韓軍事同盟を強化している現状を批判し、戦争ではなく平和の道へ進もうという内容です。平和の道に進むためには、本当に常套的な表現ですが、市民の力が切に必要です。
一人の独裁者が勝手に人権を蹂躙したり戦争を起こしたりできないように、私たちは民主主義を選択しました。国が下すすべての決定に韓国市民の意思が反映されるのは当然だと思います。ところで、なぜそこで例外的に軍事問題、戦争に対する問題だけは専門家が決めなければならないように、あるいは一部特殊な人だけが発言権があるように――例えば軍隊に行ってきた韓国男性のように――考えるのでしょうか? 私たちがそのように考えさせた力は果たして何なのか、どうすればそのような考えから抜け出し、平和を実現するための市民の力を取り戻すことができるのかを、膝を突き合わせて知恵を絞り出さなければならない時です。みんなの力を合わせてください!