観想と政治にかかわる行動

市民活動に献身するためのイグナチオの精神に根ざしたガイド

ブックレット「観想と政治にかかわる行動」(表紙)

イエズス会のカナダ・アメリカ合衆国上級長上協議会が2020年9月に出した文書『Contemplation and Political Action: An Ignatian Guide to Civic Engagement』 の抄訳を作成しました。

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目次

まえがき <日本語訳に寄せて>

 この「観想と政治にかかわる行動」という文書は、「市民活動に献身するためのイグナチオの精神に根ざしたガイド」として、カナダとアメリカ合衆国のイエズス会上級長上協議会から提供されたものです。

 文書を発表するにあたって、その協議会の議長であるティモシー・P・ケシッキ(Timothy P. Kesicki)神父は、「他の人のための男性と女性」という言葉と、イエズス会の総長(1965~1983年)であったアルペ神父が、1973年にバレンシア(スペイン)で、イエズス会の学校の卒業生のためにおこなった演説に言及しています。そして次のことを思い出させます(英語のケシッキ神父の手紙、“Dear Sisters and Brothers in Christ”参照)。

 卒業生に向かってアルペ神父は次のように語りかけました。「私たちイエズス会員は、正義のために、あなたたちを教育しましたか? あなたたちも私も、あなたたちの多くのイエズス会員である先生がその質問に、どう答えるであろうかということを知っています。彼らは、真の誠実さと謙遜さをもって答えるでしょう。いいえ、私たちはその教育をしていません。...これはどういう意味でしょうか? それは、私たちにはまだしなければならないことがある、という意味です。...難しいことでしょうが、私たちにはできます。なぜなら...私たちが自分たちを絶え間なく新たにして、新しい状況が生まれる度に、それに適合することを可能にさせる、イグナチオの精神の中心に何かがあるからです。その何かは、なんでしょう? それは、絶えず神の意志を求める精神です。それは、歴史のそれぞれの時代において、キリストがどこで、どういう方向に私たちを呼んでいるかを見極め、その呼びかけに応答することを可能にする、聖霊の動きに対する敏感さです。」

 現在、社会の周辺に追いやられている人々への、神の特殊な愛に激励されて、社会の変化の働き手になるようにという、キリストの私たちへの呼びかけに応答しようとすれば、必然的に公の場、政治的及び市民的活動に関与することになります。その関与の助けとして、カナダとアメリカ合衆国イエズス会上級長上協議会のメンバーはこのガイドをまとめました。

 アメリカ合衆国の独特の問題と思われる、人種差別に対する抗議を一つの背景にしています。しかし、教皇フランシスコが、最近発表した回勅“Fratelli Tutti”(『皆きょうだい』)に書いているように、「人種差別は、簡単に変化するウイルスであり、なくならないが隠されます。そして、いつも待ち伏せしています。」(97番参照)

 ケシッキ神父が書いているように、この文書は、「政治的問題の包括的なリスト」ではありません。...正義を実行する信仰に献身する人々として、私たちが政治にかかわる行動と対話に取り組む方法を検討する機会を、私たちに提供する」ものです。

ボネット ビセンテ、S.J.
イエズス会社会司牧センタースタッフ

1. 教皇フランシスコの既成文化に逆流するメッセージ:「良いカトリック信徒は、政治に干渉する」

 教皇フランシスコのメッセージの中で、2013年の一つのホミリー(説教)にあったものより、もっと既成文化に逆流するものを見つけるのは難しいでしょう。そのメッセージは、「良いカトリック信徒は、自分自身の最善を尽くして政治に干渉することによって、統治する人々が統治できるようにする。社会問題に関する教会の考えによれば、政治は、共通善に尽くすものであるから、愛の最高の実践方法の一つである。誰も無関心でいられないだろうね? 私たちは皆何かをしなければならない!」ということでした。

 ここで教皇フランシスコが提案していることを考えてみましょう。政治参加はやりがいがあるということだけではなく、「愛の最高の実践方法」の一つです。チャリティ、またはラテン語のカリタスは、神学的な最高の美徳であり、私たちがより一般的に「愛」と呼ぶものを表わすことばです。ですから、教皇フランシスコは、政治は受肉した、具体的な方法で隣人を愛することによって、神を愛する重要な方法である、と言っています。カトリック信徒は、政治の煩雑さを避け、関わらないのではなく、政治に関与することに――「干渉」することにさえ!――呼ばれています。

 教皇の励ましの口調は、今日「政治」ということばとよく組み合わされる一部の形容詞――分裂した、機能不全な、見苦しい、痛烈な、救いようのない――とかなり対照的です。

 教皇フランシスコが言ったことは、本当にその意味だったのでしょうか。驚くのは当然でしょう。

 実際に、政治がどういうものになり得るかについての教皇フランシスコの建設的な見方は、カトリック教会の考え方からすれば、新しいものではありません。その見方は、過去125年間の歴代の教皇が著した公文書のテーマを反映しています。たとえば、教皇聖ヨハネ・パウロ2世は、『いのちの福音』という回勅において次のように書いています。「キリストの尊い使命にあずかってわたしたちが行う、人間のいのちを支え伸張させる務めは、愛の奉仕をとおして成就されなければなりません。この愛の奉仕は、個人的なあかし、さまざまな形のボランティア活動、社会的活動と政治的コミットメントをもって現わされます」(87番参照、この文書では、原文の“political commitment”は強調されています)。やりがいのある善としての政治、という教皇たちの共有したビジョンは、人間の尊厳を保護し、すべての人の幸福を促進するために、あらゆるレベルでの政府の本質的な役割に関するカトリック教会の教えを反映しています。さらに、教皇フランシスコと彼の前任者たちは、党派の争いを超越する「政治」の幅広い定義に取り組んできました。その代わりに、彼らは地域や国の、さらにはグローバルなコミュニティが一緒になって、自分たちの共同生活について決定を下す方法について言及しています。

 今日の私たちが共有している政治のあり方の悲しい状況にもかかわらず、それぞれの問題に関して、立法のために働きかけ、コミュニティをまとめること及び投票するなどの活動を通じて、信仰に基づいた考えを提供することは、弟子としてイエスに従うために不可欠です。なぜでしょう? それは、市民としての参加が、憐れみ深く飢えている人に食べ物を与え、のどが渇いている人に飲み物を与え、見知らぬ人を歓迎し、裸の人に服を着せ、病人と牢に入っている人のケアをするというキリストの福音の指示に従うために、私たちが取り組むことのできる力強い一つの方法であるからです(マタイ福音書25・31-46参照)。私たちは、直接のサービスを通して、必要に応じて個々のニーズに応えることによって、「飢えている人に食べ物を与える」ということを実践します。しかし、人々がもう飢えることがないように、私たちは、社会の悪いところの根源まで探り、システムと構造を変えようとします。この後者のための働きは、政治に関与することを必要とします。

考察と話し合いのための設問

 政治にかかわる活動は、愛の最高の実践方法の一つであると思いますか? なぜそうだと思いますか? なぜそうではないと思いますか?

2. COVID-19パンデミック(新型コロナウィルス感染症)は、私たちが一つの人類家族として一体となっていて、すべての人の共通善と尊厳のために協力するように 呼ばれていることをはっきりと思い出させるものです。

 雨が降るローマの夜、バチカンの聖ピエトロ広場で、教皇フランシスコが、COVID-19パンデミックによって苦しんでいる世界のために、一人で祈っている姿は、忘れることのできない光景です。

 私たちが共有しているパンデミックの経験と、嵐を静めるイエスの福音の物語(マルコ福音書4・35-41参照)とを結び付けて、教皇はパンデミックに至るまで何年にもわたって私たちが無視してきて、今、パンデミックによってさらに鮮明になった不正を嘆きました。コロナウィルスは差別をしませんが、私たちは、最も貧しく最も傷つきやすい人々が広範囲に及ぶ病気の悪影響を不釣り合いに受けていることを知っています。教皇フランシスコは、次のように神に祈りました。「あなたが私たちよりも愛しているこの世界では、私たちは力強くて何でもできると感じて、速くて危険極まりないスピードで先へ進みました。利益を上げることに魅惑されて、私たちは物に巻き込まれて、急ぐことに誘い出されています。あなたに叱られても私たちは立ち止まりませんでした。私たちは、世界中の戦争や不正によって目覚めることもなく、貧しい人々や病んでいる私たちの惑星の叫び声を聞こうとしませんでした。病んでいる世界で、健康でいられると思い、私たちは関係なく歩み続けました。嵐の海の中にいる今、私たちは『主よ、起きてください!』、と嘆願します。」

 私たちの応答は何でしょうか? 教皇フランシスコは、私たちにとって、「選びの時」であると言っていました。私たちは、孤立主義、「自分と自分のものは第一」という考え方に回るのでしょうか? それとも、兄弟姉妹たちがどこにいても、私たち皆は彼らの「番人」(創世記4・9参照)であることを思い出すためにこの時を利用できるでしょうか? あの夜に教皇フランシスコは、次のように語りました。「主は私たちに問いかけ、嵐の真っただ中にいる私たちに、もう一度目覚めて、すべてがあがいているように見えるこの時に、力、サポートと意義を与えることのできる連帯と希望を実践するように招いています。主は私たちの復活への信仰を再度よみがえらせるために、私たちを目覚めさせてくださいます。」

 テクノロジーに助けられて、パンデミックはすでに多くの人々が一緒に生活し、働き、祈ることに、新しい方法を取り入れるためのきっかけとなりました。しかし、私たちが共有している政治的な生活に対するCOVID-19の完全な影響が見えるまでには、何年もかかるでしょう。私たちは、相互のつながりに目覚め、最も傷つきやすい人々を保護することを再び約束することによって、パンデミックに対応する恵みを祈り求めます。

3. イグナチオの精神に根ざした市民としての献身には、組織的な人種差別に立ち向かうことが必要です。

 私たちは、米国の全土とその範囲を超えて流れ広がった人種差別に対する抗議を背景にして、考慮のためのこの文書を提供しています。ジョウージ フロイド(George Floyd)、ブレナ テイラー(Breonna Taylor)、アーモウ アーベリー(Ahmaud Arbery)の死は、警察官や武装した自警団員によって殺された、有色人種の女性と男性の、胸が張り裂けるような、長い一覧表への痛恨の追加です。暴力による彼らの死は、正義を求めて叫び、私たちの深い悲しみと怒りを引き起こします。人々のいのちと尊厳を保護するという私たちの決心は、人種差別があるところのどこであっても、それに立ち向かうことを私たちに要求しています。組織的な人種差別を取り除こうとしない、イエス・キリストへの信仰に根ざした政治への献身は、途方もなく不完全です。

 イエズス会は、組織的な人種差別への自らの関与を認めています。イエズス会員は、イエズス会の創立期から世界中で、奴隷の所有と貿易に参加しました。植民地時代から(合衆国憲法の)修正第13条の通過まで、奴隷にされた人々の不本意な労働は、現在米国であるところで、イエズス会の宣教活動のための努力と教育機関の設立、拡大と維持を助けました。奴隷制度の廃止後に、一部のイエズス会員は人種差別待遇廃止などのために重大な努力をしましたが、多くの場合イエズス会員は、債務のために人々を拘束し、黒人労働者への公正な補償を拒み、黒人男性のイエズス会への入会を断り、礼拝堂や学校とその他の場所で、人種差別的な分離を継続させることなどで、差別的な慣行に従事し続けました。

 カナダと米国のイエズス会は、最近になってやっと、受け継いだこの歴史に本気で立ち向かい始めました。たとえば、米国では、奴隷制度、歴史、追憶と和解というプロジェクトで、イエズス会所有の奴隷にされた人々の生きた体験を学術調査しています。このプロジェクトによって、真実を伝え、和解し、癒すというプロセスに取り組んでいます。奴隷として拘束された人々の子孫と対話して、歴史的な被害を認め、お互いの関係を修復しようとし、コミュニティ内で今日も人種的不平等の形で存続している奴隷制度の遺産に立ち向かっています。

 カナダでは、イエズス会は全寮制の学校で、先住民族の学生が被ったトラウマを調査する国家の真実と和解委員会(Truth and Reconciliation Commission、TRC)に参加しました。その調査の進行において、私たちはまず「私たちには責任があります」、次に「申し訳ありません」、そして最後に「私たちにはあなたがたの助けが必要です」、と言えるように至りました。カナダのイエズス会は、私たちが運営していた学校にあった過酷な状態、残忍な罰と性的いたずら、そして伝統的な先住民族の文化を同化することを狙った体制に参加したことについて正式に謝罪しました。私たちは、自発的にさまざまな方法でTRCの行動への呼びかけに応答しました。そして私たちは、司牧者や友人として私たちを受け入れ続けている多くの先住民族の人々に大変感謝しています。

 この仕事には長期的なコミットメントが必要です。私たちは自分たちの失敗を後悔し、矯正し続けなければなりません。私たちは、奴隷にされた女性と男性の子孫、先住民の協力者、そして他の有色の人々と一緒に、イエズス会内外で人種差別に反対して働き続けなければなりません。

 フォーダム大学の神学教授であり、米国の教会で、人種差別に対する正義についての、最も有力な声の一つであるブライアン・N・マシンゲール(Bryan N. Massingale)神父は、人種差別に反対する活動をしながら、祈るように私たちに勧めます。彼は、2020年6月の“National Catholic Reporter”という雑誌で次のように書きました。「確かに人種差別は政治的な問題であり、社会的な分裂です。しかし、最も深いレベルにおいて、人種差別は魂(心)の病です。それは、有色の姉妹兄弟を無感覚に無視するコミュニティをつくることを可能にする、人間の精神の深遠なゆがみです。この魂(心)の病は、深い祈りによってのみ癒すことができるのです。確かに社会改革が必要です。公平な教育の機会、警察の慣例の変化、医療の公平な利用の可能性、雇用と住宅にかかわる差別の終息は必要です。しかし、一部の利益をもたらし、多くの人々に恐怖を起こさせる人種差別に邪魔されないで生きることを可能にする、私たちが持つ神についての間違った小さなイメージを粉砕できるのは、神の愛の侵入だけです。」

 自分たちの信仰に導かれて、世界中で人種差別に対して立ち上がった数えきれない信徒は、この文書で私たちが奨励している、福音に触発された市民活動への献身のとても良い例です。私たちは、神の愛が私たちの心を満たし、人種差別に対する正義のために戦うように、私たち全員を鼓舞するよう祈ります。

4. イグナチアンファミリーと呼ばれるイエズス会員とその協働者は、和解と正義の使命を帯びて、そしてイエズス会の使徒職全体の4つの方向づけに導かれて、政治の改善のために手助けすることができます。

 教皇フランシスコの、市民生活において信仰を実践するようにという主張は、イグナチオの精神の価値観に深く共鳴しています。私たちは、「他者のための女性と男性」になるよう決心しています。その他者とは特に社会の底辺にいる人々です。2016年に開催されたイエズス会の第36総会は、「私たちは新たに正義と平和に奉仕するようにと呼びかけるキリストの声を聞いて」(第1教令25番)、イエズス会員とその協働者に、和解と正義の使命のため、共に働くように呼びかけました。そして私たちは、聖イグナチオとその最初の同志をはじめ、歴代のイエズス会員からインスピレーションを受けています。彼らは自分たちの信仰に基づいて、活動しながら観想するという生き方をして、世界から脱却するのではなく世界にかかわることにしました。この価値観と、貧しい人たちに対して、特別にケアする神への信仰に導かれて、私たちの政治への関与は、政治をより良いものにすることができます。

 政治への関与に関する私たちの熟考は、イエズス会の使徒職の4つの道しるべになる、「イエズス会使徒職全体の方向づけ」(Universal Apostolic Preferences、UAPs)に従ってまとめられています。全イエズス会の数年にわたる識別のプロセスの成果であり、教皇フランシスコに承認され、イエズス会の総長であるアルトゥーロ・ソーサ神父によって公布されたUAPsは、私たちにとって信仰について考え、公の場でその信仰を実践するための役に立つ枠組みです。

 イエズス会使徒職全体の方向づけは、次の通りです。

  • 霊操および識別を通して神への道を示す。
  • 和解と正義のミッションにおいて、貧しい人々、世界から排除された人々、人間としての尊厳が侵害された人々とともに歩む。
  • 希望に満ちた未来の創造において若い人々とともに歩む。
  • 「ともに暮らす家」(地球)への配慮と世話を協働して行う。

 UAPsが市民としての生活のために役立つ多くのことを提供していることは、その表題だけでもわかります。そして私たちがイグナチオの精神に根ざした政治のプロセスへの関与について黙想するときに、そのUAPsは背景にあるでしょう。

 この文書には、話し合いのための設問が含まれています。私たちは、このガイドが学校や大学、小教区や社会使徒職センター、管区本部、イエズス会のすべての共同体とイグナチオの伝統に基づいているすべての使徒職において、話し合いと市民としての関与への新たな取り組みのために、励ましとなることを願っています。

反省と話し合いのための設問

 私は、公の場で自分の信仰を活かすという呼びかけをどのように実感しているでしょうか?

5. 私たちの市民としての関与の仕方は、イグナチオの霊性に根ざすものです。

 イエズス会の使命の中心には、霊操と識別があります。私たちのすべての使徒職は、イグナチオの霊的伝統に基づいています。そして、独自の方法で神への道を示そうとしています。教皇フランシスコが、UAPsを承認する手紙に書いたように、「祈りに満ちた態度なしには、他の方向づけも実を結びません。」ですから、イグナチオの精神に基づいて、政治への関与について熟考するときには、私たちは自分たちが置かれている状況の、祈りに満ちた観想から始めます。

反省と話し合いのための設問

 イエスに従うことに献身している人として、その 献身はどのように私の政治への関与に反映されているでしょうか? イグナチオの霊性と識別は、 私の市民として関与する方法に、どのように導くことができるでしょうか? そして今度、私の市民としての関与は、どのように私の祈りの一部になることができるでしょうか?

6. 私たちは、政治を含むすべてにおいて神を見いだそうとします。

 G・K・チェスタトンは、神がすべてのものに宿っているという聖イグナチオの熟考を反映するある一節で、次のように書いています。「あなたは食前の祈りを唱えます。非常に良いことです。しかし私は、コンサートやオペラの前、劇やパントマイムの前、本を開く前、また、スケッチや絵を描く前、水泳、フェンシング、ボクシング、散歩、遊び、ダンスの前、そしてペンをインクに浸す前に祈ります。」私たちは、神を常に思い出さなくても、神の現存に常にそして明確に気づいていなくても、神が常にこの世で活動しているという私たちの信念を確信して、このリストに政治にかかわる活動を追加することができます。

 政治の混乱のなかで神を見いだすという開かれた心で、市民としての関与に取りかかれば、私たちの献身は、ケーブルニュースやマスコミでよく見られるより暗い傾向と比べて、どのように異なってくるでしょうか? そのように取りかかれば、私たちは、毎日の糾明という祈りによって、たびたび得られる同じような実りを見いだすかもしれません。その実りとは、より大きな感謝、予期せぬ場所での神のより深い認識、自分自身の欠点を認める謙虚さ、そして、自分の成長を助ける神の優しい慈悲への信頼です。これらすべては、私たちの政治への関与のため、非常に役立つ聖霊のたまものです。

 そもそも、私たちを政治に関与するように引き寄せるのは、専心してあらゆることにおいて神を見いだそうとすることです。私たちの市民としてのコミットメントの土台は、神にかたどって創造されて、受胎の時から自然死まで、そしてその間にあるすべての段階において、キリストの顔を帯びている、それぞれの人間の尊厳を認識しているということです。

反省と話し合いのための設問

 政治は、神を見いだそうとするための力を引き出す場になり得るのです。政治において働いておられる神を見いだすために、どういう祈りや行いが手助けになるでしょうか?

7. 私たちにとって、霊的で、価値のある、大きな課題は、自分自身の政治的な見解から自由になるための訓練です。なぜなら私たちは、福音に照らされて決定を下すように呼ばれているからです。

 聖イグナチオは、『霊操』のなかで、「人間が創られているのは、主である神を賛美し、敬い、仕えるためであり」(23番)、私たちはその特定の使命を果たすために手助けとなる物事、経験や人々とのみかかわるべきです、と書いています。これは、神と隣人への愛を妨げ得るあらゆるものへの不健全な愛着を手放す、ということを意味しています。

 愛着の顕著な源の一つは、特に分裂しているこの時代において、私たち自身の個々の政治的見解です。私たちは、自分たちの先入観にとらわれて、その見解に従って献身しすぎる可能性があるため、最近の研究の結果が暗示するように、個人の道徳的枠組みによってその人の政治的イデオロギーがつくられるのではなく、たびたびその逆です。しかし私たちの信仰は、前者の方を要求しています。

 テキサス州、ブラウンスビルのダニエル・E・フローレス(Daniel E. Flores)司教は、2020年6月に行われたインタビューで、このトピックについて次のように語っています。「私たちの課題は、教会の教え、私たちの信仰、福音、そしてキリスト自身が、私たちの政治組織の編成、政治の分野や政治の世界への関与の光となることを可能にすることです。私たちは社会に関与する必要があります。物事を判断するための主なレンズは福音でなければなりません。 しかし、時々私たちは、――私たちは必ずしもそれに気づいているわけではありませんが――政治についての自分たちの見解が、福音を判断するためのレンズになることをゆるしてしまいます。それは、教会のなかの分裂の原因の一つだと思います。」

 私たちの優先順位を決めるにあたって、カトリック社会教説の導きを受け入れるなら、人間のいのちと尊厳を守ろうとする私たちの一貫した決心によって、私たちが「政治的にホームレス」になってしまう可能性もあります。それは、その決心によって、どちらの党のプラットフォームにも合わない問題についての、私たちの見解が明確に現れるからです。米国の司教たちは、「塩と光の共同体」(マタイ福音書5・13-16参照)という文書で、その一貫性について次のようにきれいに述べています。

 見境のない個人主義のこの時代に、私たちは家族とコミュニティを支持する。強烈な消費主義のこの時代に、私たちは、持っているものではなく、お互いにどのようにかかわるかが大切であることを強調する。かかわりにおいての維持や勤勉な努力を重視しないこの時代に、私たちは、結婚が永遠不変のものであり、子どもが重荷ではなく、恵みであることを信じている。孤立が増しているこの時代に、より広い世界に対して、平和を求め、移民を歓迎し、苦しんでいる子どもたちと難民のいのちを守る責任があるということを、私たちは国家に思い出させる。金持ちがさらに金持ちになり、貧しい人がさらに貧しくなるこの時代に、私たちは、私たちの社会の道徳テストが、私たちの間に最も弱い立場に置かれている人々をどのように扱い、どのようにケアするのかを主張する。

「塩と光の共同体」

 政治についての対話や政治への関与において、自分自身の政治的見解にとらわれないで、自由になるということは、私たちが最初に同意できない、誰かの方が正しいかも知れないということや、真実全体が一つの党あるいは一人の候補者のプラットフォームにはない可能性にオープンであるということです。私たちは、『霊操』にある「イグナチオによる前提」(『霊操』22番参照)を念頭において、他の人々に近づくのです。その前提とは、たとえ相手との不一致が深刻であるとしても、速断してその人の悪意だという結論を出すより、彼の見解を寛大に解釈する心構えがなければならないということです。

 自分の見解にとらわれないで、自由になるというのは、私たちのものと非常に異なる意見を持っている人々の立場にたって、それぞれの人の動機、世界観、痛みを理解しようとすることです。自分自身の狭い視点を手放すことによってのみ、私たちは和解への第一歩である共通の基盤を見いだすことができるのです。

 自分自身の見解から自由になるというとらわれないことによって、正義のために働くことや、私たちにとって大事である問題について、思い切って意見を述べる情熱が衰えてはなりません。私たちは世界をより良いものに変えようとしていますが、それには何らかの対立が必然的に伴うことになります。しかし、他のすべての人を、神にかたどって創られ、神に愛されている子どもたちとしてみなすということは、私たちが尊敬をもってすべての人にかかわることを必要とします。

反省と話し合いのための設問

 私は、私自身の政治的信念にとらわれないで、どの程度自由になっているでしょうか? 私の見解のいくつかが、完全に福音と一致していない可能性を本当に受け入れようとしているでしょうか? 原則と価値観の核心にコミットし続けながらも、どうすればもっとオープンになれるでしょうか?

8. 市民生活にかかわる難しい選択ができるためには、識別が必要です。

 イエズス会の総長は、「イエズス会使徒職全体の方向づけ」(UAPs)を公表した書簡において、次のように書いています。意思決定を必要とするすべてのときに、イエズス会員は、「個人的にも共同体としても霊的識別を実践し、広めることに専念しています。これは、常に私たち自身が聖霊の導きに身を委ね、神の意志を求め、見いだすという選択です。」

 良い選択肢と悪い選択肢が明確である場合、その決定のための識別は必要ではありませんが、政治にかかわる最も多くの選択の場合、判断はそれほど明らかではないのです。私たちは、貧困に対してどのように戦いますか? どのように移民を歓迎しますか? 人種差別をどのように廃止しますか? 私たちの刑事司法制度を、より公正なものにするにはどうしますか? 女性蔑視や性差別をどのように終わらせますか? どのようにして、胎児を含む人類家族の最も傷つきやすいメンバーを保護しますか? 私たちは、誰もが分かち合いのための共有できる物理的および精神的な空間と時間をつくり、そこですべての視点が考慮され、賛否両論が評価されて、そして話し合いに、祈りながら考察できる期間を取り入れて、これらの質問とその他のたくさんの質問について、伝統的な識別の方法をもたらすことができます。

 真の識別には、私たちの最も深いところで、キリストとの関係を深めることが必要です。真の識別は、他の人々に自分の見解を押し付けるのではなく、自分一人では成し得ないという謙虚な態度で、私たちの世界に対する神の希望と、その希望を実現するための最善の方法について、他の人々と協力してさらに学ぶということです。

反省と話し合いのための設問

 政治分野にかかわる識別には、自分にとって問題となり得るものも含め、さまざまな視点からの見解を聴くことが必要です。自分は、どういう声に耳を貸していますか? どういう声を無視していますか?

9. 私たちの政治への取り組みは、社会の周辺にいる人々との親密なかかわりに根ざしています。

 イエズス会員であるグレグ ボイル(Greg Boyle)神父の、お気に入りの一つのことばは、「親類感」です。

 ボイル神父は、ロサンゼルスの近くにあるボイル ハイツ(Boyle Heights)で、ギャングメンバーと活動するホームボーイ インダストリーズ(Homeboy Industries)を設立し、そこで指導者として務めています。彼は、ホームボーイのビジョンを説明するために「親類感」という用語を使っています。

 彼は、現代の一流書物である“Tattoos on the Heart:The Power of Boundless Compassion”(『心の入れ墨:無限の思いやりの力』)で次のように書いています。「他者に奉仕するのは良いことです。それは始まりです。しかし、大舞踏場に通じる廊下に過ぎません。親類感は、他者に奉仕するのではなく、他者と共に現存するということです。」

 このビジョンは、『心の入れ墨』の詩的な部分で、最も美しくとらえています。そこで、誰をも除外しない、常により広くする「親類感」の輪が描き出されています。全文を読むと、考えてみる甲斐が大いにあります。

 私たちを切り離せるような昼の光はない。
 親類感だけである。神が認知できるような、親類感のコミュニティを創造し、じわじわとお互いにより近くなる。まず、私たちは神と共にこの思いやりの輪を想像する。次に、自分たちを社会の周辺に近づかせて、周辺そのものがなくなったかのように、誰もその思いやりの輪の外にいないことを想像する。私たちは、尊厳が否定された人々と共にいる。私たちは、貧しい人々、無力な人々、声のない人々と共に同じ位置にいる。社会の周辺で、私たちはたやすく軽蔑され、容易に除外されている人々に加わる。悪魔に取りつかれたかのようにされることがなくなるよう、悪魔に取りつかれたかのようにされた人々と共に立つ。いつか人々を使い捨てにすることを止める日が来るように、私たちは、使い捨てにされている人々のすぐ隣に立っている。

 親類感だけである。神が認知できるような、親類感のコミュニティを創造し、じわじわとお互いにより近くなる。まず、私たちは神と共にこの思いやりの輪を想像する。次に、自分たちを社会の周辺に近づかせて、周辺そのものがなくなったかのように、誰もその思いやりの輪の外にいないことを想像する。私たちは、尊厳が否定された人々と共にいる。私たちは、貧しい人々、無力な人々、声のない人々と共に同じ位置にいる。社会の周辺で、私たちはたやすく軽蔑され、容易に除外されている人々に加わる。悪魔に取りつかれたかのようにされることがなくなるよう、悪魔に取りつかれたかのようにされた人々と共に立つ。いつか人々を使い捨てにすることを止める日が来るように、私たちは、使い捨てにされている人々のすぐ隣に立っている。

 この一節は、教皇フランシスコの「使い捨ての文化」――市場経済の発展に貢献しないから、貧しい人々と傷つきやすい人々が使い捨てにされる文化――とその対策になる「出会いの文化」――境界を越え、社会の周辺に押しやられた人々と関係を築くように、権力と特権のある人々に呼びかける文化――を思い起こさせます。

 「イエズス会使徒職全体の方向づけ」(UAPs)で述べられているように、「貧しい人々とともに歩む」ためには、彼らに近づくこと、真剣に彼らの話を聴き、そして彼らの苦しみの原因となっている、社会的不公正を理解するための、勤勉な働きが必要です。ボイル神父が書いているように、「私たちが求めていることは次のことです。貧しい人々がどのようにその負担を背負っているか、ということについての判断を下すのではなく、彼らが耐えなければならないことに対して、畏敬の念を抱く思いやりの心です。」

 地域奉仕イベントや短期の奉仕ツアーは良い出発点ですが、私たちはさらに進むように呼ばれています。社会の周辺にいる個人やコミュニティとの持続的なつながりと真の関係は、最終的に私たち自身の回心をもたらします。除外された人々と共に歩むということには、不正を被った人々が、自分たちの声をつかって解決策を提案し、それに向かって取り組むことができるようにすることが含まれます。教皇聖パウロ6世が自己決定の重要性について書いた文言を借りて(『ポプロールム・プログレシオ――諸民族の進歩推進について――』、65番参照)、教皇フランシスコは次のように語っています。「世界のすべての民族は自らの将来を建設していきたい。…彼らは、権力のより強い人々が自分たちほど力のない人々に従属させるような形での保護か干渉はほしくありません。」「声のない者のための声になる」という言い習わしは、胎児の支持のためならつかえますが、公然と社会の周辺に追いやられた個人やグループと活動する場合、適していません。

 多くの場合、除外あるいは抑圧された人々を考えると、私たち自身のイエズス会の学校、小教区、大学、管区の事務所の門の外を見ることができます。しかし、サンフランシスコ大学の多様性への関与とコミュニティ・アウトリーチを担当する副学長、メアリー ワーデル ギラドゥッツィ(Mary Wardell Ghirarduzzi)博士が、イエズス会員とその同僚のためのプログラムへの演説で言ったように、貧しい人々と共に歩むというUAPsの呼びかけは、「愛する共同体として、驚くべき、そして美しい仕事をしているにしても、私たちのうちに、そして私たちの間にある状態、見えなくされているという状態から脱出することを求めています。私たちは…私たちの間で、貧しい人々が誰であるかを考えるように、と呼びかけられています。」イエズス会員とその協働者、そして私たちの幅広いネットワークは、人種、民族性、ジェンダーとその他に基づく除外の罪に対して免疫がありません。私たちが、抑圧された人々と共に歩み、彼らから誠実に学ぶように努力するときに、非常に重要なのは、我が家から始めなければならないということです。

反省と話し合いのための設問

 私の友人のなかで、私とは違う社会階級、人種 あるいは文化から来ている人は何人いますか?

10. 私たちは、除外された人々の話を聴く、そして時のしるしを読む。この「二重の聴く」(dual listening)によって、私たち自身、私たちの政治にかかわる優先順位、そして私たちの行動が整えられます。

 貧しい人々や傷つきやすい人々に実際に近づくことによって、政治にかかわる行動を通して、社会正義のために働きたい願望は生まれてきます。友情は私たちを変えました。そして私たちは、私たちの友人を抑圧している社会構造を変えるために、彼らと一緒に働きたい、と思わざるを得ません。

 出エジプト記(3・7-10参照)では、神は奴隷になっているイスラエル人の叫び声を聞き、彼らのために介入します。被抑圧者に対する神の特殊な愛は、常に私たちの心と思いにあって、政治にかかわる私たちの優先順位を具体化するはずです。私たちは、経済が、社会の上部にいる人たちにどのように役立つかではなく、実質的に貧しい人々にどのように役立つか、によって判定します。

 マーガレット シルフ(Margaret Silf)は、“Companions of Christ: Ignatian Spirituality for Everyday Living”(『キリストの同志:日常生活のためのイグナチオ的霊性』)という書物において、注意深く私たちの周りの幅広い世界に耳を傾けて、「時のしるしを読む」という実践について次のように書いています。

 時のしるしを読むということは、「社会の直接の表面の下にある、見えない流れに触れながら、そのレベルにおいて、何が私たちをより完全な人間性に導いているのか、そして何が私たちの人間性を衰退させているのかを識別するということです。私たち一人ひとりには、潜在的な神秘家と預言者がいます。神秘家は、物事の表面下で実際に起こっていることを直観し、普通のことの真っただ中に神を見いだして、神の目で他の人々を見ます。預言者は、神秘家が見ているものに対処します。彼は、人類の満ち溢れるいのちへの旅を損なう恐れのあるものすべてに挑戦し、その旅に栄養と力を与えるすべてを奨励します。

  シルフがもっている、私たちの中での神秘家や預言者についてのイメージは、「行動において観想する人になる」というイエズス会員のコミットメントを反映しています。私たちは、社会の周辺で苦しんでいる人々において、キリストの顔を観ます。そして、私たちの社会をつくっている勢力に特別な注意を払います。その「二重の聴く」によって、政治にかかわる私たちの優先順位を識別します。それから、この識別は預言的行動へと私たちを導きます。

反省と話し合いのための設問

 今日、最も人間のいのちと尊厳を脅かしている社会的勢力は何でしょうか? 私は、自分自身の生活において、そして、コミュニティの他のメンバーと協力して、どのようにそれらの勢力に対処できるでしょうか?

11. 私たちの惑星(地球)は、危険にさらされています。 これは、私たちが無視できない時のしるしです。

 カナダのオンタリオ州グエルフにあるイエズス会イグナチオ・センターのグレグ ケネディ(Greg Kennedy)神父は、次のように書いています。「あなたは喜んで受け取った、ある贈り物を考えてください。それは、衣料品、宝石、あるいは芸術作品だったかも知れません。それともそれは、あなたの子どもか友達がつくったもの、あるいは親愛なる祖父があなたに与えた家宝であったでしょうか。それが何であれ、今それを想像して、もらった瞬間を思い出してください。あなたにその特別な贈り物をくれた人を、想像してみてください。そして、その人の顔を思い浮かべてください。

 今度は、あなたがその贈り物をトイレに流したり、あるいはハンマーで打ち壊したりしているところを、贈ってくれた人に見られたら、とその顔の表情を想像してみてください。」

 私たちが、これほどずうずうしく地球を破壊することは、共通の家としてこの地球を与えてくださった神に対して、同じことをしているのです、とケネディ神父は書いています。「私たちが、もらっているこの地球で、まだどれほど不満であるかを見て、地球の創造主はどのように感じているでしょうか? この地球上のすべての人が、北米の人々と同じような生活をし、私たちと同じように消費や廃棄をした場合、地球5つ分相当が必要となります。私たちは、〈ありがとう〉ではなく、〈これだけですか〉、と繰り返して言っているようです。」

 ケネディ神父は、教皇フランシスコが2015年に発表した画期的な回勅『ラウダート・シ』を反映しています。教皇自身は、回勅から引用して、同じ年にTwitterに投稿したように、「わたしたちの家である地球は、ますます巨大なゴミ山の体(てい)をなし始めています。」(『ラウダート・シ』21番参照)。教皇の英語のポストだけでも、6万回以上リツイートされました。これは、教皇のポストの中では、最もリツイートされたものの一つです。彼の率直さは痛いところに言及して、私たちを行動へと呼びかけます。

 二酸化炭素排出やその他の汚染による、地球への被害についての意識は、かつてないほどに高まっています。そして、より忠実に創造の贈り物のケアをするために、私たち全員が、自分の役割としてできることはたくさんあります。創造の美しさに触れれば、それを保護するために、もっとたくさんのことをするよう励ましになり得るのです。『ラウダート・シ』において、教皇フランシスコは次のように書いています。「全物質界は、神の愛を、わたしたちへの神の限りなき愛の思いを語っています。土壌、水、山々、つまりあらゆるものは、いわば神の愛撫です。わたしたちの神との友情の歴史はいつも、濃密な個人的意味を帯びた個別の場所と常に結びついています。場所を思い出し、またそうした記憶を思い返すことは、わたしたち皆にとって大いにためになります。丘陵地帯で育った人、泉の傍らに座ってはそこから飲んでいた人、外に出て近所の広場で遊んだ人なら、誰にとっても、そうした場所に戻ることは、何かしら本当の自分を取り戻すいい機会です。」(『ラウダート・シ』84番参照)

 創造への接近を育むことによって、私たちは変わります。私たちが自然との関係によって、すでに受けた影響は何か、そして、どのようにより深い回心に招かれているかを知るため、環境に関する自分の意識の糾明を行うことは、イグナチオの独自の方法です。

 地球のために政治に取り組むことは、創造物を保護する重要な方法でもあります。エネルギーと物資の消費を削減するための、個人や地域社会の努力は値打ちがあり、徳の生き方の一部ですが、それぞれの政府は、創造に好意的な法律や政策を通じて、巨大で確かな影響を与えることができます。ですから、部屋を出るときは電気を消す必要がありますが、選出された代表者に手紙を書いたり、気候に関する行動を駆り立てる抗議に参加したりする必要もあります。2019年に、イグナチオの精神に基づいた多くの若者の主導で、世界中において行われた気候に関するストライキは、市民による地球のための取り組みの好例を提供しました。

 創造のケアは、貧しい人々と歩み、社会正義のために働くことと密接につながっています。このつながりは、「総合的なエコロジー」(integral ecology)、すなわち地球のケアと社会の周辺にいる人々のケアは相伴っている、という考えによるものです。『ラウダート・シ』において、教皇フランシスコは次のように書いています。私たちは、「貧しい人やヒト胚や障害者の価値を現実の一部として認め損ねるとすれば、あらゆるものはつながっているのですから、自然そのものの叫びを聞くことも困難になります。」(『ラウダート・シ』117番参照)。環境破壊と気候変動は、貧しい人々と傷つきやすい人々に、不釣合いな影響を及ぼします。なぜなら、彼らの多くは、食糧と収入を得るため、土地に依存しているからです。私たちは、「大地の叫びと貧しい人の叫びの両方に耳を傾け」、それに応答しなければなりません(『ラウダート・シ』49番参照)。

反省と話し合いのための設問

 私の周りにある美しいものに気づくのに、時間をかけますか? 私は、日常生活における決定をするときに、地球にとって有益かを考慮に入れますか?

12. 結論

 イエズス会使徒職全体の方向づけ(UAPs)によって明瞭に表現された、和解と正義という私たちの使命は、公の場で信仰を実践するよう私たちに求めています。ここでは、イグナチオの精神に基づいた特有の方法で、それを実行する4つのテーマを示します。

  1. 私たちの政治にかかわる行動は、自分たち自身の限られたイデオロギーからではなく、キリストがどのようにこの世界ですでに活動しているかということと、彼の救いの業にどのように協力できるかを識別することから生じます。
  2. 聴くことは市民参加の核心です。社会の周辺に追いやられている人々、若者、自分が同意することのできない人々、地球の叫びを聴くことです。真に聴くということは、自分の先入観や偏見から自分を切り離すことです。
  3. 社会の周縁に置かれている人々との密接な関係と、彼らと共に歩むことには、私たちの市民としての活動の中心に、彼ら自身の声を含める必要があります。
  4. 祈りの生活と霊に導かれる実践なしでは、私たちの市民としての活動に、キリスト者としての基盤は欠けることになるでしょう。

 私たちが望んでいることは、カトリック教会やイグナチオの精神に基づく価値観が、どのように私たちの政治にかかわる活動に影響を及ぼしているかについて考えるこの機会によって、イエズス会員と広い意味での協働者の間で、より深い話し合いと行動を生み出すことです。

祈り

恵みあふれる神よ、

あなたは愛する心で、私たちを創られました。
私たち一人ひとりを、ユニークな者にされました。
しかし、「人が独りでいるのは良くない」と言って(創世記2・18)、
あなたは私たちを、コミュニティに配置されました。

あなたは、私たち一人ひとりに使命を与えられました。
私たちは、人間家族に仕えることによってあなたに仕えること、
そして今度は、人間家族によって自分たちが保護され、育てられることです。
あなたは、私たちをキリストのからだにされました。

あなたは、あなたの子どもである私たちに、
他者のための女性と男性になるように、
排除されている人々と歩むように、
あなたが私たちのために創った、共通の家を守るように、
若い人たちが、あなたの声が聴こえるため、
創造性と出会いの精神を培うよう、彼らに呼びかけるように、
そして、私たちが歩む道を通して、あなたへの道を示すように、
と呼ばれていることを、教えてくださいました。

これらのことすべてが可能になる、
公正で持続可能な社会の構築を支援する、
という私たちへの呼びかけを熟考するとき、
あなたに向かって謙遜に願います。

力と決意で私たちを祝福してください。
聖なる人にふさわしい思いやりで、私たちの心を満たしてください。
知恵とビジョンで、私たちの思考を正しいものにしてください。
信仰と真理で、私たちの精神を強めてください。
これからの世代を祝福するための永続的な基盤を築くよう、
私たちの手を使ってください。

主よ、あなたは、すべてにおいてあなたを見いだすように、
私たちを招いています。
一つの共同体として、私たちの社会を構築するために協力するとき、
    そこにいるあなたを見つけますように。
私たちの原則と法律において、
    そこにいるあなたを見つけますように。
私たちの方針とプログラムにおいて、
    そこにいるあなたを見つけますように。
私たちの裁判所や役所において、
    そこにいるあなたを見つけますように。
私たちの街路や広場で、
    そこにいるあなたを見つけますように。
そして、私たちの隣人、特に周辺に追いやられている人々において、
    そこにいるあなたを見つけますように。

私たちの主、イエス キリストによって、 アーメン。