ベトナム・ホーチミン市のド・マン・フン司教へのインタビュー
〈聞き手・文責〉 安藤 勇 SJ
イエズス会社会司牧センタースタッフ(移民デスク担当)
ベトナムのホーチミン市のド・マン・フン補佐司教が2017年9月に来日しました。イエズス会の二人のベトナム人新司祭(ディン神父とニャー神父)の司祭叙階式のためです。その機会にイエズス会社会司牧センターにも招き、インタビューしました。
私たちはド・マン司教に、ベトナムの状況について聞いてみました。人々が地方から都市へと移動している中で、現地のカトリック教会はその現象にどのように反応しているのでしょうか? 一方、日本はベトナムから何万人もの若い人々を受入れていて、その中には多くのカトリック信者もいます。日本で働くにあたって、彼らに特別な配慮がなされているのでしょうか? あるいは、彼らと取り組んでいる人たちとの調整する動きはあるのでしょうか?
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ベトナム司教協議会での役割と働きについて教えてください。
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私は、移住移動者の司牧のための司教委員会を担当しています。ベトナムのカトリック司教協議会の相談所です。私たちの事務所には国内の、特にホーチミン市の移住者の状況を評価し分析するチームがあり、効果的な司牧活動のために、司教協議会に助言や様々な提案をしています。
ホーチミン市(旧サイゴン市)の場合を例にとりましょう。南ベトナムに位置するこの市は、約800万人の人口を有しています。そのうち70万人がカトリックです。さらに、仕事や就学の機会を求めて、あるいは新たな生活を目指して地方から出てきた500万人の移住者がいます。
私たちは、市内のほとんどの小教区に支部を持つカリタスベトナムと協力しながら、移住者の実際の状況や問題を知るために、彼らと接触を試みています。また、統計学的な研究を行い、彼らの状況を分析しようとしています。最近、私たちは移住者のための司牧ガイドを作成し、司教協議会からの承認を得ました。新しい取り組みとしては、他国の司教協議会がその国で離散状態にあるベトナム人たちと接触を始めました。
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国内の移住者だけでなく、海外への移民労働者について、何か心配事はありますか?
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この移民問題について、私たちは多くの課題に直面しています。私たちの立場は、司教協議会や他の同様な協議会との間で緊密な協力体制のもとで働くことです。実際に、すべての司教協議会は移民移住者のための特別な事務所と委員会を持っています。私は、日本とベトナムの司教協議会の間で協力体制を確立するための実践的な方法を探るために日本に来ました。ベトナム人移民が容易にアクセスできる場所や人材が必要です。日本には20万人以上のベトナム人が働きに来ていると聞いています。一方、ベトナムには約10万人の日本人がおり、私たちのホーチミン市司牧センターでは毎月、日本人のためのミサを行うようになりました。私たち両国の司教協議会は、これを正式に承認すべきです。
私はちょうど、日本の司教協議会の中で同様の事務所を指揮している松浦司教に会い、ベトナム人労働者の課題に司牧的に対応する方法について話し合いました。私はイエズス会の日本管区と、あなた方イエズス会社会司牧センターの働きに感謝しています。同じく、高山親神父の神戸での働きにも感謝しています。1980年代のボートピープルの到着から現在に至るまで、移民労働者や学生を歓迎してくれているカトリック教会の寛大さに感謝せざるを得ません。私が日本に滞在していたわずかな間、日本でベトナム人が直面している困難、誤解、そして虐待を知らされました。しかしその一方で、教会は彼らの多くが日本社会に統合するのを手助けしており、そのキリスト教信仰を強めることを助けている事実が知らされました。
私たちはいくつかのセンターを持つ必要があります。移民労働者や学生が自由に来て、指導や専門的なアドバイス、宗教教育を得られ、生活共同体を形成できる一種の中央事務所のようなものを創設する方法を探す必要があります。私は、日本にいる多くのベトナム人司祭や修道者が、そうしたベトナム人共同体を信仰と社会的能力のうちに育てるために、その寛大な支援を続ける準備ができていると理解しています。私たちベトナムの司教協議会と日本の司教協議会の間である程度の合意に達するのであれば、場所の提供も得られるでしょう。しかし、もちろん、この計画を実施するためには、私たちのスタッフを訓練し、必要な資金を得るための多くの支援が必要です。
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両国の教会がどのように協力できるのか、そのビジョンを教えてください。
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私が想像している協力体制は、主に次の三つの領域です。
- ベトナムにいる日本人専門家と日本にいるベトナム人専門家のための司牧プランを支援する。
- 神と教会の顔を、愛に満ち、いつくしみと真心を通して示すことで、こうした専門家への福音宣教を目指す。
- 移民の支援に参加している若いボランティアの間で、司祭や修道者への召命を促進し励ます。
インタビューしていただいて、どうもありがとうございます。あなた方の手助けのおかげで、私の旅がとても実り多いものとなりました。
非正規雇用と働き方改革
田 英雄
ACO(カトリック労働者運動)埼玉地区
雇用労働者の半数は低労働条件の非正規労働者
日本の労働者問題には種々のことがありますが、最大の問題は雇用形態が非正規の労働者の現状です。1990年代の非正規労働者は被雇用者数の20%台でしたが、財界の指令塔である日経連が『新時代の「日本的経営」――挑戦すべき方向とその具体策』(1995年報告)で出した労働者の雇用形態の在り方によって増加の一途を辿りました。
労働者を、①「長期蓄積能力活用型グループ」(従来の正社員)、②「高度専門能力活用型グループ」、③「雇用柔軟型グループ」の三形態に分け、企業が必要な時に必要な人材を効果的に採用することを企業に勧めました。その結果、③型の非正規雇用は年々増加し、今や全雇用労働者の4割が非正規雇用となり、女性労働者では5割以上で、女性正社員の姿をあまり見かけない職場が増えています。
その非正規労働者は低賃金で、年額200万円以上の人は少なく、雇用期間は短期で、扶養家族、子どもの教育費等で苦渋を強いられ、出産抑制、少子化を余儀なくされています。若者は学校を出ても正規採用者は少なく、パートや臨時、派遣労働など短期被雇用者が多く、人生の労働の技能を身に付けることがない不安定・単純労働の繰り返しですから、生活の安定、結婚もできない状態に置かれています。
企業は非正規労働者を、景気が悪くなれば簡単に雇い止めにする人員削減の調整弁として活用し、正社員のように雇用期間の経過に伴う賃金アップもなく、人件費抑制のメリットを多分に享受しています。労働者にとっては、日常生活も、人生設計も成り立たない雇用形態です。
日本の労働者の最低賃金は各都道府県ごとに決定されますが、非正規労働者の低賃金を維持する役割を果たしています。同様に、最低年金、生活保護の支給日額も低く抑制され、とても生活保障費とは言えない低額です。
正規採用労働者にとっても、状態は改悪の方向に向かっています。ある大企業は、新入社員用に上昇率を抑えた新たな賃金体系を作成しました。正社員の給与に格差を生み出します。正社員に要求される労働目標達成指標は高く、しかも正社員の数は少なくされ、それで達成を要求されますから、残業時間が多い労働実態となっていきます。結果は過労死を発生させる長時間過密労働となり、乾いたぞうきんを更にしぼるように働かされ、過労死・過労自殺をする労働者事例は後を絶ちません。立証できる証拠がとぼしく、労災と認定されない事例も多々あると言われています。
教皇ヨハネ23世は、教皇レオ13世の回勅『レールム・ノヴァルム(労働者の境遇)』発布後72年の1963年、回勅『パーチェム・イン・テリス(地上の平和)』で、「労働者には、正義の規準に従って決定される報酬を得る権利があります。その報酬は、労働者自身とその家族とに、人間の尊厳にふさわしい生活水準を維持できる額が支払われなければなりません」(NO.10)と教えられましたが、その回勅の発布後32年の1955年に、日本の財界は労働者の人間性や家庭を破壊する方針を出し、政府も協力して、非正規労働者を増加させています。規制緩和と称し、労働者保護法制を次々と変えてきました。
戦後、日本の財界大企業は、アメリカの経営方針に学び、「生産性向上運動」を始めました。利益が上がれば労働者に還元する、「パイを配分する」ために労働者は協力せよと職制を使ってほとんどの組合役員に会社側人間を露骨に送り込んで、労働組合を会社の息のかかる組織に変質させました。結果、生産性は上がってきましたが、「パイの配分」は十分にして来ませんでした。その次にしたことが雇用の形態変更で、これは人類に対する重大な犯罪行為でした。これだけで全ての責任を持つとは言えませんが、家族の誕生、子どもの出生は抑制され、人口減少化を招いています。そのつけは自らの利益至上主義、労働者酷使主義の結果として、労働力人口の激減を招いていると言わざるを得ません。
財界大企業の次の狙いは正規労働者、正社員の酷使
~安倍内閣の「働き方改革」とは何だ?~
安倍内閣は今秋の臨時国会に、「働き方改革法案」(労働基準法改正、労働者派遣法改正、労働契約法改正など、これからの労働の在り方を変える8本の一括法案)を提出し、彼らの考える「働き方改革」を実現する予定でした。しかし、解散・総選挙で国会提出は来年冒頭の通常国会へと延期されました。
その主な法案は、一つ目には、「収入が高い一部専門職を労働時間規制から外す制度(高度プロフェッショナル制度)」を創設する労働基準法改正法案、二つ目に、罰則付きで残業の上限を規制して明記する同法改正法案、三つ目に、正社員と非正規社員の差をなくす「同一労働同一賃金」をめざす労働契約法改正法案など。目的も対象の労働者も異なる法案を一括法案として審議をもとめるのはなぜでしょうか。「残業代ゼロ制度」は2014年、経済同友会幹部から政府に提案があって、政府は「高度プロフェッショナル制度」法案を裁量労働制拡大とともに国会で成立をめざしてきました。ところが、多くの労働組合、民進党や共産党、社民党が「残業代ゼロ法案」であり、「過労死促進制度」だと強く反対し、審議入りできないので、今度は他の法案と一緒に「働き方改革一括法案」として、審議時間を短縮して成立を企図しています。
2017年3月、安倍首相を議長にした閣僚と有識者による「働き方改革実現会議」で、「働き方改革実行計画」が策定されました。その「基本的考え方」では、「働く人の視点に立って……、働く方一人ひとりが、より良い将来の展望を持ち得るようにする」とか、「同一労働同一賃金など非正規雇用の処遇改善」、「賃金引上げと労働生産性向上」、「罰則付き時間外労働の上限規制の導入など長時間労働の是正」、「女性・若者の人材育成など活躍しやすい環境整備」、「子育て・介護等と仕事の両立、障害者の就労」、「外国人材の受入れ」などなど、ある意味で弱者に配慮したかのごとき12項目を記述し、「10年先の未来を見据えたロードマップ」がまとめられています。
安倍内閣は、「人づくり革命」など看板政策の打ち上げが得意ですが、これらや「働き方改革」の中味の行方は労働者の今後の生き方に重い影響を及ぼすものだけに、軽々しく、口当たりの良い言葉、あたかも労働者寄りの政策であるかのごとき幻想で翻弄されてはなりません。厳しく監視、検討して、問題点を心ある人々で声を出して対処しなければならないと感じています。
過労死が出ていても長時間労働を合法化?
広告大手電通の新入社員高橋まつりさんが過労自殺し、最近はNHK記者の過労死などが報道され、過労死・過労自殺を招く長時間労働の問題が世間の注目を集め、時間外労働(残業時間)を規制すべきだと国民世論は高まっています。しかし、政府は長時間労働規制の上限を法律で合法化しようと企図しているのではありませんか。
現在の労働時間は、労働基準法で1日8時間、週40時間に制限されますが、労使で36協定を結べば時間外労働が可能で、厚生労働大臣告示で「週15時間、月45時間、年360時間」が限度基準です。ただし罰則がなく、特別な事情があって「特別条項付き協定」を結べば無制限な残業が認められています。
政府は、労基法36条協定の時間外労働の限度を「原則」月45時間、年360時間と定めるとし、さらに「臨時的な特別事情」がある場合、「年720時間(月60時間)を上限として」認める。さらにこの範囲内で、「一時的に事務量が増加する」(いわゆる繁忙期)には、「2~6ヶ月平均で休日労働を含めて月80時間、単月で休日労働を含んで100時間までの時間外労働を認める」という内容です。しかも「年720時間」には休日労働が含まれず、時間外と休日労働を合わせると「毎月平均80時間、年900時間」の残業が可能という内容です。つまり、現在の長時間残業を法律上認める内容です。
長時間労働を容認する新しい基準には各方面から反対が多く、「月100時間までの残業を容認することは、人が死んでもおかしくない時間が上限とは、過労死を助長、容認する理不尽な計画と言わざるを得ない」(今村幸次郎弁護士、2017.4.28赤旗)など、反対の声が多数上っています。
「高度プロフェッショナル制度」とは、「年収1075万円以上、本人同意が条件」と説明されていますが、年収引き下げと職種拡大などが財界企業からの要望で、政府が政令改正で応じる可能性も大きく、残業代を要求できない正社員が拡大するのは必至です。「高プロ」適用者と裁量労働制労働者が拡大して行けば、正社員の労働酷使化、過労死の増加は避けられない事態となるでしょう。
「同一労働同一賃金」とは、格好がよいのですが、政府案では、基本給や賞与について、「企業が、判断能力や業績、貢献、人材活用などで違いに応じた支給」を認めるなど、非正規・正規、男女、年齢、国籍の違いなど、同じ労働をすれば、本当に同じ賃金を保障する内容になるのかなど、非常に曖昧です。
「働き方改革」は、労働者間にさらに大きな差別を生み出す恐れがないとは言えません。一方で「生産性向上」を謳っていますから、労働者全体で、労働する正当な権利のため、人間らしい生活と労働のため、共同して闘う必要があります。
和解に向かって漕いでいく
―カナダのカヌーによる巡礼―
エリック ソレンセン SJ (神学生)
イエズス会イングリッシュカナダ管区
巡礼は宗教と文化の境界線を越える古くからの霊的な習慣だ。人々は数千年にわたって、神聖な場所を訪ねるために旅に出かけてきた。巡礼者が旅に出ている間、彼らは目的地それ自体と同じようにその旅が神聖であることを学んできた。今年の夏、旅人たちのグループは、その旅が目的地を作り出す経験を直接する機会があった。
私たちの巡礼の旅は2017年7月21日にカナダの殉教者教会(オンタリオ州)を出発し、8月15日にカナワケ・モホーク・テリトリーの川岸にある聖カテリ・テカクウィサ教会(ケベック州。聖カテリ・テカクウィサは先住民の聖人)に到着した。この2つの神聖な場所の間をたどる水上の旅でカヌーを漕いだ私たちは、この旅に没頭させられた。漕ぎ手の中にはイエズス会員、他の修道者、たくさんの信徒の男女がいた。重要なことは、先住民と非先住民の両者がこの旅をともに分かち合ったことだった。私たちの巡礼の旅は、お互いの語りに耳を傾けることによって、私たち自身を知り、また他の巡礼者を知るものとなった。
和解は、私たちの巡礼の旅のテーマとなった。私たちはこの一か月、タートルアイランド(先住民の言葉で「北米大陸」を意味する)の先住民とヨーロッパ大陸からの新たな到着者との関係の上に特徴づけられてきた、500年以上の入植、虐待、そして文化的な大虐殺が解決されてこなかったことを知ることとなった。しかしながら、私たちは真理と和解委員会(The Truth and Reconciliation Commission:カナダ政府と先住民との間の取り決めに基づいて、先住民を強制収容したレジデンシャルスクールについて調査し、和解へと導く活動をした)や和解に向けてなされた他の具体策(あるいはこの場合、カヌーを漕ぐこと)における働きに奮い立たされた。
私たちはこれをどのようにしたのか。極めて端的に、私たちはお互いを知ることになった。私たちは安心して聞くことのできる、そして聞いてもらえる場を作った。真の和解のためには、誰と、そしてなぜ和解していくのかを知る必要がある。「カヌーの漕ぎ手」にとって、この癒しのプロセスにじかにかかわりたかった。和解の抽象概念について、切に熱心になることはほとんど無理なことだ。しかし、幾世代にもわたる心の傷の体験をあなたに友が分かち合うのを聞いた後であれば、和解と癒しについて熱心になることはもっと簡単になるだろう。私たちはカヌーの漕ぎ手たちによる会話を通して、KAIROS Blanket Exercise(カナダでの先住民と非先住民との間の歴史的・同時代的な関係について知るためのプログラム)への参加を通して、小グループでの分かち合いの機会を通して、そして最も重要なこととして巡礼の間成長させられた個々人の関係性や会話を通して、和解のプロセスを実現させることを始めた。グループ内のこうした対話の促進の方法は、体系化されたもの、そして非体系的なものの両者があった。これはとても大切なことであり、なぜならより深淵な場へと飛び込んでいくこと、そしてもっと心からの、異なる巡礼の仲間と分かち合う体系化された場のいくつかを提供したからであった。長いこと行われてきた視点や信念のこもった会話は挑戦を求められ、また微妙なずれがあり、そこで個人的な変容が起こった。
全体的にこの旅はスムーズで簡単なものだったとはいえない。私たちは困難の分かち合いを体験した。最初のチャレンジは身体的なもので、舟を漕ぐことは大変な作業だった。筋肉痛、ちょっとした打撲、そして疲労困憊させたものは日課のすべてであった。早朝(午前4時30分起床)、長い一日、そして(固い岩盤の)カナダ楯状地でのテント張りはみんなの苦痛と対処能力を試みたが、私たちはやり通した。いつでも、多様な人々のグループが一緒になって、その人たちがぎゅうぎゅうの宿に入れば、個人的な争いへと発展する限界がある。私たちのグループも異なることはなく、しかしこうした課題はただただ私たちを強くすることを学んだ。スケジュールもまた、私たちにチャレンジを与えた。この旅で、計画したように、私たちは毎日、グループでの祈り、振り返り、分かち合いの時間を持つことを希望していた。しかしすぐに、厳しい条件で毎日8時間から10時間舟を漕いだあとで、一日の終わりに長い祈りなどをするエネルギーが不足することに気づいた。私たちはいかに活動を最善にするのかに創造的になる必要があり、定期的にスケジュールを交換したり変更したりした。全体として、こうしたチャレンジはただ、グループのきずなを互いに深めるのに役立った。
ジョージア湾の極めて隔絶された場所とフレンチ川からノースベイに向かい、そしてオタワ川に移動する巡礼において、私たちは自分たちの重点を変えた。前半の旅程でグループとしての経験をしたことで、後半で出会ったコミュニティと分かち合う機会を持つこととなった。ノースベイからモントリオールまで、私たちはたくさんの小教区や信仰共同体、街によってもてなしを受けた。それぞれの段階で、私たちの巡礼の旅の経験をそれぞれの土地のコミュニティと分かち合った。これらのコミュニティは、食料、シェルターのような私たちのニーズを提供してくれることによって、私たちの巡礼に加わった。休憩地で出会ったホスピタリティはすばらしいもので、私たちへの神のはからいの証人がいつも提供された。
オタワからモントリオールまで、イエズス会フレンチカナダ管区の使徒職であるMer et Monde(国際支援を行っている組織)からのグループが参加した。私たちの旅にすばらしいフランスの構成要素を持ち込むことによって、豊かさが加えられた。私たちはより多様性が増すことによって利益を得て、そして2018年のカナダの新しい管区の設立をみな楽しみにしている。幸いなことに、この協働はこれから行うことの小さなスナップショットである。
将来を見据えて、私たちはこの巡礼の旅を終えたのではないことを理解している。カナワケに到着した時私たちを先住民の土地に歓迎したバンドメンバーは、この旅は始まったばかりであることを私たちに気づかせた。この巡礼は私たちにとって出発点だ。それぞれのコミュニティに戻っている巡礼者の舟漕ぎたちは、友人、家族、そして仲間たちと経験を分かち合っている。私たちの多くが和解への旅にかかわり続ける機会をもっと求めるであろうことを、私は知っている。目下、私たちはより具体的に、どのように他のグループとこの経験が分かち合われる可能性があるのかを考えているところだ。もしかしたら、将来私たちは年に一回のカヌーによる巡礼で会うかもしれない。
【参照】和解への挑戦-カナダでの先住民政策にかかわる試み- / 吉羽 弘明 SJ(『社会司牧通信』194号掲載)
改憲問題とカトリック
光延 一郎 SJ
イエズス会社会司牧センター所長
突然の総選挙であったが、結局、ほぼ現状維持を果たした現政権は、9条改定を最終目標とする改憲の動きを本格化させようとしているようである。
折しも日韓カトリック司教団は、北朝鮮の核兵器開発やミサイルの脅威を言いつのり、徹底して米国との共同による「圧力」攻勢を強める日本政府とは異なり、平和声明「北東アジアの平和を願って」(2017年11月16日)を発表した。そこでは「すべての人は、軍拡競争も核兵器による抑止も確実でほんとうの平和を保障するのではなく、かえって戦争の危険性を増大させるということを深く認識し、『真の平和は相互の信頼の上にしか構築することはできないという原則』(教皇ヨハネ二十三世)に立つべきだとわたしたちは主張します」と言われる。また「軍備増強に莫大な富が費やされることは貧しい人々を耐えがたいほどに痛めつけ、環境をますます悪化させていることも容認できない」し、さらに「すべての人、とくに国家元首および軍の指導者は、神と全人類の前において世界の平和に対する重大な責任をたえず考慮し、平和に向けた対話のためにあらゆる努力を続けるべきです」と訴える。
これに先立ち、バチカンでは「核兵器のない世界と統合的軍縮への展望」との国際会議が開催され(2017年11月10~11日)、そこでフランシスコ教皇は次のように発言した。「核兵器は見せかけの安全保障を生み出すだけです。…核兵器の使用による破壊的な人道的・環境的な影響を心から懸念します。…核兵器の偶発的爆発の危険性を考慮すれば、核兵器の使用と威嚇のみならず、その保有そのものも断固として非難されなければなりません。この点で極めて重要なのは、広島と長崎の被爆者、ならびに核実験の被害者の証言です。彼らの預言的な声が、次世代への警告として役立つよう願っています」。バチカン市国は、日本政府が無視している国連核兵器禁止条約にも9月20日に最初に署名を果たしている。
こうしたカトリック教会のアピールのもとには、2017年元旦、第50回「世界平和の日」に発表された教皇メッセージが響いているだろう。「争いにまみれた状況の中で、『(他者の)尊厳への深い敬意』を抱き、積極的な非暴力に基づく生き方を実践しましょう。…地域的、日常的な局面から国際的な秩序に至るまで、非暴力がわたしたちの決断、わたしたちの人間関係、わたしたちの活動、そしてあらゆる種類の政治の特徴となりますように」(1項)。「今、イエスの真の弟子であることは、非暴力というイエスの提案を受け入れることでもあります」(3項)。「わたしたちの家庭には、爆弾や銃は必要ありません。平和のために破壊すべきではありません。ただ一緒にいて、互いに愛し合ってください。…そうすれば世界のあらゆる悪に打ち勝つことができます」(4項)。
以上、カトリック教会による最近の「積極的平和」諸発言は、1981年のヨハネ・パウロ二世教皇『広島・平和アピール』以来、これへの応答に務めてきた日本カトリック司教団の意志表明と軌を一にしていると言えよう。たとえば2005年『戦後60年平和メッセージ「非暴力による平和への道」―今こそ預言者としての役割を』では、司教団は「非暴力」の対話による平和を呼びかけ「この非暴力の精神は憲法第9条の中で、国際紛争を解決する手段としての戦争の放棄、および戦力の不保持という形で掲げられています。60年にわたって戦争で誰も殺さず、誰も殺されなかったという日本における歴史的事実はわたしたちの誇りとするところではないでしょうか。暴力の連鎖から抜け出せない現代にあって、この非暴力の精神と実践を積極的に広め、世界の人々と共有することにおいて新しい連帯を築き、平和のために力を尽くしていきましょう」と述べる。
そんな中、この秋、日本カトリック中央協議会・正義と平和協議会に時限的に設置された「改憲対策部会」が、教会内外の人々への啓発のために連続講演会を開催した。
第1回目は同志社大学の浜矩子氏が、経済学の立場から「闇を切り裂く光~グローバル時代を照らす日本国憲法~」と題して講演された。氏は日本国憲法前文の「日本国民は、…諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、…平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、…いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」に注目し、それは、これからの日本経済が「市場占有率」としてのシェアではなく、相互に「分かち合う」シェアをめざすグローバル経済に与るべきだとの氏の持論と合致すると話された。
第2回目は上智大学の島薗進氏が、宗教学の立場から「日本国憲法と平和といのちの尊さ」と題して、戦前の国家神道体制がいかに個人を無視し、絶対的な国家システムの中に人間を押し込む不自由なものだったかについて話された。
さらに第3回目は、上智大学の中野晃一氏が「人間の尊厳を擁護する政治と憲法」との演題で話された。氏はそこで、政治学の立場からすれば憲法とその解釈は常にせめぎ合う関係にあるが、現政権が行う「憲法条文」解釈の前提となる「憲法体制」を分断せんとの工作は、人間の尊厳や人権までも崩すものであり、その意味で非立憲的でタガが外れていると指摘された。
憲法とは、そもそも国家が人々の権利を侵害してきた歴史に対する課題として、国家の責務を定める実定法ではあるが、その基礎として人権や人間の尊厳への立場表明を含まざるを得ない。その点で、政治倫理の規範性を語る国連『世界人権宣言』など、国際社会が求める人類の共通善について崇高な理念の共有をめざす現代の状況とも不可分の関係にある。そして、その意味で同様に人類の普遍的理想を語るキリスト教の展望とも重なる。
聖書の平和「シャローム」は、ギリシア語の「エイレーネー」やラテン語の「パックス」(闘争の不在・中断、休戦)とは異なり、「建物を完成する」という意味から、祝福・休息・光栄・富・生命を享受する「満ち足りて円満な状態」への推移を言い表す。「平和を欲するなら、戦争の備えをせよ」ならば「抑止力」が結論とならざるを得ないだろうが、「シャローム」は、現状(status quo)を変えずに葛藤を鎮めるだけの平和ではなく、未来の新しい可能性に開かれた終末論的な展望である。
むろん「平和を実現する人々は幸いである」など、山上の説教の真福八端が見ている人間の状況は逆説的だ。この人々はまったくの困窮にある。しかしそこにおいて来るべき神の国に心開かれているがゆえに「幸い」なのだといわれる。神の恵みの全き受け手となり、その恵みに貫かれる生き方をなしうるがゆえに「幸い」なのである。
聖書の歴史観には始まりがあり、歴史は目的に向かって進む。常に新しい事態が生じるこの歴史には葛藤が不可欠である。しかし信仰者は、困難との格闘を通してシャロームという全体性に向かう。神への回心、神と人間への信頼において、戦争に代わる平和、恐れに代わる安らぎ、不信に代わる信頼、抑止に代わる自由を「平和は四つの柱に支えられている。それは、真理、自由、正義、愛」(『地上の平和』)において探求するキリスト者の召命から改憲問題を考えたいものである。