イエズス会の二つの集まり

光延 一郎 SJ
イエズス会社会司牧センター所長

JCAP Sustainability Conference

2016年8月8~11日、インドネシアのジョグジャカルタ、サナタ・ダールマ大学でイエズス会東アジア・オセアニア地区主催「いのちの持続可能性(Sustainability)への呼びかけ」という研修会が開催され、日本管区からも6名が参加しました。テーマは、主に教皇フランシスコの『ラウダート・シ』の提言をいかに実現していくかということでしたが、集まりの中でのさまざまな趣向により、『ラウダート・シ』の中心的呼びかけである「Integral(総合的・全人的)なエコロジー」とはいかなるものかを生き生きと体験することができました。

初日は体験学習から始まり、グループに分かれて近隣の村に行って、インドネシアの人々の生活に少し触れました。次に、ローマからの正義と平和・環境問題コーディネーターのパチ神父による「持続可能性とイグナチオの霊性」についての基調講演、経済学・社会学の専門家、仏教・イスラム教・ヒンドゥー教の霊性と環境とのかかわりについてなどのインプットを聞き、それについて各グループで分かち合いをしました。

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今回の集まりは、イエズス会のいつもの会議とは異なり、協働者はもちろん、さまざまな専門家、開催大学の学生、カトリック青年団体の代表など、若い人々が多く参加していて活気がありました。おかげで、心に浮かんだことを絵に描くとか、ヒンドゥー教の祈りのスタイルでろうそくの灯に乗せて一人ひとりの祈りを唱えるといった印象深い実践もありました。

最後の日には、それぞれの国や地域、かかわっている分野ごとに「いのちの持続可能性への呼びかけ」に従い「STOPすること・STARTすること・SUSTAINすること」という三つの分野についてのリストを作りました。環境問題は、頭の理解がなかなか実践に結びつかないところがありますが、日本管区でもそれぞれの共同体や事業体において、こうした分かち合いとリスト作りをすべきだと思いました。

全体を通して「いのちの持続可能性」を保つための私の心に残ったキー・ワードは、「排除ではなく包容力のある寛容な社会(Inclusion)」、「対話(Dialogue)による平和(Peace)」、「受けたダメージを復元できる力(Resilience)をもつ社会」の構築、そのために求められる「回心(Conversion)と統合(Integration)」といったものでした。一言でいえば「世界を持続可能な社会にしていくためには、すべての人間が安全に暮らし、平等な権利をもち、自然が守られて、持続可能な環境を有する人間的なコミュニティが必要である。そのためには、自己合理化の技術的思考を越えた人間的な科学により、人々が持てるものをエコロジー的、友愛的、そして美しく使うことへの回心と霊性を深めることが必要だ」ということでしょうか。求められるのは、フランシスコが強調する「いつくしみ」でしょう。

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「裁き・選び・支配」で「戦争・特権・征服」に向かうのではなく、困難に直面している人に「勇気・尊敬・寛容」を与えることのできる「平和・人権・友好・共生」のコミュニティ、創造の多様性を受け容れ、世代間の対話が可能であり、地域の伝統に根づいた知恵の価値を生かしうるコミュニティの簡素な生活が、これからの世界の目標であることを確認しました。それを民族・言葉・生活環境など、あらゆる隔てを乗り越えた仲間とともに実体験できたのは、カトリック教会・イエズス会ならではの恵みでした。

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日韓社会使徒職交流

ジョグジャでの集まりの10日後、今度は下関のイエズス会労働教育センターにて、日韓社会使徒職交流会がありました。昨年の夏に韓国・チェジュ島で第一回目が行われましたが、今年は日本で、昨年の交わりをもう一歩前進させるために開催されました。

まず二日間をかけて、日韓社会使徒職の共通のテーマについてのインプットがありました。テーマは、①山口県の長生炭鉱における朝鮮半島からの強制連行・強制労働の歴史、②九州における移住労働者とのかかわり、③沖縄の基地問題について。参加者は、事前に決められていた四つのグループ(①脱核・環境、②平和運動、③移住労働者、④労働・社会正義)に分かれ、それぞれのインプットについて熱心に意見を分かち合いました。

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三日目は体験学習。かつての関釜連絡船桟橋跡、朝鮮半島から連れてこられた人々を閉じ込めた倉庫、さらにコリアンタウンを訪ね、下関と朝鮮半島の人々とのかかわりの歴史を学びました。山口朝鮮初中級学校では、95歳になられる在日1世の方の体験の証言を聞き、またかわいい女子生徒たちによる琴と合唱に大いに拍手しました。そして、午後は津和野山口を訪ねて、イエズス会の宣教の歴史を学びました。

最後の日には、今後のアクション・プランについて、また日韓イエズス会の社会使徒職の現状と、将来に対するビジョンやアイディアの分かち合いをしました。アクション・プランとしては、チェジュ島の聖フランシスコ平和センターや下関、沖縄などで、特に若い人々の平和教育を一緒にやっていこうとの提案、また中間期や第三修練前後、リニューアル養成としても、日韓の社会使徒職施設での(語学の習得を含めて)人的交流を活発にしようという提案が承認されました。今後、両管区の管区長と相談しながら、こうしたアクションを前向きに進めていければと思います。

グローバル経済における正義の予備的考察

下川 雅嗣 SJ
上智大学教授、グローバル・コンサーン研究所所長

本稿では、先号(第190号)の記事にもあったイエズス会の文書「グローバル経済における正義:持続可能で、誰も排除されない社会をつくるために」を熟考し、祈るための参考になるよう、私がこのテーマで日頃どんなことを考えているか分かち合ってみます。このことをより根源的に考えるためには、まず「価値の序列」について押さえたうえで、経済のグローバル化で何が起きているのかを考察する必要があると思っています。その理解を持つか否かによって、正義の促進のために何をすべきか、どこに対峙すべきかが異なると思うからです。

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価値には、主に文化的価値、政治的価値、経済的価値の三つがあると言われていますが、この三つの価値が図のような序列になってないとおかしいということです。三つの価値の具体的な説明は図にしてあります。ここで言う「文化」は、日本の伝統文化といった狭い意味ではなく、「その社会が何を大切にしているのか」といったレベルの話で、社会的な価値観、雰囲気、思想などを指す広い意味で使っています。すなわち、共通善や人間の尊厳に直結する価値そのものを指します。これに対して、政治的価値、経済的価値とは、以下に述べるようにシステムとしての価値です。文化的価値が「人々が何を大切にしているのか」に関する事柄なのに対して、政治的価値は「(違った価値観を持った)人々が大事にしているものをどうやって社会として選び、意思決定をしていくか」というシステムに関する事柄なのです。

そうすると文化的価値(人々が大事にしているもの)が社会としての意思決定に、できるだけうまく反映されなければ、おかしな社会というわけです。また、経済的価値も「政治によって選ばれた価値が、限りのある資源、技術、環境の中で、どうやって持続的に実現していくのか」というシステムに関する事柄です。こう考えると、図のように文化的価値が上位に位置づけられ、それがうまく政治に反映され、その方向に経済が動かされるという流れがないと、人々が大切にするものが実現できない社会になるわけです。

しかしながら、現実にはこの価値の序列の逆転はしばしば起きます。そして、この逆転が起きると社会は非常に反福音的になり、正義が実現できなくなるようです。カール・マルクスも、産業革命後の社会における価値の序列の逆転を見抜き、経済関係が政治システムを規定し、最終的には人々の考えを規定する(下部構造が上部構造を規定する)と考えました。しかし、マルクス主義(唯物論的無神論)は、この逆転を正すべきものと考えるのではなく、逆手にとったものと言えるでしょう。

現代の経済のグローバル化も、この観点でみると、構造的に価値の序列の逆転の傾向を、より一層強めるものと言えそうです。これは根が深い根本問題です。なぜなら、これまで少なくとも先進国においては、主権国家として、一つの国において、文化的価値が民主主義という政治システムによって、社会の意思決定に反映され、それにもとづき、その国家内の経済システムがある程度はコントロールされていたと思います。つまり、一国においては、価値の序列がある程度は機能していたのです。そのために、マルクスの予言通りには、社会革命が起こっていかなかったとも言えるでしょう。しかしながら、現代の経済のグローバル化においては、経済のところだけが突出してグローバル化しているわけです。そうすると、経済システムやその価値をコントロールする世界政府は存在しないわけですから、一国の国内政治では経済システムをコントロールできなくなるために、価値の序列の逆転が強まるということです。

さて、ここで、経済のグローバル化の本質は何なのかを考えましょう。私は、①市場メカニズムの徹底(国内市場だけではなく各国をグローバル市場に組み込むことを含む)と②多国籍企業や超国家企業などの資本側に偏ったグローバル化にあると考えています。グローバル化する経済を否定的に表す言葉として、「新自由主義」という言葉がありますが、この「自由」とは、人ではなく企業活動、利潤追求活動の「自由」と言えるでしょう。多国籍企業等が全世界を自由に動き回り利潤を獲得できるようになってきているということです。

少しだけ①について補足しておくと、市場は、効率性(無駄をなくす)という価値を実現するためには、とても効果的なメカニズムですが、それ以外の価値を実現する機能はありません。また、これが一番恐ろしいのですが、市場メカニズムは、自動的に、効率性にマイナスをもたらす者や組織、地域を排除していく力を持っています。

いずれにしても、市場だけに任せてしまうと、貧富の格差は基本的に拡大する一方で、多国籍企業等の経済的な力が政治や政府そのものをコントロールするようになるわけです。さらに怖いことは、政治が経済的価値によってコントロールされるようになって価値の序列が逆転するということは、政治(政府)と経済(企業)が文化(人々)をコントロールするという傾向が強まることを意味します。この人々のコントロールの役割を果たす機能の中心が教育とマスメディアです。本来、教育は、人々の大切にしている文化的価値を発展させるため、またその大切なものをどのように政治や経済に反映させ社会に実現させるのかを学ぶための機会だと思います。しかし、もし価値の序列の逆転が起きると、人々の考えや意識を操作するために教育が使われるようになっていくわけです。マスメディアは、価値の序列の逆転によって、徐々に報道の自由は奪われ、また財界の利益を代弁する傾向が強くなり、かつ報道に携わる人たち自身の意識も経済的価値のコントロールを受けるようになってきます。このようなことは歴史上、何度も起きているのではないでしょうか。

例えば、この10年間でいつのまにか、日本では多くの人が、自助努力や自己責任的な考え方を当然なものだと思うようになっています。本来ならば国民の最低限の生活は、国家が最終的な責任をとらなければならないのに、それが個人の責任に帰されることを国民が当然と受け入れるようにと、教育やマスコミなどを通してコントロール(意図的な場合も、無意識的な場合もある)されてきたと思います。強いられた競争と、その競争からはじかれた人が排除されることは仕方がないという雰囲気が意図的に創出されているように思うのです。それはとても危険なことで、私たちキリスト者が大切にしたい福音的な価値観(どんな人でも神から愛される大切な存在である)とは全く違うと言えます。

また、日本のみならず、全世界、特に先進国で進行している、右傾化の流れについても、この価値の序列の逆転から考えると理解が深まります。つまり、経済のグローバル化によって、政治がグローバル経済にコントロールされることに対する、国民また国家としての危機感の表れが、右傾化、すなわち「国家の強さを求める方向」として表れているのではないでしょうか。

価値の序列という観点から経済のグローバル化の意味を考えてきましたが、この逆転を正すためには、政治のレベルか文化のレベルがグローバル化をしない限り、グローバル化した経済を適切にコントロールすることはできません。しかしながら、全世界のこと、特に弱い立場にある国々のことを誠実に考える世界連邦が、この数十年でできるとは思えません。そうなってくると、文化のレベルがグローバルに繋がることによって、経済的価値のみの行き過ぎに少しでも歯止めをかけるしかないでしょう。「人の命や尊厳が、企業の利潤よりも重要である」という価値がグローバルに意識され、その価値のもとで、経済を少しでもコントロールしていく必要があります。そのためには、現時点では、人々がいろいろなレベルでの共同性を再生し、さらに市民のレベルでの国を超えた共感(compassion)や連帯を何とかして推進していくしかないと思います。また、この共同体の再構築、そしてこの共感を深め、連帯を構築するためには、宗教(教会)の役割はとても重要なのだと思います。

津久井やまゆり園の事件と障害者差別解消法

英 隆一朗 SJ
日本カトリック障害者連絡協議会協力司祭

皆さんの中にも記憶に残っていると思いますが、2016年7月に衝撃的な事件が神奈川県で起きました。津久井やまゆり園に入所していた障害者が19名殺され、26名重軽傷を負った事件です。殺人事件としては、戦後最悪の凶悪犯罪になりました。

私自身は、数年来、日本カトリック障害者連絡協議会(通称、カ障連)の協力司祭として障害者の方々とかかわりをもってきました。そのため、この事件には大きな衝撃を受け、わが身が切られるような思いでした。

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折しも、この4月から日本では、「障害者差別解消法」という法律が施行されました。その背景には、2006年12月に国連において、「障害者権利条約」が採択されました。これは、障害者への差別禁止や障害者の尊厳と権利を保障することを義務づけた国際人権法に基づく人権条約です。日本は条約の締結に必要な国内法の整備や障害者制度の集中的な改革を行うための作業を進め、2014年になって、障害者権利条約を批准しました。今回の障害者差別解消法は、この権利条約に基づく国内法として施行されたのです。

その要点は、①不当な差別的取り扱いの禁止と、②合理的配慮の提供です(国や地方公共団体は法的義務として、事業者は努力義務として定められている)。事業者には、イエズス会の修道院・大学・学校・教会などすべての施設が含まれています。つまり、イエズス会のすべての修道院・事業・施設において、障害があるからという理由で、彼らの利用を断ることはできません(不当な差別的取り扱いの禁止にあたる)。さらに、障害者が自由に参加できるように、合理的配慮を提供する努力義務が生じています。例えば、エレベーターのない建物の3階で集まりがあり、車いすの人が参加したいと表明した場合、どうすればその人がその集まりに自由に参加できるかを考えることが合理的配慮にあたります。その場合、集まりを1階に変更する、あるいは3階まで車いすを抱えて上がるだけの人員を手配するなどの合理的配慮が考えられるわけです。さらに、その建物にエレベーターを設置するなど、施設そのものの改修を検討することも合理的配慮にあたります。また、目が不自由な人が参加する場合、配付資料は読めないので、それを点字にして用意しておくことも合理的配慮にあたります。障害者は障害特性によって不自由な部分は異なっています。当然、合理的配慮は変わってきますので、きめ細やかな対応が求められています。

このような差別解消法が国内法として施行された中で、津久井やまゆり園では、障害者は生きている価値がないから、殺さねばならないという考えに基づいて、多数の命が奪われてしまいました。この背景にあるのは、優生思想です。簡単にいうと、優秀な人間は有用なので生きる価値があり、劣等な人間は有用性が低いので、生きる(生かす)価値がないという考え方です。その典型がヒトラーによるナチスの大虐殺です(ユダヤ人・ロマ・同性愛者・障害者など、優生学的に不適格だと認められた人びとが数百万人虐殺されました)。今回の事件の犯人は明確にヒトラーの優生思想によって行動したと自白しています。

優生思想は障害者権利条約や障害者差別解消法と全く相容れない考え方です。各障害者団体は優生思想に対して明確に反対する声明を発表しています。イエス・キリストの福音を読むかぎり、優生思想を支持する箇所は見つけられません。障害者差別解消法には明らかに福音の響きがあります。私たちは福音の響きがする方をしっかりと選んでいきたいと思います。