〈家庭における愛〉 についてのセミナー

~教皇フランシスコの、使徒的勧告『Amoris Lætitia (愛の喜び)』~

ボネット ビセンテ SJ
イエズス会社会司牧センタースタッフ

多くの方はご存じかと思いますが、イグナチオ教会と当センターの共催で、毎年、〈社会問題とカトリック教会の考え〉という連続セミナーを行っています。最近取り扱ったテーマは、前教皇ベネディクト16世の回勅『真理に根ざした愛』について、〈なぜカトリック教会は社会問題に取り組むのか〉や第二バチカン公会議について(その50周年にあたり)、そして前年度の、現教皇フランシスコの環境問題についての回勅『ラウダト・シ』などです。連続セミナーの第11回目になる今年度は、教皇が発表した使徒的勧告『愛の喜び』を中心に、〈家庭における愛〉をテーマにしました。

私の兄は長年、ブエノスアイレス(アルゼンチン)で、神学校において教会法を教えながら、教会の裁判長を務めています。それは、教皇フランシスコになる前のブエノスアイレスのベルゴリオ司教、そして枢機卿の時代でもそうでした。その時に、兄から、アルゼンチンの教会の課題についての話を何回か聞きました。教会の裁判長としての兄にとって、その一つの問題は、信徒でありながら離婚して再婚した人々のことでした。彼らについて、離婚と再婚を認めない教会の決まりに従う必要があるが、その信徒の信仰を深めるための教会からの司牧的なケアも、見逃してはならない教会の義務であるという課題です。その他に、家庭にかかわる様々な課題があること、そしてそれはアルゼンチンだけではなく、全世界の課題であることを、教皇に選ばれる前、アルゼンチンにいたときから、教皇フランシスコは感じていたに違いないと思います。

それで、2013年3月、教皇に選ばれてすぐ、家庭についての臨時シノドス(世界代表司教会議)を、2014年10月に開くと発表しました。そして、その時まで一度もなかったことも決めました。シノドスの準備として、司教だけでなく、信徒も含めてできる限り数多くの人の意見を知るため、全世界の教会にアンケートが送られたのです。そのアンケ-トには、家庭についての聖書や教会の考えがどの程度知られているか、それぞれの教会において、どのように家庭の司牧的なケアが行われているか、あるいはそれぞれの国で、教会が結婚にかかわる難しい状況に対してどのように対応しているかなど、多くの質問がありました。

もう一つ新しいことがありました。シノドスの最後の文書で、その文書の一つひとつの項目に対して、何人の司教が賛成あるいは反対したのかも発表されました。

この臨時のシノドスの結果を受けて教皇は、家庭にかかわる課題をさらに深めるため、そしてできる限り全教会のコンセンサスを求めるため、その1年後の2015年10月にまた、家庭をテーマにした通常(一般)のシノドスを招集しました。2回続けて同じテーマでシノドスを開くというのも新しいことでした。また、さらに多くのメンバーが自分の意見を自由に述べることができるよう、その時までの会議のやり方を変えて、それぞれの言語による小グループをつくって論じ合うことにしました。これらのことすべては、家庭にかかわる課題が教会にとってどれほど大事であるか、という教皇自身の関心と心配を表わしていると思います。

上記のアンケート、そして両方のシノドスの結果を受けて教皇は、家庭における愛についての使徒的勧告『Amoris Lætitia(愛の喜び)』を、2016年3月に発表しました。

この文書の受け取り方、またそれに対する反応は、今もなおいろいろです。たとえば、教会が離婚、あるいは同性愛者の結婚などを認めることを望み、期待していた人々は、何も変わらなかった、と批判的な読み方をしています。一方、結婚や家庭についての教会の伝統的な考えを絶対に変えてはならない、と主張して、この文書によってその考えが弱くなってしまう、と恐れている人々もまた、批判しています。

しかし多くの人々には、教皇のねらい、その望みと呼び掛けが伝わったようです。それは、結婚や家庭における愛について、聖書やそれに基づく教会の考えそのものが素晴らしくて、喜びをもたらすもので、変わることはありません。変わらなければならないのは、教会であるということです。すなわち、教会(司教も神父も信徒も)は結婚や家庭における愛についての理解を深め、そして結婚をしようとする人々や新婚者への司牧的なケアにさらに力を注ぐことが教皇の望みであり、それを呼び掛けているのです。結婚や家庭における愛についての教会の考えは、求める理想であり、それに向かって歩めるように、教会はその人々を支援すべきであるということです。

教皇はさらに、難しい状況に置かれている人々に対して、教会が裁判官になるのではなく、その人々にもイエスのいつくしみ深い心と同じ心で接し、彼らとも一緒に歩めるよう、教会に勧めています。

社会の動き、その風潮は、家庭にとってやさしいものではありません。労働条件、給料、残業や長い通勤時間、子どもの養育のための援助不足などは、社会問題であり、家庭生活に大きな悪影響を及ぼしています。教皇はこれらの課題にも言及しています。

今年度の連続セミナーでは、教皇の文書をできる限り深く読みながら、家庭にかかわる様々な課題を考えていきたいと思います。

セミナー
2017年度連続セミナー「家庭における愛」
2017年度連続セミナー「家庭における愛」

家庭をテーマにした2つのシノドス(世界代表司教会議)を受け、教皇フランシスコは使徒的勧告『愛の喜び』を発表しました。教皇は、どんな家庭もいつも完全で型通りのものではなく、家庭は、愛を発展させていく場だと述べています。そして、「家庭よ、歩み続けましょう、希望を失ってはなりません」と呼びかけています。今年度は、家庭をテーマにして、ご一緒に私たちの生活を見直してみませんか?【日程】2017年4月19日開講~全12回。第1・第3水曜日18:30-20:00

くわしく見る

わすれない ふくしま

古泉 肇
六甲学院中学校・高等学校校長

私はイエズス会が経営する、神戸にある六甲学院中学校・高等学校で教員をしています。原発事故による全村避難が続く福島県飯舘村(2017年2月現在)とそこから避難した家族を描いたドキュメンタリー映画「わすれない ふくしま」(監督:四ノ宮浩)の制作に、プロデューサーとして協力しました。

私たちはこれまで長く、核の平和利用という考え方で原発を容認してきましたが、私はこの考え方に疑問を抱いています。

九州にある玄海原発の反対運動に関わっておられる一人のクリスチャンの方から、日本のカトリック教会が反原発運動にあまり積極的でない一つの背景として、バチカンが、核の平和利用としての原発という考え方から充分に脱却できていないことがあるとお聞きしました。そこで私は、原発事故の被害者の苦しみをバチカン当局に少しでも知ってほしいとの思いから、この映画をフランシスコ教皇様に献上したいとずっと考えてきました。

四ノ宮監督の想いと亡き母の想い

私が映画「わすれない ふくしま」の制作に協力しようと考えた理由は二つあります。一つ目は、四ノ宮浩監督の映画作成にかける想いに共感したからです。

四ノ宮監督とは、以前監督が制作したフィリピンのゴミ捨て場で暮らす子供らを描いたドキュメンタリー映画を、学内で上映したことをきっかけに知り合いました。東日本大震災発生直後、仙台市出身ということもあって、監督は急遽被災地に入り撮影に入りました。そして、その時私は四ノ宮監督から、震災をテーマにドキュメンタリー映画を制作したいので協力してもらえないかと頼まれました。地震直後の被災地にいち早く入り、きちんとした機材で映像を撮ることがいかに大切かを語る監督の熱い想いに共感した私は、映画制作に協力することにしたのです。

後日分かったことですが、地震直後、四ノ宮監督のように被災地に入って撮影を始めた映画監督は他にもいました。けれどもその人たちの多くは、企業のスポンサーが、原発事故による被災者の映像を撮ろうとすると急に降板してしまい、資金不足により撮影を断念せざるを得なかったそうです。そのため東日本大震災のドキュメンタリー映画は、個人のホームビデオで撮影された映像による作品がほとんどになってしまったとのことでした。

理由の二つ目は、東日本大震災の少し前に亡くなった私の母への想いからです。私の母は1938年の阪神大水害、1945年の神戸大空襲、そして1995年の阪神・淡路大震災という神戸を襲った3つの災害をすべて経験しました。水害のときには山津波による土石流で市街地が土砂に埋もれ、たくさんの人が亡くなりました。空襲では焼夷弾によって神戸の町は火の海と化し、15万人の死傷者を出しました。地震のときは住んでいた家が半壊し、ガス、水道、電気がないという生活が長く続き、被災地外との落差に孤独感を味わいました。

このように何度も辛い経験をした私の母は生前、災害を体験していない人に辛さを共有してもらうことの難しさ、また被災者への関心がすぐに薄れてしまうことを嘆いていました。

母の死後まもなく、東日本で大地震が起こり、福島原発事故も発生しました。私はニュース等で、街が地震や津波によって壊滅し、放射能によって多くの住民が去ったあとの村の田畑が荒れ放題となり、村人たちの生活も人間関係も破壊されていく様を見ました。私には、まるで母が経験した3つの災害が同時に起こったように見えました。母がこの光景を見たらどう思うだろうか? 母ならきっと、被災者の方々の大変さを多くの人に知らせ、忘れられないようにして欲しいと考えるのではないか? このように考えて私は映画制作に協力することを決めました。

映画の制作に関わって

私自身、実際に被災地に足を踏み入れたのは2回だけです。しかしながら映画「わすれない ふくしま」の制作に関わらせていただいたおかげで、当時の被災者の置かれている状況についていろいろと知ることができました。

映画の制作に関わる中で私が気づかされたことをいくつか皆様と分かち合いたいと思います。この映画では、放射能汚染で避難した家族の生活や、村に残って牛の世話を続ける人々を描いています。「原発さえなければ」と書き残して命を絶った酪農家の遺族も取材し、原発事故が招いた家庭崩壊についても問題提起しています。しかしながら全体として「反原発」の強いメッセージが込められた映画ではありません。むしろ「しずかな反原発」の映画と言った方がいいかもしれません。

飯舘村は日本一美しい村と呼ばれていました。原発事故のあと、飯舘村は放射能によって汚染されたとはいえ、放射能は映像には映りません。映像を見る限り、故郷の美しい風景はそのまま残っていると言えます。しかしながら目に見えない放射能によって飯舘村の人々は故郷、そして生活基盤、家族の絆のすべてが奪われてしまったのです。淡々とした映像だからこそ、映画を観る人に原発事故の悲惨さが伝わるのではないでしょうか。

この映画で取材された家族の中に、いわゆるフィリピン人妻の方がおられます。四ノ宮監督は以前、フィリピンのスラムの子供たちについてのドキュメンタリーをいくつか制作し、国際的にも有名です。しかしながら、監督は最初からフィリピン人の家族を取材することを考えていたわけではありません。

実は監督は地震後、撮影のためすぐ被災地に入り、まずは取材に応じてくれる人を探しましたがなかなか見つからず、困っておられました。結果的に取材に応じてくださったのが、フィリピン人妻のいる家族であったということです。

私は映画の中身について監督に注文をつけませんでした。しかしながら被災者の方々が、悲惨な状況の中にあって、少しでも前向きに生きようとする姿が描けたらと思っていました。「苦しみの中に希望をみいだす生き方」これこそがキリスト者的生き方ではないでしょうか。奇しくも映画の中のフィリピン人妻の前向きに生きる姿が、映画を観る人に微かな希望をもたらしてくれるのではないでしょうか。

私が映画について監督に唯一注文をつけたことは、エンデイング・テーマソングに「虹」という歌を入れて欲しいというものでした。津波によってすべてを失った人に寄り添い、頑張れというのではなく、空を見上げてごらんそこに希望の虹がかかっているよと呼びかける、そのような歌です。

「虹」

時を重ねきずいたものが
手からはなれて 遠く彼方へ
言葉なくし立ちつくす
ただ雨のようにほほがぬれる

七色の帯 雨のあとに
空を見上げてたどってみよう
涙の向こうの希望のしるし
君のほほえみそっと映して

心ゆるす大切な友
会えなくなって 雲の彼方へ
涙涸れて立ちつくす
ただ風の中に瞳とじる「虹」

七色の帯 心の中に
ひとり静かに描いてみよう
忘れないでね 大きな空が
君をいつでもつつんでいる

(作詞・作曲 こいずみ ゆり

私自身この映画の中で最も心に響いた箇所は、取材を受けた家族の子供たちがトラックの荷台に乗って風を受けながら青空の下、前に進んでいくシーンです。原発事故による被災者の中で、子供たちの置かれている状況は特に厳しいものがあります。それでも前に進んでいくしかない。映画を観る者にとって、この場面だけが唯一救われるところではないかと思います。

忘れないで欲しい

私は震災後、福島県いわき市を訪問したことがあります。いわき市は原発事故の後、原発から近かったため避難してくる人々はいなかったそうです。しかしながら事故当日、風向きの関係でいわき市の放射線量はそれほど高くなく、原発周辺の住民の方々はむしろいわき市に避難した方が安全だったそうです。

私がいわき市を訪れたときは、故郷に近く放射能の心配も少ないということで、原発周辺に住んでおられた方々のためにたくさんの仮設住宅が造られていました。その結果いわき市の人口が急増し、いろいろな問題が起こっているとのことでした。そのようないわき市の、あるプロテスタント教会のクリスマスの集会の中で「わすれない ふくしま」上映会をしようという企画があり、その関係で私はいわき市を訪れることになったのです。

実のところ映画上映会の企画は、実現しませんでした。住民の方々にとって、地震の生々しい記憶がまだ残っている中でこの映画を見るのはとてもつらい、というのがその理由でした。結局はクリスマスコンサートの中で、映画のエンデイング・テーマソング「虹」を皆様に聴いていただくことになりました。来場してくださった皆様がこの歌を聴きながら涙ぐんでおられたことが印象に残っています。いつかこの映画を、被災者の方々にも見ていただける日が来ればいいと思います。そんないわき市で出会った人々が皆さん言っておられたことが「地震と原発事故による被災者のことをくれぐれも忘れないで欲しい」ということでした。

震災から6年が経過しました。私たちは原発事故によっていまだに苦しんでいる人々に寄り添っているでしょうか。もう忘れてしまったのではないでしょうか。被災地支援を考える超党派の国会議員のグループが有りますが、会合に参加する議員の数が最近めっきり減ってきたと新聞が伝えています。また今年(2017年)の3.11震災の追悼式中、総理大臣の追悼の言葉から「原発事故」という言葉が消えていました。政治の世界では、確実に原発事故の被災者のことが忘れられようとしています。この映画を観ていただくことで、皆さんが原発事故による被災者のことを忘れないで欲しい、これが私の強い想いなのです。

《予告編》 

和解への挑戦
-カナダでの先住民政策にかかわる試み-

吉羽 弘明 SJ
イエズス会社会司牧センタースタッフ

問題の所在

カナダでは1880年代から1996年までの長きに渡り、連邦政府によって先住民の子どもはコミュニティから引き離されてレジデンシャルスクールに収容され、そこで集団生活をさせられた。学校を運営したのは、主にカトリックを含むキリスト教諸教派である。学校は非常に悪環境であっただけでなく、教育は単なる記憶を強いられ、学校に奉仕するための過大な労働が科されて教育を受ける権利は侵害されていた。自分たちの言語の使用を禁止され、先住民の文化に基づく慣習を否定された。身体的、心理的、性的虐待もなされた。

学校から逃れようとした子どもの中には、死亡した者もあった。カナダの歌手Gord Downieと画家のJeff Lemireは、1966年に学校から600キロ離れた自分の故郷に歩いて帰ろうとして途中で亡くなった一人の少年、Chanie Wenjackを追い、そのストーリーをピクチャーブック『The Secret Path』に著して、2016年にベストセラーとなった 。

その帰結は、先住民をコミュニティから引き離すことによる文化の破壊であった。親の「悪影響」から分離し、白人と同じ思考と慣習を持たせようとしたこの同化政策は、キリスト教の教化や帝国主義の文脈とも結びついていた。

実はこの種の政策はカナダだけではなく、オーストラリアやスウェーデンなどでもなされている。スウェーデンでは、北部に住むサーミ人の子どもをコミュニティから引き離して遠方で教育を行った。映画「サーミ・ブラッド」 (2016年)は、この出来事を一人のサーミ人の女性を通して描いている。劇中、子どもたちがサーミ語の使用を厳禁され話すたびに罰せられたり、キリスト教の教化が行われたり、また生徒を全裸にして身体測定や写真撮影をするシーンもある。学校の近くの住民には暴言を浴びせられ、暴行を加えられる。映画の主人公は学校から逃れて、同化によって自分の苦しみから逃れようとする。

本稿では紙幅と取り上げる課題の複雑さ・広範さから、カナダの先住民のレジデンシャルスクールについて調査と和解の活動を行ったTruth and Reconciliation Commission of Canada(「カナダ・真実と和解の委員会」。以下、TRCと略す)の最終報告書を通して、傷つけられた人と傷つけた人との関係性とその修復の試みについて取り上げる。ここでは先住民政策の歴史の概観と和解のプロセスに焦点を絞る。同書にはそれ以外にも貴重な記録がなされているが、これらについては後日可能であれば報告したい。

カナダの先住民の権利と和解

レジデンシャルスクールの歴史的経緯

カナダにおいて先住民政策の大きな転換が示されたのは、現首相の父親であるピエール・トルドー元首相の在職時の1969年に出された、いわゆる「White Paper」からであるとされる。人権が制約されてきた先住民にはその他の人と同じ権利があるということが明確に述べられ、これまで行われてきた土地の収奪、文化の棄却の強制、種々の虐待などを公に誤りと認め、その後の法改正や補償の実行などにつながった。誤りの一つとして数えられた130のレジデンシャルスクール(収容者総人数15万人)は、一部は90年代まで残ったものの、80年代には大半が閉鎖された。

1996年にはRoyal Commissionが先住民政策の変更を提言し、次第に先住民政策について議論されるようになったとされ、2008年には「Indian Residential Schools Settlement Agreement」に基づいてTRCが設立された。TRCには2つの役割を与えられた。すなわち、①先住民についての文書や告発を収集し、教会が運営したレジデンシャルスクールについての歴史の複雑な真実を明らかにし、また先住民の力を称え、勇気づけること、②真実を明らかにし、癒しの過程に関与し、先住民の家族と非先住民・コミュニティ・教会・政府、そしてカナダ人全般との間を和解へと導き、このことで包摂と相互理解・尊敬の新しい関係になるように働くこと、であった。

この目的に基づいて様々な地域でミーティングが行われ、それぞれの立場での現在の取り組みをシェアし、またレジデンシャルスクールの先住民の元生徒がどのような経験をしたのかを語る場を設けた。その他、パネルディスカッション、先住民の文化を表現する場の設定、教育現場での先住民を含めたディスカッションなども行った。TRCはその結論を待たずに人々が和解のプロセスに入るように促したが、これに応えて若者の交流、先住民と交流した子どもたちの発言の場などが設けられた。2015年に先住民とレジデンシャルスクール関係者、首相などが一堂に会した最終会議がオタワで行われ、その後解散した。

レジデンシャルスクール関係者の謝罪は、新たな関係を築くためのきっかけとなるものである。運営主体の教会関係者については、1986年にUnited Churchがすでに謝罪を公にしていたが、1993年にはアングリカン、1994年に長老派教会が、またそれぞれの時期にカトリックのレジデンシャルスクールにかかわった修道会が謝罪を公表している。政府関係者等については、2008年には首相、議会の代表や政党が、2004年には連邦警察が謝罪を公表した。

和解のプロセスと困難、希望

TRCは「和解」の定義づけを次のように行った。すなわち、①先住民と非先住民との間に相互に尊敬する関係を作り、維持していく、②過去への気づき、加えた痛みを認めて贖い、行動を変えていく、というものである。そして現在は和解に至っていないが、至ることができ、またこれを維持していくこともできると信じている、とした。

TRCの集まりで述べられたレジデンシャルスクールにおける虐待を受けたサバイバー(元生徒)の語りは印象的だ。サバイバーとレジデンシャルスクール関係者との間で摩擦も起こった。あるレジデンシャルスクールの校長をしたカトリックの司祭は、「完璧でなかったが可能な限り安全で愛すべき環境が子どもたちに提供されていた」と述べ、サバイバーや家族から「真実を語れ」と述べられる場面もあったとされる。この校長の発言に対してこの学校のサバイバーは、「校長は事務所にほとんどいて、何が起こっていたか知らない」「(事務所の)ドアを開けようと思わなかった。何が自分に起こるかわからなかったから」「私は今、癒しの旅を始めました」と述べている。自分の経験を述べる場を持つに至ったサバイバーの癒しの過程に関係者が立ち合い、学校関係者が自分たちのしてきたことに問題があったことを認めつつも、元生徒の言葉を聞くことがとても難しいことが共有されることになったとされる。TRCは「こうした真実を語る権利の過小評価をすべきでない」とし、また単に不正を暴くだけでなく、こうした言葉はTRCのステートメントに入れられる必要があるとした。また、和解について「真実と正義と癒しなしに、真の和解はない。悲しい過去の一章を閉じることではなく、新しい和解の癒しへの道筋を開き、真実と正義を作り上げること」だと述べている。

現在、カナダではTRCが解散したからといってこの課題が語られなくなったわけではない。今も引き続き、和解への道が探られている。マスメディアでもしばしば取り上げられる。それはまさに先に述べた「和解への継続的な試み」が行われているのだともいえる。

本論からはずれ紙幅もないため多くを述べることはしないが、日本においても内外の差別、虐待を受けた当事者と政府との和解を所望されながらも、和解の実現が現時点で不可能となっている事象が存在する。カナダの和解のプロセスにおいて意識化されてきた、調査、和解の場の設定、被害者の発言の保障、再発の防止の宣言、継続的なモニタリング、政府の宣言などが一体的になされていないのも一つの要因だといえる。

カナダ管区の先住民との和解への参与

カナダのイエズス会はフレンチカナダ管区イングリッシュカナダ管区の2管区がある(2018年に統合予定)。イングリッシュカナダ管区は2013年のTRCの会議で、過去のイエズス会のレジデンシャルスクール運営について謝罪した。この宣言では、元生徒がイエズス会の学校によってではなく、彼らのストレングスによって優れた活動をしていることを賞賛している。

宣言に基づきイングリッシュカナダ管区は、イエズス会が運営するレジスカレッジで先住民の歴史を学ぶ講義を設け、またイエズス会神学生は先住民の人たちとともに過ごすプログラムで彼らの苦しみや文化を学ぶ機会が与えられている。

神学生の一人は先住民の一つFirst Nationの人々や信徒とともに、連邦結成150周年の今年の夏に800キロの川下りをカヌーで体験することを通して、和解と相互対話・理解を促進しようとしている。これらの試みは挑戦的かつ創造的であり、課題の理解を促す系統的な実践である。両管区とも社会使徒職については長い歴史がある。フレンチカナダ管区ではCentre justice et foi(正義と信仰センター)が運営され、長い歴史を持つ雑誌「Relations」の市販を通して社会に関与している。こうした歴史も、オープンネスで躍動的な活動に寄与している。また、社会正義への人々の認識は根本的に日本とは異なるだろう。

末尾となるが、筆者は2016年に両管区の活動にかかわる皆さんなどから、カナダの社会問題についてお話をうかがう機会をいただいた。私の言語能力が極めて限られていたにもかかわらず忍耐してご対応くださり、将来への礎となるヒントを与えてくださったことに心より感謝しております。