クリスマスメッセージ ―幼子イエスと共に成長しよう―

梶山 義夫 SJ
イエズス会社会司牧センター所長

  マリアは月が満ちて、初子の男子を産み、産着にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる所がなかったからである。 (ルカ2:6b-7)

 今年5月20日から来年7月31日まで、イグナチオ年を記念している。1521年5月20日、パンプローナを守っていたイグナチオの足に砲弾が当たり、ロヨラの自宅で療養していた際、彼は新しい生き方への回心に導かれた。巡礼の第一歩である。

 彼の回心とは、まず彼が騎士としてこの世の虚栄を追い求める生き方から、心の完全な貧しさとさらに実際の貧しさ、そして辱めとさげすみを甘受する生き方への回心である。貧しくさげすみを受け入れる生き方は、ラストルタで示された、十字架を担うイエスの生き方へと私たちを導く生き方である。その生き方は、聖霊に導かれて自らを無とし、神にのみ信頼を置く生き方であり、日々十字架を担いながら、貧しい者として福音を告げ知らせる使命を忠実に果たし続ける生き方であり、苦しい生活を強いられている貧しい人々の友となる生き方である。その生き方は、泊まる場所もなく、飼い葉桶に寝かされているイエスの側に自らを置いて、「貧しい人々は、幸いである」(ルカ6:20)と喜び謳う、クリスマスの生き方である。

 イグナチオはパンプローナの城を死守するつもりであった。そこから療養生活を経て、巡礼者として旅する生活へと回心していく。自分の価値観を守ったり、組織を固守したり、体制の現状維持を求めたりする生き方から、巡礼者の生き方、聖霊に導かれる識別の生き方、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けてフロンティアに赴いて行く生き方、応需性に満ちた生き方への回心である。その生き方は、あの羊飼いのように、「マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝ている乳飲み子を探し当てる」(ルカ2:16)生き方であろう。

幼子イエス様のご像

  イグナチオは武器で戦い、人を殺したり傷つけたりする生き方から、和解の生き方、霊的会話によって人々を高める生き方へと回心していった。「仲たがいした人を和解させ、監獄と病院にいる者を手厚く援助したり奉仕したりして、あらゆる愛の業で隣人を助ける」(ユリウス3世『イエズス会基本精神綱要』)生き方である。「子どものように神の国を受け入れる人」(マルコ10:15)になるという生き方、飼い葉桶に寝かされている幼子イエスのように神の国を受け入れるという生き方である。また、一人でも多くの人が神の国に入るように招く生き方である。
 

 回心にはいつも方向性が必要である。イエズス会にとってその方向性を示すのが、2019年2月に出されたイエズス会総長書簡『イエズス会使徒職全体の方向づけ』である。すでにこの通信でも触れたことがあるが、幼子イエスの前で、また幼子イエスの成長に合わせて私たちも成長し続けるために、この『方向づけ』を再確認したい。

  1. 霊操および識別を通して神への道を示すこと
  2. 和解と正義のミッションにおいて、貧しい人々、世界から排除された人々、人間としての尊厳が侵害された人々とともに歩むこと
  3. 希望に満ちた未来の創造において若い人々とともに歩むこと
  4. 「ともに暮らす家」(地球)への配慮と世話を協働して行うこと

 この四項目は互いに補完している関係にあるが、とくに注目されるのは、Cであると言えよう。A、B、Dのテーマについては、すでに2008年の35総会ならびに2016年の36総会において、イエズス会のミッションとは神との和解、人間相互の和解、被造界との和解であるとして示されている。この三要素に対して、新たにCが加わり、BとDとに挟まれる形で提示されている。『方向づけ』の四要素をイエズス会と会が関係するさまざまな組織が回心し成長していくうえでも、Cを常に念頭に置きながら、A、B、Dの示す方向に向かっていく必要があろう。

 日本管区に限らず、多くの地域の会員や協働者に実際に出会ったり、あるいはオンラインで対話したりする機会を持つ。そこで『方向づけ』の話題となると、一般に自分が関わっている項目を強調する傾向があると思う。たとえば社会使徒職であればBが最も重要であるといった具合である。Cについては、大学や中・高等学校等の教育分野で働く会員や教鞭をとっている方々は、まずこの項目は大丈夫だということを耳にすることが少なくない。『方向づけ』はCのなかで何と言っているのだろうか。

  貧しい人々と若い人々は、互いに補完的で、編み込まれた「神学的出発点(locus theologicus)なのです。若い人々は、大多数が貧しく、今日の私たちの世界で桁外れの難題――雇用機会の減少、経済的不安定、政治的暴力の増大、差別の多様化、環境破壊の進行、その他諸々の難題――に直面しており、これらすべてによって若者たちは自分たちの人生の意義を見出すことが困難になり、神に近づくことが難しくなっているのです。

 それぞれのカトリック大学や小・中・高等学校でも、経済的に困難な家庭から学生や生徒が来ていることもあるだろう。その世話はとても重要である。同時に、学生や生徒たちが通ってくる地域に住む10代や20代の貧しい青少年が置かれている状況を視野に入れて、しかも統計だけではなく、時にはそのような若者と実際に出会い対話しながら、日々の教育にたずさわる必要があるのではないだろうか。そのようにして日常の教育の質も向上するのではないだろうか。また経済的・社会的に困難な状況にある子どもたちに直接奉仕する教育機関を設立することについても、イエズス会だけではなく、教育機関を数多く担っているカトリック教会としても今日の課題ではなかろうか。

 神とのかかわり、社会での困難、環境の課題の面で、さまざまな負の遺産を負わされている若い人々と出会い、奉仕するなかで、私たちはイグナチオの回心の旅路を歩む巡礼者となり、さらに飼い葉桶に寝かされている幼子イエスに出会い、幼子イエスと共に成長できるのではなかろうか。

ベトナム人共同体が制作した馬小屋@麹町聖イグナチオ教会
ベトナム人共同体が制作した馬小屋@麹町聖イグナチオ教会

イグナチオ・デ・ロヨラの心の回心と実践 ―500年目の省察―

川村 信三 SJ
上智大学文学部教授 / イエズス会司祭

 イグナチオ・デ・ロヨラの故郷は、スペインはバスク地方のギプスコア県、アスペイティアという町である。人口15000人足らずの小都市の郊外2キロのところに、イグナチオの生家ロヨラ城と墓廟(Santuario)が屹立する。町と城は旧街道一本でつながり、そのほぼ中間地点に、その昔、マグダレーナと名付けられた粗末な「慈善院」(Hospes)が存在していた。

ロヨラにあるイグナチオ聖堂

 1536年11月、生涯をともに「神の国のため」に生きると誓っていたパリ大学生らがヴェネチアに向かっていたとき、イグナチオは一人故郷のアスペイティアにいた。生まれ育った貴族の館には戻らず、マグダレーナ慈善院を仮の宿とした。兄がわざわざ出迎え、城館に留まることを懇願したが無駄であった。イグナチオの心には、すでに回心の恵みが情熱の炎として燃え上がり、実践へと向かわせていたからである。

 この慈善院にいる間に、彼を訪ねてきた多くの人たちと神のことについて話したが、神の恵みによって、かなりの実りを結ぶことができた。故郷に到着すると、すぐに、毎日子どもたちに公教要理(カトリック教会の教え)を教えようと決心した。兄は、誰も来ないだろうと言って、まっこうからこれに反対した。巡礼者は、一人でも十分であると答えた。しかし、ひとたび彼が公教要理の話を始めると、いつもたくさんの人たちが彼の話を聞きに来た。その中には兄もいた。 

『自叙伝』88

 この慈善院の滞在は、イグナチオ『自叙伝』のなかで特別注目されているわけではないが、ここに、後のイエズス会の活動を予期させるすべての要素が現れている。

 イグナチオの行動は、アッシジの聖フランチェスコを彷彿とさせる。その回心は、アッシジ郊外の慈善院の病者たちを訪ねることで初めて示された。アッシジの教会門前で、すべての衣服を脱ぎ、巡礼者の装束をまとって町を去るのは、当時、重い皮膚病に罹患した者の宿命であり、彼らは城外へ追い出され、街道沿いにある「慈善院」に身をひそめ、「物乞い」以外に生きる「すべ」をもたなかった。托鉢修道士の意味はその境遇の共有であった。まったく同じ行動を、イグナチオも始めた。慈善院に寝起きするとはそういう意味であり、回心の結実といえる。

 子どもたちに公教要理を教えたというのも意味深い。回心の病床で接した福者ヴォラジネの聖人伝からうけたインスピレーション、すなわち「聖フランチェスコや聖ドミニコのように活動する」ことにつながっている。聖ドミニコとその同志たちの活動拠点は、南フランスのラングドック地方という、中世異端の温床になった地方である。キリスト教の基礎教理を無知な人びとに教え、異端の危険から守ることが聖ドミニコたちにとっての優先課題であった。イグナチオも、回心後の旅の途上、「照明派」の異端の嫌疑をうけて、学びと教えの大切さを身に染みて感じていた。

 イエズス会員の初期活動を理解する際、二つの概念の考察が重要となる。一つは、「慈悲の業」(opere misericordiae)である。マタイ福音書25章から導き出される、中世以来のキリスト教的愛徳および人道的活動の根拠である7つの「慈悲の業」の実践が、真のキリスト者をつくると考えられた。すなわち、「飢えた者に食物を」、「渇いた者に水を」、「裸の者に衣服を与え」、「病者を世話し」、「巡礼者に宿を貸し」、「監獄の囚人を訪ね」、「死者を埋葬する」(トビト記1・17も参照)。これらを最も貧しい者にしたことはキリストにしたことである。キリスト者はこの「最後の審判」の話を「善きキリスト者」として生きるよりどころとした。イグナチオもその例にもれず、キリスト者の原点に立ち返ったのである。

 もう一つの鍵は、「信徒信心会」 (confraternitas:兄弟会)との関連である。13世紀ごろからヨーロッパで成立した、信徒のみによる「信心会」運動は、先の「慈悲の業」の実践を心掛ける信徒たちの同好活動の総称である。毎週教区教会の典礼に通うだけでは物足りなく感じた熱心なキリスト者たちが、自分たちの余力を用いて様々な慈悲活動に特化した団体を結成した。16世紀の初頭には、100名規模の集団が、ローマだけでも150を数えるほど存在した。イグナチオの初期の活動を考える際、この「信徒信心会」運動との関わりを無視するわけにはいかない。

 イグナチオが同志たちのグループを、旧来の「修道会」(Ordo)ではなく、「コンパニア」(Compagnia、英語のSociety)と呼んだことは、当時の多くの信徒信心会が「コンパニア」(仲間たち)としてまとまっていたことに倣ったものである。イグナチオの念頭には、このグループが「慈悲の業」の実践を通じて「魂の救い」(Help of Souls、ジョン・W・オマリーの用語)に貢献する「仲間」という意識が強くあったのだろう。それはあのアスペイティア滞在の時にすでに姿をみせはじめたものの延長線上にあるものだった。

  同志らがローマに到着した1539年の冬、寒波が襲い餓死者が続出した。その際、スペインの有力な貴族との繋がりを利用し、同志たちは、スペイン人たちの多く住む界隈で寄付を集め、ローマ市内で「炊き出し」や衣料配布の救貧活動に従事した。その一方で、ルター派の福音主義に似た教説を唱える司祭と小教区教会で論争し、あるいはローマのサピエンツァ大学で神学の非常勤職を得て「教え」に専念する初期会員もいた。

ソプラミネルヴァの聖体会の会則(表紙)カサナテンセ図書館蔵

  イグナチオ自身は、「道の聖母教会」につくられた「聖体の会」という信徒信心会に属していた。御聖体訪問と顕示を中心に集まる「信徒信心会」の一つであるが、その他、ローマには「聖体会」としてソプラミネルヴァの聖マリア教会のものが有名で、その名簿にもイグナチオは名を連ねている。

 同志の多くが「不治の病の病院」(Ospedale degli incurabili)で奉仕活動をしたのは、ヴェネチア滞在以来の習慣であった。この場合、「不治の病」は新大陸からもちこまれ、1496年頃に全ヨーロッパで猖獗〈しょうけつ〉をきわめた「梅毒」をさす。こうした病者の世話にも「病院」と「信徒信心会」が活躍し、イグナチオたちはヴェネチアにあったジェロラモ・ミアーニ(Girolamo Miani)の「貧者につかえる者の会」(Compagnia dei servi dei poveri)に大きな影響をうけていた。

 売春に従事していた婦人を保護し、更生させるための女性の家、カサ・サンタマルタ(Casa Santa Marta)の創設にも同志たちは力を注いだ。そうした活動は、もとはローマのサンタ・カタリーナ・デ・フナリ教会にあった「惨めな境遇にある女性たちの会」(Compagnia delle Vergini Miserabili)という信徒信心会の活動内容であった。保護された女性たちは更生したのち、持参金を与えられ結婚相手を紹介されたり、修道院の門をたたいたりした。さらに、飢饉の後、街にあふれる孤児たちの世話のため、パンテオンの近くに「孤児の会」(Compagnia degli Orfani)という組織が創設されたのは1541年のことであった。 

 イグナチオ自身このような「信徒信心会」に所属した経験があり、同志たちも協力関係にあったにもかかわらず、『会憲』のなかで、会員たちが今後、「信徒信心会」とは距離を置くようにと規定したのもイグナチオであった(651番)。おそらく、「信徒信心会」の修道会にも匹敵する大きな影響力と、運営における多大の労力を考慮した結果なのだろう。その後のイエズス会の「信徒信心会」との関わりは、創設者となり、あるいは監督(supervisor)としての責任はとるが、実働部隊としての参加は控えるという形が主流となった。日本におけるイエズス会経営の豊後府内病院とキリシタン信徒たちの「慈悲の組」はまさにその関係にあった。

 イグナチオの回心500年を記念するイエズス会が、今、もっとも強く思い起こすべきは、1536年のアスペイティアと1539年のローマの同志たちの活動であろう。イエズス会とは何かを示すすべてがそこに集約されている。

コロナ禍にあって、水俣の地にて思うこと

葛西 伸夫
水俣病センター相思社職員

 水俣病センター相思社は、1974年、水俣市の南部、かつて劇症型水俣病が多発した漁村部から小高い丘を上がっていった高台につくられた。

 1969年の前年は、全国の大学で学生運動が起こり、多くの大学の授業が休講に追い込まれた年である。否応なしに社会と向き合うようになった学生たちのなかには、当時日本各地で発生していた公害問題に意識を向ける者たちが少なくなかった。水俣病の裁判支援の輪は大学伝いに日本中に広まっていった。授業が再開されても、休みに入る度にはるばる水俣までやってくる学生たちが数多くいた。彼らはいわゆる水俣病患者「支援者」となっていく。1969年、漁村部のうちわずか29世帯の患者家族が裁判に踏み切った。当時の水俣市長は橋本彦七。チッソの元工場長で、水俣病の原因となったアセトアルデヒド製造プラントの設計者でもある。経済も政治もチッソが握っている、まさに名実ともに城主であった。その町でチッソを訴えるということは、市民感情からすればクー・デターにもあたる行為ととれた。

 水俣では多勢に無勢の覚悟で訴訟に踏み切った患者や患者家族にとって、思いがけなく現れた彼らの存在は心強かったに違いない。しかし、劣勢だった裁判が、元チッソ附属病院長の細川一氏によるネコ実験(早期にチッソは動物実験によって自社の廃液が水俣病の原因であることを突き止めていた)の告白証言によって、勝訴が現実のものとして見えてくるようになると、原告たちの不安、すなわち城主を負かし賠償金まで手にしたうえ、この町で暮らしていくことの孤立感が、現実の不安として現れてきたのである。

水俣病歴史考証館

 そこで「支援者」たちは、分散していた患者・患者家族たちがまとまることができ、物理・精神的に支えとなる「拠り所」を作ろうという「センター構想」を打ち上げた。それを全国に呼びかけると、3千万円を超える寄付が集まった。そうして勝訴判決の翌年、水俣病センター相思社がいまの場所に作られ、それから50年近い年月が経とうとしている。

 当初の目的である患者たちの「拠り所」としての相思社は、様々な変遷を経て、現在では患者相談窓口としてそのなごりを残している。いまでは「水俣病を繰り返さない世の中をつくる」ことを究極的な目標に据え、水俣病を伝えるために、資料の収集・保存・展示をしたり、講演活動や、水俣病関連地めぐり、あるいは地元の食産品の販売を媒介に「伝える」ことを行ったり、多岐にわたっている。

 「水俣病を繰り返さない世の中をつくる」。「繰り返さない」だけではなく、そういう「世の中をつくる」という理念が私はなにより大切だと考えている。水俣病事件を起こしたのは、主犯のチッソだけでなく、共犯の行政だけでもない。それらを生み出し、事件を長いあいだ黙殺していたのは私たちも構成する社会(世の中)であるからだ。

百聞排水溝

 事実、チッソ水俣病が解決を見ないうちから新潟水俣病を引き起こしている。ほかにも同じ工程を持つプラントは世界中に作られていたし、メチル水銀中毒事件は世界各地で起こっている。

 では世界中の「メチル水銀中毒」を監視していればよい/よかったのだろうか。福島原発事故も、放射性汚染水を太平洋に垂れ流している点や、事故処理や補償制度などでも水俣病に似ているという指摘がよくされる。世界の「汚染水」の監視や、事故処理や補償の法整備だけで十分だろうか。そのような対症療法で済むことならば、公害事件や環境汚染はもはや起こっていないのではなかったか。

 「歴史は繰り返す」とか、「人は歴史から学ばない」とか言う、偉人の言葉の断片を、私たちはなかば諦めがちに納得している。実際、歴史を詳しく紐解くと、社会は大事な経験、それも多数の人間が犠牲になって得た経験からも、結局は何も学ばず愚かな歴史を繰り返しているように見えるからだ。

 水俣病初期、まだ原因も伝染や遺伝の有無もわからなかった「水俣奇病」時代、患者が多発した漁村部では、発症者の家族や家に近寄らなかったり、縁を切られたりするようなことが多発し、共同体が崩壊した。しかし、私はそれを差別と言って糾弾したりはしない。正体不明の伝染病の可能性がある患者に近寄らないことは、自分の身を守ることとして当然のことだからである。しかし、そのころの水俣では、それに加え患者の家への投石行為などもあったそうだ。それはやってはいけないことである。いま私たち相思社は、様々な活動を通して「水俣病を繰り返さない」ために「水俣病を伝える」ことを行っている。しかし、人間の歴史の必然として、また「繰り返し」てしまうのではないかという諦めがこれまでも幾度か心を掠めることがあった。しかし大いなる諦めに押しつぶされそうになったのは、まさにこの「コロナ禍」において露呈したいくつかの現実だった。

 時は65年ほど流れ、新型コロナウィルス感染症が流行している。正体が分からない点が多いところでは現代の「奇病」と言ってもよいだろう。科学技術や医学が進歩し、また、あらゆる情報が瞬時に手に入るかのような情報化時代となった現代となっても、人類社会は慌てふためいた。水俣市のとなり町の鹿児島県出水市では、熊本ナンバーの車に生卵が投げつけられるということが起きた。類似する嫌がらせは日本各地で起こった。社会が飛躍的な進歩を遂げたつもりでも、人間はこれほどまでに変わらないのかと暗澹たる気持ちになった。

 しかしそれはまだ小さな話だった。命や健康の犠牲から学んだ教訓がまったく反故にされたのは、コロナそのものよりも、コロナワクチン接種だった。通常最低でも3年はかかるといわれるワクチン開発を、製薬会社は1年足らずで開発し、3ヶ月強で治験を終了させた。それも人類が初めて実用するmRNAワクチンである。しかも日本は、それを日本人による治験を終了せずに特例で認可し、大規模接種を始めた。その結果いま、公式発表で接種直後の死亡だけでも1300人を超えている。薬害事件の疑いが間違いなく存在するというのに、ほとんどの場合因果関係を「不明」とし、明確な注意喚起もしない。しかも挙げ句には3回目の接種を呼びかけている。そしてワクチン批判は箝口令が敷かれ、マスコミが取り上げることはほとんど無い。

 これまで経験してきた薬害の経験はいったい何だったのかと思う。とりわけ日本は、1948年「ジフテリア予防接種事件」という予防接種における世界最大の医療事故を経験している。また、戦争で経験した全体主義や、戦争を開始させ破局に至るまで続けた情報操作への反省はいったいどこへいったのだろうか。

 「歴史は繰り返す」「人は歴史から学ばない」ということが白昼堂々と証明されていくことを愕然と飲み込むしかなかった。パンデミックの恐怖に駆られ、冷静さと思考をいとも簡単に手放してしまう人間の姿を、ただ諦めて眺めるしかなかった。

 私たちが地道に伝えている水俣病から得られる学びも、そのときは共感されても、社会に一定の条件が揃ったとき、同じように簡単に反故にされることが分かってしまったようで、本当に辛い。

 いったい、私たちは歴史の何を繰り返してきたのか、歴史の何を学べばよかったのか、検証する必要性を感じている。チッソが市民を犠牲にし、将来身を削って賠償金をはらうことになってまで生産を続けなくてはいけなかった原動力、そして人類の8割にワクチン接種をしようするという企ての原動力、それらはいったい何なのか。私たちはものごと(歴史や社会)の表層しか見ていないのではないか。その表層を動かす、地球に例えると地底の奥底を流れるマントルのような「本流」を見極めなくてはいけないときだと思う。

一般財団法人 水俣病センター相思社

〒867-0034 熊本県水俣市袋34
TEL 0966-63-5800 FAX 0966-63-5808
info@soshisha.org
https://www.soshisha.org/jp/

ベトナム人技能実習生ホットラインから

旗手 明
外国人技能実習生権利ネットワーク

コロナ禍の技能実習生たち

  2021年11月末現在、日本のコロナ禍は一旦収まりをみせ、日本政府が入国制限の緩和に動き出した矢先、オミクロン株が世界的な広がりをみせ始め、日本も再び厳しい入国制限に戻る方向となっている。

  日本では2020年1月から始まったコロナ禍の傷跡は深く、特に社会的に脆弱な人びとに強いダメージを与えている。とりわけ外国人労働者への影響は大きく、なかでも国際的にも人権侵害が指摘されている技能実習生たちは、仕事の減少や帰国困難の中、翻弄され続けている。

  技能実習生は、2019年には19万人近く新規入国していたが、2020年には8万人強まで激減し、2021年上半期にはさらに2万人台にまで減少している。コロナ禍は、技能実習のように期間限定(3年ないし5年)のため常に新たな受入れが必要な、いわゆるローテーション政策の持続可能性に大きな疑問符をつけている。
 

ホットラインのきっかけと広がり

  ベトナム人技能実習生向けのホットラインは、2020年にコロナ禍が広がる中、カトリックの司祭や修道者に在日ベトナム人からの相談が多く寄せられ、生活困窮に対する食糧支援活動が同年4月より開始されたことがきっかけとなった。相談者のおよそ半数が技能実習生であり、業績悪化や倒産などによる賃金不払い、解雇などの労働問題に直面していた。

新型コロナ・ベトナム人技能十修正ホットラインの掲示

  そのため同年6月から、特に技能実習生の労働問題への対応、また今後の相談連携のため、日本カトリック難民移住移動者委員会外国人技能実習生権利ネットワーク(実習生ネット)が共同して緊急ホットラインを始め(2021年半ばには、イエズス会社会司牧センター移住連も協力関係から主催に加わった)、東京・四谷の岐部ホール(聖イグナチオ教会隣接)を中心に、札幌・岐阜・大阪・福山・北九州の5拠点でも実施した。

  相談は当日ばかりでなく、1週間~10日前から主にSNS(Facebook)を活用して受け付け、当日は労働問題に詳しい専門家や弁護士等によるヒヤリングを踏まえて回答することとした。通訳は、主に神父やシスターたちが担当した。また、相談日以降も、実習生ネットに参加する労働組合やNGOなどがフォローし、神父やシスターたちも協力している。

  このほか、支援者や通訳者などの養成を目的とした研修会、困難事例や好事例などの検討会も行ってきた。その結果、全国でさまざまな繋がりが強められ、困難な状況にある外国人を支える体制が広がりつつある。

  こうした取組みは、NHKTV朝日で放映されるなど、マスコミも注目した。
 

相談の概況

  相談は、毎回20件~50件ほど寄せられ、2020年6月から2021年11月までの12回で計393件にのぼっている。相談者の在留資格をみると、技能実習生や元実習生が特定活動で在留する場合が最も多いが、留学生や技術・人文知識・国際業務、また元技能実習生の非正規滞在者などもみられた。

  相談内容としては、新型コロナウイルスの影響による帰国困難・帰国費用・隔離費用、在留資格の変更、休業手当などがある一方、技能実習制度が従来から抱える問題がより深刻な形で現れたものとして解雇、暴言・暴力、妊娠・出産、転職希望などに関する相談も多かった。

  相談は全国から寄せられ、北は北海道から南は沖縄まで、また帰国後にベトナムからという相談もあった。

ベトナム人技能実習生ホットラインで相談を受ける

主な相談事例

*コロナ罹患: 技能実習3年修了後、特定技能で働いていたが、コロナに罹患したため2週間弱休んだ。同時期に罹患したベトナム人4人が仕事に復帰しようとしたところ、全員が退職願にサインさせられた。新たな仕事を探してもらえず、友人宅に身を寄せている。

*帰国困難: 技能実習3年が修了し、特定活動で働いていたが、精神的な暴力を受けたことから退職した。帰国の航空券代が上がっていて、監理団体は5万円しか負担しないと言っている。

*休業手当: 会社がコロナの影響で1か月間休みとなった。賃金の6割の休業手当が支払われたが、手取りが少なく生活に困っている。来日前に2億ドン(96万円)を高金利で借金したが、返済もままならない。

*強制帰国未遂: 機械金属関係で技能実習をしていたが、3年修了の直前に実習生同士の内輪もめを理由に強制帰国させられそうになった。監理団体からは、もう実習生ではないと言われ、ホットライン当日に支援団体によって助けられた。その後、労働組合に加入して交渉しているが、特定技能に移行して日本で働き続けたい。

*暴力: 建設業で技能実習をしていたが、社長から棒で目を突かれた。監理団体からは、「訴えなければ新たな仕事を見つける」と言われ、退職届を書かされた。監理団体の寮に移り、寮費は無料だが食費の工面も難しい状況で、なかなか仕事を紹介してもらえない。

*妊娠・出産: 技能実習2年目だが、妊娠したことを会社に伝えたところ、解雇された。アパートを追い出され、保険証もハサミで切られた。元の会社に戻って働き続けたいが、出産に伴う費用を払うお金もなく不安だ。
 

ホットラインからみえてきた課題

(1)帰国困難者へのサポート

  技能実習生が実習の中止や帰国困難となる場合、新たな就労先が見つかるまで監理団体の施設で過ごすことが多い。しかし、寮費は無料でも、水光熱費、食費などの生活費は実習生が負担することが多く、支払えなくなるケースも珍しくない。

  監理団体は、「技能実習生が帰国するまでの間、生活面等で困ることがないよう……支援を行う」こととされている。しかし、支援の範囲は曖昧で、現実には生活困窮に陥り失踪に追い込まれる技能実習生もいる。緊急事態に備える制度が整備されるべきである。

(2)帰国旅費の高騰

  技能実習においては、「監理団体が……技能実習の終了後の帰国に要する旅費を負担する」とされているが、コロナ禍でチケット代が高騰しているため、技能実習生がその一部負担を求められるケースも増えている。この点、政府は「いかなる理由でも、技能実習生に帰国費用の一部を負担させることは認められ」ないとしているが、基金創設などの対応も検討すべきである。

(3)暴力ケースの頻発

  コロナ禍で受入れ企業に余裕がなく、暴力が頻発しやすい状況が生まれている。暴力を隠蔽するケースもあり、技能実習生が訴えやすい環境の整備が望まれる。技能実習生間でのトラブルに起因する暴力もあり、コロナ禍の影響がさまざまに現れている。

(4)妊娠・出産のリスク

  妊娠したら会社を辞めさせられると恐れている技能実習生は、いまだに多い。日本政府も2019年と2021年に妊娠・出産等での不利益取扱いは許されないとの注意喚起文書を出しているが、徹底されていない。安心して妊娠・出産できる環境の整備は喫緊の課題である。

  また、日本国内で子育てできる環境は未整備である。特に、技能実習生や特定技能1号外国人の子どもには「家族滞在」が認められないため、子どもの在留資格の確実な保障が求められている。