歴史的人権と記憶・和解・将来
2012年に雑誌『家庭の友』に掲載した原稿です。歴史認識について述べた記事の2本目です。
歴史的人権と記憶・和解・将来
光延 一郎
人間の尊厳は不可侵である
ドイツの憲法(『ドイツ連邦共和国基本法』)には、ナチスによる史上稀な大犯罪への反省から「人間の尊厳」が徹底されています。その短い前文には注目すべきことに「神」という言葉が、ただ一度だけ、その一番初めに現れます。
「前文 神と人間に対するみずからの弁明責任を自覚し、統合されたヨーロッパの中で平等の権利を有する一員として、世界平和に貢献しようとする決意に満ちて、ドイツ国民は、その憲法制定権力により、この基本法を制定した」。
ドイツ連邦共和国基本法
「神」という語が現代の実定法に入ること自体異例なことですが、その「神と人間に対する責任の自覚」に基づき、第一条が宣べるは「人間の尊厳」です。
「人間の尊厳は不可侵である。これを尊重しかつ保護することはすべての国家権力の責務である。それゆえに、ドイツ国民は、世界のすべての人間共同体、平和および正義の基礎として、不可侵にして譲り渡すことのできない人権を信奉する」
ドイツ連邦共和国基本法 第1条
「人間の尊厳」が憲法第一条として、国家の原理、下位の法が従うべき根本原則だとされます。「不可侵」という語(unantastbar)は、「誰にも手を触れることができない」という意味です。ユダヤ人などの大虐殺をはじめ、多数の人間の尊厳を踏みにじった歴史への反省が込められた言葉だと思います。これはまた、前回触れた第二ヴァティカン公会議『現代世界憲章』(十六項)で「良心」が、神以外だれも手をつけることができない人格の中心だと言われた伝統にもつながると思います。
過去の克服
最近、日本の大都市の首長たちがまたしても「南京大虐殺はなかった」などと、歴史学者からすれば「妄言」を吐いて物議をかもしました。研究者の緻密な研究によってすでに検証済みの史実について「嘘も千回言えば本当になる」とばかりの政治家の一声が懲りずに繰り返されます。戦争の被害ばかりを教えられてきた一般の人々は惑わされ「結局、どっちもどっちだな」と、わずらわしい歴史問題を忘却します。ドイツではしかし、ナチスについての記憶を抹殺しようとする公の「歴史修正・偽造」発言は、犯罪として訴追されます。
ソウルの日本大使館前では、日本軍「慰安婦」とされた婦人たちによる毎週水曜日の抗議行動がついに千回(つまり二十年)を越えました。ハルモニたちもどんどん少なくなっています。この「恨」を放置してはおけないと、韓国政府は日本政府に対しこの女性たちへの誠意ある応答を求めました。しかし日本政府は「すでに決着済み」と無視を決め込んでいます。
一九六五年の日韓基本条約にともなう協定で、賠償は免責されたというのが日本政府の見解です。しかし当時の会談では日本軍「慰安婦」問題は全く論議されず、このような「反人道的」行為については、賠償請求権協定によって解決されたとはいえないというのが韓国政府の立場です。人権保障の実際はいつも限定されたものであり、ある時代に実現されなかった正義は、その人権が認知された後の時代には正しく裁かれ直されるべきだというのが「歴史的人権」の考えです。日本政府の態度に、そうした深みはあるでしょうか?
日本国内でも、朝鮮学校が高校授業料無償化から外され、さらに東京や大阪では知事の意向により、長らく続いてきた朝鮮学校への補助金が凍結・削減されています。朝鮮半島出身の日本在住者は、自分の意志とはかかわりなく戦前は日本国「臣民」とされ、戦後は一転外国人(一九四七年の外国人登録令により「朝鮮」籍)とされました。しかし翌年、故郷に二つの国家が出来てしまい、「協定永住権」が与えられる韓国籍取得者と朝鮮籍のままの者(「北朝鮮」籍ではありません)とに分断されました。朝鮮籍に留まった人々のうちには、分断された祖国の片一方には属したくないと自ら国籍選択を留保し続ける人々がいます。しかしこの人々は、北朝鮮に政治的な動きが起こるたびに、いやがらせやバッシング、権利はく奪、差別を受けてきました。
ともかく「過去の克服」、加害の記憶との取組みにおいて、日本には問題が多すぎます。意図的な居直りと不誠実を感じます。「自虐史観」をやめろという人々もいますが、過ちに向き合わず反省を避ける「自愛史観」ならいつまでも大人にはなれません。過去をきちんと弔わぬかぎり、現在と未来に真の平和はありません。
「和解」の前提
ドイツの過去の克服と日本のそれは比較されてきました。もちろんドイツの取組みにも不作為はあったし、外圧や計算により仕方なしにやってきたという側面もあります。しかし、近隣諸国との友好関係を築くにあたっての「過去」問題の解決度については、日本と大きな差があると言わざるをえません。ドイツによる和解を目指した努力は周囲から認められましたが、日本は相手からの不信感を放置しています。日独には加害(「罪」)の自覚と償いの意識、つまり倫理や宗教の視点において大きな認識の違いあります。
加害と被害の事実がある場合、その関係を修復し乗り越えていくために必要なのは、まず加害者が、謝罪と救済を求める声に対して「誠意ある対応」をすることでしょう。それを認めるのは被害者の方です。「二国間協定がある」という原則論や建て前だけでは、相手との和解や信用を得ることはできません。アジア諸国が日本に求めているのは、受けた「非人道的」な扱いについて「人間としての尊厳」を回復させる正当な謝罪と補償をせよということに尽きます。これに向き合い、政治や教育においてその実を示すことは、日本の社会自体をも良くしていくと思います。