グローバル経済における正義
―持続可能で、誰も排除されない社会をつくるために―
ボネット ビセンテ SJ
イエズス会社会司牧センタースタッフ
今年の4月に、イエズス会の総会長ニコラス神父は全イエズス会員に手紙を送って、同会本部にある社会正義とエコロジー事務局から発行された文書「グローバル経済における正義~持続可能で、誰も排除されない社会をつくるために~」を読み、その内容について熟考し、祈るよう強く勧めました。
2015年に、全世界から神学者、経済学者や哲学者、イエズス会員とその協働者が集まり、現在の経済のやり方が続けられるか話し合いました。そしてその経済の仕組みが人々に与えている影響を分析して、貧しい人々と環境のニーズに経済がより良く応える方法を探りました。この文書は彼らの研究活動の結果です。
「行動への呼びかけ」という小見出しの序文では、教皇フランシスコの『福音の喜び』や『ラウダート・シ』を引用しながら、次のことを指摘しています。最近の数十年の間に、教育を受ける可能性の増加、健康管理の改善、科学技術の進歩などによって人々の生活は驚くほど良くなった一方、大多数は貧しくて惨めな生活のままで、辛うじてその日暮らしの生活を送っています。このような状況にあって、人類は現在、岐路に立っているのです。私たちが経済成長できるのは明らかです。けれどもその経済成長がすべての人々のためになるのか、それとも特権階級の少数者だけのためになるのか、私たちがはっきりと選ぶべき重大な危機の時です。
研究を重ねてこの文書をつくったグループの望みは、経済や公政策に福音の光を当て、こうした危機に対して教会とその他の人々が努力するのを手助けし、促進できるように役に立つことです。「持続可能で、誰も排除されない社会をつくるために」という副題は、一つの手掛かりになるでしょう。
序文(第1章)の呼びかけの後に、見る・判断する・行動するという様式にしたがって、文書は以降4つの章に分かれています。
第2章では、いわゆる「時のしるし」について論じられています。「グローバル化された」経済と科学技術の進歩によって、私たちの毎日の生活を定める新しい状況が生まれています。それが第2章のテーマです。予想できるようにその状況には、プラスのものもあればマイナスのものもあります。
富を増やして多くの人々が貧しい状態から脱する助けとなった経済的な恩恵と同時に、その恩恵にあずかれないように排除され、貧しいままに取り残されるようにする経済のあり方は、第3章において概略されています。これについての研究と討論を深めるための提案が、最後に加えられています。
第4章の「共通善についてのビジョン」は、より公正で正義に適った政策と実践の方向付けとなるようにという希望をもって提供されています。
そして最終の第5章において、研究グループはイエズス会員や協働者、そして施設のために、提言と勧めを述べています。これらはさらに具体的で、私たちが常に最も弱い立場に追いやられている人々に焦点を合わせ続けられるよう助けとなるものです。
「時のしるし」
研究グループは、人々の生活にかかわる経済の仕組みの特徴として、以下の「時のしるし」を指摘しています。
- 貧困の程度は、非常に高いままである。
- 格差は着実に増大してきた。
- 先住民と排除された少数民族は差別を体験してきた。
- 男性よりは女性の方が貧しくなりやすく、経済にかかわる機会に関して不平等な立場にありがちである。
- 仕事にかかわる状況は、急速に変化している。
- 金融市場は劇的に拡張した。
- 民間セクターはますます重要になり、新しい起業と雇用のやり方を始めている。
- 今の経済のやり方を持続できるかは、現在の重要な課題である。
- 現在の疫病のような暴力の根源は、しばしば経済的なものである。
- マスメディア―商業的なものも社会的なものも―の役割はますます重要になってきた。
- 地元の多くの草の根グループ(共同体)は、さらに正義に適った、誰も排除されない経済的関係をつくろうとしている。
- 新しいグローバルな市民社会が現れ始めている。
- いくつかの政府や大企業は、持続可能な開発に携わろうとしている。
- 持続可能な開発についての新しい理解が現れている。
- 組織の社会的責任という運動は拡大していて、これも希望のしるしである。
現在の重要な課題
第3章では、世界が直面している最も重要な課題について、社会科学のレベルからより深く分析されています。社会的様相も環境にかかわる様相も含まれています。考察されているのは、次の通りです。
- 厳しい貧困についての課題
- 不平等という社会的な負傷
- 現在の金融のやり方のリスク
- 暴力の不正
- 私たちがともに暮らす家の、ケアされていない壊れやすさ
この社会的分析自体が、十分に考えるための材料になっていますが、それぞれの実態に新たに光を当てて、キリスト教の伝統、聖書と教会の公文書からの考察が加えられています。
新しいビジョン
現実、すなわち「時のしるし」を見、それを社会的・キリスト教的に分析したら、その現実に対する行動が求められます。行動は第4・5章のテーマです。
貧困、不公平、規制されていない金融、社会的な争い、そして環境の悪化からの「訴え」に対して、効果的な応答が求められています。そして 、そのためには、共通善についての力強いビジョンが必要です。
研究グループは、共通善がそれぞれの社会の個々人の総収入額とは違うことを指摘した上で、「公正な貢献」(contributive justice)と「公正な分配」(distributive justice)という用語をもって、共通善の具体的な意味を明らかにしようとしています。
公正な貢献の実現とは、それぞれの社会及び世界全体において誰も排除されずに、自分が属する社会と世界で能動的に参加(正当な賃金と労働条件のもとでの仕事があり、環境を保護するなど)して、よい社会をつくるように貢献するということです。
また、公正な分配の実現とは、それぞれの国及び世界の経済成長の成果が、公正にすべての人々のために分配されるということです。
まことの共通善を実現するためには、改革をもたらすそれぞれの国家、市民社会や正義のためのグローバルなネットワークのはたらきが必要です。研究グループは、国内レベルと国際レベルにおける具体的な改革、そして新しい霊性と個人的な幸福についての新たな解釈や理解を勧めています。
「イグナチオの家族」のための勧め
第5章は、イエズス会員とその協働者、そしてイエズス会の機関や施設にあてられていて、そこで次の行動が勧められています。
- まず、貧しい人々とかかわりをもつ。
- 私たちの機関や施設を、経済的な正義の用具に変える。
- 私たちは、既につかっている施設や人材・財力などを、さらに有効に活用することができる。
- 貧しい人々や排除された人々のための知識を前進させるには、行動へのコミットメントが必要である。
- イエズス会の施設のネットワークで、現状に力強い影響を与えることができる。
- 私たちの大学や専門学校(経済学、神学、法学や政治学、実務や経営など)の可能性は、まだ十分に実現されていない。
最後に研究グループは、福音の力、神の貧しい人々への愛、苦しみ悲しんでいる人々や義に飢え渇いている人々への神のケアについて、再度熟考するように呼びかけています。
*紙面に限りがあり、この文書の内容を十分に伝えることができません。全文の日本語訳は、でき次第、社会司牧センターのHPでお知らせします。なお、Webサイトwww.sjweb.info/sjs(『Promotio Justitiae』121号)において、英語・フランス語・イタリア語・スペイン語で閲覧できます。
構造的暴力としての環境問題と心の平和
―回勅『ラウダート・シ』における問題認識をもとに―
吉川 まみ
上智大学講師
「環境問題」再考 ~「環境」という言葉の多義性と、問われる価値観~
一般的にいう環境問題とは、自然環境が再生する能力を超える範囲(速度や量)で、自然を採取したり汚染したりした結果生じる自然枯渇と、自然界で分解・循環しえない化学物質をつくり出し、排出・廃棄することによる環境破壊をいいます。
ところが、あらためて環境問題とは何か、その本質とは何かと問われて説明を試みようとすると、意外にも多様な概念であることに気づくのではないかと思います。なぜなら、そもそも何を指して「環境」というのか。それはあいまいで日本の環境基本法という法律の中でさえ、「環境」という言葉の定義を定めていないほどです。幾つかの言語の「環境」の語源からは、“あるものが存在し、その外部にあってそれをとりまき、それに何らかの影響を与えている一定の状況にあるもの”という共通した意味が見いだせます。
しかし、かかわりの存在として生きる私たち人間にとって、環境と呼べるのは外在して目に見える環境だけではないはずです。精神的で目に見えない内なる環境もあり、それら内外のダイナミックなかかわりあいもまた大きなリアリティを持っていますし、信仰を持つ人々にとってスピリチュアルな環境、霊的な環境はとても重要なものです。
このように、環境という言葉は人々の考え方に左右されるものであるゆえに、環境問題をどのように捉え、その原因がどこにあるのかという問題認識にも多様な考え方が存在するのです。また、何らかの環境が“問題”であるというからには、問題のないビジョンが意識されているかということも大切な問いです。それは、持続可能な社会、共生社会、あるいは包摂社会のイメージでしょうか。もし、そのようなビジョンがあるとしたら、一体何が、誰にとっていかに問題なのか、それは現在の問題なのか、過去から持ち越した問題なのか、将来起こりうることについての問題なのか…といった具合に、環境問題という言葉は一見シンプルなようで、実は私たち個々人の考え方や価値観、その根拠を問い直さずにはおかない奥行きある次元の問題を幾重にも含んでいるようです。
『ラウダート・シ』における「構造的暴力」としての「環境問題」
そんななかで、2015年に出された教皇フランシスコの環境問題についての社会回勅『ラウダート・シ』は、キリスト信者としての私たちが、それぞれ考える環境問題についての考え方を一つに束ねる指針を与えてくれていると思います。そして、自然を含めた被造物や被造界全体といかにかかわるべきか、自身も被造物でありながら被造界を守る使命を神託された私たち人間の責務とその普遍的な根拠と原理を示してくれています。
『ラウダート・シ』のなかで教皇フランシスコは、地球環境問題の直接的で大きな原因のひとつが、富める国や富裕層の飽くなき欲の追求、使い捨て文化を牽引する消費主義にあり、その負の影響をより大きく被るのが貧しい国や貧困層など社会的弱者なのだと繰り返し強調します。また、そのような格差社会の現実の問題を構造的に見る必要性を教えてくれています。なぜなら、さまざまな物事のかかわりを社会構造の視点から眺めると、狭い意味での自然環境の問題は、その他の多様な社会問題と密接につながっていることがわかるからでしょう。
先進国では、大量生産・大量消費・大量廃棄型の消費主義社会の構造のなかで、自然枯渇や汚染による生態系破壊や地球温暖化などの環境問題が深刻化してきました。一方、途上国では、貧困問題・人口爆発・環境破壊のトリレンマ(三重苦)の状況を抱え、いずれかの問題に着手した時、残りの問題を助長せざるをえないという矛盾した構造を抱えています。
そして、この先進国と途上国双方の問題構造は別個に存在するのではなく、双方の問題を相互に助長するような構造になっています。例えば、先進国を中心とする世界経済市場の熾烈な競争のなかでの経済活動は、より低コストで、より利益率を上げ、原料の自然資源や労働力としての人的資源をより有利に入手できるような場に生産拠点を持ち、生産活動を拡大するよう促します。それが何処かといえば、将来の持続可能性を慮る余裕のない貧しさに直面した途上地域であることが多いのです。つまり、関係性のなかに弱者と強者や極端な格差があるからこそ、不公正な関係、不平等な分配は容易に成立します。
平和学者ヨハン・ガルトゥングは、この不均衡なつながりを社会構造的に捉え、その正体を「構造的暴力」と呼びました。構造的暴力は構造のなかに組込まれて不平等な力関係として働き、生存機会の不平等として現れます。この不平等こそが格差であり、目に見えやすい格差が経済格差です。つまり構造的に見ると自然破壊の問題は、社会的公正さが欠如した資源搾取の構造であり、人権問題、世代間倫理の問題であり、社会正義と連帯の問題でもあるといえるのです。
心の危機としての「環境問題」と平和とのつながり
構造的暴力に着目したガルトゥングは、この視点から「平和」の概念を深耕し、直接的で人為的な暴力や戦争がない状態を「消極的平和」、構造的暴力がない状態を「積極的平和」と名づけました。平和とは、単に戦いがないという事だけではなく、目に見えないつながりの健全さが重要であるということです。
教皇フランシスコが『ラウダート・シ』のなかで繰り返すのは、まさにこの不健全な構造による問題です。しかし教皇は、途上国と先進国の間の構造的暴力を客観的に考察して、為政者や権力者の問題を指摘するだけではなく、先進国型の消費主義社会の構造と私たち自身の間にある密接なつながりも見逃してはくれません。無意識のうちに大量消費を加速させているのがほかならぬ私たちのライフスタイルなのだと厳しい指摘を繰り返します。構造的なつながりを見ていくと、自分に関係のないことは何ひとつないという事がわかるからです。そして、過度の消費を繰り返すライフスタイルの根源的な原因が、私たちの心の奥底の霊的な深い渇きであることも指摘しています。
心の不均衡は、日常の些細なふるまいから、産業活動に至るまで、配慮に欠ける行動となって脆弱な地球をどんどん蝕んでいます。何の役に立っているかわからないような細菌や微生物も小さな生き物も、神の小さな被造物に価値のないものは何ひとつもなく、本来は被造界全体がひとつの美しい均衡のなかにそれぞれがその役割を担っているはずでした。神の小さな被造物に、地球の隅々にまで神の栄光を見いだすまなざしは、この社会のなかで虐げられ棄て去られた脆弱な人々のなかにも同じ輝きを見いだすことと表裏一体であるがゆえに、地球環境の問題は、同時にその負の影響を最も受けやすい社会的弱者との関係性の問題、そして私たち自身の内なる平和の問題でもあります。
『ラウダート・シ』では、自己や他者や自然を傷つけあう社会を、共通善に支えられたあらゆる人々が全人的(インテグラル)な発展をとげられる社会へと変えてゆくために、「総合的(インテグラル)なエコロジー」という概念が示されています。この言葉は、私たちがともに暮らす家を大切にしつつ皆が健全であるために、自己や他者、神とのかかわりの健やかさのみでなく、自然環境とのかかわりの健やかさも不可欠であるということを意味しているようです。そして、この4つの次元の健やかさの調和を得るという意味での「エコロジカルな霊性」を育む日々の祈り、小さな環境への気遣い、そして「エコロジカルな教育」が欠かせないのだと述べられています。
このように、環境問題とは私たち一人ひとりの心の平和の問題でもあります。「・・・自分自身と和解せずに、幸いな節欲を養い育てることのできる人はいません。戦争がないことをはるかに超えるものである平和の意味を十分に理解することなく、適切な霊性理解はありません。心の平安は、エコロジーや共通善を大切にすることと密接にかかわっています」(LS 225)。この意味で、原発問題も沖縄問題も、あらゆる社会問題の人間的な根源は同質の問題だといえるでしょう。地球の持続可能性も、アジアや日本の持続可能性も、さまざまな地域の持続可能性も、あらゆるものごとのつながりとその根源に、私たち一人ひとりの内なる調和、内なる健やかさが問い直されているのだと思います。
下関労働教育センター・改修を終えて
山本 紀久代
下関労働教育センタースタッフ
新しい出会い
3年間の東北での働きに区切りをつけ、下関に来てから1年4か月が経ちました。「改修を終え新しいセンターはどのように歩んでいくのか、センターのこれからについて」というテーマで原稿依頼をいただきました。現時点でセンターとしての意見をまとめるのは難しいので、今回はわたしが個人的にこの1年4か月出会ってきたこと、感じていることなどをお伝えしたいと思います。
関東で生まれ育ったわたしにとって、眼前に九州を見ながら生活することがいまだに不思議でたまりません。もちろん場所とともに変わるのは風景だけではありません。その土地の持つ言葉や歴史も変わります。ですから今は下関に住んでいる人、その土地の歩んできた歴史とそれゆえの課題のようなものに出会わせていただいている時といえます。
この土地ならではの課題として避けて通ることができないのは、韓国・朝鮮とのかかわりです。広島では宇品港からたくさんの兵士たちがアジア侵略のために旅立っていきましたが、下関にはたくさんの韓国・朝鮮人が望む、望まないにかかわらず関釜(下関-釜山)連絡船で連れてこられ、そこから列車で日本中に送られていきました。下関駅の近くには釜山門もあり、今でも在日の方の多い土地です。
昨年の5月に、まるでわたしの到着を待っていたかのようにセンターで新しく韓国語の教室が始まり、わたしもそれに参加しています。下関在住の在日の若いお母さん先生ですが、ご自身も物心ついてから韓国語を学んだ方で韓国語教師としての体験も豊富なので、初心者生徒3名は亀の子のような歩みとはいえ、懸命に新しい言葉と格闘しています。
言葉を学ぶこと自体その国の考え方や文化に触れることですが、このクラスの場合は先生との何気ない会話の中で在日の方々のご苦労や、それに負けない強さ、強さに裏付けられた明るさに触れることができ、得難い時間だと感謝しています。この先生は韓国料理教室も開いているので、時には食を通してのおいしい文化交流も体験させてもらっています。
振り返ればこの1年、その他いろいろな形で韓国の方との交流の場をいただきました。昨年9月には済州島で開催された平和大会に参加し、韓国での基地建設の問題とそれに反対を続けてこられた方々の活動に触れることができました。相手が平和を破壊する軍事基地を建てるなら、こちらは平和を発信する基地たる平和センターを建ててしまう。それにカトリック教会が深くかかわっていて、毎日基地のゲート前でミサがたてられているという現実に、日本の教会の在り方との違い、骨太の情熱を感じました。平和大会の後には日韓のイエズス会の社会司牧にかかわる会員や関係スタッフの交流会も行われました。
ご存知の方も多いと思いますが、下関では過去3回にわたって脱核の分野で活動している韓国の人たちとの交流会が開かれています。4回目の昨年は、正平協の東京での全国集会に韓国からの参加者を迎え、集会後に一緒に福島の視察にも行きました。今年この脱核の集まりは韓国で、日韓イエズス会の社会司牧に携わる人たちの交流会は下関で、引き続き計画されています。
昨年は北九州の折尾の朝鮮学校を会場に、移住連の全国フォーラムが開催されました。長年北九州で外国人労働者の問題にかかわってこられた岩本光弘さん(水巻教会)が事実上の代表を務められ、センター長である林神父も共同代表として名を連ねました。その動きを無駄にすまいと、今年6月に「多文化共生ネットワーク・関門」が立ち上がりました。今は労働者だけでなく日本人と結婚して生活をしている外国人も増えていることから、敢えて「移住労働者」ではなく「多文化共生」という表現を用いたこのネットワーク、これから関門海峡を越えて共に学び合い、つながりを作り深め、何らかの必要が生じた際には助け合うことができるようになりたいと願っています。この会の方に声をかけていただいて、長崎の大村にある入国管理センターへの訪問活動にも時折参加するようになり、普段の生活では隠されている同じ日本に生活する外国人の状況に、その様々な思いに触れさせていただいています。
また下関には「日本とコリアを結ぶ会(ニッコリ会)・下関」というグループがあって、毎年9月の第1週には関東大震災の朝鮮人虐殺を忘れないための集会を開いたり、11月23日(いいプサンの日)に平和行進をして、平和の、共生の大切さを訴えたりしています。今年は9月3日の関東大震災大虐殺事件を忘れない集いに韓国からキム・ジョンス牧師を招き、「関東朝鮮人虐殺―韓日両国の責任」というテーマでの講演が計画されています。
下関から西に200km行けば釜山、東へ200km行けば広島です。距離だけでなくもっと近くなっていきたい国、両国の歴史ゆえにもっと近くさせていただきたい方々です。こうして、韓国がらみのかかわりだけを見ても、ゆっくりしたペースではありますが下関という地で与えられた新しいかかわりに少しずつ自分を開き、かかわりを紡いでいます。どこにあってもかかわりを紡ぐこと。これが今のわたしにとってセンターの働きの大きな部分を占めています。
センターの今後の課題
「教会」という時、その建物を指す場合と、メンバーが作り出す兄弟的交わりそのものを指す場合があります。労働教育センターについても同じようなことがいえると思います。つまり、センターの活動という表現が、建物を使っての活動という意味で使われる時と、建物を出て人々の中にすでにある神の国に出会わせていただくために出向いていくという意味の両方に使われるということです。出向いて行って、社会の様々な場面ですでに神の国の価値を生きておられる方々と出会うという動きと、その出会いを通して見出した必要に応じてセンターという建物を活用していく動きのバランスが取れるといいなと思います。
今まで林神父とスタッフの方々が長年培ってきた出会いとかかわりの中で、センターの幅広い働きがありました。今は「恐れずに新しい海に網を放ちなさい」と呼びかけられているように感じます。ここでいう「新しい海」とは、例えば「未だ出会っていない人々」、「次世代の人々」を指しているでしょうか。今まで原発建設に反対してこられたグループや、核兵器の恐ろしさ、戦争の悲惨さを後世に訴え続けてきたグループ等の大先輩方の献身的な思いを、今後この下関で誰がどのように受け継いでいくのでしょうか。社会の動きに関心を持ってかかわる次の世代の人たちを育て、彼らと一緒に学んでいくような場を作ることが急務と思われます。
センターは宗教法人によって運営されてはいますが、そこは教会に軸足を置いた、教会の触角のような存在というよりも、むしろ軸足を一般の心ある人々のただ中に置き、必要な時に社会と教会の接点となるような存在ではなかと思います。恐れずに出向いて行き、周縁での生活を送る人々に心を開きなさいという教皇フランシスコの薦めに励まされながら、軸足を人々の中と定め、かかわりを広げていきたいものです。自分たちを守る教会から、積極的に出向いて行き、むしろ愛によって攻める教会へと変えられていく。そんな道のりの一隅を担っていくセンターでありたいと願っています。
東ティモールで非識字について思うこと
浦 善孝SJ
イエズス会東ティモール独立地区教育使徒職委員
新しく正確なデータを持ち合わせていませんが、東ティモールの識字率は50%位だといわれています。わたしは東ティモールの学校で働き、授業を担当したり、教員・事務会計スタッフや用務・清掃・警備員の勤務を担当したりしています。また小さな大学でも教えはじめました。いろいろな人びとが「読み、書くこと」、「計算すること」に接しています。
さまざまな場面で非識字の現実に出会います。仕事で買い物を頼みお金を渡す時、受取書にサインしてもらいます。ある日、精算した現金が合わないことがありました。彼は、「受け取った額はこれだけだ」と言い張りましたが、サインがある受取書の金額からすれば合いません。「信用できない」というと、仕事を辞めるといって出て行きました。実際は、わたしが現金を渡す時に間違った金額を渡し、彼がいった金額が正しかったとすぐに判明しました。それまで彼はサインをしてきましたが、書かれた金額は読んでおらず、言葉で話す金額を聞いていたのだと思います。
清掃をお願いするためにある女性を雇い、仕事の予定表を書きながら説明しました。しかし毎日予定表とは異なる時間に異なる仕事をします。もう一度予定表を書きながら、仕事の説明をしました。あるきっかけで彼女は、時計を含めて「読めないんだ」ということに気付きました。先に挙げた男性の場合もこの女性の場合にも、決して「字が読めないのか?」とは尋ねませんし、彼、彼女もそういいませんから、本当に読めないかどうかはわかりません。しかし、そういうやりとりをする時、感情的になります。すなわち、人間の尊厳に関わることなのです。
「読み、書くこと」ができるようになるという識字のプロセスには、それを取り囲むようなさまざまな学びが伴います。たとえば、同じ曜日の同じ時間に、根気よく仲間とともに教室に座ることによって、文字以外のことも会得できます。それまで知らなかった「読みたいこと、書きたいこと」を意識しはじめることができます。そしてそれは、人と人とのコミュニケーションの幅を広めます。このような現実に出会うと、パウロ・フレイレの『被抑圧者の教育学』に書かれている識字教育のことがよく理解できます。また、真の解放とはどういうことか、ということについても考えさせられます。