未来を予見する社会的な想像力

安藤 勇 SJ
イエズス会社会司牧センタースタッフ

私たちは、全世界のカトリック教会に対してかなりの変化をもたらした第二バチカン公会議閉会50周年を祝ってきました。それを記念してこの社会司牧通信では、今年一年をかけて『現代世界憲章』をはじめ、様々な公文書などを取り上げながら、社会問題とカトリック教会の考えを掘り下げていきたいと思います。今回は、第二バチカン公会議が信徒の運動に対してどのような影響を与えたのかという点に焦点を当ててみます。

Social Imagination (1)

キリスト教の信徒組織の歴史は、意外と古くありません。組織化された信徒使徒職は、現代に起こった現象です。およそ紀元200年、キリスト教が世界に広まっていった頃、「ディオグネトスへの手紙」では、自分たちの生き方をもって証ししているキリスト者のグループが描かれました。その後、4世紀頃、聖職権主義の興隆にともない、信徒の使徒職は弱まっていきました。中世でも、同様の傾向は続きました。聖職者が信徒よりも高い教育を受けていたからです。やがて16世紀になると、教会の中にある位階制構造が強く主張され、こうした傾向はカトリックの対抗宗教改革の中でさらに強まっていきました。

19世紀になって、ジョン・ヘンリー・ニューマンのような人々が新たな時代の幕開けを提供しました。彼は『教義上の問題に関して信徒に相談する』という著作(1859年)の中で、信徒の役割を強調しました。アメリカ合衆国において台頭してきた民主主義もまた、信徒運動を確立するにあたってキリスト教に影響を与えました。しかしその一方で、第一バチカン公会議(1869~70年)で議論をするために用意された「教会の図式」は「キリストの教会は、平等な社会ではない」という一般論を示しました。聖職者というのは信徒を統治する存在であり、一方、信徒の義務はそれに従うことだとみなされていたのです。それは『教会法典』(1917年)にも象徴されます。そこには信徒に関する記述はほとんど含まれていませんでした。

西洋の社会的景観を根本的に一変させた、産業革命の発生という巨大な「津波」は、バチカンの岸にはまだ到着していませんでした。しかしながら、教皇レオ13世による労働者に関する回勅『レールム・ノヴァルム(労働者の境遇)』(1891年)と、教皇ピウス11世(1922~39年)によって推し進められたカトリック・アクション・ムーブメントは、位階的な使徒職の中に信徒が参加していくという新しい考えを示しました。後に、カトリック青年労働者連盟(JOC)がジョゼフ・カルデン枢機卿(1882~1967年)によって設立されました。その他にもいくつかのグループが組織され、カトリックの信徒が教育や職場、家庭生活などの中で活動を行っていくように訓練しました。そしてそれらが第二バチカン公会議(1962~65年)の枠組みを提供したのです。二つの公会議文書が、信徒使徒職に関する教えのために特に重要でした。『教会憲章(ルーメン・ジェンティウム)』と『信徒使徒職に関する教令』です。1983年に改訂された『教会法典』は信徒の有する重要な義務と権利について強調しています。その後、教会や世界における信徒の召命や使命を強調する教会の公文書がいくつか出されました。それには1987年のシノドス(世界代表司教会議)や教皇ヨハネ・パウロ2世の使徒的勧告『信徒の召命と使命』(1989年)、ならびに教皇フランシスコの最近の演説も含まれています。しかし、まずは重要な背景となる情報を語らせてください。

教会内の静かな革命の時代

なによりもまず、教皇レオ13世こそが、教会が労働者の不正な状況を解決するために、その基礎と基盤を築いた先駆者でした。教会は貧しい人々や弱者の側に立つ際に、常にキリストに従ってきました。けれども、教会外の出来事が教会の中に深い変化を引き起こしたといえるでしょう。産業革命は労働者にとって、主に子どもたちや若い女性たちにとって、極めて不正な状況を生み出しました。彼らは、人間と天然資源を活用することで最大限の利益を上げることを主眼とする人々によって酷使され、搾取されていたのです。

カトリック教会が沈黙していた間、当時の抑圧されていた労働者の声に応えようと、カール・マルクスが主導権を握りました。特定の地域のいくつかのカトリックグループは、不正に扱われた労働者の側に立って、その状況を変えようと試みていました。ついに、労働者自身の大きな叫びは、労働者をしっかりと擁護するよう、カトリック教会を呼び起こしました。『レールム・ノヴァルム』はこんにちでもなお、労働者のためのカトリック教会の綱領とみなされます。以来、カトリック教会の社会教説に関するすべての公式文書は、『レールム・ノヴァルム』によって示された「人間は神の似姿として創造された」という基礎に立ち戻るのです。

二つの恐ろしい世界大戦と、1923年の世界的な経済不況の起こった20世紀の前半、カトリック教会ははっきりとした姿勢を取り、不正な状況を変えるための行動へとカトリック信者を促す公式声明を発表しました。教皇ヨハネ23世は、世俗世界にカトリック教会が公式に関わるべく、新しい時代を切り開きました。そして信徒はそこに、様々な社会の中でどのようにキリスト者として生きたらよいのか青信号を見出しました。教皇ヨハネ23世によって招集された第二バチカン公会議は、教会が外へ出かけて、働いている人々と会うために、扉を開いたのです。

Social Imagination (2)

このように、ヨハネ23世の『マーテル・エト・マジストラ(キリスト教と社会的進歩)』(1961年)と『パーチェム・イン・テリス(地上の平和)』(1963年)からパウロ6世の『福音宣教』(1975年)に至るまで、カトリック教会は公式文書を通じて、キリスト者が社会の中でどのように証しをするかを示しました。

ここで、これらの文書の内容やそれに続くヨハネ・パウロ2世とベネディクト16世による詳細な説明をすることは私の狙いではありません。ただ、現教皇フランシスコが最近信徒に語られた二つの演説を紹介したいと思います。

一つ目は、2013年の5月18日にサン・ピエトロ広場で数千人に対して語ったものです。教皇はそこで自らの信仰体験を明らかにし、そして三つのキーワードを用いながら、こんにち信仰を効果的に伝える方法について話しました。その三つとは、イエス、祈り、そして証しです。「証しは重要です」とフランシスコは語ります。「危機的な時代に私たちは生きていますが、それは単に経済的な危機だけではありません。それは人類の危機です。人は自ら、滅びの危険の中にいます!しかし人は神の似姿なのです。自分の殻に閉じこもらないでください!さもなければ、皆さんは病気になってしまう恐れがあります。教会は、自分自身の外に踏み出さなければなりません。私たちは、イエスがしたことをしなければなりません。それは他者と出会い、貧しい人々と出会うことです。福音を宣べ伝えるためには、二つの徳が不可欠です。それは勇気と忍耐です。皆さんは、ひどく苦しんでいる兄弟姉妹のために祈っていますか?」

さらに2014年10月28日、教皇フランシスコはバチカンで行われたNGOのメンバーたちの集会で話をしました。今回、彼らは様々に異なる市民グループの代表で、特定の宗教に属している人もそうでない人もいました。教皇は、社会が貧しい人々の闘いを沈黙させようと努めている中で、様々な市民団体が貧しい人々を苦しめる不正に立ち向かうことは、大きなしるしであると話されました。「貧しい人々はもうこれ以上待つことはできません。彼らは連帯のうちに、貧困と抑圧から立ち上がる、主体となりたいのです。皆さんと一緒に、私も彼らの声がはっきりと聞こえることを望んでいます。多くの人々が、『土地』、『家』、『仕事』を欠いていることが悲しい事実です。」

土地。神は創造のはじめから人間に、共同体の中で自然の世話をしてほしかったのです。しかし、何百万人もの農民が、彼らの土地から追い立てられました。その結果、飢えは数百万人を苦しめて殺し、世界的な醜聞になりました。」

2014年10月28日に教皇フランシスコが国際的な市民団体の代表に対して行ったスペイン語の演説より抜粋

。それぞれの家族が人間らしく暮らし、共同体を築いていくための家…。都市が多くの人々に快適さをもたらす一方で、数千人もの人々が、それは子どもですら、路上で生活し、ホームレスとなり…。すべての家族が、きちんと人間が暮らしていけるだけの共同体環境を備えた家を享受できるように働き続けましょう。」

2014年10月28日に教皇フランシスコが国際的な市民団体の代表に対して行ったスペイン語の演説より抜粋

雇用。物質的に最悪の貧困は、日々の糧を得る機会を欠くことであり、失業によって人間としての尊厳を奪われることです。経済システムは、人間よりも利益を優先します。このようにして、人々は単に搾取されるだけでなく、社会から締め出され、疎外されるのです。人間は神の似姿であり、それはいかなる社会・経済システムにあっても、中心に位置していなければならないのです。社会的な価値が置き換わることによって、お金が人間を追放しました。他者に対する無関心の態度(どうして私が他者を思いやらなければいけないのか?)がグローバル化しました。こうして神がないがしろにされ、私たちはみなしごになってしまったのです。」

2014年10月28日に教皇フランシスコが国際的な市民団体の代表に対して行ったスペイン語の演説より抜粋

「私は皆さんに共感を覚えます。私たちは高い理想を持って、組織的な変革を起こさなければなりません。私たちキリスト者には、行動の素晴らしい模範があります。福音に基づいた革新的なプログラムです。私たちの民主主義を回復するため、共に働きましょう。意欲的に参加するための新しい方法を生み出していきましょう。敵意ではなく、愛をもって。私は皆さんの取り組みに寄り添います。」

2014年10月28日に教皇フランシスコが国際的な市民団体の代表に対して行ったスペイン語の演説より抜粋

私たち日本の教会のためのむすび

教会の一員である信徒には、社会参加をするキリスト者として、そして市民としての特別な役割があります。信徒は社会の中で、自ら信仰を証しするよう強く招かれています。それと同時に、信徒はカトリック教会の社会的考えや貧しい人々との関わりについて、および他の市民団体との協力、あるいはコミュニケーションの最新手段の使用についてのトレーニングを必要としています。

聖職者も修道者も、日本社会の現状を知り、分析するトレーニングを受ける緊急の必要性があります。福音宣教が力を取り戻せるように、日本社会の現状をカトリック教会の最新の考えと対比すべきです。貧しい人々への積極的関わりと、貧しい人々とともに働く他宗教や市民組織との協力は、私たちの本当の狙いを真に証しするものとなるでしょう。無料サービスが私たちの特徴です。

日本の移民労働者(1)
 ~国がある限り、移民がある~

安藤 勇 SJ
イエズス会社会司牧センタースタッフ
移民デスク担当

日本への外国人労働者の移動の始まり

日本の移民は、日本による朝鮮半島の軍事併合を抜きに語ることはできません。1910年から始まった朝鮮半島における日本の軍事的支配は、大いに強まっていきました。1910年、日本にいた朝鮮半島出身者は1000人足らずでした。しかし1930年までにはその数はおよそ40万人にまで増大し、太平洋戦争終了時(1945年)には200万人に達しました。彼らの過酷な人生と労働条件、教育の機会、社会的地位は、こんにちの日本の外国人労働者の状況に対する洞察を提供します。

1951年に朝鮮戦争が勃発した結果、日本にいた多くの朝鮮半島出身者は帰国することができず、日本に留まらざるをえませんでした。彼らは日本国籍を失い、困難な状況に置かれました。日本に暮らしていた台湾人も、当時、同じような問題に直面しました。

1950年以降の、日本への外国人労働者の到着

1960年代になると、アジア諸国からの労働者が数多く日本に入ってきました。彼らは、新しい、よりよい生活を夢見た若者でした。彼らのほとんどは、家族を貧困から抜け出させ、兄弟姉妹の教育費を賄い、家庭によりよい将来をもたらし、両親がよりよい家を建てることを助けようと望んでいました。こうした若い労働者は高い望みをもって日本に来て、彼らの大切な人を支えられることに満足していたのです。彼らがそうしたのは、自国では仕事に就くことができなかったからです。言葉も通じず、また自国とはまったく違う国で新たな生活を始めることは困難なことですが、彼らにはそれをする覚悟がありました。それは危険な冒険でしたが、それでも日本は豊かで、報酬のよい仕事に就ける可能性が高かったのです。日本にたどり着くことができたので、彼らは嬉しく、幸せでした。

60年代、70年代に日本に来た、こうしたアジア人労働者の多くは、台湾、タイ、フィリピンからの若い女性でした。彼女たちはエンターテイナーか、サービス業などに従事していました。日本の暴力団が若いアジア人女性を日本に働きに来させる方法は、当時多くの社会問題を巻き起こしました。

他の方法を望む人がいたとしても、移民は人生の現実です。そのためそれは、移民をなくすという問題ではなくむしろ、あらゆる面において協力と理解を深め、よりうまく移民に対処することです。ゼロサム・ゲーム状態とは異なり、移民はすべての人に利益をもたらすことができるのです。

共同通信社の報告によれば、社会福祉の東京会議が行った調査によると、東京に316ある高齢者ケア施設(従業員の90%という大多数が女性ですが)のうち30%で、外国人労働者が合計196名雇われました。こうした外国人介護者の過半数はフィリピン人で、以下、中国人、台湾人、韓国人と続きます。

経験から言うと、難民や外国籍労働者はしばしば私に、公的な抑圧と迫害によって自国に帰ることができないと語ります。彼らの命は、彼らの家族と同様に、危険に晒されています。外国籍労働者のほとんどは、仕事の不足を訴えます。自国では生きていくのに十分な収入を得られる可能性がなく、貧困が彼らを待っているのだと言うのです。日本の公的機関はそのような求めに対して、耳を貸そうとしません。実際に、私たちは日本で「移民」という表現を用いますが、日本には「移民」という概念が存在しません。公式には、他の多くの国のような移民に関する政策はなく、むしろ「外国人」を扱うためのコントロール政策しかありません。

日本の移民政策の作成

それでも、時代は日本にとって、おそらく大きく変わりました。日本国はグローバル化の先駆者です。これまで日本は入国してくる外国人労働者に対して、厳しい制限を設けてきました。しかし経済界や日本の多国籍企業は、競争に勝ち、事業を拡大するために、外国からの労働者に対して扉を開く必要性を経験しています。外国籍労働者の問題に対する日本の公式な立場と日本企業の方針は異なっていると私は思います。そのことは日本人を祖先に持つラテンアメリカ諸国の「日系人」に対して、日本が公式に扉を開いた2007年頃からはっきりとしました。移民政策を変化させるために、企業が強く後押ししたのです。

実際に、外国人労働者の受け入れに関して、日本政府に認識を根本的に改める必要を迫る二つの新しい現象が存在します。

一つ目は、2020年の東京オリンピックに向けた準備です。かつて、約50年前の1964年に東京オリンピックが開催されたとき、日本はかなりの経済産業復興を目の当たりにしました。高速道路建設や新幹線の開業などは、強い経済発展のシンボルとなりました。現在、新たに2020年の東京オリンピックを控え、人々は「古き良き時代」を思い出し、新しく強い経済復興が起きることを期待しています。しかしながら、日本には再び経済的な「奇跡」を起こすだけに必要な労働者がいません。そこで安倍首相は公式に、日本は年に20万人の外国人労働者を受け入れるという立場を示しました。

二つ目の現象は、さらに現実的かつ緊急です。日本の人口はますます減少しており、必要とする若い労働力は、こんにち見つけることができません。日本は工業生産力を維持し、高めるために、海外からの労働者を求めることに決めました。

予測される日本の人口減少は、より肯定的に外国人労働者の受け入れを考え、移民システムを改善することを要求しています。

新しい出入国管理法(2012年)

日本の出入国管理法は、何度か改正されました。1989年、経済バブル時代には法律改正の結果として、主にラテンアメリカからの日系人は、日本に働きに来ることが簡単に許されました。2007年までに、ブラジルやペルーからの約40万人の日系人が日本で暮らし、働いていました。2009年の改正では、日本における外国人に対して、絶対的な支配権が法務省に与えられました。かつてすべての外国人が持っていなければならなかった外国人登録証は、ICチップ入りの「在留カード」へと変えられました。そこには住所やビザなどのあらゆる個人データが入っています。外国人は常に在留カードを携行していなければならず、もしその不所持が見つかると、最高20万円の罰金が科せられます。雇い主にもまた、雇用する外国人について、住所やビザ、雇用状況などの詳細を報告する義務が課せられました。

日本中に存在する1787の市役所は、かつては外国人の暮らす地域において、多くの手続きを公的に取り扱う担当機関でした。けれども、市役所はもはやその機能を果たすことはできません。その代わりに、日本に全部で76しかない出入国管理事務所が、外国人に関するすべてのことを取り扱うことになりました。住所の変更、離婚といった結婚問題、転職などについて外国人が直ちに報告をしないと、処罰の対象となります。言い換えれば、法務省の入国管理局は今や、完全な支配権を握っているのです。

入国管理局の見積もりによれば、日本には2011年に、9万から10万もの非正規外国人(78488名のオーバーステイ外国人を含む)が存在しているといいます。オーバーステイ外国人の数は、ここ5年間で半数にされました。そのほとんどはアジア諸国から来ており、韓国(19271名)、中国(10337名)、フィリピン(9329名)、台湾(4774名)、そしてタイ(4264名)です。

非正規外国人が、もし警察や入国管理職員によって捕らえられると、実際には刑務所である入国管理センターに連れて行かれます。

日本には主に三つの入国管理センターがあります。牛久(茨城県)、茨木(大阪府)、そして大村(長崎県)の三つです。さらにもう一つ、似たような大きな一時的なセンターが品川(東京都)にあります。数百人の外国人が収容されています。入国管理局には、8つの地方入国管理局があり、7つの支局、61の出張所があります。2012年現在、すべての入国管理局と支局、そして一つの出張所に収容施設が存在します。

『壁の涙』という本が指摘するように、長期間の収容は、大きな問題です。入国管理法違反者に国外退去命令が出された後もなお、彼らは無期限に収容されうるからです。
共同通信社の調査によれば、2000年から2004年の間に、23名もの収容者が自殺を試みました。

現在の日本の外国人人口

現在、日本にはおよそ222万人の外国人が暮らしています。彼らの内、66万人(30%)が中国人で、59万人(27%)が在日朝鮮人です。

☟ 日本の外国人の割合(2013)
http://blog.ofjapan.jp/japan-and-highly-skilled-foreign-professionals/ (2014年6月21日)より

Migrant Workers (2)
日本の外国人労働者人口(安藤勇作成)

カトリック 世界のニュース(181)

村山 兵衛(イエズス会神学生)

教皇、日本人女性信徒を「尊者」に認定

1月23日(Zenit.org):バチカン列聖省がその奇跡、英雄的な徳行、殉教のゆえに「尊者」と認定した人々の中に、日本人信徒エリザベト・マリア北原怜子(さとこ)さん(1929~58年)がいる。東京の神道の家庭に生まれた北原さんは、20歳で洗礼を受ける。コンベンツァル聖フランシスコ会のゼノ修道士の影響で北原さんは貧しい人々、特に「蟻の町」に住んで廃品回収をする子どもたちのために人生を捧げた。彼女自身が彼らと住居をともにして、惜しみなく同じ窮乏生活に身を投じた。

尊者に認定された日本人信徒エリザベト・マリア北原怜子(さとこ)

レバノンでアンティオキア総主教ら、紛争終結のために武器密売を停止する必要を訴える

1月28日(Agenzia Fides):シリアとイラクから始まって中東を荒廃させている戦争は、同盟国や地域的・国際的な後援者から、武装した派閥やテロリスト集団への武器と金の流れが止まるとき初めて止む。東方キリスト教諸教会の首脳たち自身は、レバノンのBkerkéで1月27日に開かれた会議において以上のように表現した。

news181 (2)

エルサルバドル:“Yo soy uno de ellos"――最も脆く弱い人々のための教区や学校で

1月28日(Agenzia Fides):司教代表派遣団(スペイン)は諸教会や学校と共に、エルサルバドルの小教区教会で、子どもたちのためのミサと会議を開催した。“Yo soy uno de ellos"(「わたしは彼らの一人」)がモットーとなったこの日の目的は、子どもたちが主役という事実を見失わないで両親とカテキスタを共同の祝いへと招くことであった。

カリタス、中央アフリカ共和国からの難民のためにさらなる資金を求めて

1月28日(Agenzia Fides):中央アフリカ共和国(CAR)から近隣諸国へ受入れられた難民を助けるためには、より多くの資金が必要であると、国際カリタスの医療顧問ヴィティッロ司教は語る。2015年のために国連機関が準備する総予算案は3億3100万ドルにのぼるが、NGOが受取るのは1400万ドルだけとなる。CARからの難民の総数はおよそ425,000人にのぼる。多くはカメルーン、チャド、コンゴ共和国で現在暮している。これらの国でカリタスは、難民のための研修プログラムを提供し、教育、衛生、清潔な水や食糧援助も提供している。

イエズス会研究所、「南アフリカは恥ずべき外国人排斥を終息させるべき」

1月30日(Vatican Radio):イエズス会南アフリカ研究所は、ソウェト(Soweto)で始まった外国人と彼らの事業に対する継続的暴力を激しく非難している。同研究所は、暴力が「南アフリカの恥ずべき外国人排斥の歴史において、別の新たなエピソードをつくってしまっている」と語る。南アフリカのイエズス会士たちは、80件を超える外資系商店や外国出身者への組織的な一連の襲撃は、単に暴力を用いた犯罪行為や政治的行為としては説明しきれないと主張している。これらは外国人排斥の行為であると、同研究所の声明は主張している。

The Jesuit Institute South Africa ロゴ

バチカン、ローマのホームレスのためにシャワーも散髪も髭剃りも

2月6日(Vatican Radio) :ローマにいるホームレスのために三つのシャワー室と一つの散髪室をつくる作業が2月6日、サン・ピエトロ広場の柱廊の下で完了した。ローマ市内にホームレスが身体を洗ったり散髪したりする場所がないことを、施物分配担当者(クラジェウスキー大司教)から聞いた教皇フランシスコにより、この案は実現することになった。

【JOC】人間らしい働き方を目指して

柳川 朋毅
イエズス会社会司牧センタースタッフ
東京JOC(カトリック青年労働者連盟)リーダー

読者の皆さん、はじめまして。昨年より当センターのスタッフをしております、柳川と申します。今回は私が関わっている「JOC(ジョック)」という活動について、少しご紹介させていただきます。

JOCというのは、今からおよそ100年前のベルギーで、ジョゼフ・カルデン神父(後の枢機卿)と数名の若者によって始まった運動です。当時、労働者の多く(特に女性や若者)は、過酷な、不当な労働条件の下で働いており、非人間的な生活を送っていました。その姿に心を痛めたカルデン神父は、働く若者の声に耳を傾け、彼らの現状をつぶさに見ました。そして、働く若者が人間としての尊厳を取り戻せるよう、勇気と希望をもって彼らと連帯していったのです。それがJOCという、働く若者の運動の始まりです。

JOC運動の中で、ひとつの方法論が確立されていきました。それは①見る、②判断、③実行という三段階のプロセスです。まずは、働く若者の仕事や生活の現状(その原因や影響も含めて)をしっかりと「見る」ことからスタートします。次にその現状が、人間らしいものであるかどうかを「判断」します。そして最後に、一人ひとりが現状の中でできることを考え、それを「実行」に移していきます。この一連のプロセスは「生活と活動の見直し」と呼ばれ、JOCの中で最も基本的な活動になりました。

JOC運動はその後、世界的な広がりを見せました。実は、中南米で起こった解放の神学や、カトリック教会に大きな変革をもたらした第二バチカン公会議にも、JOCは多大な影響を与えたのです。見る、判断、実行という三段階の方法論も、カトリック教会の社会教説によって採用されていきました。

日本でも、今から60年以上前の1949年に、北九州の小倉でJOC運動が始められました。1960年代には日本中の小教区に広がりましたが、現在は全国に数か所の活動グループがある程度です。私は現在、東京のグループでリーダーを務めています。
時代の流れと共に、働く若者を取り巻く環境は変わっていきますが、彼らの多くは依然として非人間的な状況に置かれています。現代の働く若者はまるで「奴隷」のように、あるいは「モノ」のように扱われ、人間としての尊厳を失っています。それはまさにキリスト者が看過できない「反福音的」な社会です。

「働く若者は機械ではない、人間だ!」、「一人の小さな働く若者には、世界のすべての金銀よりも無限の価値がある!」という、カルデン神父の強い信念のもと、JOCでは一人ひとりの働く若者が人間らしい働き方、自分らしい生き方を送れるように、仲間たちと連帯していくのです。

JOC (1)
JOC100周年を記念して作成した横断幕

※JOCはフランス語のJeunesse Ouvrière Chrétienneの略で、
 英語ではYCW(Young Christian Workers)と呼ばれています。

日本のJOCへのお問い合わせ

135-0034 東京都江東区永代1-7-4 カトリック東京働く人の家

03-3641-6780 (FAX)