クリスマスメッセージ2025 : 霊における会話
梶山 義夫 SJ
イエズス会社会司牧センター所長
「霊において」会話するということは、信仰の光に照らされ、神のみ旨を探し求めながら、聖霊がまぎれもないご自身の声を聞かせてくださる福音的雰囲気の中で、分かち合う体験に 身を浸すことを意味します。
(『シノドス流の教会――交わり、参加、宣教 《シノドス最終文書》』45)

マリアとエリザベトの出会い、その中に「霊における会話」の模範がある。エリザベトは「不妊の女」と言われ、子どもがなく、すでに年を取っていた(ルカ1:7、36参照。以下、参照はすべてルカ1章より)。当時、不妊の女性は、その存在自体を否定的に受け取られていた。エリザベトも自分の生きている意味について苦しみ、痛みを覚えていたことであろう。アブラハムの妻サラの物語にかすかな希望を託していたかもしれない。
一方、若いマリアはまだ結婚をしていないのに、子を宿す。人生の危機的状態にある。マリアの賛歌においてマリアは「身分のいやしい」者である(48節)。二人とも社会の底辺に生きて、また人生の思いがけない展開にひどく戸惑っていた(29節)。二人は自分の今までの人生の歩み、現在の状態、今感じている不安や恐れ、希望と喜び、そして子を宿すという出来事の奥に働く神の業について、耳を傾け合ったであろう。
霊における会話の中で重要な心構えは、まず「沈黙」である。そのことを具体的に、しかも徹底的に表しているのは、ザカリアである。彼はあまりにも超越的な出来事を体験し、それを表現するには時を要した。エリザベトも身ごもったが、五か月の間は身を隠していた(24節)。沈黙の時である。マリアもエリザベトに出会うまで沈黙を守ったことだろう。また、滞在している間も、しばしば沈黙のうちに神の業、そしてお互いに相手から聞いたことを深く思い巡らしていたに違いない。
霊における会話は、「挨拶」から始まる。天使ガブリエルとマリアの会話も挨拶から始まっている。「おめでとう、恵まれた方、主はあなたと共におられる」(28節)。「おめでとう」と訳されている言葉の直訳は、「喜びなさい」。マリアがエリザベトに挨拶した(40節)言葉も、天使ガブリエルがマリアに対して行った挨拶と同じ言葉だったのではなかろうか。天使ガブリエルが神から遣わされたように、マリアも神から遣わされてエリザベトのもとを訪れた。またエリザベトもマリアを神から遣わされた者として受け入れ、さらにマリアの相談相手として自分が神からマリアに遣わされた者と自覚したことだろう。神から遣わされた者同士が出会い、挨拶し合い、沈黙し、互いに耳を傾ける中にこそ、聖霊が働く。マリアとエリザベト、そしてザカリアも含めて、ザカリアの家での真の主人公は、聖霊である。ザカリアの家は、冒頭に引用したシノドス最終文書のなかの「福音的雰囲気」の模範的例である。
聖霊の実りは、「喜び」である。エリザベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です・・・」(42節)。福音書には、マリアの賛歌とザカリアの賛歌が載せられているが、これはエリザベトの賛歌であり、私たちが日ごと唱えるアヴェ・マリアの祈りの前半部分である。私たちはアヴェ・マリアの祈りを唱えるたびに、ザカリアの家での霊における会話に召されていることを思い起こすよう招かれている。またマリアの挨拶をザカリアが聞いたのち、さらに数か月の時を経て、ザカリアが「その名はヨハネ」と書いたとき(63節)、聖霊に満たされて預言し、自らの賛歌を歌った(67節)。
霊における会話の目的は会話自体にもあるが、その会話の中で「識別」、つまり私たちに対する神のみ旨を探し求めることが本質である。また「私は主の仕え女です。お言葉どおり、この身になりますように」(38節)と言ってみ旨を行うことは、霊における会話の実りである。ザカリアの家で行われた識別は何だったのだろうか。それは聖母訪問の箇所に続くマリアの賛歌の後半に示されている。「主は御腕をもって力を振るい、思い上がる者を追い散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を何も持たせず追い払う」(51~53節)ことである。
この賛歌を歌ったマリアの生き方も、神のこの業の協力者となった。ザカリアの家に生まれたヨハネも神のこの業の協力者となった。さらに究極的には、イエスも神の業の協力者となった。ヨハネもイエスも、ザカリアの家で行われた共同識別の実りを自らの使命とし、そしてそのために命をささげ、殺されていった。
私たちはいわゆる聖母訪問の箇所をどのように読むのであろうか。そして私たちの属する共同体は、ザカリアの家のように福音的雰囲気に包まれているのであろうか。「低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たす」ような、貧しい人々の居場所となっているのであろうか。
「神戸・南京をむすぶ会」 2025年南京訪問報告
宮内 陽子
神戸・南京をむすぶ会代表
「神戸・南京をむすぶ会」(以下「むすぶ会」)は、1997年から2019年まで南京を訪問し、「南京事件」の犠牲者を追悼してきました。また北はロシアとの国境に近い虎頭から、南は海南島、東は台湾、そして西は雲南まで、日本軍の侵略の跡に立ち(中には日本人が来るのは初めてという場所もありました)、犠牲者を追悼し、歴史を学んできました。コロナパンデミックにより旅は中断しましたが、今夏6年ぶりに再開し、8月13日から18日まで、総勢20人での旅でした。
一日目は碑巡り。殺害した捕虜や民間人を焼いて、あるいはそのまま河に流して「処理」することが行われ、虐殺現場と追悼碑が集中している長江沿岸に向かいました。

一番下流にある燕子磯〈えんしき〉の追悼碑の碑文の要約です。「1937年12月、日本軍の占領後、非武装の兵士と市民は燕子磯に集まり、北方に逃げようとした。日本の軍艦に阻まれ、包囲され、機関銃で撃たれ、ことごとく殺害された。その総数は5万余人に達する。その時屍は川渕に横たわり、血は川となって流れた。このことを思うと心が痛まないだろうか。ここに碑を建て、永遠に記憶する。死者を悼み、昔から教訓をくみ取り、力を奮い起こして中国を発展させ、世界の平和を守ろう」。夏の陽光を浴びた真緑の木々の葉を風が揺らし、蝉が鳴き、船のエンジン音が響きます。この暑さの中、冬の長江べりの寒さ、その中で殺されていった人々のことを想像するのは難しいのですが、少しでもその時の恐怖、絶望、痛みを思い起こしたいと思い、碑の前で黙とうしました。
長江をさかのぼると草鞋〈そうけい〉峡。ここでは5万人の捕虜が殺害されました。さらに上流の煤炭〈ばいたん〉港では捕虜と民衆3千人余りが倉庫に収容されたあと、川岸に引き出され機関銃で射殺されました。船着き場の中山〈ちゅうざん〉埠頭でもたびたび捕虜と難民が集団虐殺されました。熱中症が心配で、散乱する遺体を集めて追悼するために建てられた挹江〈ゆうこう〉門の碑で碑巡りを終えました。
8月15日、侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館(以下「紀念館」)での追悼式典は、日中関係の厳しさの中、今までと違い、館員の皆さんと数人の報道関係者に囲まれたひっそりとしたものでした。館側の配慮でやむを得ないことではありましたが、この日にこの場所に立つ日本人がいる、ということを南京市民の皆さんにあまり示せないことが残念でした。
紀念館の展示では、壁に掲げられた幸存者(「南京事件」のサバイバー)の写真が少なくなっていました。紀念館に登録されている幸存者は数百人おられましたが、次々と亡くなっていかれます。写真は一枚一枚照明で照らされていますが、亡くなると消灯式が行われます。壁面には暗くなった写真のほうがずっと多くなってしまいました。

目を引くのは、部屋を横切って並ぶ虐殺現場の土を入れたガラスの瓶です。瓶の下には日本軍兵士、国際安全区の外国人の証言、日記の文章などが書かれ、土を見ながら当時の様子を想像する助けとなっています。瓶の中に虐殺された人々の遺骨や遺物が混ざっているかどうかはわかりませんが、基地建設の進む辺野古の海に、戦没者の遺骨の混じる南部の土砂を投入したことに沖縄の人たちが強く抗議したように、その場の土はそれだけで一つの遺物であり、尊ばれるべきものです。
外に出て、犠牲者の遺骨を表す白い石が敷き詰められている広場の周囲を歩きます。広場を囲む壁には犠牲者の名前が刻まれています。広島の平和公園の石碑、沖縄の「平和の礎〈いしじ〉」のように、名前も残さず亡くなった犠牲者もあります。これからの調査によって判明した名前を刻むための壁が続いています。
広場の奥に遺骨館があります。遺骨を取り巻いて通路がめぐらされ、一体一体の遺骨に番号が振られ、説明板が設けられています。累々と横たわる遺骨、折り重なる遺骨、頭に釘を打ち込まれた遺骨など、説明と対比すると虐殺のあり様がよく理解できます。小さな子どもの骨もあり、肋骨はあまりにも細く、小さく、手のひらですくい取れそうです。
私が「南京の友だち」と思っている6番の遺骨の前でしばらく足を止めます。通路に向かって直角に横たわっているので、顔を合わせることができます。説明によると19歳の女性で、腰骨には銃剣によると思われる大きなくさび型の傷跡があります。おそらく当時の中国の娘さんたちの多くがしていたように三つ編みで、冬ですから母親か自分が手縫いした綿入れの服を着、布靴を履いていたでしょう。殺されるときどれほど抵抗したか、どれほど恐ろしく、痛かったことか。
「友だち」といい、想像の姿といい、それは私が僭越にも勝手に思っているだけで、彼女としては自分をこのような姿にした者の末裔と友だちなんかにはなりたくもないし、話もしたくない、できるなら憎悪、恨み、悲しみのありったけをぶつけたいに違いありません。でもそうであってもいいので――というか、そういう思いを感じ取りたいと思い、いつも彼女と対面します。そして日本に帰っても彼女のことを忘れず、周囲に伝えていくことを約束します。彼女の暗い眼窩はいつも私を見ている気がします。
紀念館では毎年、幸存者のお話をお聞きしていたのですが、年を取られ、あるいは亡くなられ、今年は娘さんである曹玉莉〈そう・ぎょくり/ツァオ・ユーリー〉さんのお話を聞くことになりました。以下は要約です。
1937年、日本軍が来るので祖母は8歳の父を連れて長江の北に避難した。27歳と21歳だった祖母の弟(父の叔父)は、営んでいた工場の主力なので避難せずとどまった。日本軍が家に乱入し銃を撃ち、銃剣で刺しまくったので二人の叔父は殺された。一週間後、遺体の確認と埋葬のためこっそり家に戻った。一人の叔父は野犬か何かに顔を食われ、顔が半分だけ残っている非業の死、もう一人はおなかを割かれ、腸が流れた状態で横たわっていた。棺桶を作ることができずむしろで包み、粗末に埋葬した。
母は7歳。鍋墨を顔に塗り、髪の形を男の子のように変えて逃げ、芦原に隠れた。日本兵が現れ、銃剣で芦原を突きまくった。ふくらはぎを刺されたが、声を出したら見つかるので祖母が口を押さえ、気付かれずにすんだ。治療するところもないので傷口に藁や木の灰を塗った。傷口はずっと残り、年を取ってから時々家族に「当時の記念」として見せた。
両親は難を乗り越えて生きたが、事件の影を生涯背負った。母はサイレンや「日本」という言葉を聞くと震えた。清明節が近づくと家族は暗い気持ちになる。未婚で家族のいない二人の叔父のための供え物を必ず持参するよう心がけている。二人のことを含め家族の記憶の中で覚えておいてほしい、平和のために何をするか考えてほしいと母から言われた。中国と日本が平和に付き合うためには歴史を認めなければならない。中日両国の人民の子々孫々にわたる友好関係を作りたい。
曹さん一家をはじめ、南京のみならず中国全土、日本軍が侵攻したところではこのような傷跡が残されているのでしょう。それは日本でも同じで、被害、そして日本の場合は加害の面でも深刻な傷跡が刻まれており、それを直視できていない日本社会にひそかに影響を与え続けているように思います。であるからこそそれに向き合い、傷跡を克服していく営みが、私たち次の世代に求められていると思います。
次の見学先は、当時の慰安所を復元した「南京利済巷慰安所旧跡陳列館」。朝鮮人「慰安婦」朴永心〈パク・ヨンシム〉さんが、自分がここにいたことを証言しました。「慰安婦」とされた女性が場所を確定することは極めてまれなことです。中国各地の、日本軍が設けた慰安所の写真が壁に並びます。慰安所は現地では歴史的遺跡として保存されています。日本社会では「慰安婦」というと韓国人「慰安婦」を思い浮かべるように仕向けられていますが、侵略した土地は中国の方がはるかに広く、「慰安婦」とされた女性の数も多いのです。南京でこのような展示が行われ、多くの若い人々が学んでいるのに、日本の若者たちがほとんど、あるいはまったく知らないというギャップの大きさは、大変残念です。
翌日は実業家の呉先斌〈ご・せんひん/ウー・シエンビン〉さんが建てた民間抗日戦争博物館を見学しました。日本のアニメに関心を持ち、日本語を学んだ二人の学生ボランティアさんが解説してくれました。市内のあちこちで若い人たちが歴史を継承する活動をしているそうです。ここではとりわけ抗日戦争を戦った老兵の顕彰に力を入れ、その人々の記録を調査、保存しています。老兵の写真にはQRコードがつけられ、それを開くと証言を聞くことができる展示もありました。壁一面に貼られた老兵の手形と壁に刻まれた名前を見ると、ひとり残さず記録し、後世に伝えようという意志を感じました。

帰国前日、今夏話題の映画『南京写真館』の舞台の一つ、毘盧〈びる〉寺を訪問しました。またBC級戦犯裁判が行われた「励志社」を訪ねましたが、紙幅が尽きました。詳しいことは「むすぶ会」の報告集(神戸学生青年センター、2025年)、またこれまでの旅の報告集『日中戦争への旅◉加害の歴史・被害の歴史』(合同出版、2019年)をお読みいただければ幸いです。
嫌中の系譜学 ~万宝山から弾劾前夜まで~
朴 東燦 (パク ドンチャン)
境界人のモクソリ研究所所長

――毎年実施している日韓のイエズス会社会使徒職の合同会議・研修が、今年は11月1日から4日にかけて、仁川のチャイナタウンとその周辺地域を舞台に、「境界を越えて、もてなしの橋を架ける」というテーマで行われました。その中の講演の一つを紹介します。講師の朴東燦さんは中国瀋陽生まれの同胞5世で、韓国に10年間暮らしている移住人権研究活動家です。ソウル大学大学院で社会学を学びながら、「境界人のモクソリ※研究所」を立ち上げ、移住民・ディアスポラと共に生きるために必要な平等と歓待の価値を広めています。
※「役割・任務(モク)」と「声(モクソリ)」をかけた造語
違法者〔訳注:尹錫悦前大統領のこと〕は罷免された。しかし彼が撒き散らした敵意と嫌悪は、いまも韓国社会の隅々を蝕んでいる。「戒厳」ではなく「啓蒙」だったという詭弁と同じように荒唐無稽だった煽動は、(弾劾賛成)集会参加者、判事、記者、憲法裁判官が「華僑」「中国人」だとする極右の主張だった。問題は、単に言語的次元にとどまっていた嫌悪が、いまや物理的暴力へと燃え移っていることだ。
4月17日夜、「ユン・アゲイン(YOON AGAIN)」を叫びながら建大入口〈コンデイック〉駅で集会を行っていた極右の青年たちが、紫陽洞〈チャヤンドン〉の羊串通り(チャイナタウン)へと一斉に押し寄せ、「チャンケ〔訳注:中国人への蔑称〕のアカ〔訳注:共産主義者への蔑称〕は大韓民国から早く出ていけ」とヘイトスピーチを浴びせた。
嫌中に基づくおぞましい事件・事故が毎日のように聞こえてくる昨今だが、実のところ韓国社会の「嫌中」はさほど新しいものではない。メディアが目を向けなかっただけであり、主流社会が移住民をはじめとした少数者の嘆きに無関心だっただけである。そうした点から、嫌悪に立ち向かう連帯の第一歩は、韓国社会の無関心を省察し、加害の歴史を振り返るところから始められるべきだ。
本稿では、1931年に発生した万宝山事件から今日に至るまで、嫌中がどのように顕在化し、再生産されてきたのかを、年代順に簡潔に検討したい。
嫌悪の対象としての「華僑」の登場
「嫌悪」とは、文字通り、ある対象を極度に憎んだり避けたりする感情である。ここで重要なのは、人間の情動は他者の存在と、他者との相互作用を前提として成り立つという点だ。「嫌中」の起源は、結局、韓国(朝鮮半島)に中国人がいつから流入し始めたのかという問いに置き換えることができる。
もちろん、朝鮮半島と中国の人的交流は数千年前まで遡ることができる。しかし、「中国人」という概念も、今日の「嫌中」感情も、いずれも近代的国民国家を前提に成立することを考えれば、その交流は近代以降に限定するのが適切だ。
1882年7月、新式軍隊である別技軍との待遇の差別、すなわち開化政策に対する不満を抱いた朝鮮の旧式軍人たちが「壬午軍乱」を起こした。風前の灯火だった朝鮮王朝には軍乱を鎮圧する力がなく、ついに朝貢—冊封関係を持っていた清国に援軍派遣を要請するに至った。
こうして、山東省登州に駐屯していた清国軍を率いる司令官・呉長慶が3千名におよぶ清国軍を率いて朝鮮半島に上陸し、軍乱を鎮圧した。当時、軍人の生活必需品の調達を担っていた40余名の軍役商人も同行して渡来したが、彼らは呉長慶の庇護のもと活発な商業活動を展開した。呉長慶とこの軍役商人たちが、すなわち朝鮮半島における華僑の始祖となる。現在でも韓国華僑社会は年に一度、呉長慶の祠堂に集まり祭祀を行っている。
万宝山事件と平壌華僑虐殺
1931年7月1日、中国吉林省長春県の万宝山一帯で、朝鮮人と中国人農民の間で水路工事をめぐる衝突が発生した。幸いにも、中日両国の警察が介入し、大きな人的被害はなかった。しかし翌日、国内の『朝鮮日報』は「200名の同胞が中国人に殺害された」という誤報を号外で発行した。その背後には、当時満州を狙って朝鮮人と中国人の分裂を画策していた日本の策略があった。
長春の日本領事館は、『朝鮮日報』長春支局長の金利三〈キム・イサム〉に虚偽情報を流し、彼はそれを検証もせず国内に送ってしまった。朝鮮人が凌辱されたという報道に憤った朝鮮人たちは、ついに国内に滞在していた華僑を標的にした。京城、元山、仁川、釜山など各地で華僑排斥事件が発生し、平壌では華僑商店や住宅に対する破壊、集団リンチへと発展した。これが1931年万宝山事件によって引き起こされた「平壌華僑虐殺」である。
当時、国際連盟が刊行したレポートによれば、華僑の死亡者127名、負傷者392名、財産損失額250万ウォンに達した。中国政府の独自調査ではさらに深刻で、死亡者142名、重傷者120名、軽傷者426名、財産損失額416万ウォンとされた。

朝鮮民族は平和を愛し、一方的に外勢の侵略ばかり受けてきたという話は、韓国社会でいまだによく語られる。しかし、すでに100年前に嫌悪と人種差別にもとづく虐殺を行った過去を直視することは非常に重要である。よく知られた「ヘイトのピラミッド」によれば、偏見的態度から始まり、憎悪犯罪、そして集団虐殺へと段階的に移行する。平壌華僑虐殺の経験が再び起こらないとは誰も保証できない。今日の「嫌中」をこれ以上放置してはならない最大の理由である。
朝鮮戦争と悲運のディアスポラ
嫌中を正当化する論理の一つとして、世間では「日本が百年の敵なら、中国は千年の敵だ」という言葉がある。発言の問題性はひとまず置くとしても、それほど朝鮮半島が長い歳月、中国の勢力圏に揉まれてきたという事実は否定できない。
ところが実際、近代国民国家として韓国と中国が関係を結んだのは、たった30年余り前にすぎない。1992年8月24日に両国がようやく国交を結んだということは、それ以前には人的・物的往来がほとんどなかったと言っても過言ではない。
1948年の政府樹立以後、半世紀近く両国を隔てていたのは「竹のカーテン」だった。その背景に冷戦体制の影響もあるが、1950年6月25日の「熱戦(朝鮮戦争)」がより直接的な契機だった。朝鮮戦争をめぐる記憶の政治は今も進行形である。中国当局が公式に呼ぶ名称は「抗米援朝戦争」であり、アメリカに対抗して北朝鮮を助けた「義なる戦争」として記憶されている。
中国の参戦はしばしば「人海戦術」として語られ、最終的に「北進統一」の大業を妨げた「元凶」として「中共(中国共産党)」という表現が定着した。当時、韓国が国家として承認した中国は別にあった。中国共産党との内戦に敗れ台湾に退いた「中華民国」である。
反共を最重要国是とした独裁時代、「中共」はそれ自体が嫌悪と殲滅の対象だった。最近、再び「アスファルト(路上保守デモ)」で聞こえてくる反共・滅共のスローガンの源流である。
朝鮮戦争は分断体制の固定化以外にも数多くの悲運を生んだ。「韓国華僑」という特殊な集団の誕生がその典型だ。「華僑」という一般的定義では到底説明できない、分裂的アイデンティティを強いられた人々である。前述したように、朝鮮半島の華僑の故郷は大多数が中国山東省である。しかし中国が「中共」となり、韓国は台湾の中華民国と外交関係を結ぶことで、韓国華僑は生まれて一度も踏んだことのない中華民国(台湾)のパスポートを持つことになった。そして、ふるさとへの帰還は約束のない待ち時間となった。
最近の華僑へのスティグマがいかに無知の産物かは、ここに答えがある。「韓国華僑」は中華民国(台湾)に入籍し、華僑学校では韓国人に劣らない反共教育を受け、それを内面化してきた。極右が使う「華僑フレーム」が実体もなく、論理的にもいかに脆弱かを自ら証明してしまう状況なのだ。
THAAD配備:熱湯と冷水を行き来した韓中関係
東アジア研究院による、これまでの「北・中・米・日」感情温度の推移によれば、中国に対する肯定的感情は2004年にアメリカと同率を記録した。その後、数年間は下落傾向を見せたものの、好感度は日本や北朝鮮より常に高かった。
2012年から再び上昇し、2016年には「60点(100=非常に肯定的)」を記録し、日本の43点、北朝鮮の28点を大きく上回った時期もあった。言い換えれば、「嫌中」が爆発的に表出したのは、ここ10年のことである。この10年間に連鎖的に発生した、嫌中・反中の根拠となった事件を整理してみよう。
2015年のある一幕は、韓中関係が最高潮を迎えていたことを物語る。当時、中国は9月3日を「抗日戦争および世界反ファシズム戦争勝利70周年」と定め、盛大な記念行事を開催することにした。中国はこれを機に世界の首脳を招待したが、アメリカを中心とした西側自由主義陣営は当然ながら消極的だった。
しかし皮肉にも、朴槿恵大統領はアメリカの冷たい視線を気にすることなく、習近平主席、プーチン大統領と並んで天安門城楼に上った。この出来事を契機に、韓中首脳間にホットラインが設けられたが、蜜月は長く続かなかった。突然の急接近は、むしろ災いの種となったのである。
2016年1月13日、朴槿恵大統領が新年の国民向け談話でTHAAD(高高度ミサイル防衛システム)配備の検討に言及したことで、両国関係は後戻りできない川を渡ることになった。同年7月の公式配備決定とともに、中国はさまざまな「非公式の」経済報復を実行した。また「限韓令」と呼ばれる韓流コンテンツおよび産業に対する規制措置も講じられた。THAAD事態こそ、嫌中の最大の起爆剤であったと言っても過言ではない。
中国同胞(朝鮮族)とメディア再現の倫理
嫌悪の再生産と拡散は、ほとんどの場合、コンテンツに寄生して行われる。THAADという変数以前から、中国に対する嫌悪と恐怖は韓国社会で露骨に流通していた。
2017年に公開された『青年警察』は、観客動員565万人を記録したヒット映画である。映画は中国系移住民が多く住むソウル・大林洞〈テリムドン〉を舞台に、警察大学生の主人公2人が大林洞の“犯罪巣窟”を掃討するというストーリーである。
「ここは朝鮮族だけが住むところで、パスポートのない中国人も多いので、夜は刃物沙汰がよく起こります。警察も入りません。できれば夜は歩かない方がいいですよ」――タクシー運転手が大林洞の路地に入ったときに主人公へ語るセリフだ。
映画はフィクションであり、『青年警察』は実話を基にした作品でもない。しかし映画は「実在の地名」である大林洞をそのまま登場させ、カメラが映し出した食堂も中国系移住民が実際に運営する店だった。その結果、その店とその地域は、一瞬にして「女性の卵子を抽出し、臓器を密売する犯罪の温床」として描かれてしまった。
韓国映画で中国同胞が登場し、それも「悪役」として登場して大衆の嫌悪を増幅させたのは、昨日今日のことではない。『カウントダウン』(2011)、『共謀者』(2012)、『チャイナブルー』(2012)、『新しき世界』(2013)、『コインロッカーの女〔訳注:原題は『チャイナタウン』〕』(2015)、そして『犯罪都市』(2017)などを経て、「残虐な犯罪者としての中国同胞像」は一つのステレオタイプとして定着してしまった。
これを裏付ける事件が二つある。2018年、江西〈カンソ〉区PC房殺人事件の犯人キム氏がゲームIDに漢字を使用していたというだけで、「犯人は朝鮮族ではないか」という推測がオンライン上に広まった。2023年に発生した新林〈シンリム〉駅の無差別通り魔事件では、犯人の名前が「朝鮮〈ジョソン〉」であることが明らかになると、「名前が朝鮮だから朝鮮族に違いない」という無理なこじつけがまかり通った。
最近の嫌中の流れを見ると、「中(中国)」という概念はますます包括的な概念になり続けている。それでもなお、中国同胞(朝鮮族)は、嫌悪勢力が最も手軽に標的にしやすい存在であることは否定できない。
コロナ・パンデミック以後の嫌中の断片
世界は今も、新型コロナウイルスの影響下にあるのかもしれない。今では「COVID-19」「コロナウイルス」という表現が一般的になったが、パンデミック初期、韓国社会ではウイルスを「武漢肺炎」と呼んでいた。もちろん、この問題的な呼称は韓国だけの問題ではなかった。しかしWHOの勧告にもかかわらず、韓国の保守政党とメディアの「武漢肺炎」への執着は続いた。
より深刻だったのは、メディアが中国・武漢ではなく、ソウルの大林洞へ殺到したことである。まるでそこがウイルスの「発生源」であるかのような扇情的な報道が行われた。韓国で生活基盤を持ち、武漢に一度も行ったことのない人々が、中国国籍を持つという理由だけで潜在的保菌者扱いされたが、これは科学的・疫学的な根拠を全く持たない。
2022年、コロナ禍の中で開かれた北京冬季オリンピックも嫌中の火種となった。開会式に韓服を着た女性が登場すると、韓国社会は激しく反発した。いわゆる「中国が高句麗や渤海を自国史に編入する東北工程に続き、今度は韓国の伝統文化を略奪する“文化東北工程”が始まった」との主張が巻き起こった。その論争は、韓服からキムチ、カッ(韓国の笠子帽)、ビビンバなどへと広がっていった。
古代から伝来した文化に、近代国家の尺度を適用し「国籍」を付与する行為それ自体が無意味である。国境が存在しなかった時代、民衆の交流によって媒介された文化は混ざり合い、溶け合い、似通うのは当然である。
興味深いことに、最近の弾劾政局で、極右は「憲法裁判官は華僑だ」という論理で「中国でよくある姓」「中国っぽい名前」を根拠として挙げた。しかしこれこそが、私たちがどれほど混種的な存在なのかを逆に示している。人間がそうなのだから、文化が混在していて当然である。
憂慮すべきことは、今回の弾劾局面が放った嫌中は、前述した嫌中の系譜の中に位置づけることはできるものの、過去の言説生産・拡散の様相とは明確に異なるという点にある。以前の嫌中発言が主に特定のインターネットコミュニティを利用する極右個人の逸脱行為にとどまっていた一方で、最近の嫌中は「国民多数が共有する反中感情」に便乗しようとする政界の浅はかな計算が目立つ。
罷免された大統領は候補者時代から「国民が整えてくれた食卓にスプーンだけ乗せる」中国人健康保険問題を正すと言って「嫌悪商売」を繰り広げた。また戒厳発動後の第4次国民向け談話では、「中国人スパイ説」まで持ち出し、自身の内乱行為を正当化しようとした。
大統領の意向を読み取り、政治的な効用を直感した保守系国会議員たちは、こぞって「嫌中コイン」に便乗し始めた。ある者は「弾劾賛成集会に中国人が大量参加している」と述べ、ある者は「公務員採用に中国人を制限する法案」を発議し、ある者は「(永住権取得3年経過者にのみ付与される)地方選挙の投票権を廃止しよう」と主張する。早期大統領選挙に突入している現在、保守政界の嫌中競争がさらに苛烈になることは火を見るより明らかだ。
弾劾と罷免という、極右保守の総体的危機の中、「われわれ」を再結集させるには、架空の敵を立てるほど効果的な方法はない。無人機を平壌の空に飛ばしてももう相手にされない北朝鮮の代わりに、アメリカと対峙する中国は「実存的脅威」として扇動するのに最適な対象だった。
嫌悪と民主主義は両立しない
紙幅の都合で言及できなかった嫌中の事例は(残念ながら)ほかにも散在している。そして、その原因も決して一つに還元できないほど複雑多岐にわたっている。根拠のない嫌悪に「系譜」という言葉を付すのがふさわしいのか迷いもあるが、結局、現象の診断と代案の模索は、歴史の回顧からこそ可能だと信じる。
一方で、嫌中問題を考察する際、私たちはあまりにも「中国」に没入しすぎてはいないだろうか。「嫌中」は「嫌悪」と「中国」の合成語である。後者(中国)に焦点を合わせるのも一つの方法だが、そうすると韓国社会における「嫌悪の主流化」という文脈を見落とす可能性がある。
嫌中は、もしかすると弾劾という特殊な局面で一時的に勢いを増し、過度にサンプルされているだけかもしれない。制御を失った嫌悪は、いくらでも別の少数的アイデンティティを標的にすることができる。
戒厳を終わらせ、大統領を罷免したとはいえ、私たちはなおどこか腑に落ちないまま、「内乱の清算」を叫んでいる。では、その「内乱」とは何だろうか。それは、軍事主義と反共主義に加えて、嫌悪主義と人種主義を新たな武器とした極右勢力の反動である。それに抗う連帯こそ、私たちみんなに与えられた時代的使命である。
日本の近現代史を学ぶ書籍紹介シリーズ 【6】日中戦争
編集部
今回の主題は「日中戦争」であり、今までと同様、三好千春さんの指南を受けて本の紹介を行う。
最初に、多くの人の誤解を指摘したい。「日本は中国との戦争に勝利を収めていたが、米国や英国との戦争に敗北した」という考えである。まずポツダム宣言である。それはアメリカのトルーマン大統領、イギリスのアトリー首相および中華民国の蒋介石主席の三人によって、1945年7月26日に日本に向けて無条件降伏を勧告した共同宣言である。そのため、その宣言を受け入れたことは中国に対する無条件降伏でもあった。また1945年8月、中国にいた日本軍は中国東北部を含めて約160万人にのぼり、日本軍の約6割に及ぶ。戦況も敗北状態と言える内容であった。
次に、日中戦争を考える際に重要な視点は、1931年に起こった満州事変を含め、他方で英米戦開始以降も視野に入れることである。多くの書籍はこの視点に欠く。また、日中戦争に関する研究は日本、中国共に1980年代以降大きく展開した。そのため、たとえば黒羽清隆『日中15年戦争』(1977年から79年にかけて上・中・下の三巻で教育社から刊行されたものをちくま学芸文庫が2024年に合本としている)や藤原彰『日中全面戦争』(小学館、1982年)は今日も有効な示唆に富むが、もちろん新しい研究成果が反映されていない。その上でまず紹介するのは、日中戦争に至る過程をコンパクトにまとめている加藤陽子の本である。
1) 加藤陽子 『満州事変から日中戦争へ』 岩波書店 2007年

目次
第1章: 満州事変の四つの特質
1 相手の不在 / 2 政治と軍人 / 3 事変のかたち / 4 膨張する満蒙概念
第2章: 特殊権益をめぐる攻防
1 列国は承認していたのか / 2 アメリカ外交のめざしたもの / 3 新四国借款団 / 4 不戦条約と自衛権
第3章: 突破された三つの前提
1 二つの体制 / 2 張作霖の時代の終わり / 3 国防論の地平
第4章: 国際連盟脱退まで
1 直接交渉か連盟提訴か / 2 ジュネーブで / 3 焦土外交の裏面
第5章: 日中戦争へ
1 外交戦 / 2 二つの事件 / 3 宣戦布告なき戦争
日中戦争全体を新しい研究に基づいて提示する書籍として、次の3冊を挙げることができる。
2) 伊香俊哉 『満州事変から日中全面戦争へ』 吉川弘文館 2007年

目次
プロローグ 戦争へのまなざし
Ⅰ 満州事変(柳条湖事件 / 幣原外交の終焉 / 「満州国」樹立と国際連盟脱退 / 戦争支持と社会の再編)
Ⅱ 華北分離工作から日中戦争へ(華北分離工作 / 日中全面戦争の開始)
Ⅲ 戦争違法化体制と日本の中国侵略(戦争違法化 体制 / 満州事変と国際法 / 日中戦争と国際法)
Ⅳ 戦争犯罪と支配の諸相
Ⅴ 戦場の兵士と戦死
Ⅵ 「泥沼化」から「南進」へ
エピローグ 戦死者をめぐって
本書の特徴は、日本のおこなった戦争全体の性格を国際法の視点から考えていることである。第一次世界大戦後、国際法の在り方は大きく変貌を遂げた。このテーマに関しては、2025年8月号で紹介した、篠原初枝『国際連盟 世界平和への夢と挫折』(中公新書、2010年)や牧野雅彦『不戦条約 戦後日本の原点』(東京大学出版会、2020年)を参考にしてほしい。
1920年代の世界動向は、国際連盟規約(1919年)、「国際紛争の平和的処理に関するジュネーヴ協定」の審議(1924年)、「不戦条約」(1928年)と、戦争を違法化することにあったが、日本は国際連盟理事国の中で、その動きに反対し続けてきた。また本書Ⅲにおいては、戦時国際法という観点を重視しつつ、南京大虐殺、無差別爆撃、細菌・毒ガス・アヘン政策、性暴力、治安戦と三光作戦、動員について触れている。
3) 笠原十九司 『日中戦争全史』(上下二巻) 高文研 2017年


目次
上巻
序章 戦争には「前史」と「前夜」がある
Ⅰ 日本はいつから満州事変・日中戦争への道を歩みはじめたのか(一九一五年の対華二十一ヵ条要求 / 戦争「前史」の転換期となった一九二八年 など)
Ⅱ 日本軍は「満州」で何をおこなったのか(「満州国」の設立 / 中国東北軍民の抵抗 / 満州武装移民 など)
Ⅲ 日中戦争はどのように準備されたか(一九三六年に海軍が準備した日中戦争 など)
Ⅳ 日中戦争はどのように始まったか(盧溝橋事件から「北支事変」へ / 海軍の謀略・大山事件から第二次上海事変へ/ 南京渡洋爆撃 / 南京空爆作戦と日本の国際孤立 / 南京事件 など)
下巻
Ⅴ 日中戦争はどのような戦争だったのか〔1〕(第一次近衛声明 / 徐州作戦 / 武漢攻略作戦 など)
Ⅵ 日中戦争はどのような戦争だったのか〔2〕(海軍の海南島占領と南進基地化 / 関東軍のノモンハン戦争とその敗北 / 華北における治安戦(三光作戦) / 重慶爆撃 など)
Ⅶ 日中戦争からアジア太平洋戦争開戦へ(日中戦争の行き詰まりと国策の奔放 / 南部仏印進駐から対米開戦準備へ など)
Ⅷ 日中戦争はどのような戦争だったのか〔3〕(アジア太平洋戦争の総兵站基地化 / 本土防衛の作戦に逆転した日中戦争 など)
終章 日中戦争に敗れた日本(国民政府軍の北ビルマ・雲南省西部における反攻 / 共産党・八路軍・新四軍の大反攻作戦の展開 など)
本書の大きな特徴は、日中戦争の展開における海軍の主導的役割を明らかにしている点にある。例えば南京事件の前段階となる第二次上海事件は、陸軍内に反対があったにもかかわらず海軍によって強行された。南京攻撃は、まず海軍の長崎・大村基地からの渡洋爆撃に始まる。この爆撃と陸軍の上海派遣により、戦争は宣戦布告なしの全面戦争へと展開していく。海軍が日中戦争に積極的にかかわることにより、英米戦の準備をしていった。
海軍の日中戦争への関わりについては、同著者『海軍の日中戦争 アジア太平洋戦争への自滅のシナリオ』(平凡社、2015年)を参照されたい。
4) 井上寿一 『日中戦争 前線と銃後』 講談社 2018年 (『日中戦争下の日本』 講談社選書メチエ 2007年を改題文庫化)

目次
第一章 兵士たちの見た銃後(銃後の退廃 / 慰問袋のゆくえ など)
第二章 戦場のデモクラシー(他者理解の視点 / 新しい文化の創造 など)
第三章 戦場から国家を改造する(文化工作による国家の改造 / 政党政治への期待 / 社会的な底辺の拡大)
第四章 失われた可能性(デモクラシーとしての大政翼賛会 / 大政翼賛会の現実 など)
第五章 「神の国」の滅亡(日本主義の盛衰 / 「神の国」のモラル / 戦争のなかの戦後)
「日中戦争下の国民が、一方的な被害者意識を持つことはなかった。労働者は資本家に対して、農民は地主に対して、女性は男性に対して、子どもは大人に対して、それぞれが戦争をとおして自立性を獲得することに賭け金を置いたからである。国民は、被害者である前に、ましてや加害者意識を持つこともなく、戦争に協力することで、政治的、経済的、社会的地位の上昇をめざした」(プロローグより)。「昭和一二(1937)年一〇月からはじまった官製国民運動、国民精神総動員運動を自発的に支えたのは、このような労働者、農民、女性たちだった。…大政翼賛会は「ファシズム」体制というよりも、「デモクラシー」体制だった」(同上)。
「戦争景気はインフレを考慮に入れても、それ以上に国民を経済的に豊かにした。軍需産業に止まらず、景気が民生部門にも波及していたからである。民生部門への景気の拡大を象徴するのが、デパートの出店ラッシュだった」(第一章より)。
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「出征軍人たちの思想の「左傾化」を抑制するために、軍当局は、「軍人ノ思想悪化ノ原因トナルベキ諸要素ヲ努メテ除去スベキ方策ヲ講ズル事」が必要となった。具体的には「内地ニ於テ出征軍人ノ家族、戦死者遺族、傷痍軍人等ニ対スル待遇、生活ノ救助、失業ノ救済、物価騰貴ノ抑圧、物資之配給等社会政策、経済政策ヲ適切に実行スル事」などである。…これらの政策が部分的であれ、実現することによって、…銃後の社会の平準化が進んでいくことになる」(第二章より)
「文化戦争としての日中戦争を戦うためには、…「皇軍ノ勇猛果敢ナ進撃ニ依頼シテ居ルベキデナイ。東洋学者、文化科学者、哲学者ノ総動員ガ必要」だった。このような国内体制の確立に動員された哲学者の一人が、昭和研究会のメンバーであった、三木清である。…三木にとって、日本の思想は、日中戦争をとおして、日本主義を乗り越えなければならなかった」(第三章より)。「だれもが戦争に協力した。戦争でもっとも大きな犠牲を払わされたはずの労働者、農民こそがもっとも戦争を支持した。労働者は資本家に対して、農民は地主に対して、そして国民は国家に対して、自己主張を強めていく」(同上)。
「平準化は、「下層民」が「中産的土地所有者に匹敵」するほどだった。戦争は、「下層」農民の経済的地位の上昇をもたらした」(第五章より)。「都市における平準化は、労働者と資本家の間だけではなく、男性労働者に対する女性労働者の相対的地位の向上をもたらしつつあった」(同上)。「日本社会のさまざまな分野における下方平準化は、同時代においては「社会主義」化だった」(同上)。「戦時中に起きていた社会の地殻変動は、占領を経て、日本に「革命」をもたらした」(エピローグより)。
5) 臼井勝美 『新版 日中戦争 和平か戦線拡大か』 中公新書 2000年

目次
1章:前史(塘沽〈タンクー〉停戦協定の成立 / 広田三原則 / 華北自治工作の挫折 / 有吉、重光の退陣 / 西安事件の勃発/ 佐藤外相の三ヵ月 など)
2章:日中戦争の展開(盧溝橋事件の勃発 / 上海から南京へ / 列国の対応 / ドイツの和平仲介と「相手とせず」声明/ 近衛内閣の改造 / 東亜新秩序 など)
3章:太平洋戦争下の中国大陸(日米開戦 / 中国東西両面戦場の展開 など)
本書は日中戦争の基本的な要因を日本の対中外交の在り方に求めている。当時の日本の対中外交の担い手は、総理大臣、外務省、陸軍と海軍、また陸軍中央と陸軍の出先の部隊と多極化していたことも、日中戦争が中長期的目的を持たず勃発し、泥沼化していくことの一因である。さらに本書では広田外相とそれ以前の重光次官の対中強硬策に勃発の要因を求めている。
しかし、戦争を回避しうる機会も存在したという。1937年2月に発足した林銑十郎内閣の外務大臣であった佐藤尚武の路線、つまり中国に対する優越感を棄却し、日中間において平等な立場で交渉を展開していこうとする方針である。実は当時のこの方針を支持する重要人物が外務、陸軍、海軍にもいた。陸軍であれば、参謀本部第一部長石原莞爾少将である。
また、戦争が泥沼化しない機会もあったという。1938年5月に近衛は大幅な内閣改造を実施し、外務大臣に宇垣一成元陸軍大臣を起用する。彼は国民政府と蒋介石を高く評価し、近衛首相の「国民政府を相手とせず」という声明に「深く拘泥せず」を方針とする。そのため彼は陸軍大臣板垣征四郎やその次官東条英機と対立し、宇垣は9月に辞任する。
対英米戦に至る日米交渉にもまだ交渉の余地があったとする。米国が日本に求めていた基本は門戸開放、機会均等の原則であり、それに基づいて中国からの日本軍の撤退であった。当時の近衛内閣の松岡外務大臣は米国との交渉よりも日独伊三国同盟を締結し、ドイツによるソ連侵入に合わせて日本のソ連戦開始を求めた。他方、支那派遣軍総司令官畑俊六は東条陸相と杉山参謀総長に、アメリカと妥協し、支那事変の解決に専念すべしとの見解を送った。東条内閣も日中戦争と同様、中長期的ビジョンを持たずに英米戦に突入していき、その後の展開も同様であった。
6) 広中一成 『後期日中戦争 太平洋戦争下の中国戦線』 角川新書 2021年

目次
第一章 最初の敗北――第二次長沙作戦
第一節 因縁の長沙 / 第二節 日中両軍の作戦部隊の戦力比較 / 第三節 「天炉」の中へ / 第四節 長沙攻略戦 /第五節 長沙突入と敗走
第二章 細菌戦の戦場――浙カン作戦
第一節 大本営のプライドをかけた戦い / 第二節 敵味方を苦しめた細菌戦
第三章 暴虐の戦場――江南殲滅作戦と廠窖事件
第一節 殲滅作戦 / 第二節 「太平洋戦争期で最大の虐殺」はあったか
第四章 毒ガス戦の前線――常徳作戦
第一節 明確な戦略なき作戦 / 第二節 第六戦区主力との戦い / 第三節 常徳城の占領
第五章 補給なき泥沼の戦い――一号作戦(大陸打通作戦) 第一節 一号作戦 / 第二節 湘桂作戦
英米戦開始以降の日中戦争に関して、私たちはどれくらい関心があるだろうか。たとえば前掲の黒羽清隆『日中15年戦争』は文庫版で720ページを超えるが、その時期を取り扱っているのは最後の18ページのみである。太平洋戦争下の日中戦争を把握するのを困難にする一因は、中国戦線がさらに拡大を続けたことにある。最大規模となった作戦は、1944年の一号作戦(大陸打通作戦)であり、総延長距離は約2400㎞に及んだ。
この作戦全体を明らかにするために、本書は名古屋の第三師団を重点的に取り上げる。第三師団は1934年に満洲派遣駐剳を命ぜられ4月に渡満、約2年間満洲に駐屯し、1936年(昭和11年)に帰国した。満洲から帰国した翌年の1937年(昭和12年)7月に第二次上海事変が勃発し、第三師団は上海の在留邦人救援という名目で編成された上海派遣軍の指揮下に入り、8月23日上海郊外の呉淞に上陸、苦戦の末中国軍を撃破、続いて南京攻略に参加した。以後、敗戦まで中国に留まった。中国戦線の最初から最後までいた第三師団を一つの「縦糸」としてたどって、中国戦線の全容を明らかにする試みである。
7) 太平洋戦争研究会編 森山康平 『日中戦争の全貌』 河出新書 2007年

本書は、同編、同著書『図説 日中戦争』(ふくろうの本、2000年)の文庫版である。基本的内容は、日本陸軍が日中戦争においてどのように戦闘を展開したかを約100枚の写真とともに示そうとしていることである。そのためその写真の半数は日本軍の行軍、中国拠点地征服時の記念撮影や征服した都市入場行進の写真などである。
8) 小林英夫 『日中戦争 殲滅戦から消耗戦へ』 講談社学術文庫 2024年(本書は講談社現代新書として2007年に出版された)

目次
序章 殲滅戦争と消耗戦争
第1章 開戦への歩み(満州事変と抗日運動 / 盧溝橋事件と日中開戦)
第2章 破綻した戦略(上海攻撃から南京虐殺事件へ/ 蒋介石の戦略はなぜ生まれたか)
第3章 傀儡の国(欺かれた汪兆銘 / 南京「傀儡」政権の樹立)
第4章 見果てぬ夢(太平洋戦争の勃発 / 日本の敗戦と汪政権の最期)
第5章 二つのパワー(日本のハードパワー / 中国のソフトパワー)
第6章 『検閲月報』を読む(発掘された『検閲月報』 / 第一期~第二期の『検閲月報』から / 第三期の『検閲月報』から)
日本の中央や出先の司令官たちは、基本的に殲滅戦略を取っていた。南京を陥落させ、中国軍を殲滅すれば、国民政府は降伏する。徐州に集結している中国軍を包囲殲滅すれば…武漢を占領すれば…。他方で、国民政府は当初より消耗戦略を取っていた。日本軍の基本的な思想は太平洋戦線においても殲滅戦略型だった。南太平洋の英米蘭の陸海軍主力を粉砕すれば短期和平に持ち込めるという発想だった。
本書は日中戦争におけるハードパワーとソフトパワーにも言及する。日本は軍事力を主体とするハードパワーにおいて優位に立つことを最優先とするが、中国国民政府はソフトパワーを重視していたとする。1935年以降自ら発行する法定紙幣改革に成功し、中国における経済的統一を急速に推し進めた。また国民政府は常に欧米諸国との外交を重視し、南京事件や重慶爆撃などの情報を提供し、欧米ジャーナリズムを巻き込むことにも成功する。
また本書は『関東憲兵隊通信検閲月報』を載せている。関東軍はソ連侵入の際に機密文書を焼却破棄する指令を出したが、多くの文書は焼却されず、埋められた。1953年に偶然掘り出された資料である。日中戦争中に中国に派遣された日本兵や日本人の厭戦気分なども伝わってくる。
以下、いくつかの主題をめぐって本の紹介をする。
平頂山事件
9) 井上久士 『平頂山事件を考える 日本の侵略戦争の闇』 新日本出版社 2022年

目次
序章 平頂山事件の闇
第1章 撫順炭鉱襲撃事件
第2章 平頂山住民虐殺事件
第3章 川上隊長不在説と井上神話
第4章 エドワード・ハンターの平頂山事件報道とその影響
第5章 平頂山事件隠蔽の構造
第6章 瀋陽裁判と平頂山事件
第7章 平頂山事件と「歴史戦」
終章 戦後補償裁判と現在
1932年9月16日、撫順に駐屯していた日本軍独立守備隊第二大隊第二中隊によって、平頂山地区の住民3千人余りが崖下の平地に追い立てられ、一斉に機関銃掃射を浴びせられ虐殺された事件である。事件直後、日本軍の指示で日本人炭鉱職員によってガソリンがかけられ燃やされたうえ、ダイナマイトで爆破した崖の土砂によって隠蔽された。1970年になって中国政府によって掘り起こされた。その事件の詳細や戦後の裁判、賠償問題にも触れている。
南 京 事 件
10) 笠原十九司 『南京事件 新版』 岩波書店 2025年

目次
序 二つの裁判で裁かれた南京事件 / Ⅰ 日中全面戦争へ / Ⅱ 海軍航空隊の戦略爆撃 / Ⅲ 中支那方面軍、独断専行で南京へ / Ⅳ 近郊農村から始まった虐殺 / Ⅴ 南京占領――徹底した包囲殲滅戦 / Ⅵ 陸海両軍による「残敵掃蕩」/ Ⅶ 入城式のための大殺戮 / Ⅷ 陸の孤島での犯罪と抵抗 / Ⅸ 南京事件の全体像――犠牲者総数を推定する /結びにかえて――いま問われているのは何か
南京事件に関して様々な書籍が出版され、多様な情報が飛び交っている。中国社会科学院は2005年から数年かけて、72巻にも及ぶ『南京大屠殺史料集』を刊行した。この史料集には、今まで公開されてこなかった国民政府の南京軍事法廷関係史料や南京市政府諸機関の膨大な資料も収録されている。
本書のタイトルを「南京事件」とした理由について著者は、「南京虐殺」という呼称では、殺し殺されることだけに焦点が当たり、どれほどの規模があったかという数の問題にばかりに関心が寄せられることになる。南京事件を「事件」としてとらえることによって、発生した理由、その国内外への影響、被害者遺族のその後、さらに海軍航空隊による南京爆撃やアメリカ砲艦パナイ号撃沈を含めた政治、外交問題も考察すべき対象となるという(序より)。
また南京事件の定義と期間と地理的範囲について、日本の海軍ならびに陸軍が、南京爆撃と南京攻略戦ならびに南京占領期間において、中国軍民(中国軍兵士と民間人、市民)に対して行った戦時国際法に違反した不法残虐行為の総体とする。期間は1937年8月15日から12月まで続けられた海軍機による爆撃を含む。また地理的範囲については、当時南京は特別市であり、城壁内と城壁の周辺、さらに周辺6県を併せて特別区を形成していた。本書はその特別区全体の被害を対象としている(Ⅸより)。
なお、秦郁彦『南京事件 「虐殺」の構造 増補版』(中公新書、2007年)は「虐殺」そのものを否定はしないが、その範囲を極めて小さく限定して、事件をとらえている。
七 三 一 部 隊
正式名称は「関東軍防疫給水部」だが、その通称号(秘匿名称)である満洲第七三一部隊を略して「七三一部隊」と称される。森村誠一が1981年11月に発表した『悪魔の飽食』(光文社、1981年)は、日本の社会に大きな反響を呼んだ。歴史学者の江口圭一は家永教科書裁判で証人として法廷に立った際、『悪魔の飽食』3部作は元隊員の証言、現存する記録の分析、実地調査などに基づいていて、「その史料的豊富さ、あるいは実証性は、そこらのいわゆるドキュメントの一般の水準を遥かに抜き去る第一級のものである」と評価した。今日も読み継がれる作品であろう。
11) 常石敬一 『731部隊全史 石井機関と軍学官産共同体』 高文研 2022年

目次
はじめに なぜ今石井機関(731部隊)を取り上げるのか。 / 序章 731部隊:特別な存在 / 1章 窮地の軍医学校:東郷部隊と石井式濾水機 / 2章 石井機関:組織者石井四郎 / 3章 1932年満洲コレラ調査:石井機関の原点 / 4章 平房の本部建物:上意下達の研究体制 / 5章 「北向け南!」:大失態と新たな情報収集が必要に / 6章 切り札PX:人体の兵器化 / 7章 敗戦:世界は冷戦へ / 8章 負の遺産:石井機関と日本の医学界 / 9章 復活する「消えた細菌戦部隊」:輸血とBCG / 終章 科学・技術・社会:歴史・現在・未来
「はじめに」において、著者が長年研究してきた731部隊について新たにまとめたいと思った理由が述べられている。2015年に防衛省が、大学などの科学研究を補助する制度(安全保障技術研究推進制度)を始めたことがきっかけだったという。これは大学などの研究を防衛省の研究開発のネットワークに取り込む軍事研究への誘導であり、そのことの問題点を訴えたかったのだと述べている。
軍事研究は、十分な研究費に恵まれ、戦争となれば、湯水のごとく資金が提供され、その産物が、ある日突然人々の前に現れる。その典型として著者は、原子爆弾を挙げている。日本側では、日本陸軍の細菌秘密兵器、PXとよばれたペストノミであり、それを世界が知ったのは1940年、上海対岸の街、寧波に航空機からPXが散布され、数日後にペスト患者が出てからだった。軍事研究では科学者というヒト、研究材料・原料というモノ、それに研究費というカネがふんだんに投入されるが、それに見合った結果が出ていないだけでなく後世に深い傷跡を残した例として、米国のマンハッタン計画と石井機関(731部隊)の2つを挙げている。
12) 広中一成 『七三一部隊の日中戦争 敵も味方も苦しめた細菌戦』 PHP新書 2025年

目次
序章 七三一部隊と細菌戦の研究史 / 第1章 細菌戦部隊の実像 / 第2章 細菌戦の始まり 一九四〇年浙江省寧波・衢州・金華の細菌戦 / 第3章 日中戦争最前線での細菌戦 一九四一年常徳細菌戦 / 第4章 「後期日中戦争」と細菌戦 /第5章 華北における細菌戦 / 終章 細菌戦部隊の最後
本書の主要目的は、参謀本部や前線部隊の視点を取り入れ、全体の作戦計画も検討対象として、日本軍全体の作戦史の視点から細菌戦を分析し、なぜその戦いが細菌戦になったか(細菌兵器使用の目的)、細菌兵器使用が戦争の展開にどのような役割を果たしたか(つまり効果)を解析し、細菌戦が単なる731部隊の暴走によるものではなく、日本軍が組織的に行った戦争犯罪であったことを明らかにすることにある。そのために、第2章から第5章までが中国で細菌兵器を使用した戦いの解析にあてられている。
明治大学平和教育登戸研究所資料館のかつての正式名称は、第九陸軍技術研究所であり、秘密戦兵器や器材を研究・開発したり、中国国民政府の偽札を印刷したりしていた。無料で見学することができるので、開館日に注意して、見学をお勧めする。
13) 芳井研一 『難民たちの日中戦争 戦火に奪われた日常』 吉川弘文館 2020年

目次
プロローグ かえりみられなかった戦争難民
日中全面戦争と華北難民(日中戦争の全面化 / 宣撫班と難民 / 華北の治安戦と難民)
華中の戦場と難民(上海事変から南京侵攻へ / 南京から徐州へ / 武漢作戦と難民)
空爆と難民(広東空爆の衝撃 / 都市爆撃の拡大と日米通商航海条約破棄 / 東亜新秩序の脈略)
難民救済(国民政府の難民救済 / 中国共産党の難民救済 / 河南難民をめぐる構図)
アジア太平洋戦争期の難民(華中作戦下の難民 / ドウリットル空襲と浙贛作戦 / 大陸打通作戦と難民)
難民問題の波紋(村落をめぐる攻防 / 北支那特別警備隊と民兵 / 日中戦争終結のシナリオ)
エピローグ 戦争の拡大と奪われた日常
日中戦争の戦場の多くは、村落や都市、その近郊であった。そのたびに住民は戦渦から逃れて避難した。彼らは当初、戦闘が収まると居住地に戻った。だが、戦域が拡大するにつれ、多様な難民が中国大陸を行き来するようになった。
1937年以降、海軍航空隊および陸軍航空隊による主要都市市街地に対する空襲は、多くの難民を生んだ。さらに1940年代に入ると、日本軍によって村落燼滅作戦が発動され、軍事作戦として住民が住む家が焼かれ、15歳以上の男子は殺戮されるようになると、さらに多くの難民が発生した。当時の中国の総人口4億人のうち、四分の一が難民になったとされる。今日の戦争を考えるうえでも意味ある本である。
14) 岡部牧夫 荻野富士夫 吉田 裕 編 『中国侵略の証言者たち――「認罪」の記録を読む』 岩波書店 2010年

目次
第1章 「認罪」への道――撫順・太原戦犯管理所における体験(撫順・太原の日本人戦犯;「認罪」はどのように行なわれたか) / 第2章 日本は「満州国」で何をしたのか――「侵略」の証言1(「満州国」高級官僚が語る財政・産業・阿片政策;「満州国」の治安体制) / 第3章 三光作戦とは何だったのか――「侵略」の証言2(華北における三光作戦の展開;供述書に綴られた「三光作戦」) / 第4章 なぜ日本は「侵略」という認識をもたなかったのか――戦後日本社会のなかの中帰連(敗戦前後の状況;GHQによる非軍事化・民主化政策 ほか) / 第5章 帰国後の元戦犯たちの歩み――「中帰連」一メンバーの視点から(ある戦犯兵士の軌跡;戦時中の自分を否定する ほか)
中国で戦犯として起訴された45人の元日本軍兵士や「満州国」官僚らの供述書が、2005年に全文公開された。中国で何が行われていたかを示すこの貴重な資料から、日本の侵略行為を具体的に検証する。

