「言葉は肉となって、私たちの間に宿った」(ヨハネ1:14)
梶山 義夫 SJ
イエズス会社会司牧センター所長
コロナウィルス感染拡大の中でいかがお過ごしでしょうか。感染が拡大しないように、三密を避けたり、ご自分のためだけではなく、接する相手のためにもマスクを着用したり、手を消毒したりする一方、困難な状態に追いやられている人々のためにさまざまな形で支援活動にもかかわっておられるのではないでしょうか。
この危機的な状況の中で、イエズス会のカナダおよび米国上級長上協議会は、『観想と政治にかかわる行動 市民活動に献身するためのイグナチオの精神に根ざしたガイド』を発表しました。その内容をかいつまんで紹介します。
第1章
今日の私たちが共有している政治のあり方の悲しい状況にもかかわらず、それぞれの問題に関して、立法のために働きかけ、コミュニティをまとめること及び投票するなどの活動を通じて、信仰に基づいた考えを提供することは、弟子としてイエスに従うために不可欠です。それは、市民としての参加が、憐れみ深く飢えている人に食べ物を与え、のどが渇いている人に飲み物を与え、見知らぬ人を歓迎し、裸の人に服を着せ、病人と牢に入っている人のケアをするというキリストの福音の指示に従うために、私たちが取り組むことのできる力強い方法であるからです(マタイ25・31-46参照)。人々がもう飢えることがないように、私たちは、社会の病理の根源まで探り、システムと構造を変えようとします。
「良いカトリック信者は、自分自身の最善を尽くして政治に干渉することによって、統治する人々が統治できるようにする。社会問題に関する教会の考えによれば、政治は、共通善に尽くすものであるから、愛の最高の実践方法の一つである。誰も無関心でいられないだろうね。私たちは皆何かをしなければならない」という教皇フランシスコの言葉から始まります。
第2章
コロナウィルスは差別をしませんが、私たちは、最も貧しく最も傷つきやすい人々が差別されて広範囲に及ぶ病気の悪影響を受けていることを知っています。この感染症は、私たちが一つの人類家族として一体となって、すべての人の共通善と尊厳のために協力するように呼ばれていることをはっきりと思い出させるものです。私たちは、孤立主義、「自分と自分のものは第一」という考え方に回るのでしょうか。それとも、兄弟姉妹たちがどこにいても、私たち皆はその人たちの「番人」(創世記4・9参照)であることを思い出すためにこの時を利用できるのでしょうか。
教皇フランシスコは、次のように語りました。「主は私たちに問いかけ、嵐の真っただ中にいる(マルコ4・35-41参照)私たちに、もう一度目覚めて、すべてがあがいているように見えるこの時に、力、サポートと意義を与えることのできる連帯と希望を実践するように招いています。」
第3章
イグナチオの精神に根ざした市民としての献身には、組織的な人種差別に立ち向かうことが必要です。私たちは、米国全土と米国を超えて流れ広がった人種差別に対する抗議を考慮して、この考察を提供しています。George Floyd、Breonna Taylor、Ahmaud Arberyの死は、警察官や武装自警団員によって殺された、有色人種の女性と男性の、胸が張り裂けるような、長い名簿への痛恨に満ちた新たな記帳です。組織的な人種差別を取り除こうとしない、イエス・キリストへの信仰に根ざした政治への献身は、途方もなく不完全です。
第4章、第5章、第6章
イエズス会員とその協働者は、イグナチオの霊性に根ざし、和解と正義の使命を帯びて、政治の改善のために手助けすることができます。私たちは、「他者のための女性と男性」になるよう決心しています。その他者とは、特に社会の底辺にいる人々です。
イエズス会の使命の中心には、霊操と識別があります。ですから、イグナチオの精神に基づいて、政治への関与について熟考するときには、私たちは自分たちが置かれている状況について、祈りに満ちた観想から始めます。そこで私たちは、政治を含むすべてにおいて神を見いだそうとします。
私たちは、毎日の糾明という祈りによって、豊かな実りを見いだすでしょう。その実りとは、より大きな感謝、予期せぬ場所での神へのより深い認識、自分自身の欠点を認める謙虚さ、そして、自分の成長を助ける神の優しいいつくしみへの信頼です。これらすべては、私たちの政治への関与のため、非常に役立つ聖霊のたまものです。私たちの市民としてのコミットメントの土台は、神にかたどって創造されて、キリストの顔を帯びている人間一人ひとりの尊厳を認識することです。
第7章、第8章
福音に照らされて活動するために、まず求められることは、自分自身の政治的な見解から自由になること、そしてその自由に基づいて識別することです。聖イグナチオは、『霊操』のなかで、神と隣人に奉仕するために偏らない心を求めます。自分の見解にとらわれないで、自由になるというのは、私たちのものと非常に異なる意見を持っている人々の立場にたって、それぞれの人の動機、世界観、痛みを理解しようとすることです。自分自身の狭い視点を手放すことによってのみ、私たちは和解への第一歩である共通の基盤を見いだすことができるのです。
第9章、第10章
政治への取り組みは、社会の周辺にいる人々との親密なかかわりに根ざしています。まず、社会の周辺にいる個人やコミュニティとの持続的なつながりと真の関係は、私たち自身の回心をもたらします。
出エジプト記(3・7-10参照)では、神は奴隷になっているイスラエル人の叫び声を聞き、彼らのために介入します。被抑圧者に対する神の特別な愛は、常に私たちの心と思いにあって、政治にかかわる私たちの優先順位を具体化するはずです。私の経済に関する判断基準は、社会の上部にいる人たちにどのように役立つかではなく、実質的に貧しい人々にどのように役立つかです。
第11章
私たちの惑星は、危険にさらされています。これは、私たちが無視できない時のしるしです。エネルギーと物資の消費を削減するための、個人や地域社会の努力だけでなく、政府は、創造の業と調和する法律や政策を通じて、巨大で確かな影響を与えることができます。ですから、部屋を出るときに電気を消す必要がありますが、選出された代表者に手紙を書いたり、気候に関する行動を駆り立てる抗議に参加したりする必要もあります。2019年に、イグナチオの精神に基づいた多くの若者の主導で、世界中において行われた気候に関するストライキは、市民による地球のための取り組みの好例を提供しました。
また、創造へのケアは、貧しい人々と歩み、社会正義のために働くことと密接につながっています。環境破壊と気候変動は、特に貧しい人々と傷つきやすい人々に影響を及ぼします。私たちは、「大地の叫びと貧しい人の叫びの両方に耳を傾け」、それに応答しなければなりません(『ラウダート・シ』49番参照)。
「言葉は肉となって、私たちの間に宿った。」イエスは、約2020年前にこの地球のベツレヘムで生まれました。文明が成立し、都市が形成される中で、レンガを大量に焼くために森林が伐採され、洪水が起こるなど、自然が破壊され始めていました。有毒な物質を含む金属や染料を使用する中で、労働者の健康が損なわれていました。時折、感染症が降ってわいたように起こり、人々を恐怖に陥れ、多くの人々の命が奪われていました。ユダヤ社会では神殿を中心とした宗教的権威が政治力をも掌握する一方、律法主義によって人々を裁き、律法を守ることができない人々を差別し、排除する運動が人々の中に力を振るっていました。ガリラヤなどでは自作農が借金で土地を失い、大土地所有制が拡大していました。またローマ帝国の圧倒的な軍事力によって統治され、基地が設置され、税徴収や強制徴用が行われていました。さらに冤罪の場合を含めて、石殺しや十字架などの形で死刑が執行されていました。
イエスの生き方はこの状況に具体的にこたえるものでした。その生涯は、観想と政治的活動を礎とするものでした。
世界のただ中に生まれたイエスは、私たちに何を望んでいるのでしょうか。その望みに、私たちはどのようにこたえるのでしょうか。
『観想と政治にかかわる行動 市民活動に献身するためのイグナチオの精神に根ざしたガイド』の日本語版は、イエズス会社会司牧センターのブックレットのページをご参照ください。
コロナ禍の中で咲いた“Hana”
藤田 優香
礼拝会
女性支援の現状と“ぷろじぇくとHana”
「メディアでは、コロナ禍でDVが増加していると報道されていますけど、微増ですかね。もともと多いですから。それよりも助産制度の利用について相談に来られる方が軒並み増えています」と、礼拝会が一緒に仕事をしているある区役所の女性相談員。「希死念慮を訴える10代の女の子たちの依頼が増えています」と、宿泊所で奉仕する礼拝会の使徒職の協働者。
「コロナ禍で見えてくること……」と言っても、礼拝会の各使徒職現場では、通常とは変わらない慌ただしい毎日が続いている。それでも外出自粛が始まったころ私が強く感じたことがあった。生活困難や嫌がらせなどの相談が激増したこと。元気に私たちのもとを旅立ったシェルター退所者、ご近所などいろいろな意味でよく知っている方々、又はその周りの方からの「生活ができなくなった……」「鬱が再発した……」「嫌がらせがあって困っている……」etc.の相談の数々。そして私自身も自粛のため繁華街へのアウトリーチにいかれなくなった。
「出会い」が戸惑われる中、長年温めてきたSNS相談を実現する「とき」が祈りの中で浮かび上がってきた。現場で奉仕しているシスター、協働者とオンラインで話合いを重ね、SNS世代の専門家の力を借りて現実的な問題から精神的不安まで、専門職が幅広く女性の相談に応える“ぷろじぇくとHana” が7月からスタートした。これはコロナ禍で「彼女たちが叫んでいる場所に近づき、共にいる」という修道会の方向性に他ならない。
支援の根底にあるもの ~愛~
バルセロナ大学教育学部のモニカ・ヒホン・カサ―レス准教授は礼拝会の教育学を「愛・解放・出会い」という価値に分類している。
コロナの外出自粛の折、性暴力を受けて妊娠した20代のCさんが福祉事務所を通してうちに来られた。彼女は一日に何回か裏庭でタバコを吸っていた。夜の喫煙タイムが終わると「話を聴いてほしい」と言われるのが常だった。小さいころから家族から虐待を受け、両腕には無数のリストカットの痕があった。
ある時私は裏庭に可憐なピンクのバラが咲き始めているのに気が付いた。彼女はタバコを吸いながらいつもそのバラに話しかけてくれていたようだ。しかし花やモノに話しかける彼女を家族は「気持ち悪い!」と一蹴していたという。「ここに来る前はシェルターって聞いて、窮屈な施設をイメージしてたの。でもね、ここへ来てみたら、お花畑でしょ。そして住んでいる人たちの頭の中にもお花が咲いているみたいで。ここだけ宙に浮いているみたい!」というコメントを頂き、「ある種の本質をついているなあ」と嬉しくなった。
私たちは生活の中で、神様や家族、姉妹から頂いてきた「あたりまえ」を女性たちに返していく。朝起きたら「おはよう」と声をかけ、食事の準備をして一緒に食卓を囲み、おうちをお花で満たす。「愛の体験」は「礼拝の体験」だ。それはつまり「存在を受け入れ承認する」こと。私たちのすべてを知っておられる主はどんな状態の私をも礼拝の中で受け止め支えている。だから私たちも主と共に彼女たちの痛みを感じ受け止めていく。私たちの創立者聖マリア・ミカエラにとって「礼拝するとはもうひとつの見方で世界と生活を観ること」だった。礼拝は独特の方法で「女性たちの解放と向上」の実践の中で私たちの使徒的働きを目指す方向へと実現していく。
支援の根底にあるもの ~解放~
コロナ禍で3度目の「DV→離婚」を迎えたTさん。ご一緒に自分自身の「生きづらさ」を見つめていく中で、自身の発達障碍に気が付き、専門の医療機関や発達障碍者支援センターへも通い始めた。しかしそれらの受診はひと月に1回か2回。生活習慣を変えるために「私たちと共に住んでいる」という環境を生かして生活のルールを一緒に組み立てた。彼女の希望で必ず寝る前には聖堂でその日のふりかえりと面談をして一日を終えている。この生活リズムを続けていくうちに、彼女は「実はこの障碍が自分自身を助けていた」面があったことを知り、全てを「周り」に合わせる必要はないのではと思い始めている。これが礼拝会の「解放」のひとつの側面。
もうひとつは「不正義の告発としての解放」だ。ある地方のシェルターではその地域のいくつかの民間シェルターと連携して毎年行政へ申し入れを行っている。又現場で知った彼女たちの苦しい胸の内、立ちはだかる「習慣」や「普通」という壁の高さを代弁していく。それは「自分の感受性に責任をもつ」という創立者聖マリア・ミカエラの姿勢だった。
支援の根底にあるもの ~出会い~
「出会いのシンボルはコムニオン(聖体拝領)。出会いは「愛」と「解放」を活性化させる原理」(「礼拝会の教育学」)。出会いがかなわなくなったコロナ禍の中で、「どのように出会うか?」を問われた時に生まれたのが“ぷろじぇくとHana” だった。
折しもうちのシェルターにはSNSの「神待ちサイト」で出会った神(=男性)を頼って北の国から来た17歳のAちゃんが入所した。彼女との生活は、時間帯、考え方、SNSの使い方などあらゆる面で私たちの生活を揺るがした。私たち自身が(恐らく彼女も)変容しないではいられなかった。私たちは女性たちの現実に心動かされ共感しながら同伴する。彼女たちの選択が理解できなかったり、同意できなかったりする状況の時でさえ。そのために、私たちは「本当に信頼できる存在」であることや、いわゆる「教科書に書かれていること」からも離れることを要求される。疎外の状況に置かれた女性たちの現実に身を置けば、彼女たちの夢や強さと同様に傷や失望も理解できる。それは、彼女たちの「ものがたり」に近づくことで、共にいて希望を持って幻想や疑念を分かち合うことを可能にするのである。
時に連日SNSや対面で辛いお話を伺っていると、心身に代理受傷の兆候が出ていることに気が付く。自分自身が厳しい状態になった時にあずかったミサで、「打ち砕かれた心を癒すために遣わされた主よ あわれみたまえ」という言葉を聴いた、その瞬間に自分自身と彼女たちの痛みのすべてを意識的に捧げ、復活の恵みを願っている自分と出会った。礼拝会の霊性は苦しんでいる女性の解放の体験のプロセスを通して深められていく。それは同時に私たちも共に苦しみの体験があり、共に解放されていく体験だ。神の前には支援者も被支援者もなく同等にイエスの解放が必要なものなのだ。
“ぷろじぇくとHana”の夢
コロナ禍に蒔いた“ぷろじぇくとHana”(専門職によるSNSを使った女性のための無料相談)の種は、ゆっくりだがすくすくと育っている。「インスタを観ました!」「知り合いから紹介されて……」と電話やメール、Lineの相談がちょうどいい具合に入ってくる時、「イエスののぞみだったんだなあ」と実感する。危機的状況で切羽詰まってかけてこられる方には専門機関を紹介したり、こちらから専門機関へ通報する。悲しみや怒りが溢れているときには、ただ静かに聴く。「困ったときのHana頼み」と言って、しばしば連絡してこられる方々はまるで家族か、古くからの友人のようだ。
現在は「東京・大阪・福岡限定」ということで行っているが、実際は日本全国から問い合わせが来ている。又「地域を拡げませんか?」「何か連携出来れば……」と声をかけてくださる同志の方々もいる。
私たちには夢がある。このHanaをもっとSNS世代に届けたい。そのために、私たち自身の更なる変容と模索が必要となってくるであろう。そしてもちろん多くの方々と連携してイエスが各地でユニークなHanaを咲かせていくのを見てみたい。なぜならイエスはあんなにも自由にこのような女性たちに大きな愛を示していたのだから。
回勅 『フラテッリ・トゥッティ』 概説
ジェリー クスマノ SJ
イエズス会司祭/上智大学名誉教授
教皇フランシスコの回勅『フラテッリ・トゥッティ』を簡単に紹介するために、各章のタイトルと私なりに言い換えてみたタイトル(=私題)、主要なポイントの概要、および重要なテーマを捉えた直接引用を一つずつ示したいと思います。
第1章:閉ざされた世界を覆う暗雲(9~55)
《私題》 私たちの今の世界は何かがおかしい
教皇フランシスコは、浪費、人権侵害、恐れと孤独、誤った方向のグローバリゼーション、人間の尊厳の無視、薄っぺらなコミュニケーション、そして狂信について指摘しています。
この章で教皇の主要テーマを最もよく表している一文を選ぶとしたら、次の文になるでしょう。教皇は繋がりではなく、孤立を選ぶ世界を述べているからです。
「自己防衛のための新しい壁が築かれ、外の世界は存在しなくなり、『私の』世界だけが残ります」(27)
第2章:道端の異邦人(56~86)
《私題》 今日の善いサマリア人を求めて
このおなじみのたとえ話は、現代の生活と結び合わせることによって、生き生きとしてきます。社会における弱者や傷つきやすい人への配慮の欠如、他者の苦しみを無視する無関心、宗教指導者の過ち、「国境」についての狭い考えを超えて隣人の概念を再定義する必要性について語っています。
このたとえ話の現代的説明において、おそらく最も深い洞察は、私たち一人ひとりが物語の全登場人物のうちに自分自身を見るべきだという教皇の指摘でしょう。
「私たちは皆、自分自身のうちに、傷を負った人の一面、追いはぎの一面、通り過ぎた人の一面、そして善いサマリア人の一面を持っています」(69)
第3章:開かれた世界の構想と実現(87~127)
《私題》 壊れた世界を修復する鍵
この章で教皇フランシスコは私たちと一緒に、現時点での私たちの世界を修復するために必要な材料を探ります。教皇は愛から始めて、それを詳細に解説します。愛は私たちを、他者への開きと統合へと導きます。愛は他者を排除するグループに限定されることを拒みます。愛は人々の間の不平等を受け入れず、きょうだい愛のうちに具体化されます。愛は連帯を促進し、人種や財産、富の排他的な概念にとらわれることはありません。
教皇が読者に教えたい現実主義を特に捉えている一つの引用は、特定の行動よりも、私たちの考え方の変化を呼びかけているのだと教皇が認めている箇所です。
「確かに、このすべての呼びかけのためには、別の考え方が必要です。そのような考え方をする試みなしには、私がここで言っていることはひどく非現実的に聞こえるでしょう」(127)
第4章:全世界に開かれた心(128~153)
《私題》 新しい世界秩序を築く方法
この章は、国々とその相互作用に関する一般通念に挑戦し、新しい知恵を提示します。新しい知恵とは、国境や市民権の狭い概念に制限されないもの、文化の相互作用を相互の贈り物とみなすもの、相互利益よりもきょうだい愛的無償性によって働くもの、普遍的なものと同じくらいローカルなものを大切にし、どちらかに自己陶酔的に固執しないもの、開かれていて、開放の精神をアイデンティティへの脅威とみなさないものです。
この一文は、教皇が言っていることの核心を本当に引き出していますが、それは誰もがたやすく受け入れることができる方法です。なぜなら、私が持っているものと私が貢献できるもののバランスを取る方法が示されているからです。
「すべての人の善に貢献できるような方法で、私は自分の持っているものを大切にし、育むのです」(143)
第5章:より良い政治の種類(154~197)
《私題》 政治は本当に尊い職業
私にとって、この回勅で最も楽しい章です。教皇は政治と政治家の両方の評判を回復させることに成功しています。善いサマリア人の解説では、私たち一人ひとりが個人としてお互いに気を配るべきだということに焦点を当てられました。この章では、その議論を制度や政治判断、政策決定のレベルにおける善いサマリア人としての政治家といった観点から、次のレベルにまで引き上げます。「ポピュラー」と「リベラル」を再定義して「隣人」や愛の概念に含めること、「運命共同体」についての国際レベルでの焦点、社会的および政治的愛の概念の紹介、「政治的愛」のためのロードマップの提示、そして長期的な目標のために行動するようにという政治家への励ましがトピックとして含まれています。
善いサマリア人としての政治家は、次の選挙でより多くの票を獲得できる事柄ではなくても、幅広い変化を実現しようと、長期的な目標のために取り組んでいます。そのため教皇フランシスコはこの職業に、真の尊さを見出しています。
「私たちが蒔く善の種の隠された力に希望を置くことは、実に尊敬に値します。そのようにして、他の人が実を結ぶためのプロセスを開始するのです」(196)
第6章:社会における対話と友情(198~224)
《私題》 傾聴が障壁をいかに打ち破るか
第二バチカン公会議の期間中、パウロ6世によって書かれた『エクレジアム・スアム』は、「対話」という言葉が使われた最初の教皇文書でした。パウロ6世は、教会内で、他の宗教や善意のすべての人々との対話を促しました。教皇フランシスコはその伝統を堅持し、それを友情に加えることで対話を新しいレベルへと引き上げます。教皇は文化間の対話、人々を互いに結び付ける社会的対話について語っています。対話は真理への道として、そして多元的な社会の中で一致を獲得するための道として提示されています。そうすることで、教皇が出会いの文化と呼ぶ新しい時代へと繋がるでしょう。教皇フランシスコは、以前に記した公文書『福音の喜び』を反映して、そのような文化が真の喜びをもたらし、すべての人が親切さを再発見するのを助けると言います。
教皇は対話のための議論の基礎を簡潔に要約します。
「他の人々には、自分らしくあるという権利と、違っていてもいいという権利があると認めることです」(218)
第7章:新たな出会いの道(225~270)
《私題》 波乱万丈な過去に健全な終止符を打つ
和解、赦し、過去の出来事の忘却といった極めて広範で複雑な問題と、戦争や死刑のいかなる正当化をも拒否するという現代の具体的な問題を扱っているため、簡単に要約することが難しい章です。対立は避けられないということを認めながら、教皇は不可能を要求することなく、すなわち過去を忘却するのではなく、和解への道を開くキリスト教的赦しを解決策として提示します。この章の核心は、教皇による非常に驚くべき主張に体現されています。
「社会的一致への道は常に、たとえ他の人が間違っていたり、悪いことをしたりしたとしても、少なくとも、部分的にでも、正当な見解や貢献できる価値ある何かを持っている可能性を認めることを伴います」(228)
第8章:私たちの世界のきょうだい愛に奉仕する宗教(271~287)
《私題》 一緒に祈る人は一緒に残る
この最後の章では、宗教が世界にきょうだい愛の精神をもたらしうる方法について説明されます。教皇フランシスコはこの回勅の中で、グランドイマームのアフマド・アル・タイーブ師との歴史的な会合を3度引用しています。彼は、いかなる形の暴力をも支持するために宗教を操作すべきではなく、むしろ対話的な出会いによって国家や人々の間のより大きなきょうだい愛への道を開くべきであると繰り返し述べています。教皇はこの希望の基盤を楽観的に宣言します。
「私たちが共有する重要なものは非常に多いので、穏やかで秩序ある平和的共存の手段を見つけることが可能です」(280)
トランプ政権末期に死刑執行連発
―バイデン大統領誕生と米国の死刑廃止―
柳川 朋毅
イエズス会社会司牧センタースタッフ
投票結果をめぐって大きな混乱が生じていた2020年アメリカ大統領選も、ジョー・バイデン候補の勝利でほぼ決着を見たようです。ジョン・F・ケネディ大統領に次ぎ、米国史上2人目のカトリックの大統領ということで、今後どのような政権運営をしていくのか、私たちも注目しています。現代のアメリカが、そして人類社会が抱えている課題は多くありますが、その中でも、「死刑」の問題について簡単に触れたいと思います。
アメリカ合衆国では、州ごとに死刑制度の存廃が異なっています。すでに死刑を廃止した州は全体の半数近くに上り、執行停止(モラトリアム)を公式に宣言する州も年々増えています。ここ数年、実際に死刑を執行している州は、テキサスやアラバマなど、わずかな州に限られています。各州とは別に、連邦政府のレベルでも、死刑は未だ存在しています。ただし、近年の執行はジョージ・W・ブッシュ大統領時代の3件のみで、2003年以降長らく執行はなく、このまま死刑制度が廃止になるのではないかと見られていました。
現職のトランプ氏は大統領就任以前から、死刑に対して熱烈な支持を表明していました。そして大統領となり実権を握ると、早速死刑推進へと動き出しました。その結果、2019年7月、連邦での執行を再開させると、ウィリアム・バー司法長官が発表するに至りました。
それを受け、法律家や人権団体だけでなく、かねてより死刑に反対していた米国のカトリック司教たちを筆頭に多くの宗教者たちも、死刑再開を思いとどまるよう、繰り返し米国政府に対して要請を行いました。
けれども非情にも、2020年7月14日、実に17年ぶりに死刑が再開されてしまいました。抗議の声に耳を貸すことなくその後も執行が相次ぎ、これまでに10名が処刑されました。任期終了間近のレームダック(死に体)政権は執行を控えるという131年続いた慣行をも破って強行し続け、来年1月の政権交代までに、さらに3件の執行を計画しています。アメリカでは毎日数千人の人がコロナで命を落としている深刻な状況の中、異常なまでに死刑にこだわっているのです。
実はバイデン氏も長年、死刑賛成の立場をとってきたのですが、今回の大統領選は「死刑廃止」を含む刑事司法改革を公約に掲げて勝利しました。これには単に彼個人の宗教的信条だけでなく、国際社会の動きや国内の市民運動が大きくかかわっていますが、教皇フランシスコが2015年9月24日に米国議会で行った演説で、死刑廃止をはっきりと訴えたこと(当時副大統領だったバイデン氏は真後ろで聴いていました)、そして2018年に死刑に関する『カテキズム』(2267番)が改訂されたことも、決して無関係ではないでしょう。
もちろん、死刑廃止を謳うバイデン大統領やカマラ・ハリス副大統領が政権についたからといって、すぐに米国から死刑がなくなるわけでありません。それでも、教皇が新回勅『Fratelli Tutti』(263-270参照)でもはっきりと述べるように、「全世界」から死刑をなくすために、日本のカトリック教会としても真剣に取り組む必要があります。まずは2020年が、9年ぶりに日本で死刑がなかった一年となることを切に願って。