癒えざる傷跡をたどって ~水俣研修旅行2026~

ラクラ プリヤタム SJ
イエズス会神学生 (インド出身)

水俣病母子像
水俣病母子像

今回の水俣への旅(2026年2月17日~21日)を理解するためには、まずその歴史を形づくった毒物について理解する必要がありました。「水俣病」は、メチル水銀中毒によって引き起こされる重篤な神経疾患です。1932年から1968年にかけて、チッソ株式会社はメチル水銀で汚染された排水を水俣の不知火湾に排出しました。この毒素は魚介類に蓄積されるのですが、それらは何世代にもわたって地元の漁師家庭で日々食され続けてきました。

最初の兆候が表れたのは、1950年代でした。猫たちが痙攣を起こし、よろめきだしたので、村人たちはそれを「猫踊り病」と呼びました。まもなく、人間にも同じ症状が表れ始めました。手足のしびれや視野狭窄が起き、ろれつが回らなくなり、平衡感覚が喪失し、震えが生じ、最終的には麻痺から昏睡、そして死に至りました。最も深刻な影響を受けたのは乳幼児です。先天性水俣病は、たとえ母親に軽度の症状しか見られなかった場合でも、小頭症や知的障害、そして生涯にわたる運動機能障害を引き起こしました。

水俣病は1956年に公式に認定されましたが、その原因が確定したのは1968年になってからのことでした。そのころには、すでに数千人もの人が中毒症状を起こしていました。2,200人以上が公式に被害者として認定されていますが、実際の数はそれよりもはるかに多いと推定されます。法廷闘争は何十年にもわたって続きました。裁判で判決が下された後も、被害者への賠償金はなかなか支払われず、和解もさらに遅れました。

私はイエズス会の5人の仲間とともに、熊本県の水俣に研修旅行に行きました。今回はそこでの経験と学びを皆さんと分かち合いたいと思います。水俣の人々の痛ましい歴史を深く学ぶ機会でした。私の知る限り最も恐ろしい公害の一つが引き起こした、物理的・感情的世界を体験する機会でした。苦い過去の後、地域社会が、身体が、そして湾が、時を経てどのように癒えていくのか、興味深く見守りたいと思っていました。私が水俣から持ち帰ったのは、まだ癒えぬ傷を癒すための新たな理解の方法と、過去のつらい記憶に苛まれながらも前に進み続けるという選択でした。

約10年前、学生だった私は、水俣病について本で読んだことがありました。しかし今回、毒物が海に流れ込んだ海岸に立ち、澄んだ空気と海、緑豊かな自然に囲まれた美しい場所を眺める機会に恵まれました。悲劇が起こる前、人々はどのように平和で幸せな生活を送っていたのだろうかと、想像にふけりました。かつて人々が幸せに暮らしていた楽園のような場所、水俣が、痛ましく忘れがたい歴史の舞台となり、消えることのない傷跡が残されてしまったことが、深く悔やまれます。だからこそ、今回の水俣訪問は、社会正義のために、見て、判断し、行動することを私に促すのです。

今回の旅を通じて、統計だけでは測れない水俣病の深刻な影響を肌で感じることができました。ボランティアの方々や地域住民たちと触れ合う機会がありましたが、彼らの謙虚な姿勢からは、環境破壊と環境再生における倫理的・霊的側面について深く考えさせられました。この経験を、癒しについての私自身の理解に取り入れるために、社会の発展と進歩は常に自然を尊重し、自然を傷つけたり危険にさらしたりすることなく進められるべきだと強く感じています。

最初に目に留まったのは、海がごく普通に見えたことでした。青空の下、澄んだ海が広がり、漁船の上をカモメたちが舞い、人々は日常生活――漁をし、船に乗り、田畑を耕し、行き交う――を送っていました。その穏やかな光景からは、この地で起きた悲劇を予感させるものは何もありませんでした。

水俣病慰霊の碑
水俣病慰霊の碑

しかし、仲間たちと一緒にそこに立つと、決して完全には癒えることのない傷の重みを感じました。水俣はゴーストタウンではありません。今もなお息づき、耐え忍び、痛々しくも忘れがたい傷跡を刻み続ける生きた共同体です。私は学び、耳を傾ける者としてこの地を訪れました。忘れがたい過去をたどり、神から与えられた自然という贈り物を愛といつくしみをもって受け入れるべきだということを実感したかったのです。

私たちのグループは、不知火湾からほど近い質素なゲストハウスに滞在しました。水俣病資料館、慰霊碑、埋め立てられた工場跡地、環境センターといった主要な場所を毎日訪れました。ボランティアガイドの方々の案内で主要な場所を巡り、自然と人々の生活がいかに無視されてきたかの詳しい説明を受けました。

資料館には、言葉よりも静寂が満ちていました。私はある子どもの絵が展示されたケースの前で立ち止まりました。先天性水俣病で生まれたその女の子は、震えるような、うねるような線で家族の絵を描いていました。その隣には、幼いころの彼女の写真がありました。自力で頭を支えることができず、母親の腕がまるで盾のように彼女を包み込んでいました。犠牲者たちの写真を見て、私はしばらく茫然と立ち尽くしてしまいました。そして、水俣病は単なる歴史ではなく、未だに癒えていない傷なのだと悟りました。

水俣を散策している時、あるボランティアガイドの女性が静かに、恨みがましくなくこう語りました。「外の人たちは、私たちがチッソを憎んでいると思っているでしょう。確かにそう思っている人もいるけれど、でも、私たちの多くは、ただ真実がきちんと語られることを望んでいるだけです。同情を求めているわけではありません。私たちはただ、人命よりも誰かの利益を優先したがために、こんなことが起きたのだということを、皆さんに忘れないでいてほしいのです」。彼女の言葉は、今も私の心に深く刻まれています。それは怒りではなく、静かに真実を訴える言葉でした。真実を語るというのは、必ずしも大きな声で語る必要はないのだと気が付きました。時には、それは部屋の中で最も静かでありながら、最も力強い声となることもあるのです。

水俣を後にする際、車の窓から最後にもう一度湾を眺めました。イエズス会の「MAGIS」という概念、つまり「より多く、より大きく」という考えが頭をよぎりました。癒しとは、痛みがなくなることではありません。それは、痛みに飲み込まれることなく、傷を抱えながらも前に進む力のことです。慰霊碑の前で、私たちは皆、しばし黙祷を捧げ、勇気を祈り求めました。水俣の人々のように、傷つきながらも、人生を前へと進んでいく勇気を。

水俣への旅は、海が1932年よりも前の姿に戻ることは決してないということを教えてくれました。しかし、海は今もなお存在し、人々もまた、存在しています。それが、今もなお癒えていない傷なのです。だからこそ、私はその地を歩いたのです。ただ眺めるためではなく、人生における私自身の傷跡とどう向き合っていくのかを学ぶために。私が持ち帰るのは、手っ取り早い解決策ではありません。癒しとは、忘れることではなく、ゆっくりと、けれども真摯に受け入れていくプロセスなのですから。

2026年度の連続セミナー 「環境と貧しい人々」

ボネット ビセンテ SJ
イエズス会社会司牧センタースタッフ

今年度の連続セミナーは、前・後半5回ずつの二部構成で企画しました。

日本カトリック司教団『見よ、それはきわめてよかった』
日本カトリック司教団『見よ、それはきわめてよかった』

第一部では、エコロジーに関する理解と実践への招きである『見よ、それはきわめてよかった』という日本カトリック司教団の文書に言及しながら、創造についての聖書の理解、傷つけられた地球とその癒しのための具体的な例を取り扱います。

使徒的勧告『わたしはあなたを愛している』
使徒的勧告『わたしはあなたを愛している』

第二部においては、教皇レオ14世の使徒的勧告『わたしはあなたを愛している(Dilexi Te)』を中心にして、神が貧しい人々を選んだこと、貧しい人々のための教会などについて考察します。

一見、第一部の「環境問題」と第二部の「貧しい人々の問題」は、別々であると思われるかも知れません。しかし、司教団の文書で指摘されているように、「貧困問題と環境問題は別々の問題ではなく、同じ根をもつ一連の問題群であり、その解決には個々の根にまで届く抜本的なアプローチが求められる」のです(13番)。そして、環境の悪化による悪影響を最も被っているのは貧しい人々であるということは、世界中の現実によって明らかにされていることです。

セミナーのプログラム

プログラムをもう少し具体的にみると、第一部において、まず、聖書の創造について言及しながら、「ともに暮らす家」を観る(SEE)ようにします。そして、具体的な例に言及して、識別(DICERNT)行動(ACT)に向けて、霊の光を求めます。

第二部においては、教皇の文書の五つの章に沿って、「神が選んだ貧しい人々」、長い歴史における「貧しい人々のための教会」と、その「連続する歴史」における「主体としての貧しい人々」、そして「絶えることのない課題」として、「よいサマリア人の現代的意味」について言及しながら、「現代の教会が避けることのできない課題」を熟考します。

セミナーの進め方

2021年度から、「シノドス~ともに歩む教会~ 交わり、参加、宣教」を目指して、できる限り、そして試しながら進めてきたやり方は、多くの参加者にとって好評でした。今年度の連続セミナーにおいても、同じように、参加者皆でつくるセミナーの進め方を続けたいと思っています。

すなわち、講演会風ではなく、参加者の皆さんがより積極的に参加できるよう、小グループに分かれて、当日の講師の話と提案されたポイントを熟考して、それについて各メンバーが感じた「霊の動き」を分かち合う時間を設けます。

一回目の分かち合いは、議論のためではなく、グループの他のメンバーの語る「霊による動き」にじっくりと耳を傾けます。その時、自らの心の動きを問い直すのではなく、自身のうちにある「霊による動き」をいっそう豊かに育んでいくのです。聖霊は、いつどこでも、一人ひとりを通しても働いてくださいます。

そして、二回目の分かち合いでは、グループの他のメンバーが分かち合ったことをしばらく熟考し、それがどのように自分の心に響いたか、それを通して霊が語ってくださることを分かち合うようにします。この時に、反論や議論はせず、また、一回目の時に言い足りなかったことを加えることもしません。

できれば(時間があれば)、グループの各メンバーは、当日のテーマに関して行動を起こしたいこと、してみたいことを分かち合います。

最後に、コメントや質問を書き、そして、当日の講師から派遣の祝福を受けます。

皆さんのご参加を、心よりお待ちしています。

東京電力福島第一原子力発電所の原子力災害から15年
~福島原発の現状とこれからの方向性について考えてみませんか?~

高瀬 つぎ子
福島大学共生システム理工学類

1 はじめに

2011 年3 月11 日、東日本大震災注1)(M = 9.0)と巨大津波、それに伴って発生した東京電力福島第一原子力発電所(福島第一原発)の事故(以下、原発事故)は、東日本の広い地域に甚大な被害を与えました。原発事故直後、厳しい被害状況を示す報道に接する中、多くの皆さまは、「ノーモア・ヒバクシャを訴えてきた被爆国の私たちが、どうして再び放射線の恐怖に脅えることになってしまったのか?」「自然への畏れを忘れていなかったか? 人間の制御力を過信していなかったか? 未来への責任から目をそらしていなかったか?」と。。。ご自身の心に問いかけられ1)-5)、横路衆議院議長(当時)が述べられているように1)、「『核に依存しない平和で安全な世界』をつくるために、渾身の力を傾けていくこと」を心から願われた1)-5)と思います。

しかし、原発事故後15 年を経過した現在、国際情勢の不安定性の激化(イスラエルとアメリカの侵攻に端を発したイラン紛争やガサでの紛争、ウクライナとロシアの紛争など)や国内での物価高や海外貿易の不安定性による経済不安などの中で、日本政府のエネルギー政策は、昨年2 月に発表された第7次エネルギー基本計画6)に示されているように、「原子力の最大限活用」の方向に大きく転換してしまいました。そのような状況の中で、一般市民が「福島原発事故後の被災地の現状と問題点」についての正確な情報を得る機会は、非常に少なくなっております。

このような時だからこそ、福島原発事故の経緯を振り返る中で、それぞれの方が当事者意識をもって【被災地の現状と問題点(福島第一原発の廃炉作業や中間貯蔵施設の今後など)】を改めて認識し直すことが重要になってきます。私個人としては、それぞれの方が心の最も深いところにある良心に従って祈る中で、【心の中に育まれた素直な想い】を周りの皆さんと勇気を出して分かち合う時(第2 バチカン公会議【現代世界憲章】注X))、『関係者がひとつのテーブルに会して、専門家・素人に関係なくフランクに意見交換しあい相互理解を深めながら、みんなが納得できるところを探してみる』という本来の意味での【リスクコミュニケーション】7) が実現するのではないか?」と考えています。そして、このようなオープンな議論の中で、廃炉処理や放射性廃棄物処理などの方向性(廃炉計画の方針転換などを含む)が明確になっていくことが強く望まれています。この小文は、オープンな議論を進めていくための一助(資料)になることを願って作成しました。

2 福島原発事故の経緯

1)東京電力福島第一原子力発電所とは

福島県は、歴史的に「首都圏の労働力とエネルギーの供給基地」という立場を担い、戦後日本の経済発展を支えてきました。1960 年代、高度成長による電力需要の増大に伴い、安定した電力エネルギーとしての原子力発電の導入が本格化する中、福島第一原発は大熊町・双葉町(福島県)への誘致が検討され、1967 年の1 号機の建設着工以降、1979 年までの間に6 号機までの営業運転が開始されました8)。福島県内の原発は、東京電力管内(首都圏など)への電力供給を目的としており、福島県内に電力を供給することはありませんでした。

政府や福島県・地方自治体は、石炭産業の衰退に伴って産業基盤が脆弱であった福島県浜通り地方(福島県の太平洋沿岸地方)に居住されていた皆さんに対し、【原子力 明るい未来のエネルギー】の標語などに代表される①原子力発電所の安全性や②地元への経済効果(地元自治体への固定資産税や多額の電源交付金注2)、原発関連企業への就労機会の増大(出稼ぎに依存しない生活の確保!)など)を強調した【原発誘致推進キャンペーン】を活発に展開し,原発の建設を推進しました。

2)福島第一原発事故の経緯 9)

① 2011 年3 月11 日14:46 巨大地震発生注 3)

地震発生直後、稼働中の原子炉(1~3 号機)に制御棒が挿入され、原子炉内の連鎖的な核分裂反応は停止されましたが、原子炉内の核燃料からは多量の熱(崩壊熱)が発生していました。一方、巨大地震によって、原発に外部電源を供給している送電線などが被害をうけ、外部電源の供給が停止されました。この時点では、原発内に装備されていた非常用電源は稼動していため、原子炉の水冷機構は正常に機能していました。

② 津波の襲来(地震発生から約50 分後)

津波とこれに伴う浸水により、非常用ディーゼル発電機やバッテリーなどすべての電源を失いました(全電源喪失)。全ての電源を失ったことにより、原子炉の水冷機構(非常用復水器や高圧注水系など)や原子炉の監視・モニター機能が起動できなくなりました。圧力容器内の水は蒸発し続け、約4 時間後、燃料が水面から露出して、炉心損傷(メルトダウン)が始まりました。溶融した核燃料が圧力容器を突き破り、原子炉の格納容器の底面部分に溜まり、核燃料デブリが生じました。また高温になった燃料棒表面と水蒸気が反応することにより水素ガスが発生し、1,3,4 号機の建屋の水素爆発へと進展していきました(3 月12 日以降)。

③ 2 号機からの放射性物質の放出 (3 月15 日)

1~3 号機の中で、2 号機からは最も多くの放射性物質が放出されたと推定されています。これは、「2 号機では【ベントライン】を開放することができず、ベント操作(ある程度放射性物質を取り除いてから格納容器の外へ気体を放出する方法)が失敗したため、放射性物質を含む気体が格納容器から直接漏洩し、大量の放射性物質が大気中に放出された」と考えられています。

④「原子力緊急事態宣言」の発令7) 10)

このような福島第一原発の緊急事態に際して,政府は「原子力災害対策特別措置法に基づく緊急事態に対応する」との認識から、【原子力緊急事態宣言】を発令しました(3/11 19:03)。その後発令された避難指示は、事故の拡大に伴って、原発周辺 3 km圏内(3/11 21:23)、10 km圏内(3/12 5:44)、20 km 圏内(3/12 18:25)、20~30 km 圏内(屋内退避指示:3/15 11:01)と拡大されていきました。現在でも、福島県内の原発周辺には避難指示が継続している地域が一部残されており、この【原子力緊急事態宣言】は解除されていません。

避難指示区域に居住されていた住民の皆さんは、地震と津波による被災直後の混乱の中、政府などから詳細な説明(避難の理由や避難期間など)を聞くこともなく注4)、長期間(数年間~10 年以上)におよぶ避難生活を強いられ、結果的に、生活基盤の崩壊や地域コミュニティーの消滅をもたらしました。また、屋内退避指示区域では、「避難指示区域外からの物流(生活用品やガソリンなど)が事実上停止したため、通常の生活を営むことが非常に困難であった」というお話も耳にしました11)。

⑤ 福島原発事故の原因 9)

福島原発の事故は、「①巨大地震による外部電源の喪失、②津波による浸水に伴う非常用電源系の喪失、③全電源系の喪失により、原子炉の冷却機能が起動しなくなったことにより発生した」と推定されています。これは「いったん、燃料棒の冷却の過程でトラブルが発生すると、『冷却水の水位低下⇒燃料棒が空焚き状態になることによる燃料棒の破損⇒メルトダウン』という過程を経て、重大事故の発生に直結する」ことを意味しています。重大事故後の原子炉の冷却は非常に困難な作業で、福島第一原発の場合、原子炉の冷温停止状態が達成されたのは、約9 ヶ月後の2011 年12 月でした(なお、核燃料棒の冷却は、冷温停止後も継続することが必須です)。

このように考えると、今回の事故は、『福島第一原発に固有の問題』に起因するのではなく、地震列島と呼ばれる日本国内に建設されている全ての原子力発電所でも、同様の事故が発生する危険性を否定することはできません。

3 放射性物質による環境汚染

1)福島原発事故由来の放射性物質による環境汚染

福島原発事故では、原子炉内での水素爆発(1,3,4 号機)やベントの失敗(2 号機)などによって、大量の放射性物質(放射性ヨウ素や放射性セシウムなど)が大気中に放出されました。特に、『3 月15 日に発生した2 号機のベントの失敗による放射性物質の放出』は、風向き(陸側への風の流れ)や降雨などの影響によって、福島県の浜通り地方だけでなく中通り地方(福島市、郡山市など)にも、放射性物質による環境汚染をもたらしました。

2)『現存被ばく状況(ICRP 勧告2007)』の適用7),12)

原発事故による放射性物質の環境中への放出によって、福島県内の広範な地域(人口100 万人規模)で、それまで国内法で定義されていた【一般公衆の被ばく線量(1 mSv/年 以下)】を超える汚染状況が発生しました。そこで、政府はこの状況に対応するため、『国際放射線防護委員会(ICRP)2007 年勧告』で新しく導入された【現存被ばく状況:原発事故によって大規模放射能汚染が起きたために、汚染地域で生活することもやむを得ないと判断される状況(参考レベルの被ばく線量:1~20 mSv/年)】という概念を福島県内の被災地に適用することを決め、福島原発から20 km 圏外の地域では、年間予測被ばく線量20 mSv を超える地域(飯舘村や浪江町津島地区など)のみを【計画的避難区域】に指定しました注5)。

【現存被ばく状況】とは、本来、「低減目標値(たとえば1 mSv /年 以下)を設定したうえで、人々が被ばくをガマンしながら生活することもあり得る状況」を意味しており、「【現存被ばく状況】(20mSv/年以下)なら安全・安心です」という解釈とは異なるはずでした。しかし、実際には「年間予測ポート)は十分な状況とはいえず、現在でも多くの問題を抱えています。

原発事故処理のために、緊急避難的に導入された【現存被ばく状況】という概念は、事前に【十分な社会的な合意形成】が行われないまま導入されたため、「福島原発事故による環境汚染の実態」に対する自由でオープンな議論を妨げる大きな要因になった、と考えられます。

3)放射性物質による環境汚染と除染13)

福島第一原発事故によって大気中に放出された放射性物質の主成分であるセシウムは、土壌中の粘土鉱物と非常に結合しやすい性質を持つため、多くの地域での土壌の汚染は表層部分(深さ0~5cm 程度)に留まっていました。このため、避難指示区域に指定されていない都市部(福島市、郡山市、いわき市など)の小・中学校などの公共施設において、放射線量の低減を目的として、「校庭などの表層土を剥ぎ取り、放射性物質の影響を低減する」という除染作業が開始され注6)、個人住宅などの私有地の除染作業も大規模に実施されました。

これらの除染作業の効果と放射性物質そのもの減衰効果によって、福島県内の都市部(市街地)での年間被ばく線量は、現在、1 mSv 程度まで低減することができています。また、住宅地と同様に、農業用地の除染(表層土壌の剥ぎ取り)や移行抑制対策(カリウムの施肥など)も広範囲で実施され、市場に出荷されている福島県産の農畜産物に含まれる放射性セシウムの濃度は、国の定める基準値(100 Bq/kg)を十分に下回る値を示しています(なお、福島県内では、農畜産物に含まれる放射性セシウム濃度のモニタリングが継続的に、現在でも実施されています)。

しかし、森林の除染は原則実施されていないため、山間部に自生する山菜やキノコ、鹿やイノシシの肉には基準値を超える放射性セシウムが含まれる場合があります(これらの農畜産物は【出荷停止】の状態にあり、市場には出荷されておりません)。

このように、原発事故発生以来15 年間にわたって、「福島県内の農畜産業物や水産物は、放射性物質の濃度を厳密にモニタリングした上で、市場に出荷している」という事実を申し添えます。

4 原発の廃炉作業と中間貯蔵施設の今後

1)原発の廃炉作業の現状と今後

福島第一原発の廃炉に関して、政府と東京電力は、2011 年12 月に『福島第一原子力発電所1~4号機の廃止措置等に向けた中長期ロードマップ(以下ロードマップ)』を作成し14)、「2051 年度までに『原子炉内部に残存する燃料デブリの取り出しと原子炉施設の解体を含む』廃止措置を終了する」との方針を決定しました。

☆追記:しかし、2019 年に改訂された現行の『ロードマップ』15)では、『原子炉内部に残存する燃料デブリの取り出しと原子炉施設の解体を含む』という表現が消え、『廃止措置を終了する』という抽象的な表現だけに変更された結果、廃炉措置の最終段階のイメージが不明確になってしまいました。

現在、福島第一原発の構内では、3~4 号機の原子炉建屋内の燃料保管用プールに貯蔵されていた【使用済み核燃料】の取り出し作業は完了し、1~2 号機では、使用済み核燃料取り出しに向けた準備作業(「壊れた構造物などの放射性瓦礫の除去作業」など)が進行しています。しかし、1~3 号機の原子炉格納容器内に大量に存在する核燃料デブリ(推定 約880 トン)の取り出し作業は、2024年度に試験採取(2号機)が開始されていますが(2025 年度までのデブリの採取量:約0.9g)、本格的なデブリ取り出しに関しては、まだ、【取り出し方法の検討段階】であり、デブリ取り出し完了までの詳細な計画は示されていません。

原子炉本体の廃炉作業では、「①非常に高線量の原子炉内部に技術者(観測機器を含む)が入ることが困難であるため、現場の状況を十分に把握でような現状をふまえて、日本原子力学会は2020 年に公開した報告書16)の中で、「福島原発の廃炉の最終形態に関する4つのシナリオ」を提案しました。

【即時・全撤去】から【部分撤去・安全貯蔵】までの4つのシナリオの中で、廃炉措置の完全な終了までに少なくても100 年以上の期間が必要であることが記載されており、「ステップ2終了から20年~30 年で通常炉の廃止措置終了条件を満たすことは現実的に困難」と指摘しています注7)。

2)中間貯蔵施設の現状と今後17)

政府は、福島県内(避難指示区域だけでなく、浜通りや中通り地方のほぼ全域)の除染作業に伴い発生した【除去土壌】(放射性物質を含む土壌や廃棄物など)を福島県外で最終処分するまでの期間、安全かつ集中的に貯蔵する施設として中間貯蔵施設を建設し、2015 年に除去土壌などの受け入れを開始しました。現在は、帰還困難区域を除いて搬入作業はほぼ完了し(貯蔵量:約1,400 万m3)、除染作業が継続している地域(特定帰還居住区域など)からの搬入が実施されています。なお、すべての【除去土壌】は、中間貯蔵開始後30 年以内(つまり2045 年3 月まで)に、『福島県外で最終処分を完了するために必要な措置を講ずる』ことが法律(JESCO 法)で定められています17)。

最終処分に向けて、「中間貯蔵施設に保管される大量の除去土壌などの容積をいかにして減らすか【減容化】」が重要な課題になっており。政府は、比較的放射性物質濃度の低い土壌など(8,000 Bq/kg 以下)を再生資材として利用することを検討しています(福島県内外での実証実験)。しかし、原発事故前の基準値(放射性セシウムの場合:100Bq/kg)を超える再生資材の使用に関して、実証実験予定地(県外)の住民の皆さんの合意を得ることは、ほとんどできていません(実証実験が福島県外で開始されたのは、霞が関の官公庁などの花壇のみ)。また,最終処分場の候補地も,まだ決定されていません.

5.おわりに

これまで述べてきたように、福島原発事故処理の現状(廃炉処理や中間貯蔵施設に保管されている放射性廃棄物の処理など)を振り返る時、政府や東京電力が発表している「廃炉措置を事故後40年後までに完全に終了する」という方針の実現は非常に困難であり、「福島第一原発の廃炉措置に関するロードマップの再検討(廃炉の最終形態や作業完了時期の再検討などを含む)」が必要になってくることは明らかです。

私たち福島県民は、福島原発事故処理の困難な状況やロードマップの再検討の必要性を認識しつつも(頭では理解できても)、心の中に、「原発事故前には『原子力・明るい未来のエネルギー!』って言っていたよね」、「そして、原発事故後は『40 年後には、廃炉措置を完全に終了します!』って言い続けているよね」、「県内では、。。。東電の電力を使ってこなかったのに。。。あ〜あ!」といった複雑な感情(首都圏とは異なり、地域社会の濃密(かつ複雑)な関わりの中で、遠慮がちにしか表現できない【どこか、やりきれない気持ち】)を抱えているのも事実です。そして、このように、いろいろな意見が複雑に絡み合った事故後の社会状況の中であっても、「立場の異なる多くの関係者が参加する形で、『福島原発事故処理の今後の方向性(最終形態を含む)』についてのオープンな議論(『本来の意味でのリスクコミュニケーション』)が開始されること」を心から願っています。

6 参考文献

1)横路孝弘衆議院議長(当時):「平成23 年全国戦没者追悼式議長追悼の辞」(2011 年8 月)

2) 福島県:「福島県復興ビジョン」(2011 年8 月)

3) 日本カトリック司教団メッセージ:「いますぐ原発の廃止を」(2011 年11 月)

4) 経済産業省:「第4次エネルギー基本計画(政府原案)」(2014年2月)

6) 経済産業省:「第7 次エネルギー基本計画」(2025 年2 月)

7) 今中哲二:「『20 ミリシーベルト』と幻の安全・安心論」科学, (2017)

8) 島田 剛:「原発は地域経済を救ったのか?:福島第一原発がもたらした雇用と産業構造の変化(1960-2010 年)」Meiji.net (2025 年3 月)

9) 東京電力:「福島原子力事故調査報告書」(2012 年6 月)

10) 消防防災科学センター:「福島第一原発事故における初期対応の概要」(2012 年)

11) 南相馬市:「南相馬市災害記録誌 第4 章 南相馬震災ドキュメント」(2017 年)

12) 国際放射線防護委員会(ICRP):[2007 年勧告Pub103」(2007)

13)福島県:「福島県内おける除染等の取組」(2022 年2 月)

14) 原子力災害対策本部 政府・東京電力中長期対策会議:「福島第一原子力発電所1~4 号機の廃止措置等に向けた中長期ロードマップ」(2011 年12 月)

15) 廃炉・汚染水対策関係閣僚等会議:「東京電力ホールディングス(株)福島第一原子力発所の廃止措置等に向けた中長期ロードマップ」(2019 年12 月)

15) 日本原子力学会 福島第一原子力発電所廃炉検討委員会:「国際標準からみた廃棄物管理-廃棄物検討分科会中間報告-」(2020 年7 月)

16) 環境省:「中間貯蔵施設情報サイト」

7 注釈

注1) 『東日本大震災』:2011 年3 月11 日14 時46 分18 秒に発生した【東北地方太平洋沖地震】およびこれに伴う福島第一原子力発電所事故などによる大規模な地震災害(震ることを発表しました。これ以降、自然現象としての「地震」を指す【東北地方太平洋沖地震】とそれにより引き起こされた「震災」を指す【東日本大震災】という2 つの用語が並立することになりました。

注2) 『電源交付金』(正式には『電源立地地域対策交付金』):発電用施設の設置や運転の円滑化を図るため、電源地域の都道府県及び市町村で実施される公共用の施設や地域住民の福祉、利便性向上を目的とした事業に対して交付されています。

注3) 『福島第一原発事故の原因』:「地震による外部電源の喪失と津波による全電源喪失」だけがでなく、「1 号機の場合、地震で配管亀裂が生じた」可能性を指摘する報告も存在します(「新潟県原子力発電所の安全管理に関する技術委員会」の報告書)。原発事故原因の詳細については、まだ未解明の部分も多いと考えられます。

注4) 『政府などから詳細な説明』:避難指示が発令された時点では、地元自治体も詳細は知らされていませんでした。「『原発が緊急事態』なので避難しなさい」という指示で..
地表に沈着した放射性物質の種類や量が明らかになっていなかったため、避難期間についての言及はありませんでした。

注5) 『【現存被ばく状況(ICRP 勧告2007)】の適用』:「【緊急時被ばく状況:20 mSv~100mSv】の低い側で避難指示を出し、【現存被ばく状況:1 mSv~20 mSv】最も高い値である20 mSv で避難指示を解除している」と考えられます。

注6) 『福島県内の学校の校舎・校庭等の線量低減について(通知)(文部科学省:平成23 年8 月26 日)』:この通知には、「夏季休業終空間線量率については、児童生徒等の行動パターンを考慮し、毎時1μSv未満を目安とします」と記載されており、この基準をクリアーするために、福島県内全域の学校(幼稚園・保育所~大学など)の除染作業が実施されました。

注7) 『日本原子力学会の報告書』「原子力学会の報告書で書かれている『ステップ2終了から20 年~30 年で廃炉を終了することを目標』の部分は、2019 年の中長期ロードマップでは『【第3 期】第 2 期終了~廃止措置終了まで(目標はステップ 2 完了から 30~40 年後)」と書かれているので、30 年~40 年の間違いではないか」という指摘もあります。

注X) 『第二バチカン公会議「現代世界憲章」良心の尊厳(16)』:良心は人間のもっと秘められた中心であり聖所であって、そこで人間は独り神とともにあり、神の声が人間の内奥で響く。神と隣人に対する愛を通して成就するあの法が、良心のおかげで感嘆すべき方法をもって明らかになる。キリスト信者は、良心に従いつつ、他の人々と一致して真理を探求し、また個人生活および社会生活の中に生じる多くの道徳問題を真理に従って解決しなければならない。

日本の近現代史を学ぶ書籍紹介シリーズ 【8】
戦争に向かう力と戦争責任

編集部

昨年から社会司牧通信では、三好千春さんの献身的な協力をいただき、日清戦争からアジア・太平洋戦争に至る戦争と植民地化の出来事とその背景にある世界と日本の動向に関する書籍の紹介を行ってきた。今回はこのシリーズの最後である。ここでは、このおよそ半世紀の歴史の奥に流れる動きを概観すること、またその戦争や植民地化に関する責任、あるいはその後の社会への影響を考えることに参考となる書籍を、同じく三好さんの協力を得て紹介する。

戦争に向かう力

1) 宇田川幸大 『歴史的に考えること――過去と対話し、未来をつくる』 岩波ジュニア新書 2025年

宇田川幸大 『歴史的に考えること――過去と対話し、未来をつくる』 岩波ジュニア新書 2025年
宇田川幸大 『歴史的に考えること――過去と対話し、未来をつくる』 岩波ジュニア新書 2025年

「戦争や戦争犯罪を発生させてしまう大きな要因とは何だったのでしょうか。箇条書きで整理してみます。①帝国主義、植民地主義、レイシズムといった考え方。②日本人男性を頂点とする「帝国」の序列。③帝国憲法をめぐる問題(統帥権の独立や各組織の分立・面子など)。④戦争に懐疑的な人びとの声に耳を傾けることない、社会や民衆の存在。⑤アジアの問題を二の次三の次とする、欧米の国際関係・国際法の在り方。それでは、これらの問題は東京裁判で正面から問われ、克服されたといえるでしょうか。先ほど確認した東京裁判の「帝国主義間の合作裁判」という性格を踏まえるならば、①から⑤については問題がそのまま残ったと考える必要がありますね。・・・近代日本の戦争や暴力を支えた根本原因は、その多くが東京裁判で言及されず、戦後日本の政治・社会に引き継がれていった、ということが明らかになります。」(第2章より)

2) 益田 肇 『人びとの社会戦争――日本はなぜ戦争への道を歩んだのか』 岩波書店 2025年

益田 肇 『人びとの社会戦争――日本はなぜ戦争への道を歩んだのか』 岩波書店 2025年
益田 肇 『人びとの社会戦争――日本はなぜ戦争への道を歩んだのか』 岩波書店 2025年

「本書で示した時代区分は、「解放の時代」としての一九二〇年代、「引締めの時代」としての一九三〇年代、「戦いの時代」としての一九四〇年代というものだった。もちろん一九二〇年代にも引締めの声が上がりはじめていたし、一九三〇年代にも解放の振る舞いがしぶとく生き延びていたこと、さらには一人の人間のなかにも両方の要素があったことは、本書で見てきたとおり。・・・ただかなり大雑把ながらも、この三〇年周期のサイクルで二〇世紀から二一世紀を眺めてみれば、二つの世界戦争とベトナム戦争、対テロ戦争などで彩られる一九一〇年代、四〇年代、七〇年代、二〇〇〇年代が「戦いの時代」、それに引き続く一九二〇年代、五〇年代、八〇年代、二〇一〇年代が「解放の時代」、そして一九三〇年代、六〇年代、九〇年代、そして今日の二〇二〇年代が「引締めの時代」ということになる。・・・今日のような世界において、かつて人びとが解放と引締めをめぐるもう一つの戦いを戦っていたことに思いを馳せ、では今日の私たちは実のところいったい何をねがい、何をたたかっているのか、と問いなおすことは、決して無駄ではないはずだ。歴史の行く末を左右しているのは普通の人びと、つまるところ私たちなのだから。」(終章より)

3) 加藤陽子 『天皇と軍隊の近代史』 勁草書房 2019年

加藤陽子 『天皇と軍隊の近代史』 勁草書房 2019年
加藤陽子 『天皇と軍隊の近代史』 勁草書房 2019年


「南進によって英米との対立が不可避的になろうとする時期、天皇は「御下問」や「御言葉」を通じて、統帥部を積極的にリードするようになっていった。政と軍の二つの機構の軸をなす天皇の存在が、改めて大きなものとなってきたのである。・・・41年11月・・・この時期、両統帥部は、天皇を安心させる数字とレトリックを駆使し、天皇の説得に全力をあげた。」(第5章より)

「ポツダム宣言の受諾をめぐる御前会議の段階で・・・軍部が主張した、自主的撤兵と責任者の日本側による処罰という項目は、もともと天皇が「終戦」をためらっていた最大の理由にほかならなかった。」(第5章より)

4) 山田 朗 『軍備拡張の近代史 : 日本軍の膨張と崩壊』 吉川弘文館 1997年

山田 朗 『軍備拡張の近代史 : 日本軍の膨張と崩壊』 吉川弘文館 1997年
山田 朗 『軍備拡張の近代史 : 日本軍の膨張と崩壊』 吉川弘文館 1997年


「戦争は、軍事力が存在すれば自然に起こるものではない。戦争は、決して「突然に」起こるものではなく、必ず国家の政策の延長、対立の帰結として起こるのである。しかしながら、軍事力の膨張が、国家を戦争へと傾斜させたり、無謀な政策を生み出す原因となることもまた確かなことである。それは、日本近代の歴史から学ぶ重要な教訓の一つである。」(「はじめに」より)

5) 佐藤卓己 『大衆はどう国民化されたのか――世論のメディア史――』 清水書院 2025年

佐藤卓己 『大衆はどう国民化されたのか――世論のメディア史――』 清水書院 2025年
佐藤卓己 『大衆はどう国民化されたのか――世論のメディア史――』 清水書院 2025年

著者はホブズボームの近現代の時代区分を利用して、長い19世紀(1789年から1914年まで)、短い20世紀(1914年から1989年まで)、長い21世紀(1989年以降)に分け、長い19世紀を通して、近代化による市民的公共性が重視される市民社会が形成されたとする。その社会において民意は主に新聞を媒体とする輿論よろんの時代であり、大衆的公共性が重視される大衆社会が形成された。その民意はまずラジオ、次いでテレビによる世論せろんであり、結果として大衆が国民化されていった。長い21世紀はグローバル化の時代であり、私民的公共性を重視する私民社会 が形成されつつある。ここでの民意はインターネットを媒体とする世情せじょう(collective emotion)であり、国民は流民化しつつあるという。

単に日中戦争やアジア・太平洋戦争だけではなく、現代の課題を問うている。

6) 熊本史雄 『外務官僚たちの大東亜共栄圏』 新潮選書 2025年

熊本史雄 『外務官僚たちの大東亜共栄圏』 新潮選書 2025年
熊本史雄 『外務官僚たちの大東亜共栄圏』 新潮選書 2025年


「重光が守島に依頼して書かせたその電報は、結局のところ、一九三四年四月一三日に、外務大臣の広田弘毅から在中国公使の有吉明に宛てて、「第一〇九号電」として発せられた。実は、この「第一〇九号電」は、いわゆる「ワシントン体制」に対して協調的だったそれまでの方針からの転機を表明した、日本外交史上重要な電報である。その内容は、「東亜モンロー主義」と形容されるように、「東亜に於ける平和秩序の維持は自己の責任に於て単独に之を遂行すること」を「当然の帰結」として、財政的援助や技術支援といった、他の列国による中国への「共同動作」を強く牽制するものだった。・・・留意すべきは、従来の日本の外交方針には、そうした対英米協調主義のほかに、もうひとつの重要な命題があった点である。それは、満蒙権益の拡張・確保・維持である。・・・この二つの課題の両立は、非常なる困難を伴った。」(序章より)

7) 小野圭司 『太平洋戦争と銀行 なぜ日本は「無謀な戦争」ができたのか』 講談社現代新書 2025年

小野圭司 『太平洋戦争と銀行 なぜ日本は「無謀な戦争」ができたのか』 講談社現代新書 2025年
小野圭司 『太平洋戦争と銀行 なぜ日本は「無謀な戦争」ができたのか』 講談社現代新書 2025年


本書で主に取り扱われている銀行は、1897年に創立された台湾銀行、1909年に韓国銀行として創立され、翌年に改称した朝鮮銀行、そして1880年に開業し、1887年に特殊銀行となった横浜正金銀行である。台湾銀行は台湾の中央銀行として台湾銀行券を発行する一方、商業銀行として一般企業への融資を行っていた。また正金銀行および海軍との協力関係を強め、中国南部や東南アジアで店舗網を展開した。朝鮮銀行も朝鮮銀行券を発行しながら、満州、シベリア、樺太、そして中国北部に営業を展開した。正金銀行は、日本にとっては外国銀行を介さずに貿易決済を行う仕組みであった。正金銀行は欧米のほか、中国大陸、朝鮮、台湾、東南アジアなどに支店を拡充し、日本の大陸政策や植民地経済、軍事占領地運営と深くかかわった。たとえば台湾銀行は1945年1月の時点でも、フィリピンにおいてマニラ支店を始め、8か所に支店を構えて、営業をしていた。それぞれの銀行がその特性を駆使して、戦争遂行に不可欠な力を発揮していた。

8) 坂本慎一 『ラジオの戦争責任』 法蔵館 2022年

坂本慎一 『ラジオの戦争責任』 法蔵館 2022年
坂本慎一 『ラジオの戦争責任』 法蔵館 2022年


「戦前のラジオ放送は、日本放送協会による第一放送と第二放送しかなかった。・・・戦争のさなか、日本最大の発行部数を誇っていた朝日新聞が約370万部であったのに対して、ラジオ受信契約者は最大で750万人に達していた。さらにラジオは新聞と異なり、一台の受信機が発する音を多くの人が聞いていた。・・・多くの国民にとって真珠湾攻撃を知ったのはラジオであり、戦争の終結を自覚したのは玉音放送であった。太平洋戦争はラジオに始まり、ラジオに終わった戦争であった。」(「まえがき」より)

戦争責任 戦後責任

9) 東郷和彦 波多野澄雄 編 『歴史問題ハンドブック』 岩波現代全書 2015年

東郷和彦 波多野澄雄 編 『歴史問題ハンドブック』 岩波現代全書 2015年
東郷和彦 波多野澄雄 編 『歴史問題ハンドブック』 岩波現代全書 2015年

40余りのテーマを28人が執筆している。全体で288ページなので、一つのテーマが平均7ページと簡潔にまとめられている。相互に矛盾している点もいくつもあるが、基本的な参考文献も紹介されているので、まず紐解くことをお勧めする。

10) 高橋哲哉 三牧聖子 須藤輝彦 伊達聖伸 『もうひとつの戦後80年:「終わりと始まり」の1995年から考える』 岩波ブックレット 2026年

高橋哲哉 三牧聖子 須藤輝彦 伊達聖伸 『もうひとつの戦後80年:「終わりと始まり」の1995年から考える』 岩波ブックレット 2026年
高橋哲哉 三牧聖子 須藤輝彦 伊達聖伸 『もうひとつの戦後80年:「終わりと始まり」の1995年から考える』 岩波ブックレット 2026年

「1995年当時は、「自国の負の歴史を見据える」ことは重要だ、そうした認識がかなり共有されていたのではないでしょうか。自国の負の歴史を見据え、見過ごされてきた犠牲者や被害を探究し続けることには終わりがない。この終わりのないプロセスを続けていくのだという意気込みや機運が、確かにあったと思います。アメリカでも1988年、レーガン大統領が、第二次世界大戦中に行われた日系人の強制収容所に関して謝罪し、補償に乗り出しました。・・・その頃のアメリカにも、一人ひとり、失われた正義や権利は回復されなければならない、そういう雰囲気がありました。今年(2025年)1月に発足したトランプ政権第二期目のアメリカは、真逆の方向に向かっています。」(クロストークの三牧発言より)

11) 早川紀代 編 『植民地と戦争責任』 吉川弘文館 2005年

早川紀代 編 『植民地と戦争責任』 吉川弘文館 2005年
早川紀代 編 『植民地と戦争責任』 吉川弘文館 2005年


『戦争・暴力と女性』全3巻は、第一巻西村汎子編『いくさの中の女たち』(古代から幕末までの戦の中の女たちを扱う)、第二巻早川紀代編『軍国の女たち』(日清戦争以降の歴史の中での女たちを扱う)と本書で構成されている。第二巻もお薦めする。

「被害の実相、たとえば被爆や空爆の実相を究明することは自己の人間としての尊厳を自覚することである。同時に加害の実相を究明することは、加害をあたえた人びとの尊厳を回復することであり、再発防止の行動につながる。そしてこの過程は・・・加害の国の人間の人としての存在の自覚をふかめる過程である。異なる民族、人種、宗教に属する人間間の、植民地帝国と被植民地の差別観に基づく残虐行為の再発を防ぐ行為は、人間の尊厳の回復の作業すなわち人類史の今日の段階における正義の実現にあるのではないだろうか。」(「九 戦争責任のはたし方」より)

12) 山田 朗 『日本の戦争Ⅲ 天皇と戦争責任』 新日本出版社 2019年

山田 朗 『日本の戦争Ⅲ 天皇と戦争責任』 新日本出版社 2019年
山田 朗 『日本の戦争Ⅲ 天皇と戦争責任』 新日本出版社 2019年

山田朗『日本の戦争 歴史認識と戦争責任』(同上 2017年)および『日本の戦争Ⅱ 暴走の本質』(同上 2018年)と並んで学術レベルが高い。三冊ともにお薦めする。

「昭和天皇は、国家意思形成、とりわけ軍事戦略・作戦の決定に際して、しばしば重大な役割を果たしてきた。昭和天皇は、陸海軍から量・質ともに当時としては最高レベルの軍事情報を毎日「戦況上奏」として提供されていたし、その情報が意味するところを理解し、軍がとるべき手段について独自に検討する軍事的知識と能力を有していた。国家意思の発動、とりわけ軍の機関意志の発動としての戦略・作戦の決定に天皇は、随所で様々なレベルの影響を与えた。・・・責任というものが、意思決定への影響の度合いから生じるものであるとすれば、天皇は個人責任を負いつつ、国家責任の成立に重大な役割を果たしたと言える。」(第七章より)

13) 野田正彰 『戦争と罪責』 岩波現代文庫 1998年

野田正彰 『戦争と罪責』 岩波現代文庫 1998年
野田正彰 『戦争と罪責』 岩波現代文庫 1998年


著者の専攻は、比較文化精神医学である。その立場から、中国戦線におけるが生体実験や「ウサギ狩り」(山東省などでの中国人強制連行)などに関わった日本軍将兵の内面を探る。

「戦争は今も続いている。第二次大戦という文明が到達した残虐の極限で、生き残った者は何を体験したか、調べることも、分析することも、反省することもないまま、生存がすべて、物質的豊かさこそ幸せ、経済学こそは社会科学と信じて私たちは生きてきた。・・・過去の負の遺産は、会社人間、中高年の抑鬱者の蔓延、自閉化する子供たちとして表れている。いかに感情を豊かにするか、コミュニケーションに喜びを感じられるようになるか、それは悲惨な大戦を体験した国民が共に直面する重要な問題である。被害者において最もその精神は傷ついているが、他方、加害者の心も病的に強張っている。・・・この問題の前では、戦前、戦中の世代だけではなく、戦後生まれの二世、三世日本人も生き残った者に他ならない。」(第16章より)

14) 金 富子(キム プジ) 『継続する植民地主義とジェンダー:「国民」概念 / 女性の身体 / 記憶と責任』 世織書店 2011年

金 富子 『継続する植民地主義とジェンダー:「国民」概念 / 女性の身体 / 記憶と責任』 世織書店 2011年
金 富子 『継続する植民地主義とジェンダー:「国民」概念 / 女性の身体 / 記憶と責任』 世織書店 2011年

「大日本帝国は「国民国家」であると同時に多くの植民地をかかえた「植民地帝国」であったし、日本国になっても「植民地帝国」の歴史的産物である在日朝鮮人・台湾人が日本社会を構成していた・・・。本書が強調したいのは、近現代日本の「臣民/国民」化プロジェクトを読み解くために、<ジェンダー>のみならず<民族>という少なくとも両カテゴリーをふまえた視点をもちつつ、さらに両者の輻輳性・相互構築性を分析する必要があるということである。」(まえがきより)

15) 池田香代子 編 『花岡の心を受け継ぐ 大館市が中国人犠牲者を慰霊し続ける理由』 かもがわ出版 2021年

池田香代子 編 『花岡の心を受け継ぐ 大館市が中国人犠牲者を慰霊し続ける理由』 かもがわ出版 2021年
池田香代子 編 『花岡の心を受け継ぐ 大館市が中国人犠牲者を慰霊し続ける理由』 かもがわ出版 2021年

花岡事件自体については、野添憲治『花岡事件を追う 中国人強制連行の責任を問い直す』(御茶の水書房、1996年)が詳しい。1944年から45年にかけて、中国人986人が花岡鉱山に連れられてきた。土木部門を請け負った鹿島組(現:鹿島建設)のもとで過酷な労働と劣悪な生活環境を強いられ、45年6月30日に一斉に蜂起して脱走した。全員が捕まり拷問を受け、282人が殺害された。80年代末に被害者と企業との交渉が始まり、90年に鹿島建設は企業としての責任を認めた。賠償については97年の一審において「原告の請求権棄却」となるが、2000年東京高裁において和解が成立した。本書は、その後の行政の取り組みに焦点を当てている。

戦争と宗教

16) 三好千春 『時の階段を下りながら  近現代日本カトリック教会史序説』 オリエンス宗教研究所 2021年

三好千春 『時の階段を下りながら  近現代日本カトリック教会史序説』 オリエンス宗教研究所 2021年
三好千春 『時の階段を下りながら  近現代日本カトリック教会史序説』 オリエンス宗教研究所 2021年

「(戦前の)教会が言う愛国心は、まさにパトリオティズムです。パトリオティズムは、その中に「パトリ」=郷土という言葉が含まれているように、「自分のパトリ=郷土=国を愛し、その発展を願い、これに奉仕する態度」といえます。それなら「忠君愛国」の「愛国」も 問題ないようですが、厄介なことに、このパトリオティズムは、しばしばナショナリズムと結びつき、混じり合い、混同されます。・・・ナショナリズムは「権力志向」と切り離せない、国家や組織のために「より強大な権力、より強大な威信」の獲得を目指すもので、政治的信念やイデオロギーと関係が深く、自民族中心主義や排外主義と結びつきやすい・・・。日本で叫ばれた「忠君愛国」では、愛国心の形成論理が天皇への忠義に限定されていました。それ以外のもの、例えば郷土とか、文化とか、「公共の自由に対する愛」などに基づいては、愛国心が形成できない仕組みになっていたのです。これは、「愛国」がパトリオティズムよりナショナリズムに基づくものであることを示唆します。・・・社会で語られていた「愛国」「愛国心」には・・・他民族への憎悪や他民族の優越をあおったり、夜郎自大な傲慢を増長したりするものがいろいろと含まれていたのです。」(15 カトリック教会と「忠君愛国」より)

17) 日本カトリック司教協議会 社会司教委員会 編 『信教の自由と政教分離』 カトリック中央協議会 2007年

日本カトリック司教協議会 社会司教委員会 編 『信教の自由と政教分離』 カトリック中央協議会 2007年
日本カトリック司教協議会 社会司教委員会 編 『信教の自由と政教分離』 カトリック中央協議会 2007年


この本に記載されている司教団メッセージは、2005年に自由民主党が発表した「自民党新憲法草案」(現憲法二十条三項「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」を「国及び公共団体は、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超える宗教教育その他の宗教的活動であって、宗教的意義を有し、特定の宗教に対する援助、助長若しくは促進又は圧迫若しくは干渉となるようなものを行ってはならない。」に変更しようとした)に対応する内容である。憲法改定の動きがある昨今、信仰を持つ者が考える拠点を示してくれる。

2025年6月17日付で出された、戦後80年司教団メッセージ『平和を紡ぐ旅 希望を携えて』はカトリック中央協議会HPで是非読んでいただきたい。

18) 島薗 進 『国家神道と日本人』 岩波新書 2010年

島薗 進 『国家神道と日本人』 岩波新書 2010年
島薗 進 『国家神道と日本人』 岩波新書 2010年


「国家神道の制度的基体となった「大日本帝国憲法」や「教育勅語」・・・この両者こそ、国家神道の、したがって近代的な祭政一致の確立を画すものである。」(第一章より)
「神社神道は明治維新後、国家機関(国家祭祀の機関)として制度的に位置づけられ、皇室祭祀を核に構成されていき、次第に国家神道の重要な担い手となっていった。」(第二章より)
「戦後の国家神道は二つの明確な座をもっていた。一つは皇室祭祀であり、もう一つは神社本庁などの民間団体を担い手とする天皇崇敬運動である。前者は見えにくい形で隠れているが現在の法制度の中で国家神道の核であり、後者はその核を見据えつつ国家神道的な制度を拡充していこうとする団体や運動体である。・・・これらに支えられつつ、国家神道は戦後も存続し続けて今日に至っているのだ。」(第五章より)

19) 赤澤史朗 『靖国神社――「殉国」と「平和」をめぐる戦後史』 岩波現代文庫 2017年

赤澤史朗 『靖国神社――「殉国」と「平和」をめぐる戦後史』 岩波現代文庫 2017年
赤澤史朗 『靖国神社――「殉国」と「平和」をめぐる戦後史』 岩波現代文庫 2017年


「靖国神社への首相の「公式参拝」を求める靖国神社や日本遺族会などは、自分たちは、「国のために死んだ者を国がまつるのが当然だ」という、しごく単純な、誰にでも分かりやすい要求をしているに過ぎないと主張している。・・・しかし「国のために死んだ者」とは誰のことだろうか。靖国神社の祭神は、全ての日本人戦没者を含んでいるわけではない。多くに一般民間人戦没者は除外されている。・・・もし望まない死を迎えた者こそ本当の犠牲者だと考えれば、そこで「慰霊」追悼されるべき対象は国の枠を超えて、日本人犠牲者のみに止まらなくなってくるだろう。そしてそこでは国家による「慰霊」顕彰ではなく、むしろ国家の謝罪に基づく追悼こそが求められるかもしれない。また戦前は靖国神社は国営で、そこに祀られる英霊は天皇陛下の裁可によるものなのだから、遺族はその決定を受け入れる以外はなかったといえよう。しかし戦後は神社は国営でなくなり、靖国神社も特別な由緒を持つとはいえ、今は民間の一神社に過ぎない。靖国神社が神社としての信教の自由に基づいて、遺族の了承なしに戦没者を英霊として祀るのは、行き過ぎではないのか。・・・今日の靖国神社や日本遺族会側が、過去の日本の戦争を肯定する戦争観に立脚していることは間違いない。・・・靖国神社問題のもう一つの争点は、いうまでもなく信教の自由をめぐる問題である。・・・靖国神社への首相・閣僚の参拝は、これまでも私的参拝としておこなわれてきたが、参拝に際し大臣の職名を記帳するなど、公式参拝との区別はハッキリしない。この首相・閣僚の靖国神社への参拝問題では、今日の日本国憲法の規定をより緩やかな政教分離規定に改正すべきだという、二〇一二年四月の自民党憲法改正草案が提案されている。」(はじめにより)

「第二次世界大戦後においても靖国神社は、十五年戦争期の戦没者を合祀することによって、日本の戦没者を「慰霊」する最大の施設であり続けた。しかしそれが戦前と同じ意義や比重で戦没者の「慰霊」の国家的な中心であり続けることは、できなかったのである。それは敗戦という事態の中で、戦没者の死の意味を一義的に限定し、国民的な合意を調達することが困難になったためである。このことは何より戦没者の「慰霊」追悼が、靖国神社のみに集中することなく、緩やかに分散されるようになったことに示されている。「慰霊」追悼の分散を示すのは、広島の原爆慰霊碑や沖縄の平和の礎を始めとする、自治体によって建設された公的追悼施設の存在である。戦後には平和主義を前面に掲げ、その追悼の対象・範囲も靖国神社とは異なる、特定に宗教にとらわれない戦没者の「慰霊」追悼の施設が、新たに登場してきたのである。それらの追悼対象は、むろん地域的なものに止まっている。しかしそこでは追悼の対象には、靖国神社に合祀されず補償もされていない民間人や旧敵国人なども含まれているのである。つまり地域的な狭さにもかかわらず、その追悼にあっては戦没者の身分や国籍・資格による選別の契機が弱く、かえって人類・世界に連なる広さを持っているのである。」(おわりにより)

戦争とトラウマ

20) 蟻塚亮二 黒井秋夫 『戦争トラウマを生きる : 語られなかった日本とアジアの戦争被害、傷ついたものがつくる平和』 泉町書房 2025年

蟻塚亮二 黒井秋夫 『戦争トラウマを生きる : 語られなかった日本とアジアの戦争被害、傷ついたものがつくる平和』 泉町書房 2025年
蟻塚亮二 黒井秋夫 『戦争トラウマを生きる : 語られなかった日本とアジアの戦争被害、傷ついたものがつくる平和』 泉町書房 2025年


痛みを知る側から社会変革の可能性を探す対談集。黒井は、史上初めてPTSD日本兵の家族会を作った。心を病みながら戦後を過ごし、時には家族に暴力を振るい、社会に適応できずに生きた元日本兵士の存在を明らかにした。また黒井は仲間とともに、日本の侵略・植民地化について、韓国や中国で謝罪活動を展開している。もう一人の著者・蟻塚は沖縄・福島で戦争・原発事故のトラウマ治療に取り組んできた精神科医である。

両親が戦争トラウマを抱えて生きた著者二人が、苦難に満ちた自分と家族の戦後の歩み、兵士や戦争被害のPTSDを語り、今も続く戦争の真の残酷な姿を明らかにする。後半はこの二人が韓国の社会学者・鄭暎惠(チョン・ヨンヘ)、中国の歴史学者・李素楨(リ・ソテイ)、沖縄の対馬丸記念館館長・平良次子と対談した内容であり、国家による被害を受けた民衆同士の連携と赦しを模索する。

21) 竹島 正 森 茂起 中村江里 編 『戦争と文化的トラウマ 日本における第二次世界大戦の懲戒的影響』 日本評論社 2023年

竹島 正 森 茂起 中村江里 編 『戦争と文化的トラウマ 日本における第二次世界大戦の懲戒的影響』 日本評論社 2023年
竹島 正 森 茂起 中村江里 編 『戦争と文化的トラウマ 日本における第二次世界大戦の懲戒的影響』 日本評論社 2023年


本書は、2021年に5回にわたって開催された「日本における第二次世界大戦の長期的影響に関する学際シンポジウム」での発表内容に基づいている。

「戦争の遂行には、国家という共同体を動かすための単一の物語を必要とするのではないかと私は推察する。かつてこの国の権力は「天皇の国」という神話を生きるように人々に命じた。その時代の若年者たちは、そのリアリティのない物語を懸命に生きようとして、次世代にも影響を及ぼすほどの、深い傷を負った。この戦争をトラウマという言葉で捉え返そうとするこのシンポジウムは、その物語がどのように人々から彼ら自身の物語を奪ったかを明らかにしようとしているのではないか。心的外傷という科学は、どこまで人びとが思い思いに自身の物語を語るのを許すのだろうか。私はどこまで私自身の物語を語りうるのだろうか。」(第21章より)

「多くの場合、正義と補償のプロセスが必要だと私は思います。しかし、被害者が憎悪に駆られ報復の願望で麻痺状態にならないために、そして加害者が罪悪感と恥の感覚に押しつぶされて、何かが起きたこと事態を否認して麻痺状態に陥らないためには、双方の側に一定程度の癒しが必要と考えます。加害者は一定の癒しを得て初めて自分の行為の罪を認められます。同様に、被害者は一定の癒しを得て初めて、加害者の言うことを聞く用意ができ、根深い報復感情を手放すことができます。罪を認めることができる加害者は自身のなかに新たな強さを見出すでしょう。加害者の耐え難い痛みと苦しみを認める強さです。自身の痛みと苦しみを加害者が認める被害者もまた、新たな強さを得るでしょう。もしかすると赦す力を獲得できるかもしれません。赦しは加害者にとっても被害者にとっても癒しとなり得ます。」(第24章より)

最後の一冊

22) 中川成美 『戦争をよむ 70冊の小説案内』 岩波新書 2017年

中川成美 『戦争をよむ 70冊の小説案内』 岩波新書 2017年
中川成美 『戦争をよむ 70冊の小説案内』 岩波新書 2017年

目次

第1章 戦時風景
火野葦平『麦と兵隊』 / 野間宏『顔の中の赤い月』 /安部公房『変形の記録』 など
第2章 女性たちの戦争
角田光代『笹の舟で海をわたる』 /宮田文子『ゲシュタポ』 など
第3章 植民地で起こった戦争は
梶山季之『族譜』 /バオ・ニン『戦争の悲しみ』 など
第4章 周縁に生きる
松本清張『遠い接近』 /東峰夫『オキナワの少年』 / フェデリコ・ガルシーア・ロルカ『ジプシー歌集』 など
第5章 戦争責任を問う
ドルトン・トランボ『ジョニーは戦争に行った』 / 中野重治『五勺の酒』 / ノーマ・フィールド『天皇の逝く国で』 など
終章 いまここにある戦争
ジョージ・オーウェル『一九八四年』 / 笹野頼子『姫と戦争と「庭の雀」』 など

学術書を読むことは歴史を知る基本であるが、歴史書を読み込み、史実を活かした小説も歴史理解に欠かせない。まずは一冊、気になる作家の作品を紐解かれてはいかがでしょう。