日本被団協・田中熙巳さん講演会 「核兵器は悪魔の道具」
要約・文責 編集部
――第11回目となる核兵器不拡散条約(NPT)再検討会議がニューヨークで開催されている真っ最中の2026年5月9日、ノーベル平和賞を2024年に受賞した日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)代表委員の田中熙巳さんの講演会を麹町聖イグナチオ教会にて行った。以下は田中さんの発言要旨である。

1.はじめに~NPT再検討会議と世界の核兵器~
田中熙巳でございます。1932年生まれですので、94歳になりました。
五年ごとに行われているNPT再検討会議の第11回目が、今、大変な状況の中で開かれています。核兵器を持っている五か国(米・露・仏・英・中)以外には核兵器は持たせないというのが核兵器不拡散条約なわけですけれども、それがどういうふうに守られているかをチェックしていくのが再検討会議です。ところがその五か国に入っている超核大国のアメリカとロシアが、核兵器を使うぞと脅かしてみたり、核兵器を持っていない国に対して先制攻撃をしてみたり。プーチンさんにしてもトランプさんにしても、どうもお二人とも変わった人で、下手すると核兵器を使うということがどこかで起こるかもしれない、という状態にあります。
再検討会議は四週間で、終わるときに合意文書を作ります。参加国全体の全会一致でないとその文書は採択されなかったことになりますが、2015年の時と2022年の時と二回とも合意できずに流れています。だから今回はどうしても採択、合意させて来てもらいたいと思っているんですけれども、ロシアと今のアメリカの関係だとそれは大変難しい。もし三回連続して合意ができなかったら、条約の値打ちそのものが失われてしまうんじゃないかと言われています。
その重要な役割を今担っているのが、日本出身の軍縮担当の事務次長、中満泉さんです。原案は出て、今いろんな最終の議論がやられていますけれども、何らかの格好で最後の一週間も頑張って採択ができれば一番と思っております。
核兵器は五か国が持っているとなっているんですけれども、条約に参加しないで――参加しなければ拘束は受けませんから――持っている国が、インド、パキスタン、イスラエル、北朝鮮の四か国。ですから、実際に核兵器を持っている九か国の核兵器がどのように使われるか、非常に危険な状況にあります。
その中でも、ロシアとアメリカが大体5千発ずつ、両方で約1万発持っています。全体で1万2千発が地球上にあるだろうと言われていますので、あとの2千発を残りの国が持っているんですが、250発~300発しか持っていなかった中国が、去年から今年にかけて急速に増やしてきているようです。
日本が中国の危険をあおり立てて、台湾の周りをアメリカと固めていこうとすると――私はある意味で脅迫だと思っていますが――、中国は自分たちが狙われている、アメリカの核に攻められるかもしれないという恐怖を感じ始めていると思います。
だから、どういう条件でそれが発射されるか分かりません。もう声が出る限り、核兵器を使わせない、使っていけないと――核兵器禁止条約(TPNW)はもうできておりますから、条約をみんなに守らせよう、加盟しない国には加盟させようということも――、言い続けていくのが大事ではないかなと思っております。
2.ノーベル平和賞の受賞
日本被団協はノーベル平和賞を一昨年(2024年)受賞したんですけど、私どもはまったく予想しておりませんでした。実は過去にも数回、有力候補とみなされていた時がありましたが、いずれも受賞を逃していました。ちなみに、候補に挙がっていた1985年には核戦争防止国際医師会議(IPPNW)が、1995年にはパグウォッシュ会議が、2005年にはあろうことか国際原子力機関(IAEA)がそれぞれ受賞しました。
2017年に核兵器禁止条約が採択されましたが、その条約を作らせるのに一番力を尽くした核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)という組織が平和賞を受賞しました。日本被団協はもっと早くから結成されて今年は70周年になります。結成された頃から核兵器は廃絶しなくちゃいけないって言い続けてきていますので、条約成立のための大貢献者だったはずなんです。
ところが、2017年のICANの受賞の時には、日本被団協の「に」の字も言ってくれないんです。それほど評価されていないとしたら、いろいろ理由があるんであって、もう無理だと。日本被団協っていうのは、各県の原爆被害者――“被爆者”だけじゃなく――が集まって作っている会の協議会ですから、もう生きている人が少なくなってきています。平和賞は生きている人じゃないとあげられないから、もう対象にもならず無理だろうと思っておりましたので、一昨年の受賞の発表は、突然でした。
突然、予告もしないでくれるなんてどういうことなんだろうかと、ふと考えると、まだアメリカのイラン攻撃はなかったですけれども、ロシアのウクライナ攻撃が延々と続いている状況で、しかも核兵器を使うこともあるぞと何回か脅していました。だから、国際的に非常に危険な状況に入ってきているとノーベル委員会が痛切に感じたんだと思います。何とかしないといけない。でもここに来て何とかできるのはもう被爆者しかいない、ということにたどり着いて、急遽、日本被団協を受賞者にしたのではないかと思います。
私たちも、ロシアがウクライナの攻撃を少しでも緩めたりやめたりしてくれればいいと期待をしました。そのために国際的に頑張ろうと思って、一昨年から去年にかけて一生懸命説いて回っていたんですけれども、アメリカがイランを先制攻撃して、どうもいろいろな面で怪しくなってきて、ずっと複雑になっちゃいましたね。
となると簡単に、被団協だけが頑張ったって大したことはできない。これはもう世界中の市民が本当に一本になって、核兵器を使ってはいけないんだと、核兵器はなくさないといけないんだという大運動を、政治の指導者に訴えていくということをしないと危ない時にあるんじゃないかと思います。
ところが、日本も活発ではないんですね。日本も複雑になってきました。去年の暮れから内閣の姿がだいぶ変わりました。いろんな難しい点ができて、日本のこれからの未来のことに関して、ちゃんとしていかなくてはいけない課題も私たちにいっぱい背負わせられましたから、なかなか核兵器だけを言ってはおれないという状況で大変なんですけれども、それでもやっぱり「核兵器をなくす」ということを第一番目にして頑張っていただきたいなと思っています。
3.「核抑止力」という欺瞞
相手の国が戦争を始めるのを核兵器で抑える「核抑止力」というのは必要であると、今、核兵器を持っている国はみんなそう言います。日本は核兵器を持っていないくせに、アメリカの核兵器で守ってもらっているから、核抑止力が有効だ、どうしても必要だというふうに言います。政府によいしょする国際法の偉い学者先生たちもそう言います。
でも、被爆者たちは抑止力なんてありえない。「使わない兵器をもって“抑止力”って言うかい?」と言うのが被爆者です。「“抑止力”と言う限りは、何かあった時にはやっぱり使うぞということでしょ?」と。あるいは何かなくても使うぞという意味もあります。だから使うことは前提であると。核兵器を使ったらどういうことになるか、とりわけ日本の人たちは知っているはずではないかと被爆者たちは思っています。だから日本で核抑止力が幅を利かせているということは、私たち被爆者にとっては考えられないことです。
核兵器で抑止すると言いますが、核兵器っていうのはどういう兵器ですか? もうあれは兵器でありませんよ。広島と長崎で使った原子爆弾は、どういう破壊をもたらしましたか? 都市を一発が壊滅させました。それから、――広島のように14万の人を、長崎の場合は7万3千人を――何万人という人を一発の爆弾で殺しているんですよ。
その殺す兵器を、兵器だから戦争に使ってもいいと考えるとはどういうことなんだろうかと、私はこの頃特に考え込んでしまって。だからもう「兵器」と言わない。あれは「凶器」だと。人間は使いたくはないだろう。悪魔が使う。だから、「核兵器は悪魔の道具」だと。悪魔の道具をもって国を守ろうという考え方が、国際関係上成り立つんですか?ということを、これから大きな声で言っていく。
だから、核兵器を使う人は殺人犯人です。発射した人が犯人になるのか、命令した人が犯人になるのか、総理大臣が犯人になるのか、あるいは全体が責任を負わなくてはいけない犯人になるかも分かりませんけど、何万人を殺した凶器を使った犯人というのが、核兵器を使った政治家たちに、あるいはそれを支持した国民におぶさってくるんじゃないか。それぐらいの中身のあるのが核兵器であるし、広島や長崎の人たちからすれば原子爆弾だったよということを、もっともっと声を大きくしていかなくちゃいけないと思っているのです。
4.戦中の少年時代
敗戦時、私は中学校一年生だったんですけれど、小学校に入ったのが昭和14年(1939年)ですから、まだ大東亜戦争にはなっていませんでした。私は満州に生まれたんですが、満州はもうその前の昭和6年(1931年)に侵攻してますんで、中国を多少侵略していたんですけれども、「中国戦争」は昭和12年(1937年)に始まっています。
それが五年の間に、もう世界の大戦争になって。日本は、最初は東南アジアを侵略・占領しちゃったんですけれども、やがてそれが全部連合軍に奪い返されて、日本の軍隊はどんどん後退していった。私が1945年の4月に中学校に入った時には、沖縄に米軍が上陸します。勉強するためにみんな中学校に入ったんですが、4月からもう授業どころではない。ほとんど毎日のように労働です。今考えるとかわいそうですね。今、13歳くらいの子どもを見ると、ちっちゃいですし、かわいいなって思いますが、あの時に僕らは戦争やる気でいたんだから大変なことだったんだなと思います。
その12~13歳の子どもたちは、もっぱら戦争のための労働をやる。もう少し上の三~五年生は、みんな朝から工場へ行く。完全な労働者なんですね。道具を持って、泥まみれ、油まみれで工作をする。で、夜はうちに帰ってくる。学校なんか、いもしないわけですね。毎日毎日それを続けている。そういう状況にまでもうなっていたわけです。
今、ウクライナは四年も経っているんですね。それから比べると、三年であそこまで行くあの戦争って何だったの?って思うんですけれども、今でもその気になれば三年も二年も経たなくて壊滅させることができるような戦争は可能なんだよね。それがまず、やってはいけない、やらせてはいけない、とにかく早くやめさせないといけないなと思っております。
そういう状況の中で、日本の都市部は壊滅します。東京以外の大阪も名古屋も福岡も神戸も、みんな空襲で壊滅して、もう町がなかったっていうことを意外と知らない学生さんたちもいるんですよね。そういう教育はやっぱりちゃんとしなくてはいけなかった。
近代の戦争はそこまでいく。私が小学校に入った時の戦争は、鉄砲で撃ち合う。機関銃がやっとできたという時代です。その三年後に爆撃機ができて、さらに原子爆弾ができて。都市を壊滅するし、何万人の市民を殺すような兵器ができて、それがある意味で戦争の「進歩」だった。
そういう変わり方をしておりますので、第二次世界大戦が終わった段階で、もう人類は戦争はしてはいけないというふうに、本当は気が付いたはずなんですよ。だから国連というのもそういう感じで――戦勝国の五か国が常任理事国になっていますが――できあがった。とにかく今のロシアにしてもアメリカにしても、先制攻撃をして、核兵器を使うなんて脅しているのは国連憲章にも反しています。自分たちが常任理事国に入って、拒否権を持っている国が、真っ先に悪いことをやっているわけ。だからその国連も、国連のもとでのNPTも大変だと思いますけれども、とにかく私たちが頑張って、悪い方向に行かないようにしないといけないと思っています。
5.長崎での被爆体験(1945年8月9日)
田中さんの被爆体験を聞いたことないんですよっていう人も多いもんですから、ちょっとだけ話します。
原爆の後も、長崎は壊滅しておりませんでした。広島も壊滅はしていません。原爆の影響を見るために残された町だったかもしれません。広島の場合は8月6日で、それから長崎の場合は三日後の9日です。
6日に広島で新型爆弾が投下されたという報道はありました。だけど、その結果どうだということはほとんど書いてありません。だからそれが長崎に来るというふうに私は思いもよりませんでした。
9日の朝早く8時頃、空襲警報が出ましたが、あっという間に解除されました。解除された次は警戒警報の状態。警戒警報がなかなか解けない。長崎に爆弾を落としたB29の三機編隊は、最初の目標である北九州の小倉に行っているんです。でも、小倉は光が見えなくて、目標が確認できなかった。それで、時間を費やして、第二の目標である長崎に来ているもんですから、時間的にもちょっと変な時間でした。
もう突然、一機の爆音が私には聞こえたんですけれども、何で一機で来るんだろう、迷子になったのか、偵察して帰るのかな、と思った直後に、パァーっと光ります。これはもう、そういう状況を体験していただかないと分からないんですけれど、世の中が一瞬にして、音もなく真っ白になりました。最も直下の人は光と一緒に音が届くぐらいだったかもしれません。けれども、私のところは3.2キロありましたので――光の速度と風の速度はだいぶ違いますから――遅れて爆風が来ています。
私はその瞬間、うちの二階にいたんですけれど、これは大変なことが起こったと思って二階から駆け下りて、目と耳を抑えて畳に伏せた。その直後、うちを潰すほどの威力はなかったんですけれど、うちの中をバラバラにして家具やなんか吹き飛ばしていくような大きな爆風が通り抜けていった。その時いろんなものが伏せた背中の上を飛んでいったんですけれども、ガラス戸の大きいのが飛んできて、私の上に乗っかった。そのガラス戸が奇跡的に一枚も割れていなかった。私はそこで怪我もしないで助かったんですね。
原爆はご承知のように、まず熱線、光と熱ですね。これはもうぱっと光るだけ。それから、科学の進歩で初めてよく分かってきた放射線というのが出てきます。これもスピードが速いしエネルギーが高い。見えないです。それからその後に爆風が遅れて来ました。直下だと一瞬にして日本の木造の建物は潰されてしまった。
ですから、原爆の被害は同じような事情ですと同心円的に広がって、だんだん緩くなっていきます。広島はまさにそんな感じです。長崎は谷や山がたくさんありましたので、谷の上にいた人と、山の反対側にいた人とで被害がちょっと違いますので、被害の形はバラバラですけれども、直下にいた人たちはまさに広島と同じで、爆発した瞬間にぺちゃんこ。だから、そこで生活した人はそのまま下敷きで、直下の人は熱線が火をつけていますから、そこから火災になって、潰されたまま、生きたまま焼かれていった。直下地帯、一キロぐらいの範囲の人たちはそういう感じ。
かろうじて助かって、焼かれないで脱出できた人でも、近い人たちは生き残っても今度放射線を浴びる。放射線は見えませんから、やられているってことは、直後は知らないんです。助かったって喜んでいたら、1~2か月経って、わけの分からない高熱になって、それが放射線だということが分かって。で、年内のうちに命を奪われたという人たちはまだ何千人といるわけです。そういう人たちを集めると14万とか7万とかという数になるんです。原子爆弾の場合、一発で中心から周りに向けて緩やかな被害にしていきますけれども、直下は大変な状況になる。
広島は、私と同じ中学校一年生が5千人ぐらい全滅しているんです。中学校が十校ぐらいあるんですが、二、三年生はみんな工場やなんかに行くんですけど、広島も長崎と同じように、労働させたんですね。野外で建物を、延焼しないためにいっぱい壊したんです。その壊した建物を整理する作業をするため、広島の中学生はあの6日に全校集められたんです。広島の、しかも中心地近くに5~6千人です。だから全滅しております。その人たちの状況が一番悲惨です。シャツ一枚とか本当に薄い洋服しか着ていないのに、熱線が来ていますから、もうモロに皮膚が焼かれて。そのすぐ後に水ぶくれで皮膚がはげていきます。皮膚が体から離れてだらんとぶら下がって、そういう姿が、中心地の火傷をした人たちです。
簡単に言いますと、原子爆弾は一発で、熱線と放射線、それから爆風を出して、この三つのエネルギーで人間を何万人と殺す兵器です。やっぱり兵器じゃないんですよね。殺人の道具ですよね? いや、冷静に考えて、それを落とせという司令官は、その結果をちょっとでも頭に浮かべることがあるでしょうか? 自分が投下せよと命令した爆弾が下で何万人という人たちを苦しめて殺していくという状況を、その実行を命令したっていう自覚があるでしょうか? ないんでしょうね。自覚があればそんなことできないと思うけれども。だから、そういうことがあるということを、政治の指導者も、それから軍の指導者も分かってもらって、核兵器というのは絶対に使っちゃいけない、と思っていただきたい。
何よりも私たち被爆者は、もうそういう道具が戦争に使われるようになったわけですから、1万何千発もあるわけですから、もう戦争そのものをなくす、人類は戦争そのものをなくすという生物体になっていかないとダメですよね。それなのに今も80年前とあんまり変わらない状況になっている。民族で憎み合ってみたり、同じ国内でもいがみ合って、争ってみたり。70年前、80年前、90年前の状況がずっとどんどん悪くなって、あの戦争になっていったから。今の状況があの時とあんまり変わらないってことは、やっぱり大変なことです。だから、あの第二次世界大戦を人類はどれぐらい反省したのかなと。今から全員で、あの80年前の戦争がどういう経過で、どういう破壊までやったのかを知って、今それと同じ状況にあると気づいていくのがいいかなと思います。
6.封印された被爆者の声と被爆者運動
そういうことを被爆者は体験したんですけれども、七年間は連合軍の占領下に入るんです。このことをまだご存じない方はいっぱいいらっしゃるんです。占領軍が来たけど良い占領軍だったので、日本はすぐ民主的な国にしてもらったみたいに思っている人も結構いますからね。そうじゃないんですよ。七年間はアメリカの、あるいは連合軍の方針どおりに国は動かなければならなかった。政治的にはアメリカは民主的な経験をしている国でしたから、日本人が残虐なことをされるとかはなかったんですけれども、でも、好きなようにはできなかった。その七年間、原爆の被害を被爆者が口外してはいけなかった。被爆者は黙っていなければいけなかった。
だから原爆がどんなに悲惨なものかっていうのを分かって口にできるのは、広島と長崎に住んでいる人たちだけ。住んでいる人たちはお互いに仲間がいっぱいいますから、話し合いますが、広島・長崎を出て行ったり、周りに被爆者がほとんどいない人たちは、原爆ってこんななんですよとか、こんなに大変なんですよとか、何千人って人がバタバタ死んだんですよ、そういう死や姿を見たんですよ、そんなことを話すということは絶対やってはいけなかった。もし文章に書いたり喋ったりすれば、拘束されて、逮捕されるんですよね。そういう占領政策がある。そこが一番つらいところだった。
病気になってもそのことで助けを求めることができなかった。しかも放射線の病気っていうのは初めて分かることだらけですからね。X線の技師だとか関係のお医者さんなんかは知っていたけど、そうでない人たちは放射線っていうのがどういうのか、どういうエネルギーを持っているかを知らない。そういうので殺されていく人たちは、苦しみながらも、なんで自分が死んでいくのかが分からない。そういう時代が実は七年間あります。
その七年間も含めて、亡くなった人たち――14万人プラス7万人の21万人、プラス分からない死没者――はどういう人たちか、その人たちが原爆で殺されたということはどこにも記載されていないんです。だから原爆の犠牲者、被害者なんです。その人たちが何もされていない、国家補償がなされていない。死没者に対しては何もしていませんよ。
生き残った人間の病気については、お互いに話し合って助け合って、大きな全国運動をやって、国に法律を作らせて。いろんな健康診断をやってもらう。病気になると、病気代を少し安くしてもらう。ひどい病気は病気代を出してもらうとか、そういうことをずっと毎年毎年積み重ねていって、70年を迎えてきた。ですから、法律を二つ〔1957年の原爆医療法と1968年の原爆特措法〕作りました。
ただ死没者が入らないもんだから、「死亡者も入れろ」と言ったことによって、その二つを一緒にしちゃって、ごまかせの死没者の対策とか入れた。受賞スピーチで、三つ目の法律〔1994年の被爆者援護法〕ができたって言った後に、死没者に対しては何もやられていないってことを言ったのは、死没者を入れろという要求で三つ目の法律を作らせたのに、政府が最後の段階で、本当の補償を入れなかった。というのが、今日までの日本の政府であります。でも、生き延びることができた被爆者は国内の運動で一定の援護を受けることができた。
やっぱり核兵器をなくす、核兵器を使っちゃいけないっていうのは、被爆者たちはすぐ直後から言うわけですね。どういう覚悟で叫んできたかっていうことは、もう大きな声で言いだして。国際情勢もいろいろ複雑だったんですけれども、やっと国連の運動っていうのは落ち着いてきて、私たちも、やっぱり国連という場を通さないと、国際的ないろんな要求は通っていかないということも分かってきました。国連の機会を通して、原爆の七年間話していけなかったことをぶつけていけないかということを考え始めまして。最初に取りかかったのが、今11回目を迎えたNPT再検討会議。
NPT(核不拡散条約)が1970年に発効し、再検討会議がそこから始まる。2000年の再検討会議の時に初めて、ちょっとだけ発言させてもらったんです。で、次は五年後の2005年の時には、日本被団協の代表が、 NGOが集まる分科会で、発言を初めてさせていただいた。それは非常に高く評価された。
それから原爆展。パネルを30枚作って、国連の大きな総会場のロビーで展示する。最初の時は国連側もどんな写真が出てくるのか心配だもんだから、7枚をロビーで、あとの23枚は廊下にというおっかなびっくりだったんですけれども、それはすごい評判を受けまして。次の2010年の時にはもう堂々と大きな会場を提供されて、被爆者が生きていればそこで証言してくれと言われるようになった。それが定着しましたので、今もやっております。
国連を通しての原爆被害の共有、宣伝ができるようになった。しかもその展示をしている時に、30人ぐらいの被爆者がいて、展示会場での証言をやる。それから、残りの人たちはニューヨークの学校や団体を訪問して証言をして回るということを今日までずっとやってきておりますので、それはノーベル委員会も多少評価してくれているんじゃないかと思います。
でも、私たちから言わせると、世界の状況からすれば、あまりにも核兵器のことを知らなすぎる。だからなんとかして、みんなで死に物狂いになって、核兵器っていうのは本当に悪魔の凶器だよと、投下を命令したら犯罪人だよというのを大きな声で言わなきゃいかんと思っております。
私はもう何年生きるか分からない。みんなに助けてもらっていると思えば、長生きするんですって。助け合い、助ける。常に喜びを毎日感じている。そういうことをやると長生きするんだそうです。田中もいろんな人から励まされ、いろんな人から助けてもらって、こちらもいろんな人にお願いをしてきたから、ここまでこられたかなと思っていますので。まだもう少しご一緒に働かせていただければありがたいと思います。
【編集部補足】
第11回NPT再検討会議はその後、残念ながら3回連続で合意にいたらぬまま終了した。
「核兵器のない世界のためのパートナーシップ」が、今回の再検討会議開催に際し、日米の4教区の司教の名で出した声明(4/27付)も参照のこと。
⇒ https://pwnw.org/wp/?p=195
傷の中から――アッシジの声
ダン ティ ジェン フーン
SFMAアシジの聖フランシスコ宣教修道女会

日本で暮らすベトナムの若者たちの相談や支援をする仕事を始めて、今年で七年になる。最初は通訳として関わっていたが、長く続けるうちに一つのことがはっきりわかってきた。この仕事は、相談の時間が終わっても、終わらない。
面談が終わっても、その人の話は続いている。一度の会話では解決できないことがある。見守りが必要な人、別の支援につないでほしい人、あるいはただ、混乱が少し落ち着くまで誰かがそばにいてくれることを必要としている人がいる。
時間が経つにつれ、連絡してくる人は増えていった。「シスター、どうすればいいですか?」「私と家族を助けてください」という短いメッセージから始まる。殴られたり、給料をもらえなかったり、怪我をしたのに何も支援されなかったり、妊娠したら帰国するよう言われたり――そういう内容だ。一つのメッセージの裏には、たいてい連鎖する問題がある。仕事、書類、健康、住まい、そして自分を信じる気持ち。
そういうとき、画面の前に座って一行一行を読みながら、自分に何ができるだろうと考える。直接そこにいて手を握ることはできないけれど、聞くこと、返事をすること、メッセージを通してそばにいるような安心感をもたらすこと――それだけの時もある。アドバイスよりも先に必要なのは、最後まで話を聞いてくれる人、遮らない人、すぐに批判しない人。ただそれだけのことも多い。
でも、そんな小さな瞬間の中で、気づき始めた。これは仕事ではない。ただの「支援」でもない。これは旅だ。
今年2026年は、アッシジの聖フランシスコの帰天800周年を記念する特別聖年だ。フランシスカン修道者として、私は特別な思いで彼のことを思う。古い本の中の遠い人としてではなく、静かに一緒に歩いてくれる人として。具体的な人々の前で、どう見るか、どう感じるか、どうそこにいるかを整えてくれる人として。この聖年は、私にとって、もっと根本的な問いに立ち返ることだ。他者の痛みに向き合うとき、私の心はどこにあるのかという。
その問いは、理論ではない。何か月も残業して正当な給料をもらえていないと話す人がいるとき、学業を続けられないけれど家族には言えないと打ち明ける留学生がいるとき、もう今の生活を続けたくないと言う若者がいるとき――そのたびに、問いはとても具体的になる。こういう話は珍しくない。形を変えながら繰り返される。沈黙の中で耐え忍んでいる人たちがいる。
日本では、とても近くにいながら、とても遠くにいるような気がする。ラッシュアワーの電車、整然とした街並み、すべてがきちんと機能している社会に見える。でもその奥に、言えない痛みがある。耐えることを学び、やがて自分を隠すことを学んでいく人たちがいる。外国人にとっては、それがさらにはっきりしている。ここに完全には属せない、でも元いた場所にはもういない。二つの世界の間に生きながら、どちらも本当の「家」じゃない。そして私は問わずにはいられない。もし慈しみが、痛みの中にいる人と共にいるだけで止まり、なぜ彼らが痛んでいるのかを問わないなら、気づかないうちに、彼らを傷つけているものに加担しているのではないかと。
メッセージを読みすぎて、空っぽになる日がある。助けたくないわけではないが、感じる力がなくなって、相手を重荷のように見てしまう。そういう後に気づく ――一番怖いのは、十分にできないことではなく、他者を重荷として見始めることだ、と。まさにそのとき、聖フランシスコの話がとても近くなる。かつて彼を怖がらせたものが「甘美」なものになった。状況が変わったからではなく、彼の心が変えられたから。私は自らに問いかける。それは今、自分の中で起きているだろうか、と。
本当に私を変えた会話がある。ある技能実習生が夜中近くにメッセージを送ってきた。緊急事態だったわけではなく、ただ何か月もの間で初めて、自分が疲れていると気づけるほどの静けさがあったから。彼はこう書いた。「シスター、自分がここで何をしているのか、もうわからなくなりました。」その言葉は長い間、私の中に残った。答えがあったからではなく、これは仕事についての問いだけではないとわかったから。
もう終わりにしたいと考えた人がいた。疲れ切ったからではなく、出口が見えなくなったから。そういう言葉を読むとき、距離を保てない。アドバイスだけして終わりにできない。立ち止まって耳を傾けて、その人の話が自分に触れることを許す。いつも簡単ではないけれど、少しずつ触れられることを許すとき、自分もまた変えられていくとわかってきた。
「自分の役割」はすべての問題を解決することではないと気づき始めた。でも一つのことはできる。そこにいること。一人の人と、ある具体的な瞬間に。
少しずつ、もう一つのことを学んだ。支援が必要な人に出会っているだけではなく、一つの関係の中に入っていっているのだ、と。その関係の中で、私が強くて彼らが弱いわけではない。みんな限界を抱えているけれど、その不十分さの中で何かとてもリアルなことが起きうる。フランシスコ会の霊性における兄弟愛は、完璧な理想ではない。一人ひとりが傷を持ち、弱さを持ち、まだ癒されていない部分を持っている――それを受け入れるところから始まり、上から下への支援ではなく、一緒に歩くことになる。
いくつかの会話の中で、それが起きるのを見た。何か月か経って「今は落ち着いてきました、他の人を助けたいです」と言い始めた人がいた。状況はあまり変わっていないのに、もう自分が無価値だとは感じなくなった人がいた。そういう変化は静かで、誰も拍手しない。でも私にとって、それは本当の奇跡だ。よそ者だと感じやすい場所で、認められること、耳を傾けてもらうこと、名前を呼ばれること――それだけで、「家」に戻る最初の一歩になる。
最近、外国人を排除しようとする空気、疑いのまなざし、見えない距離感をより強く感じるようになった。そんな中で他者のそばにいることを選ぶこと、耳を傾けることを選ぶこと――それはもう自然なことではなく、意識的な選択になる。時に、流れに逆らう選択になる。

聖フランシスコは楽な道を選ばなかった。自身のイメージをブランド化することはなかったが、それでも、他の人が自らの生き方を自問せざるを得ないほど徹底的に生きた。だから古くならない。今も、とても具体的な場所にいる。狭い部屋の中に、夜遅い電話の中に、ためらいながら送られてくるメッセージの中に、生き延びようとしながらも誰かに見てほしいと思っている人たちの中に。
メッセージ、会話、静かに自分の人生を通り過ぎていった人たちを思い返すとき、与えたよりも受け取った方が多かったと気づく。忍耐を教えてもらった。聞くことを教えてもらった。一人ひとりは矮小化できない神秘だと教えてもらった。そして何より、慈しみとは一瞬の感情ではなく生き方だということを、より深く理解した。深く理解しようとし、決して歩むことをやめない――毎日の回心を求める生き方を。
おそらく、聖フランシスコがしたように、ハンセン病者を抱きしめることは私にはできない。でも他者の痛みから目を背けないことを選ぶたびに、自分の心が触れられることを許すたびに、彼の道の上で小さな一歩を踏み出している。
それで十分かもしれない。私たち人間は、そばにいてくれる誰かを必要としている。互いに傷を抱えながら、それでも寄り添って生き、支え合いながら少しずつ歩いていく。
ほんの小さなことから。一つのメッセージから。
エコロジーに関する書籍紹介シリーズ 【1】
編集部
今年の6月号、8月号、10月号は、エコロジーを主題として本の紹介をする。きっかけは、カトリック学校に勤務する複数の教員から、昨年から今年の4月にかけて東アジアの近代史、特に戦争と植民地化を主題に取り上げたように、エコロジーに関する授業を複数回展開するにあたって参考となる書籍を紹介してほしいという希望があったことである。
1 教皇フランシスコ
まずは教皇フランシスコ。彼は、エコロジーについて回勅や使徒的勧告などで積極的に論じた。特に『ラウダート・シ』はカトリック教会の枠を超えて大きな反響をもたらした。
1) 教皇フランシスコ 回勅 『ラウダート・シ――ともに暮らす家を大切に』 カトリック中央協議会 2016年 (原著は2015年)

目次
第一章 ともに暮らす家に起きていること
第二章 創造の福音
第三章 生態学的危機の人間的根源
第四章 総合的なエコロジー
第五章 方向転換の指針と行動の概要
第六章 エコロジカルな教育とエコロジカルな霊性
この『ラウダート・シ』について解説・導入するものとして、吉川まみの次の本をお勧めする。
2) 吉川まみ 『ライフスタイルの転換に向けて、ともなる歩みを――『回勅ラウダート・シ』と環境保護』 女子パウロ会 2023年

目次
第1章 『回勅ラウダート・シ』とインテグラルな人間観・世界観
第2章 人類の歩みと環境問題のはじまり
第3章 環境問題の構造的 変化と終わらない公害
第4章 構造的暴力と無自覚のふるまい
第5章 人間のふるまいと地球の掟
第6章 人間の問題としての環境問題とライフスタイル
第7章 社会の問題としての地球環境問題
第8章 社会的側面と持続可能な社会像
第9章 ライフスタイルの転換とささやかなエコ実践
第10章 より良く変わっていくために―環境問題と信仰
3) 教皇フランシスコ 使徒的勧告 『愛するアマゾン』 カトリック中央協議会 2021年 (原著は2020年)

目次
第一章 社会の夢
第二章 文化の夢
第三章 エコロジーの夢
第四章 教会の夢
結 び アマゾンの母
4) 教皇フランシスコ 使徒的勧告 『ラウダーテ・デウム――気候危機について』 カトリック中央協議会 2023年 (原著も同年)
目次
1 地球規模の気候危機
2 増長する技術主義パラダイム
3 国際政治の弱点
4 気候会議 前進と失敗
5 ドバイでのCOP28に何を期待すべきか
6 霊的動機
2 日本の司教団
日本の司教団も福島第一原発事故を受けて、2011年に司教団メッセージ『いますぐ原発の廃止を~福島第1原発事故という悲劇的な災害を前にして~』を出した。これはカトリック中央協議会ホームページで読むことができる。
⇒ https://www.cbcj.catholic.jp/2011/11/08/3662/
5) 日本カトリック司教団 『いのちへのまなざし【増補新版】』 カトリック中央協議会 2017年

目次
第一章 聖書からのメッセージ
第二章 人生の歩みの中で
第三章 生と死をめぐる諸問題
2001年に出版された『いのちへのまなざし』に対して、福島第一原子力発電所事故、そして『ラウダート・シ』の出版などを契機に増補されたものである。第三章「生と死をめぐる諸問題」の二「いのちを脅かすもの」において、「1 環境問題、2 原子力発電」が新たに取り上げられている。
6) 日本カトリック司教団 『見よ、それはきわめてよかった――総合的なエコロジーへの招き』 カトリック中央協議会 2024年

目次
第一部 観る see
「ともに暮らす家」を観る
一 回勅『ラウダート・シ』のまなざし / 二 大地の叫びと貧しい人の叫び
第二部 識別する discern 信仰に照らされて識別する
一 時のしるしを照らし出すみことばの光 / 二 時のしるしに目を凝らす教皇の奉仕職
第三部 行動する act ともに生きるために行動する
一 責任ある地球市民として神の愛をあかしする / 二 ともに歩み、ともに識別する教会共同体へ
日本というコンテキストの中で、『ラウダート・シ』の精神を、観る→識別する→行動するという段階に分けて、その精神をどのように生かすかという思いで書かれている。とても分かりやすく、また生活の中で活用できるさまざまなチャレンジを提案している。
3 “Think globally, act locally”
“Think globally, act locally”、エコロジーについて考察する際のキーワードである。ここでgloballyという言葉には空間の広がりだけではなく、時間的広がりも含まれる。宇宙物理の世界の進歩発展に少しだけでも触れることで、自分は何もわからないという謙虚さを体験することができるし、地球と地球の生命の歩みの中に今を生きている私たちの存在を位置づけることができるであろう。
7) 佐藤勝彦 『宇宙論入門――誕生から未来へ』 岩波新書 2008年

目次
プロローグ ビッグクランチからの脱出
第1章 宇宙論の始まり
アインシュタインの宇宙 / ビッグバン理論の確立 / 宇宙の始まり など
第2章 素粒子と宇宙鍵
力の統一理論と宇宙 / インフレーション──初期宇宙の急膨張 / ミクロのゆらぎからの誕生──量子宇宙 / 高次元空間に浮かぶ膜──ブレーン宇宙 など
第3章 見えてきた宇宙の歴史
宇宙の見えない主役──暗黒物質 / 宇宙の本当の主役──暗黒エネルギー / 現在は第二のインフレーションか など
第4章 宇宙の未来
加速膨張を続ける宇宙 / 暗黒エネルギーの消えた宇宙 / ビッグクランチと宇宙の終焉
第5章 マルチバースと生命
宇宙が無数に生まれる / なぜ「この宇宙」なのか? / 宇宙における生命
8) 田近英一 『ビジュアル版 46億年の地球史: 生命の進化、そして未来の地球』 三笠書房 2019年

目次
序 章 惑星地球の進化史
第1章 形成期の地球―― 太陽系と地球の誕生
第2章 冥王代の地球―― 初期地球環境と生命の起源
第3章 太古代の地球―― 地球史前半の環境と生命
第4章 原生代の地球―― 地球環境の大激変
第5章 顕生代の地球1―― 動物の進化と絶滅
第6章 顕生代の地球2――恐竜の繁栄と絶滅
第7章 第四紀の地球――ヒトの誕生から現在の地球へ
終 章 これからの地球――人類と惑星地球の未来
9) 水野一晴 『カラー増補改訂版 自然のしくみがわかる地理学入門』 ベレ出版 2025年

目次
1 地形
1-1 平野の地形(なぜ新宿に高層ビルが集まっているのか? / 地震に強い家を建てるにはどこがよいのか? など) 1-2 山の地形(山はどのようにしてできたのか? など) 1-3 断層と火山と地震(ヨーロッパ人が日本の温泉を好きなわけ /なぜアフリカと南米は植物が似ているのか? など) 1-4 海の地形(サンゴ礁の海はなぜエメラルドグリーンなのか?/ 氷河の重みで凹んでできた湾 など) 1-5 世界の地質・地形と鉱産資源(石油はなぜ新期造山帯で採れるのか? /銅はなぜ環太平洋造山帯でたくさん採れるのか? など)
2 気候
2-1 気候(梅雨の時期が年によりずれるのはなぜか? / 東南アジアではもっとも暑いのが7~8月ではなく4~5月なのはなぜか? など) 2-2 気候変動 (北海道と本州はなぜ生息する動物が違うのか? / なぜ14~17世紀にヨーロッパでペストが流行したのか? など)
3 植生と土壌
3-1 世界の植生と土壌(サバンナの土が赤いのはなぜか? / 森林を伐採するとなぜ洪水がおきるのか? など) 3-2 山の植生 (「お花畑」はなぜ突然あらわれるのか? など)
4 『環境白書』
『環境白書』は、日本の環境の状況、そして日本の中で国家やさまざまな段階でのコミュニティが実際にどのような取り組みを行っているかを知るために参考になる。環境のために力を合わせ、どのような共同体を形成していくかを考えるために貴重な示唆を与える。
10) 環境省 『令和8年版環境白書 / 循環型社会白書 / 生物多様性白書――循環経済(サーキュラーエコノミー)で日本列島を強く豊かに』 2025年

毎年6月に新版を発行。環境省ホームページにPDF版がある。令和8年の白書は、令和7年度の環境の状況、循環型社会の形成の状況、生物の多様性の状況に関する内容である。
目次
第1部 循環経済(サーキュラーエコノミー)で日本列島を強く豊かに
第1章 循環経済への移行加速化に向けたこれまでの経緯と背景 / 第2章 循環経済を巡る世界・我が国の状況 / 第3章 循環経済への移行に向けた取組 / 第4章 循環経済行動計画に基づく今後の我が国の循環経済ビジョン
第2部 各分野の施策等に関する報告
第1章 地球環境の保全 / 第2章 生物多様性の保全及び持続可能な利用に関する取組 / 第3章 循環型社会の形成 / 第4章 水環境、土壌環境、海洋環境、大気環境の保全・再生に関する取組 / 第5章 包括的な化学物質対策に関する取組/ 第6章 各種施策の基盤となる施策及び国際的取組に係る施策
令和8年度 環境の保全に関する施策
令和8年度 循環型社会の形成に関する施策
令和8年度 生物の多様性の保全及び持続可能な利用に関する施策
第1章 地球環境の保全 / 第2章 生物多様性の保全及び持続可能な利用に関する取組 / 第3章 循環型社会の形成 / 第4章 水環境、土壌環境、海洋環境、大気環境の保全・再生に関する取組 / 第5章 包括的な化学物質対策に関する取組/ 第6章 各種施策の基盤となる施策及び国際的取組に係る施策
11) 安達宏之 『図解でわかる!環境法・条例―― 基本のキ――』 改訂4版 第一法規 2026年

目次
<Unit1 環境法・条例の「基本のキ」>
環境法の仕組み / 国際動向と環境法 / 生活環境保全条例 など
<Unit2 これだけは知っておきたい! 主要環境法の法令別ポイント>
環境基本法 / 省エネ法 / 脱炭素関連法 / 水質汚濁防止法 / 廃棄物処理法 / 循環型社会形成推進基本法 / 生物多様性基本法 / 企業価値と将来世代をまもる仕事 など
<Unit3 これで怖くない! 環境法対応>
エコアクション21 など
この世界の中心であるべき 「貧しい人たち」
おおた まさる
福音の小さい兄弟会
米国に広がる「No Kings」デモの波の中で、反対にトランプ氏は「国王」の自覚を深めているようです。英国のチャールズ国王が訪米し、ホワイトハウスはトランプ氏と国王が並んだ写真を「2人の国王」と銘打って宣伝しました(2026.4.28)。アメリカには民主主義ではなく「王」が必要だという理論家カーチス・ヤーヴィンが台頭してきていると言われていますが、その線をホワイトハウスは進める気なのでしょうか。トランプ氏が、ネタニヤフ首相の口車にのって、イラン政権を簡単に倒せると錯覚し、ハメネイ師の殺害を企ててイラン攻撃を始めて以来、世界は混迷を深め、壊れつつあります。

介入を要請されたレオ14世は、遅まきながら、イランとの戦闘終結を求める姿勢を鮮明にしてきました。これに対しトランプ氏は、ローブをまとったイエス・キリストのように見える自身のAI画像を投稿(2026.4.13)。支持層からも「神を侮辱するな」と批判が出て翌日に削除。このAI画像には、驚かされました。トランプ氏の深層意識が、うかがえたからです。今回の「国王宣伝」と重ね合わせると、聖書で描かれている「世の終わりに現れる偽キリスト。偽預言者」(マルコ13・22)と、トランプ氏を重ね合わせる人がいても不思議ではありません。
もちろん、レオ14世は、こうしたやり取りの半年前に(2025.10.4)使徒的勧告『わたしはあなたを愛している-貧しい人々への愛についてー』を著し、「キリストのからだである教会は、貧しい人々のいのちを自分の『肉身』として感じます。貧しい人々のいのちは、旅する民の特別な部分だからです」(103)と宣言し、教会は、「王」のためではなく、貧しい人々のために存在すると、高らかに、そして深く深く宣言して、歩みゆくべき道を示しておられます。
キリスト教が生まれ出てくるイスラエルの歴史で、一番重要なのは「出エジプト」であり、そこに至るポイントは、神が「エジプトでの奴隷状態の苦しみから逃れようとイスラエルが神に訴えた苦しみ・苦悩を聞かれた」ことにあります。

日本の社会に野宿者が溢れた1999年は、和歌山の教会では聖書100週間の勉強をしていて、イスラエルの民のエジプト脱出の箇所をやっているときでした。和歌山市の郊外に住んでいるメンバーが「私のうちの近くの公園にまで野宿者が出て来たのよ」と言うのでした。イスラエルの民が奴隷状態で苦しんで叫ぶと、主なる神はその叫びを聞いて下さった、というので、野宿の人の叫びも聴いて下さるに違いない、と思った僕らは、まず数人で、野宿の人たちが居るであろうJR和歌山駅に様子を見に出かけました。これが「夜回り会」の始まりで、1999年2月のことでした。夜回りメンバーは、聖書100週間のメンバーから日曜のミサに集まってくる信徒に呼びかけましたので、直ぐに30名くらい集まりました。
当時の日本の教会は、フランシスコ教皇やレオ14世ほどには意識は深くなく、幸田司教さんが元気に「修道会や教会は門を開いて、野宿者を受け入れよう!」と呼びかけたのにはこたえきれず、幸田司教はガッカリされていました。それでも、日本全国の部落差別人権問題に取り組んでいる信徒たちを中心に、カトリック教会は全国的に野宿者支援に立ち上がっていました。
全国組織も生まれましたが、北海道は北海道、熊本は熊本というように、各地の活動は地方の枠を超えることができずに、全国規模で、野宿者支援を国レベルで法制化していく運動には発展しませんでした。野宿者が当然持っているべき衣食住の権利を奪われているので、それを本人に返そうという理念がシッカリあれば、そして、レオ14世の勧告がしっかり理解されていたなら、全国的な運動に発展できたのでしょうが、目の前の支援に引っ張り回されて、カトリック教会の全国的な運動には成長しませんでした。
和歌山での活動も、「出エジプトの神さまの働きに協力しよう」ということではありましたが、理論化の面は深まることなく、野宿者にアパートを提供していこうという方向に活動が流れて行ってしまいました。「キリストのからだである教会は、貧しい人々のいのちを自分の『肉身』として感じます。貧しい人々のいのちは、旅する民の特別な部分だからです」という意識が深かったならば、市役所との定期的交渉も、僕らの側でのNPO組織形成という形を超えて、全国的視野を獲得できたかもしれません。
そして、野宿の人たちと仲間のようになり接してゆくうちに、心にかかるイエスの教えがありました。レオ14世も、使徒的勧告の中で触れている箇所です(27)。
「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親戚も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ」(ルカ14・12-14)

