若者たちの「右傾化」??(都知事選の結果から)

光延 一郎

ある人のメールから引用…

「朝日新聞の出口調査によると、70歳以上の55%が舛添に投票しています。これは、新聞・テレビに影響されやすい情報弱者が舛添に投票したと解釈できます。…また、朝日新聞の同じ調査によると、20代の24%が田母神に投票したとのことです。田母神は、『日中戦争はコミンテルンの陰謀』で有名になったバカウヨ芸人ですが、20代の24%が田母神に投票したということは、若年層の深刻な知能低下を懸念する必要があるということではないでしょうか。私の友人は、東京の有名私大を退学して北海道教育大学に進み、小学校教諭になりましたが、最近の小学校教諭は学生運動を体験しておらず、社会への問題意識がないため、児童に考える力をつけさせるまともな教育ができないそうです。その結果がネトウヨであり、田母神に投票するバカウヨであると考えられます」。

「20代の24%が田母神に投票した」ということに、私もショックと危機感を感じます。田母神の得票数は61万票! もはやホウマツとはいえません。別の人は、こういっていました。

「田母神候補は、高齢者の支持は少ないものの、20代で24%、30代で17%、 40代で14%と若者の支持が高く、20代では、宇都宮、細川の両候補を上回 っていることは、危惧すべき傾向である。雇用不安、非正規化という若者を 覆っている閉塞状況がファッショ的な方向に誘導される危険性を孕んである」。

私が大学で教えている学生たちにも、こういう若者の右傾化ははっきりとみてとれ、レポートを読むのもゆううつになります。

たとえば、こんなことを書いてくるカトリック信徒の学生もいました…

「…南京大虐殺があったとされる証拠として数々の写真があるが、これらも、科学的検証を以て信憑性無しとされていることは、もはや最近の話ではないのだ。日本人による中国人殺害はおそらくあったことだろう。それは認めるべきである。しかし、『大虐殺』は否定されるべきことである。

「…南京大虐殺があったとされる証拠として数々の写真があるが、これらも、科学的検証を以て信憑性無しとされていることは、もはや最近の話ではないのだ。日本人による中国人殺害はおそらくあったことだろう。それは認めるべきである。しかし、『大虐殺』は否定されるべきことである。

ここで私が言いたいことは、『歴史認識を改める必要がある』などと日本人全体に与える偏向的な知識は、まさしく全体主義的な図り事であるのだ。『日本が悪い』と反省することは非常に良いことであるが、歴史的事実を無視した偏向的で一方的な『日本は悪い』という日本の一部の教育は、これから日本で生きていこうとする子供たちに対し、あまりに皮肉で侮辱的なことである。従軍慰安婦問題や東京裁判も同じである。『歴史の終わり』があるとするならば、『歴史の記憶喪失』もあるだろうが、『歴史の捏造』こそが全体主義的な最大の問題ではないだろうか。歴史とは人間が築き上げていった道筋であり、それを知ることは反省となり、未来への希望ともなり得る。なぜなら、聖書を見れば分かる通り、イエズスは旧約という歴史において予言されていたメシアであり、その存在が未来への希望となっていたことは明らかである。このことを考えてみると、日本における日本人教師による反日教育は、精神的な国の破滅となる。つまり、末法思想に近いことだが終末的なのである。

外国の多くの人間は自国に自信と誇りを持っている。日本人はどうか。教育の現場において国家を斉唱せず、国旗を嫌悪している教師がいることは周知の事実である。このような存在は、未来を生きる子ども達に悪影響である。これは、ただの教育的な問題ではなく、終末論的なところにまで関わってくると考える。義務教育の場にあって、『君が代』の意味を教えることもないし、国旗の意義を教えることもない。教えないことが悪いとするのは、教育指導要領の中で、『入学式や卒業式などにおいては、その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国家を斉唱するよう指導するものとする』と明確に書かれているからである。教育の現場の主役は児童・生徒・学生であって教師ではない。その中で、日本人として日本で生きていく上で、必ず関わってくる国歌・国旗の意義を教えないことは教師の怠慢である。さらに、式典において個人的な思想を露わにする一部の教師は、教育現場において子ども達への脅威となる。なぜなら、個人的思想を自らの内に留めておくことができず、そのような偏向的なものを子ども達に教授しかねないからである。なぜこのようなことが許されようか。自らが生きて、自らの足で立っている自分の国に対し腐敗した思想を持ってしまって、自信も誇りもない国で、どのようにして「恵み」の神を感じ取ることができよう。偏向的教育は、その後に終末的なものしか残さないのである。教育、殊に知識については常に客観的なものが必要である。その中で、子供たちは自分の行動指針や生き方を定めていくのではないだろうか。人の生き方は示すものであって、第三者が定めていいものではない。それは、神が人間という動物に唯一与えられた理性と自由意思が根拠となる…」

この学生は、南京大虐殺を肯定する誠実な歴史研究(少し専門的に調べればこちらの言い分が世界から正当性を得ているのは明白です)を全否定し、それを陰謀だとしています。つまり、ネット右翼や現政権、およびそれに連なる政治家やメディア関係者(NHKなど)の表面的で煽動的な言説を盲信して、国粋主義的な狭い枠に閉じ込められているようです。そして、こうした言説の根底にある人権や人間の尊厳の軽視(思想・信条・良心の自由の否定、差別排外主義など)を受けいれてしまっています。こうした言説とキリスト教的な愛や真理の追究、開かれた精神との齟齬に気づいていません。

もちろん、これに対して次のようにいう学生もいますが…

「国旗国歌問題。この問題は、まさに日本が全体主義への動きを見せている具体例の一つである。果たして、今の私と同年代の人たちで、この問題の重要性についてしっかりと認識している人がどれだけいるだろうか。私たちは『歴史の後』の時代に生きているため、日本が戦時中どのような侵略活動を行ってきたかということも曖昧であったり、ましてや国旗国歌が戦時中どのようにして用いられたのかということを知らない人が多いという、まさに歴史の喪失状態に陥っており、過去についての記憶をほとんど持たない世代といっても良いだろう。しかし、私たちがこうして脳天気に過ごしている間に、日本は確実に着々と『歴史の終わり』へと向かっているのだ。

まず、この『国旗国歌問題』について二つの問題点が挙げられる。ひとつめは『信教の自由』の問題であり、国旗に対して敬礼をし、天皇を褒め称える国歌を歌うことで、キリスト教の十戒の第1・2戒をやぶることになってしまう。そしてふたつめは『国旗国歌が持つ歴史的な意味』の問題であり、日本が戦争中にこれらを用いてアジアを中心に残虐な侵略活動をしてきたということを忘れ、それに対して敬意を表し誇りを持つことなど、わたしは到底出来ない。これら2つの理由から、私は国旗国歌問題が重大な問題であるということを主張する。

近年、国家が宗教的行事にあたるものを、雛祭りや七五三などと同じ習俗的行事として扱うことによって、政教分離の原則が犯されてきているという傾向があると強く思う。本来は宗教であるものを習俗としたり、あるいは『個人の信教の自由』ということを根拠に遠ざけているものを、国民儀礼だからとか習俗だからといった理由で強制させようとしたりするのだ。特に近年では、そういった傾向が学校教育等の現場に現れてきている。

わたしの体験から見る現実

分かりやすい身近な具体例を挙げよう。

わたしはクリスチャンなので、十戒の第1・2戒で偶像礼拝を禁止しているように、唯一絶対であるキリスト教の神様だけを礼拝することを徹底している。従って前も述べたように、日本の国旗である『日の丸』はただの国旗であって、しかもその裏には戦時中に日本が日の丸を背負ってしてきたたくさんの愚行があるため、そんなものに向かって礼はしたくはないし、君が代も歌詞が天皇を讃える歌であるため歌わないことにしている。このスタンスで小さい頃から過ごしてきたのだが、友達や学校の先生などの環境にとても恵まれていたために、特になんの問題もなく、それを曲げることもなくここまで歩んでくることが出来た。しかし、私と同じように日の丸君が代に反対している人皆がそうなのではなくて、生徒であれば、先生に呼び出され、取り囲まれて国民儀礼なのにどうしてやらないのかと圧力をかけられたり、卒業式で君が代を弾くことを拒否した音楽の先生が処分されたり、といったような、これで本当に個人の信教の自由が保障されていると言えるのかと思ってしまう事件や訴訟も多く耳にしてきた。そしてこういった話を聞く度に、こんなことが今の世の中で起こっているのかと思うとぞっとする。

しかし、私がそれらと闘っていた時はもはや昔のことであり、最近はさらに保守化(右傾化)してきたことで、これらの問題と闘っている人たちに対する風当たりは強くなっているに違いないと思うと、本当に日本という国が情けなく思える。さらには、戦争に駆り立てる様々な法案が次々と成立したり、首相が靖国神社に訪問したり、教科書改訂問題が起こったり…といったことを見ていると、これからの日本の悲惨な未来が簡単に見えてくるようだ。そんな世の中に、絶望しか感じない世の中に、果たして私たちはどうやって希望を見出せばいいのだろうか?

キリスト教的終末論から見出す希望

そんな絶望の中にいる私たちキリスト者が、唯一希望を見出すことが出来るとすれば、それは終末を生きるということにある。神を知らない人は、この世の中の流れに絶望して、失望して、希望を捨ててしまうだろうか。妥協して当たり障りない生き方をするのだろうか。しかし、私たちキリスト者は、絶望することがあったとしても、決して失望はしない。なぜなら、私たちは唯一絶対なる神を知っているからであり、そこに希望を見出すからだ。神を信じている限り、その再臨を待ち望んでいる限り、例えどんなに上手くいかなくても、思い通りにいかなくても、私たちは決して希望を失うことはないのである」。

今の若者は、誰でもなんでも言えるネットやSNSにおいて頭の中でだけの自己膨張感にひたっていて、他者との生きた関係の中で(論破されたり、そこから反省したりという)思想を養う訓練が足りないように思います。その上、政治家の劣化など、社会の良心的規範がぼやけている、さらに不況で深く考える余裕がない…という悪循環です。このままいけば、本当に1930年代の再来は目の前のように思います。若者たちが、もっと平和をまっすぐ見つめるために、何が必要なのでしょう?